2023年10月21日
「シャレード」73年リバイバル紹介 “スクリーン”1974年1月号
今回は1973年12月1日からニュー東宝シネマ2からリバイバルされた「シャレード」の紹介の載っている雑誌“スクリーン”の1974年1月号の紹介です。
発売は1973年11月21日。表紙は1971年72年に人気のあったドミニク・サンダ。
まあこの “スクリーン”の発売日や「シャレード」1973年リバイバル公開日50周年記念に合わせて紹介でもよかったんですけど、キッチリその日までに準備できるかどうかわからないので、先にやってしまいますね。
まずこの号での最初のオードリーは目次の次に折り込みポスターになっているオリビア・ハッセーの裏面の近代映画社の出版本の案内ページ。
B4サイズで収納に困る“スクリーン ジャンボ”の「ドロン・ヘプバーン魅力集」の発売案内。ここでは「パリの恋人」のオードリーの画像が使われていますね。
このころはまだまだオードリーが大人気。71年に「エクスラン・ヴァリーエ」で日本のテレビCMに登場したオードリーで72〜74年は “スクリーン”ではまたまたオードリーが女優のNo.1だったころですね。
というか、80年代後半の再ブームを見ると、別にオードリーの人気は70年代後半から落ちたんじゃなくて、実際は映画会社が浅はかにも「ローマの休日」と「マイ・フェア・レディ」ばっかりリバイバルするからその2本が飽きられただけだったんですけどね。
でも映画会社はその2大オードリー作品がヒットしなくなると“オードリーはもうダメ”と勝手に判断したからだと思うんですけどね。
映画会社が自分の失敗をオードリーのせいにした、ということだったと思うんですよね。
次のオードリーはカラーページの“10年前のスクリーンから”というページでの1964年1月号の「シャレード」の初公開時の紹介を載せています。
これは実は過去にもう紹介してるので、そちらでご覧ください。
次のオードリーはこの号から新連載の「スターグラフ診断」という7pにわたる緑のグラビアページ。
これ、本文にも目次にも執筆者の名前が無いので、編集者が書いたのでしょうか?
でも新連載のトップがオードリーというのはありがちですけどやっぱり誇らしいですよね。
ありがちというのも、いつの時代もずっとオードリーがトップを走っているから出る言葉なんですよね。
人気がなかったら、トップで取り上げてなんてもらえません。
文章は、まずオードリーの生い立ちから語られるのですが、最近あまり見かけなくなったことで、かつてオードリーがモデルをしていた、というのがあります。
それと、オードリーは現実の物語をおとぎ話に変えてしまう魅力を持っていて世界中のどんな女優よりもうまい。だから彼女が名演技を披露してもリアリズムに終始するドラマの場合は彼女の魅力が半減してしまう。また「マイ・フェア・レディ」辺りからその魔力を失い始める、と書かれています。
だいたい共感できるのですが、魔力を失ったのではなく、「マイ・フェア・レディ」へのバッシングで「おしゃれ泥棒」からやつれたのが原因だと思うのですよね。
本当にあのバッシングさえ無ければ、オードリーはもっと別の歳の取り方があったのではないかなーと思うのですよね。
やっぱりバッシングのせいでやつれてシワも深くなり、肌がカサカサになっている「おしゃれ泥棒」の画像のオードリーを見ると、「マイ・フェア・レディ」のままで普通に歳を取ったらどんなオードリーだったのだろうと思ってしまうのですよね。
たとえ僕が「おしゃれ泥棒」や「いつも2人で」のオードリーをものすごーく愛しているにしても、痛々しいオードリーより元気なオードリーがいいに決まってます。
なぜオードリーだけが吹替の件で「マイ・フェア・レディ」でバッシングされなきゃならないんでしょうね?
デボラ・カーは「王様と私」で、ナタリー・ウッドは「ウエストサイド物語」で、カトリーヌ・ドヌーヴは「シェルブールの雨傘」で叩かれたでしょうか?
そしてそれらは彼女たちの代表作ではないのでしょうか?
ジュリー・アンドリュース自身がスクリーン・テスト(オーディションではない)を断ったのですから、ジュリーファンにオードリーが叩かれるいわれはありません。
オードリーは内向的な人ですから、そんな心ないバッシングで本当にショックで傷ついたと思います。
いまだにオードリーが演じたことをあれこれ言う人がいますが、オードリーが亡くなってもまだ叩くか!と思います。
今オードリーがそれを聞いたらどう思うかと考えると、胸が痛みます。
あと、この引退していた時期に、復活して欲しいけど若い頃のイメージだけを残したい、という論調はここでもあります。
それはオードリーもそう思っているはずだ、と書かれているのですが、実際のオードリーはもっと強い人でしたね。
オードリーは歳を取るのが当たり前だし、シワは私の生きた証です、私は今の私を見て欲しいのです、と言ってましたね。
画像は、この時代、モノクロ写真の輪郭がボヤッとするので、よく線を追加で書かれたりしてることがあって、それがまたよく失敗してるもんで、子供心にも “こんな線、書かんかったらいいのに…”って思うことがしばしば。
ここでも特集の2ページ目、右側のページの左下の「おしゃれ泥棒」の画像の鼻に線が入ってて、それがやっぱり失敗して変になってる!
別に鼻の陰影が消えてたっていいやん!って思うんですけどね。
3ページ目は「ローマの休日」の本当のテストでベッドから起き上がるシーンの画像が載っていますね。
これ、どうやら動画としては残ってなさげなんですけど、こうして “スクリーン”関連の本では何点か画像が残されていますよね。
同じページにはコーラスガール時代のオードリーの画像がありますけど、これ確か「ハイ・ボタン・シューズ」の物だったかと思うんですけど、ここでは「ソース・ピカント」のものになっていますね。本当はどっちなんでしょう?
