2018年05月04日

週刊文春1971年7/12号「エクスラン・ヴァリーエ」記事

週刊文春1971年7/12号「エクスラン・ヴァリーエ」記事 今日はオードリーの誕生日です!

 そして今まで大事に残して来た週刊文春の1971年7月12日号の紹介。
 これには「エクスラン・ヴァリーエ」のカラーグラフが載っています。1ページだけですけど。

 こないだの3月のJR東日本 “大人の休日倶楽部” での講演で東京へ行った折に横浜で「エクスラン・ヴァリーエ」を見てきたんですけど、それに合わせてずっと寝かせてきたこの週刊文春を紹介します。

 なお、横浜で「エクスラン・ヴァリーエ」を見て来た話は明日“おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!”の方でアップします。
 そこでは「エクスラン・ヴァリーエ」を見る方法も紹介します。

 今は“文春砲”などという特大スクープで世間を騒がせる週刊文春ですが、この当時はいたっておとなしく、この号もオードリーの記事以外は取り立ててここで述べることは全く無いです。

週刊文春1971年7/12号「エクスラン・ヴァリーエ」記事 さて、この「エクスラン・ヴァリーエ」の記事ですが、最初はこれは宣伝?と思ったほどシンプル。

 隣のページはルフトハンザ航空の宣伝だしね。その前のページもトヨタの宣伝、後ろは日東紡績の宣伝。
 他のカラーページもほとんどが宣伝で、最後の方のページで“旅に出よう”と佐渡が2ページで紹介されているだけ。

 本当にこの「エクスラン・ヴァリーエ」が唐突です。
 でも目次にもしっかり載っている、れっきとした記事なんですよ。

 ここで載っているのは「エクスラン・ヴァリーエ」の撮影風景。
 42歳になっても若々しいオードリーのお下げバージョン(チャリンコ編)を撮っている最中。

 この「エクスラン・ヴァリーエ」はオードリーが当時2番目の夫のアンドレア・ドッティと住んでいたローマの郊外で撮影されていますが、写真でも左の二人は現地スタッフ、右の二人が日本人のようです。

週刊文春1971年7/12号「エクスラン・ヴァリーエ」記事 「エクスラン・ヴァリーエ」、オードリーがテレビコマーシャルに初めて出た記念すべき作品。
 世界で唯一日本だけで見れたものです。

 後年同じく日本のためだけに「銀座リザ」のCMにも出演しますが、日本はオードリーがCFに出演したただ一つの国です!
 今となっては全世界垂涎のフィルムとなっています。

 こんなに日本だけにオードリーが特別扱いしてくれたのは、もちろんオードリー人気が日本でズバ抜けていたから!

 長い間日本の映画雑誌ではずっと1位、落ちても2位か3位。しかもマネーメイキングスターでも1957年〜1968年までずっと1位という驚異的な記録を作ってきましたから、そんな日本へのオードリーの恩返しがこのCMだったのでしょう。
 世界中のどこよりも誰よりもオードリーを愛してきたのは日本人、というわけですよね。

 1970年からオードリー側と交渉開始、71年3月に出演が決まり、5月3日のオードリーの誕生日の前日にスタッフと初顔合わせ。
 この時にオードリーが一人一人の日本人の名前を尋ねて、1回聞いただけで全員の名前を覚えていた、というのはよく加藤タキさんがテレビでおっしゃってますよね。

週刊文春1971年7/12号「エクスラン・ヴァリーエ」記事 5月7日には衣装合わせ。5月10日から撮影が始まって、21日まで5回の撮影で4パターンのCMを撮ったそうです。

 最終日には日本人スタッフから盛大なお別れパーティーが開かれたけれども、後ろから2回目の5月18日にはオードリーからのガーデン・パーティーがあったとか!羨ましいですね。