次の見開きの4ページ目ではオランダに出来た“オードリー・ヘプバーン通り”の看板を見上げるオードリーがいますけど、この通り、グーグルマップで調べたら、今もありました。
でもグーグルマップでは“アウトレー・ヘプブルンラーン”と紹介されていました。ストリートビューで見ると、周りは想像とは違って自然の中にある寂しい小径って感じのところでした。それに一部は大規模な工事中になってて道が無くなっているみたいなところもあったりして…。
オードリーが見上げている標識も見当たりませんでした。
4ページ目からは出演作品の場面集になるのですが、2枚画像を使われているのは「ローマの休日」「戦争と平和」「ティファニーで朝食を」「マイ・フェア・レディ」。
この当時、いかに「戦争と平和」がオードリー作品でも重要だったかが良くわかりますね。
次のオードリーは青い紙のページで、「スクリーン海外ニュース」と言うコーナー。
トップで “オードリーをヴィスコンティが演出?”と書かれていますね。
もちろんこれは「家族の肖像」のこと(この時の仮題は「ある家族の肖像」)。
オードリー・ヘプバーンとの交渉もかなり進んでいる、と書かれていますが、どうなったのかは皆さんもご存知の通り。
オードリーは若い男を囲うような「不道徳な役はやりたくない」と言って断りますけど、なぜそんなオードリー向きではない役をオードリーに依頼するかなーと思います。
でも70年代の映画って今考えるとそういう不道徳的なものやリアリティーを追求したような映画が幅を利かせていましたよね。
オードリーがかつて出ていたようないわゆるラブコメや夢のある映画みたいなのはほぼ絶滅状態だった時代なんですよね。
この号のグラビアには、「スターが演じた先生たち」というコーナーがあって、もちろんオードリーとシャーリー・マクレーンの「噂の二人」を探したのですが、載っていませんでした。残念!
次は淀川長治さんのページで、「日曜洋画劇場」の解説撮りで73年9月9日に「昼下りの情事」用のを撮ったこと、28日に放映されたこと、視聴率が16.6%だったことが書かれていて、画像も載っています。
その次が「シャレード」のリバイバル作品紹介ページのグラビアになります。
レイアウトデザインは同じ1973年にリバイバルされた「戦争と平和」の時と雲泥の差。「戦争と平和」が1960年代チックな古さだったのに、こちらは今でも大丈夫なお洒落度の高いデザインになってます。好感度高し。
左のメインのオードリーの画像も別テイクのはよく見ますが、このショットは珍しくて画像選びも良いです。
「シャレード」の公開としては1973年はもう3回目になります。「シャレード」は大ヒットだったので、1963年の初公開から5年ごとに公開されてたんですよね。
後ろのページではストーリー紹介もされています。
「麗しのサブリナ」や「ティファニーで朝食を」などは比べものにならないほど大ヒットだったんですよね。
フジテレビのゴールデン洋画劇場でも1972年に初放映されましたけど、再放送のリクエストでも第5位に入るほど人気がありました。
それに1973年のリバイバルは日本の宣伝のメインビジュアルが最高!
ポスター・プレスシート・パンフレット・チラシで同じデザインが使われましたけど、「シャレード」での全世界での最高峰ビジュアルとなっています!これを超える「シャレード」デザインは世界には存在しません!
でもさすがに5年ごとのリバイバルではちょっとやり過ぎだったんでしょうかね、73年のニュー東宝シネマ2でのリバイバルはたった3週間で次の作品に取って代わられてしまいます。
もうちょっとヒットしていれば1974年のお正月映画になっているところだったんですけどね。
やはり “観客層は7年で入れ替わる”と言われるように、7年は間を置いたほうが良かったんでしょうね。
この後は1987年になるまでリバイバルされませんでした。
80年代前半までは「戦争と平和」と並び3回の公開で「マイ・フェア・レディ」「ローマの休日」に次ぐ第3位の公開回数でしたけど、90年代前半までの大ブーム時までは4回となって「戦争と平和」の5回に1回負けて「ティファニーで朝食を」「パリの恋人」と並んで第4位になります。
その後は「午前十時の映画祭」で2度上映されましたので、日本公開は6回となり、「ローマの休日」(13回)、「マイ・フェア・レディ」(10回)、「ティファニーで朝食を」(7回)に次いで、「パリの恋人」「麗しのサブリナ」と並ぶ同率第4位となっています。
さてこの公開作品紹介では「燃えよドラゴン」も紹介されてて、裏表紙の裏にも広告が出てるのですが、最初に公開された劇場を見ると東京は丸の内松竹だったりするので、松竹としては2番手扱い。“スクリーン”の紹介でも7番目。最初はそこまで期待されてなかったのがわかります。
ところがフタを開けたら押すな押すなの大ヒット!73年のオイルショックで物価が急激に上がったのもありますが、それまでワーナー映画として最高の配給収入をあげていた「マイ・フェア・レディ」の7億9千万円を軽く超えて、74年度で16億4200万円を稼ぎました。
74年には同じワーナー映画で「エクソシスト」も出て(劇場も丸の内ピカデリー、丸の内松竹の同じ松竹系)、こちらはさらに上をいく27億3200万円を稼いでいますから、この年はワーナーの年だったわけですね。
グラビアのページではクリエイト鷹さんの広告でオードリーがいっぱい見れます。
当時の物価を考えると安くはないのでしょうが、今の値段で考えると、全部のパネル買います!って感じですね。
映画音楽のレコードでもオードリーがジャケットで使われています。
後ろのページでは映画パンフレットが売られています。72年にリバイバルされた「パリで一緒に」のが150円、73年にリバイバル公開されたばっかりの「戦争と平和」が200円だそうです。
ちなみに今の人はわからないでしょうが、〒85とかって書いてるのは送料が85円ってことですからね。
そういえば、絵柄が載ってないのですが、東和のスターカレンダーと、日本ヘラルドのカレンダーでオードリーが使われていたようです。
どんな画像を使っていたのでしょうね。
テレビの洋画劇場のページでは、10月の洋画劇場の視聴率が出ています。「シャラコ」以外は全部15%超えで、今のテレビ番組でなら喉から手が出るほど欲しい視聴率ですね。
同じテレビのページのグラビアでは初放映のヴィヴィアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」が紹介されています。
フジテレビの夜11:20からの放映ですけど、再放映ならまだしも、なぜこんな遅い時間から初放映するんでしょうね。
当時はビデオなんてまだ普及してない時代ですし、見たかったらその時間にテレビ前にいないといけなかったので、大変だったことと思います。
右上のヴィヴィアンが冷徹そうでクレオパトラにピッタリ!美しいな〜と思いました。
ヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」「哀愁」「欲望という名の電車」以外の作品の写真って、なかなか掲載されることがなくてすっごく貴重なので、当時はすっごい嬉しかったものです。
読者のページでは、「昼下りの情事」の放映があったので、数人の人が「昼下りの情事」の感激した感想を述べてくれています。嬉しいですね。
発売は1973年11月21日。表紙は1971年72年に人気のあったドミニク・サンダ。
まあこの “スクリーン”の発売日や「シャレード」1973年リバイバル公開日50周年記念に合わせて紹介でもよかったんですけど、キッチリその日までに準備できるかどうかわからないので、先にやってしまいますね。
まずこの号での最初のオードリーは目次の次に折り込みポスターになっているオリビア・ハッセーの裏面の近代映画社の出版本の案内ページ。
B4サイズで収納に困る“スクリーン ジャンボ”の「ドロン・ヘプバーン魅力集」の発売案内。ここでは「パリの恋人」のオードリーの画像が使われていますね。
このころはまだまだオードリーが大人気。71年に「エクスラン・ヴァリーエ」で日本のテレビCMに登場したオードリーで72〜74年は “スクリーン”ではまたまたオードリーが女優のNo.1だったころですね。
というか、80年代後半の再ブームを見ると、別にオードリーの人気は70年代後半から落ちたんじゃなくて、実際は映画会社が浅はかにも「ローマの休日」と「マイ・フェア・レディ」ばっかりリバイバルするからその2本が飽きられただけだったんですけどね。
でも映画会社はその2大オードリー作品がヒットしなくなると“オードリーはもうダメ”と勝手に判断したからだと思うんですけどね。
映画会社が自分の失敗をオードリーのせいにした、ということだったと思うんですよね。
次のオードリーはカラーページの“10年前のスクリーンから”というページでの1964年1月号の「シャレード」の初公開時の紹介を載せています。
これは実は過去にもう紹介してるので、そちらでご覧ください。
次のオードリーはこの号から新連載の「スターグラフ診断」という7pにわたる緑のグラビアページ。
これ、本文にも目次にも執筆者の名前が無いので、編集者が書いたのでしょうか?
でも新連載のトップがオードリーというのはありがちですけどやっぱり誇らしいですよね。
ありがちというのも、いつの時代もずっとオードリーがトップを走っているから出る言葉なんですよね。
人気がなかったら、トップで取り上げてなんてもらえません。
文章は、まずオードリーの生い立ちから語られるのですが、最近あまり見かけなくなったことで、かつてオードリーがモデルをしていた、というのがあります。
それと、オードリーは現実の物語をおとぎ話に変えてしまう魅力を持っていて世界中のどんな女優よりもうまい。だから彼女が名演技を披露してもリアリズムに終始するドラマの場合は彼女の魅力が半減してしまう。また「マイ・フェア・レディ」辺りからその魔力を失い始める、と書かれています。
だいたい共感できるのですが、魔力を失ったのではなく、「マイ・フェア・レディ」へのバッシングで「おしゃれ泥棒」からやつれたのが原因だと思うのですよね。
本当にあのバッシングさえ無ければ、オードリーはもっと別の歳の取り方があったのではないかなーと思うのですよね。
やっぱりバッシングのせいでやつれてシワも深くなり、肌がカサカサになっている「おしゃれ泥棒」の画像のオードリーを見ると、「マイ・フェア・レディ」のままで普通に歳を取ったらどんなオードリーだったのだろうと思ってしまうのですよね。
たとえ僕が「おしゃれ泥棒」や「いつも2人で」のオードリーをものすごーく愛しているにしても、痛々しいオードリーより元気なオードリーがいいに決まってます。
なぜオードリーだけが吹替の件で「マイ・フェア・レディ」でバッシングされなきゃならないんでしょうね?
デボラ・カーは「王様と私」で、ナタリー・ウッドは「ウエストサイド物語」で、カトリーヌ・ドヌーヴは「シェルブールの雨傘」で叩かれたでしょうか?
そしてそれらは彼女たちの代表作ではないのでしょうか?
ジュリー・アンドリュース自身がスクリーン・テスト(オーディションではない)を断ったのですから、ジュリーファンにオードリーが叩かれるいわれはありません。
オードリーは内向的な人ですから、そんな心ないバッシングで本当にショックで傷ついたと思います。
いまだにオードリーが演じたことをあれこれ言う人がいますが、オードリーが亡くなってもまだ叩くか!と思います。
今オードリーがそれを聞いたらどう思うかと考えると、胸が痛みます。
あと、この引退していた時期に、復活して欲しいけど若い頃のイメージだけを残したい、という論調はここでもあります。
それはオードリーもそう思っているはずだ、と書かれているのですが、実際のオードリーはもっと強い人でしたね。
オードリーは歳を取るのが当たり前だし、シワは私の生きた証です、私は今の私を見て欲しいのです、と言ってましたね。
画像は、この時代、モノクロ写真の輪郭がボヤッとするので、よく線を追加で書かれたりしてることがあって、それがまたよく失敗してるもんで、子供心にも “こんな線、書かんかったらいいのに…”って思うことがしばしば。
ここでも特集の2ページ目、右側のページの左下の「おしゃれ泥棒」の画像の鼻に線が入ってて、それがやっぱり失敗して変になってる!