 さて、記事の全文を掲載しておきます。

“4年ぶりに意外なお目見え テレビCMに出る オードリー・ヘップバーン

 「家庭的に満ちたりすぎて 映画で表現すべきものが私に残っているかしら」___ときたまスイスの山荘に出かけるほかはローマ下町のアパート住まい 外出の乗用車の窓にも厚いカーテンが下りている。映画「暗くなるまで待って」以来4年
 再婚した9歳下の大学病院医師とふたりの子供だけの私生活をかたくなに守る“ローマの隠棲”のような日常 盗み撮りに成功した1枚の写真に120万円の高値がついたほどだ。そのヘップバーンを 日本の広告代理店がくどきおとした。ウィッグ つまりカツラのテレビCMで ギャラはざっと4000万円
 7月から 日本でだけ見られる。
 撮影 立石敏夫”

 ということです。

 ちなみにことわっておきますが、ここではローマ下町のアパート住まいと書いてますが、実際にオードリーが住んでいたのはローマの高級住宅地のマンションの3階と4階の全フロアがオードリーの住居だったので、やっぱり庶民の暮らしとは違いますのでお間違い無きよう。

 もっとも当時はイタリアはとても治安が悪く、有名人やお金持ちの誘拐・殺害事件がザラだったので、セキュリティー上も高級マンションに住むのは著名人としてごく当たり前のことだと思われます。

 なお、この「エクスラン・ヴァリーエ」はACC CMフェスティバルの1972年 第12回テレビフィルムCM部門秀作賞を獲っています。



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この記事へのコメント
懐かしい(*^^*)
名古屋から夜行バスで神田古書店街に通っていました。
ホテルナゴヤキャッスルで、ロードショー創刊直前の副編集長と懇談。

しばらくして、大阪エクスラン。
大量のポスターとCMフィルム。
東京の草月ホールで、映写会。

東京、名古屋、京都と3本ありましたが行方不明です
Posted by 明智常楽 at 2018年05月04日 18:18
明智常楽さん、おはようございます。

ロードショー創刊時の懇談のお話は初めてです!
そういうことがあったんですねー。
ファンクラブ、最大時は何人ほどいたのですか?

ヴァリーエはその大量のポスターが羨ましいです。
今となってはエクスラン社にも残ってないとか…。
フィルムも元々の4バージョンはどんなだったのでしょうね。
2000年ごろの全くわからない状態とは違って、
何度か放送されて少しずつわかってきましたが今だに全容は掴めずで…
いつか全部見てみたいです。
加藤タキさんはお持ちなのかな?

ファンクラブの会報もいつか見てみたいです。
Posted by みつおみつお at 2018年05月05日 07:05
400人足らず。
熱心な会員
淡路・京都・名古屋50・東京20・秋田
ミリオン座でオードリー映画3本立て入れ替え無し。
毎年クリスマスには私設資料館で、パーティー。
大型パネルもたくさんありましたが閉館時に配布。
京都の女の子は学園祭でオードリー展。
東京の女の子は泊まり込みで名古屋資料館見物。
東京の男の子は就職先の飯田で、合流して信州ドライブ。
埼玉の男の子は映画演劇好きが高じて、劇団四季のマネージャー。
栃木の男の子が不思議な御縁。
岐阜の女子大就職、一緒に美濃ドライブ。
東京の大学教授になってから、親友の息子と私の娘が恋愛結婚。
輪廻ですね。(・・;)
Posted by 明智常楽 at 2018年05月05日 21:31
わあ!明智常楽さん、ありがとうございます!(^▽^)

淡路にファンが多かったとか意外です!
そして東京が少ないのも意外。
一度でいいから最盛期に参加したかったです…。
みなさんと一緒にオードリーのことをいっぱい喋れたでしょうかねー。
会報も毎月発行だったんでしょうか?
なんか全く見たことないです。

それにいろんな方がいろんなことをなさってたんですね。
もしかしたらファンクラブに入ってた方が、93年のJALPAKオードリーツアーで参加してらして、96年のそのツアーの懇親会の時に僕ともお会いしてたかもしれません。
もしその時ファンクラブの会員だった方がいたら色々お話を伺えたかもしれないですね。

そしてオードリーが取り持つ明智常楽さんの娘さんの結婚のご縁!
なんか感慨深いですね〜。(*^ ^*)
Posted by みつおみつお at 2018年05月06日 10:26
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