別に鼻の陰影が消えてたっていいやん!って思うんですけどね。
3ページ目は「ローマの休日」の本当のテストでベッドから起き上がるシーンの画像が載っていますね。
これ、どうやら動画としては残ってなさげなんですけど、こうして “スクリーン”関連の本では何点か画像が残されていますよね。
同じページにはコーラスガール時代のオードリーの画像がありますけど、これ確か「ハイ・ボタン・シューズ」の物だったかと思うんですけど、ここでは「ソース・ピカント」のものになっていますね。本当はどっちなんでしょう?
次の見開きの4ページ目ではオランダに出来た“オードリー・ヘプバーン通り”の看板を見上げるオードリーがいますけど、この通り、グーグルマップで調べたら、今もありました。
でもグーグルマップでは“アウトレー・ヘプブルンラーン”と紹介されていました。ストリートビューで見ると、周りは想像とは違って自然の中にある寂しい小径って感じのところでした。それに一部は大規模な工事中になってて道が無くなっているみたいなところもあったりして…。
オードリーが見上げている標識も見当たりませんでした。
4ページ目からは出演作品の場面集になるのですが、2枚画像を使われているのは「ローマの休日」「戦争と平和」「ティファニーで朝食を」「マイ・フェア・レディ」。
この当時、いかに「戦争と平和」がオードリー作品でも重要だったかが良くわかりますね。
次のオードリーは青い紙のページで、「スクリーン海外ニュース」と言うコーナー。
トップで “オードリーをヴィスコンティが演出?”と書かれていますね。
もちろんこれは「家族の肖像」のこと(この時の仮題は「ある家族の肖像」)。
オードリー・ヘプバーンとの交渉もかなり進んでいる、と書かれていますが、どうなったのかは皆さんもご存知の通り。
オードリーは若い男を囲うような「不道徳な役はやりたくない」と言って断りますけど、なぜそんなオードリー向きではない役をオードリーに依頼するかなーと思います。
でも70年代の映画って今考えるとそういう不道徳的なものやリアリティーを追求したような映画が幅を利かせていましたよね。
オードリーがかつて出ていたようないわゆるラブコメや夢のある映画みたいなのはほぼ絶滅状態だった時代なんですよね。
この号のグラビアには、「スターが演じた先生たち」というコーナーがあって、もちろんオードリーとシャーリー・マクレーンの「噂の二人」を探したのですが、載っていませんでした。残念!
次は淀川長治さんのページで、「日曜洋画劇場」の解説撮りで73年9月9日に「昼下りの情事」用のを撮ったこと、28日に放映されたこと、視聴率が16.6%だったことが書かれていて、画像も載っています。
その次が「シャレード」のリバイバル作品紹介ページのグラビアになります。
レイアウトデザインは同じ1973年にリバイバルされた「戦争と平和」の時と雲泥の差。「戦争と平和」が1960年代チックな古さだったのに、こちらは今でも大丈夫なお洒落度の高いデザインになってます。好感度高し。
左のメインのオードリーの画像も別テイクのはよく見ますが、このショットは珍しくて画像選びも良いです。
「シャレード」の公開としては1973年はもう3回目になります。「シャレード」は大ヒットだったので、1963年の初公開から5年ごとに公開されてたんですよね。
後ろのページではストーリー紹介もされています。
「麗しのサブリナ」や「ティファニーで朝食を」などは比べものにならないほど大ヒットだったんですよね。
フジテレビのゴールデン洋画劇場でも1972年に初放映されましたけど、再放送のリクエストでも第5位に入るほど人気がありました。
それに1973年のリバイバルは日本の宣伝のメインビジュアルが最高!
ポスター・プレスシート・パンフレット・チラシで同じデザインが使われましたけど、「シャレード」での全世界での最高峰ビジュアルとなっています!これを超える「シャレード」デザインは世界には存在しません!
でもさすがに5年ごとのリバイバルではちょっとやり過ぎだったんでしょうかね、73年のニュー東宝シネマ2でのリバイバルはたった3週間で次の作品に取って代わられてしまいます。
もうちょっとヒットしていれば1974年のお正月映画になっているところだったんですけどね。
やはり “観客層は7年で入れ替わる”と言われるように、7年は間を置いたほうが良かったんでしょうね。
この後は1987年になるまでリバイバルされませんでした。
80年代前半までは「戦争と平和」と並び3回の公開で「マイ・フェア・レディ」「ローマの休日」に次ぐ第3位の公開回数でしたけど、90年代前半までの大ブーム時までは4回となって「戦争と平和」の5回に1回負けて「ティファニーで朝食を」「パリの恋人」と並んで第4位になります。
その後は「午前十時の映画祭」で2度上映されましたので、日本公開は6回となり、「ローマの休日」(13回)、「マイ・フェア・レディ」(10回)、「ティファニーで朝食を」(7回)に次いで、「パリの恋人」「麗しのサブリナ」と並ぶ同率第4位となっています。
さてこの公開作品紹介では「燃えよドラゴン」も紹介されてて、裏表紙の裏にも広告が出てるのですが、最初に公開された劇場を見ると東京は丸の内松竹だったりするので、松竹としては2番手扱い。“スクリーン”の紹介でも7番目。最初はそこまで期待されてなかったのがわかります。
ところがフタを開けたら押すな押すなの大ヒット!73年のオイルショックで物価が急激に上がったのもありますが、それまでワーナー映画として最高の配給収入をあげていた「マイ・フェア・レディ」の7億9千万円を軽く超えて、74年度で16億4200万円を稼ぎました。
74年には同じワーナー映画で「エクソシスト」も出て(劇場も丸の内ピカデリー、丸の内松竹の同じ松竹系)、こちらはさらに上をいく27億3200万円を稼いでいますから、この年はワーナーの年だったわけですね。
グラビアのページではクリエイト鷹さんの広告でオードリーがいっぱい見れます。
当時の物価を考えると安くはないのでしょうが、今の値段で考えると、全部のパネル買います!って感じですね。
映画音楽のレコードでもオードリーがジャケットで使われています。
後ろのページでは映画パンフレットが売られています。72年にリバイバルされた「パリで一緒に」のが150円、73年にリバイバル公開されたばっかりの「戦争と平和」が200円だそうです。
ちなみに今の人はわからないでしょうが、〒85とかって書いてるのは送料が85円ってことですからね。
そういえば、絵柄が載ってないのですが、東和のスターカレンダーと、日本ヘラルドのカレンダーでオードリーが使われていたようです。
どんな画像を使っていたのでしょうね。
テレビの洋画劇場のページでは、10月の洋画劇場の視聴率が出ています。「シャラコ」以外は全部15%超えで、今のテレビ番組でなら喉から手が出るほど欲しい視聴率ですね。
同じテレビのページのグラビアでは初放映のヴィヴィアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」が紹介されています。
フジテレビの夜11:20からの放映ですけど、再放映ならまだしも、なぜこんな遅い時間から初放映するんでしょうね。
当時はビデオなんてまだ普及してない時代ですし、見たかったらその時間にテレビ前にいないといけなかったので、大変だったことと思います。
右上のヴィヴィアンが冷徹そうでクレオパトラにピッタリ!美しいな〜と思いました。
ヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」「哀愁」「欲望という名の電車」以外の作品の写真って、なかなか掲載されることがなくてすっごく貴重なので、当時はすっごい嬉しかったものです。
読者のページでは、「昼下りの情事」の放映があったので、数人の人が「昼下りの情事」の感激した感想を述べてくれています。嬉しいですね。
2023年10月09日
1986年 “オードリー・フェスティバル”時 B2ポスター
今回は、年度は今年とは“何周年”とかの関係はありませんけど、上映されていた日付がちょうど今頃だった、1986年の“オードリー・フェスティバル”時のB2ポスターの紹介。
この時は「ローマの休日」「麗しのサブリナ」「パリの恋人」が上映されていますね。
でもこの時のメインは、画像でもわかるように「パリの恋人」!
というのも、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」は既に1985年の年末に上映されているので。
その時の詳しいお話は、“ゴールデンシアター” チラシの記事で。
80年代後半〜90年代初期のオードリーの大ブーム時には“オードリー・シアター”と呼ばれていたらしいというほど、オードリーの映画をよく掛けてくれていた銀座文化劇場では、85年11月30日「麗しのサブリナ」から始まって、86年1月16日で「ローマの休日」の上映が終わったのに、8か月でまた「ローマの休日」から上映していることになります。
この85年の「噂の二人」「麗しのサブリナ」「ローマの休日」で手応えがあったのか、86年からは日本ヘラルド配給による怒涛のオードリー作品リバイバルが始まります。
そのリバイバルされたオードリー作品全ての好調っぷりを見て、慌てて本家の配給会社も追随してまだ残っている作品をリバイバルするという過熱っぷり。
それまで、70年代後半から80年代前半のオードリー作品の粗末な扱われ方を知っていた僕なんかは本当にビックリしました。
“オードリー作品ではもうお客を呼べない”なんて言われていましたが、そうではなくて、「ローマの休日」と「マイ・フェア・レディ」ばっかりバカのひとつ覚えみたいに数年ごとにリバイバルしてちゃ、そりゃお客さんも飽きて動員数も減ります。
オードリーのファンが望んでいたのは、「ローマの休日」「マイ・フェア・レディ」だけではなく、全部の作品だったことがこの時に証明されたんですよね。
85年には「噂の二人」「麗しのサブリナ」「ローマの休日」
86年に「ティファニーで朝食を」「パリの恋人」「マイ・フェア・レディ」
87年に「シャレード」「暗くなるまで待って」(ワーナー配給)「戦争と平和」(UIP配給)
88年に「パリで一緒に」「緑の館」
89年に「昼下りの情事」「戦争と平和」(日本ヘラルド配給)
90年には「オールウェイズ」初公開
91年に「おしゃれ泥棒」「いつも2人で」「暗くなるまで待って」(日本ヘラルド配給)
と、14作品で16回のリバイバル、新作1本、が来てますし、さらには「おしゃれ泥棒2」と「ニューヨークの恋人たち」もこの時期にVHSビデオで発売(日本初紹介)されています。
日本ヘラルドも、最初は各製作会社別に買い付けて、MGM/UA、パラマウント、などと他の往年の映画とともにテーマを決めて他作品とオードリー作品を混ぜて公開していたようなのですが、あまりにも突出してオードリー作品の興行成績がよかったんでしょうね、段々オードリー作品のみの買い付け&オードリー作品だけをまとめた上映になっていきます。
さて、ここでの「パリの恋人」のリバイバルは、1966年以来実に20年ぶりの上映になります。
「パリの恋人」が上映される!ってんで、舞い上がった僕は高校時代の先輩後輩に連絡をして、10人くらいで梅田に観に行きました。
大阪は87年になってからの上映でした。(大阪版のチラシの記事はこちら)
というのも、86年当時はまだ今のようなデジタルではなく、フィルムでの上映。
全国一斉に上映する新作ではなく、リバイバルの場合、フィルムをそんな何十本も取り寄せないんですよね。
なので、全国分でも数本しか準備されていなかったと思います。
このポスターで見ると、銀座文化と自由が丘武蔵野館で同じ作品が被っている期間がありますので、2本はある事になりますね。
さらに予備などであと数本はあるでしょうけど、全国別の場所でそんなたくさん上映できるほどのフィルムは無かったと思われるんですよね。
何かあった時用に予備は必ず準備しておかなければならないでしょうし、あるだけ全部使うわけにはいかないんですよね。
なので、昔のロードショー方式のように、全国を順々に回していったと思われます。
(こちらの画像はゲッティイメージズ さんの無料でブログに埋め込み可の画像をお借りしました)
さて、「パリの恋人」がリバイバルで見られる!ってだけでも嬉しかった僕ですが、劇場に行って驚愕! ロビーには既に予告としてこの「暗くなるまで待って」のポスターが貼ってありました!
「暗くなるまで待って」のリバイバルを知らなかった僕は、えーーっ!!こんな連続してオードリー作品がリバイバルされるん!?って思ったのを覚えています。
当時はまだ社会人じゃないし、貧乏な僕には、嬉しいけれどお金が心配になりました。
それと、また一緒に行くメンバーを集めないといけないなーと思ってました。
その時に劇場に貼ってあったこの “オードリー・フェスティバル”のポスター!
当時はこの「パリの恋人」のオペラ座の画像はレアでしたし、なんとキラキラ輝いていたことか!
僕は喉から手が出るほど欲しかったのを覚えています。
今はこうして(大阪のじゃないけど)手元にある“オードリー・フェスティバル”のポスターですが、これを見ると当時の思い出が甦ります。
初公開時の物でも66年リバイバルの物でもないし、「パリの恋人」だけのポスターでもないので、価値はそれほど高くないかとは思いますが、僕にとっては思い出のいっぱい詰まったポスターになります。
さらに横には「暗くなるまで待って」のポスターも貼ってあったんですから、70年代後半から80年代前半にかけてオードリー作品のリバイバルに飢えていた僕にはいかに壮観で、ポスターだけでもう圧倒されていたのかがわかっていただけるかと思います。
この時、短期間でこんなにオードリー作品が続々とリバイバルされるなんて、何かただならぬことが起こっている気配を感じたのでした。
実はこの時に全国的にオードリーのブームは起き始めていて、1987年5月号の雑誌“スクリーン”の人気投票では6年ぶりにベスト10圏内(第7位)にオードリーは返り咲くんですよね。
この時は「ローマの休日」「麗しのサブリナ」「パリの恋人」が上映されていますね。
でもこの時のメインは、画像でもわかるように「パリの恋人」!
というのも、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」は既に1985年の年末に上映されているので。
その時の詳しいお話は、“ゴールデンシアター” チラシの記事で。
80年代後半〜90年代初期のオードリーの大ブーム時には“オードリー・シアター”と呼ばれていたらしいというほど、オードリーの映画をよく掛けてくれていた銀座文化劇場では、85年11月30日「麗しのサブリナ」から始まって、86年1月16日で「ローマの休日」の上映が終わったのに、8か月でまた「ローマの休日」から上映していることになります。
この85年の「噂の二人」「麗しのサブリナ」「ローマの休日」で手応えがあったのか、86年からは日本ヘラルド配給による怒涛のオードリー作品リバイバルが始まります。
そのリバイバルされたオードリー作品全ての好調っぷりを見て、慌てて本家の配給会社も追随してまだ残っている作品をリバイバルするという過熱っぷり。
それまで、70年代後半から80年代前半のオードリー作品の粗末な扱われ方を知っていた僕なんかは本当にビックリしました。
“オードリー作品ではもうお客を呼べない”なんて言われていましたが、そうではなくて、「ローマの休日」と「マイ・フェア・レディ」ばっかりバカのひとつ覚えみたいに数年ごとにリバイバルしてちゃ、そりゃお客さんも飽きて動員数も減ります。
オードリーのファンが望んでいたのは、「ローマの休日」「マイ・フェア・レディ」だけではなく、全部の作品だったことがこの時に証明されたんですよね。
85年には「噂の二人」「麗しのサブリナ」「ローマの休日」
86年に「ティファニーで朝食を」「パリの恋人」「マイ・フェア・レディ」
87年に「シャレード」「暗くなるまで待って」(ワーナー配給)「戦争と平和」(UIP配給)
88年に「パリで一緒に」「緑の館」
89年に「昼下りの情事」「戦争と平和」(日本ヘラルド配給)
90年には「オールウェイズ」初公開
91年に「おしゃれ泥棒」「いつも2人で」「暗くなるまで待って」(日本ヘラルド配給)
と、14作品で16回のリバイバル、新作1本、が来てますし、さらには「おしゃれ泥棒2」と「ニューヨークの恋人たち」もこの時期にVHSビデオで発売(日本初紹介)されています。
日本ヘラルドも、最初は各製作会社別に買い付けて、MGM/UA、パラマウント、などと他の往年の映画とともにテーマを決めて他作品とオードリー作品を混ぜて公開していたようなのですが、あまりにも突出してオードリー作品の興行成績がよかったんでしょうね、段々オードリー作品のみの買い付け&オードリー作品だけをまとめた上映になっていきます。
さて、ここでの「パリの恋人」のリバイバルは、1966年以来実に20年ぶりの上映になります。
「パリの恋人」が上映される!ってんで、舞い上がった僕は高校時代の先輩後輩に連絡をして、10人くらいで梅田に観に行きました。
大阪は87年になってからの上映でした。(大阪版のチラシの記事はこちら)
というのも、86年当時はまだ今のようなデジタルではなく、フィルムでの上映。
全国一斉に上映する新作ではなく、リバイバルの場合、フィルムをそんな何十本も取り寄せないんですよね。
なので、全国分でも数本しか準備されていなかったと思います。
このポスターで見ると、銀座文化と自由が丘武蔵野館で同じ作品が被っている期間がありますので、2本はある事になりますね。
さらに予備などであと数本はあるでしょうけど、全国別の場所でそんなたくさん上映できるほどのフィルムは無かったと思われるんですよね。
何かあった時用に予備は必ず準備しておかなければならないでしょうし、あるだけ全部使うわけにはいかないんですよね。
なので、昔のロードショー方式のように、全国を順々に回していったと思われます。
(こちらの画像はゲッティイメージズ さんの無料でブログに埋め込み可の画像をお借りしました)
さて、「パリの恋人」がリバイバルで見られる!ってだけでも嬉しかった僕ですが、劇場に行って驚愕! ロビーには既に予告としてこの「暗くなるまで待って」のポスターが貼ってありました!
「暗くなるまで待って」のリバイバルを知らなかった僕は、えーーっ!!こんな連続してオードリー作品がリバイバルされるん!?って思ったのを覚えています。
当時はまだ社会人じゃないし、貧乏な僕には、嬉しいけれどお金が心配になりました。
それと、また一緒に行くメンバーを集めないといけないなーと思ってました。
その時に劇場に貼ってあったこの “オードリー・フェスティバル”のポスター!
当時はこの「パリの恋人」のオペラ座の画像はレアでしたし、なんとキラキラ輝いていたことか!
僕は喉から手が出るほど欲しかったのを覚えています。
今はこうして(大阪のじゃないけど)手元にある“オードリー・フェスティバル”のポスターですが、これを見ると当時の思い出が甦ります。
初公開時の物でも66年リバイバルの物でもないし、「パリの恋人」だけのポスターでもないので、価値はそれほど高くないかとは思いますが、僕にとっては思い出のいっぱい詰まったポスターになります。
さらに横には「暗くなるまで待って」のポスターも貼ってあったんですから、70年代後半から80年代前半にかけてオードリー作品のリバイバルに飢えていた僕にはいかに壮観で、ポスターだけでもう圧倒されていたのかがわかっていただけるかと思います。
この時、短期間でこんなにオードリー作品が続々とリバイバルされるなんて、何かただならぬことが起こっている気配を感じたのでした。
実はこの時に全国的にオードリーのブームは起き始めていて、1987年5月号の雑誌“スクリーン”の人気投票では6年ぶりにベスト10圏内(第7位)にオードリーは返り咲くんですよね。
2023年10月02日
2024オードリーカレンダーの紹介
さて、昨日、“昨年は結局来年のカレンダーの紹介をしませんでした”、と書きましたが、今回はその事情と今年のカレンダーの紹介を。
というのも、数年前から出てきていた、表紙だけ変えて中身一緒の(おそらくオンデマンド印刷)の粗悪カレンダーが海外で昨年は呆れるほどいっぱい発売されて、それに嫌気がさしてたんですけど、今年になるとその粗悪カレンダーに購買層を奪われたのか、それまで普通に印刷して売っていた海外のところからもだいぶオードリーカレンダーが発売されなくなっています。
もともと紙モノが売れなくなっているのに、そんな大量に表紙の見た目だけ変えていっぱい出されたらたまったもんじゃありませんよね。
しかも今年はその極悪カレンダーも作ってない!
大量に発生して、その通った後の畑には何も残っていない海外のバッタみたいなものですね。
今年発売されている2024カレンダーですけども、まずは国内版のウインズさんのもの。
いつもお世話になっていて申し訳ないんですが、今年のオードリーカレンダーは買う気が起きません。
というのも、同じ画像の使い回しで、正直、2024年カレンダーは2017年カレンダーとほぼ同じ内容。
うーん、これはあんまりですねー。
画像の好みが偏ってらっしゃるので、本当に申し訳ないんですけれども、そろそろ画像を選ぶ方を他の方に変更していただきたいです。
白黒でないと嫌だとおっしゃってたので、元々黄色基調のカラーの「戦争と平和」の画像(3.4月)もモノクロ化されてしまってますし。
万年歴の方は以前のとは変更になっています。
でもこちらも、見れる画像ではイマイチ魅力を感じない、よく見る画像ばかりですが…。
こんな卓上カレンダーも出ています。
オール・カラー版と、モノクロ混在版。でもカラー版の「ティファニーで朝食を」と「パリの恋人」のは映画そのもののワンシーンじゃね?
カラー版もモノクロ混在版も、12月の画像がレアもので魅力的。
↑これは海外のカレンダーだと思いますが、「いつも2人で」と「暗くなるまで待って」の間の宣伝写真が採用されているのが珍しいです(といってもレア画像ではない)。「ティファニーで朝食を」の宣伝写真の、首を触っているのがまあまあレア画像ですけど、これ、裏焼きじゃね?
↑これも海外の。日本のアマゾンでは中身がわかりませんので、内容はアメリカアマゾンのこちらとこちらで。
うーん、珍しい画像ナッシング。「パリで一緒に」の、このヘタな着色はなんでしょう。
表紙も裏焼きでオードリーを知らない人が作っているの丸わかりだし、魅力がないです。
↑こちらの海外製の方が「戦争と平和」「噂の二人」のレア画像があって、遥かに良いです!今年一番良い出来。
でも注文できないみたいですね。
他に、毎年毎年カレンダー部分だけ新しい年のものにして、ずっと中身一緒の “Hollywood-Diva. Audrey Hepburn”ってのも今年もありますが、どうでもいいですし、在庫切れになっていたので、もう紹介もしません。
他には昨年に出たのであろう2023-2024の表紙だけ変えただろうプランナーが載ってますが、これが昨年までの大量発生した諸悪の根源の残りカスなので、どこが作っているやらもわからないし在庫もないようなので紹介しません。
一時期、18種類とかって売ってたオードリーカレンダーですが、こう見ると寂しくなったなーと思いますが、これでも日本でも海外でもまだオードリーカレンダーが製作されているってことはすごいことなんですよ!
もう日本では海外の映画スター関連のカレンダーで売っているのはオードリーただ一人だけですしね。
というのも、数年前から出てきていた、表紙だけ変えて中身一緒の(おそらくオンデマンド印刷)の粗悪カレンダーが海外で昨年は呆れるほどいっぱい発売されて、それに嫌気がさしてたんですけど、今年になるとその粗悪カレンダーに購買層を奪われたのか、それまで普通に印刷して売っていた海外のところからもだいぶオードリーカレンダーが発売されなくなっています。
もともと紙モノが売れなくなっているのに、そんな大量に表紙の見た目だけ変えていっぱい出されたらたまったもんじゃありませんよね。
しかも今年はその極悪カレンダーも作ってない!
大量に発生して、その通った後の畑には何も残っていない海外のバッタみたいなものですね。
今年発売されている2024カレンダーですけども、まずは国内版のウインズさんのもの。
いつもお世話になっていて申し訳ないんですが、今年のオードリーカレンダーは買う気が起きません。
というのも、同じ画像の使い回しで、正直、2024年カレンダーは2017年カレンダーとほぼ同じ内容。
うーん、これはあんまりですねー。
画像の好みが偏ってらっしゃるので、本当に申し訳ないんですけれども、そろそろ画像を選ぶ方を他の方に変更していただきたいです。
白黒でないと嫌だとおっしゃってたので、元々黄色基調のカラーの「戦争と平和」の画像(3.4月)もモノクロ化されてしまってますし。
万年歴の方は以前のとは変更になっています。
でもこちらも、見れる画像ではイマイチ魅力を感じない、よく見る画像ばかりですが…。
こんな卓上カレンダーも出ています。
オール・カラー版と、モノクロ混在版。でもカラー版の「ティファニーで朝食を」と「パリの恋人」のは映画そのもののワンシーンじゃね?
カラー版もモノクロ混在版も、12月の画像がレアもので魅力的。
↑これは海外のカレンダーだと思いますが、「いつも2人で」と「暗くなるまで待って」の間の宣伝写真が採用されているのが珍しいです(といってもレア画像ではない)。「ティファニーで朝食を」の宣伝写真の、首を触っているのがまあまあレア画像ですけど、これ、裏焼きじゃね?
↑これも海外の。日本のアマゾンでは中身がわかりませんので、内容はアメリカアマゾンのこちらとこちらで。
うーん、珍しい画像ナッシング。「パリで一緒に」の、このヘタな着色はなんでしょう。
表紙も裏焼きでオードリーを知らない人が作っているの丸わかりだし、魅力がないです。
↑こちらの海外製の方が「戦争と平和」「噂の二人」のレア画像があって、遥かに良いです!今年一番良い出来。
でも注文できないみたいですね。
他に、毎年毎年カレンダー部分だけ新しい年のものにして、ずっと中身一緒の “Hollywood-Diva. Audrey Hepburn”ってのも今年もありますが、どうでもいいですし、在庫切れになっていたので、もう紹介もしません。
他には昨年に出たのであろう2023-2024の表紙だけ変えただろうプランナーが載ってますが、これが昨年までの大量発生した諸悪の根源の残りカスなので、どこが作っているやらもわからないし在庫もないようなので紹介しません。
一時期、18種類とかって売ってたオードリーカレンダーですが、こう見ると寂しくなったなーと思いますが、これでも日本でも海外でもまだオードリーカレンダーが製作されているってことはすごいことなんですよ!
もう日本では海外の映画スター関連のカレンダーで売っているのはオードリーただ一人だけですしね。
タグ :カレンダー
2023年10月01日
2000年の販促用オードリーカレンダー
こないだいっぱい撮ったポスターの続きを…と思ってたんですが、なんだか気分的にも時期的にもこちらにすることにしました。
2000年のオードリーカレンダー!サイズは結構大きいです。B2くらい。
なので、これもこないだ一緒に撮ったんですよー。
そして、これが印刷されているのは普通の紙ではありません。なんか化学繊維でできているような、合成布っぽいもの。
なんて言うの?クラフト生地?フェルト生地?そういうのです。
これは企業さんの販促カレンダーだと思うのですけど、企業名を入れる余白がありませんね。
別の年のなら、下部に余白があったんですけれども。
こういうのはカレンダーの会社に販促用のカレンダーが何十だか何百だかの見本があって、その中から業者がお得意様に配るカレンダーを決めて納入してもらうというもの。
昔は当たり前の光景でしたけど、スマホで日付なんていつでもわかるようになった今は随分廃れてそうです。
これも1999年に会社の出入りの業者さんにいただいたもの。
オードリーを使ってくれるなんて、なんとセンスのいい!と思ってました。
この年のオードリーは「パリの恋人」ですね。
「パリの恋人」まではあった、オードリーの顔の右から写しているという画像。
これ以降はオードリー自身が右側から写した画像をあまり気に入らなくて、顔にコンプレックスのあるオードリーはカメラマンに「左側からお願いします」と言うほど常に左側を向けるようになっていきます。
なので、これは本当に右側から写した、貴重な画像ということになりますね。
でもこっち側からだと、やっぱり鼻が間延びしています。
それと1999年〜2000年ごろというと、オードリーのブームも落ち着いて、今度はなかなかオードリー映画来ないなーっていう時期。
そろそろ全てのオードリー映画のリバイバルの権利が切れてしまって、もう劇場にはオードリー映画がほとんどかからなくなってました。
結局80年代後半〜90年代初期の大ブーム時でも「尼僧物語」「許されざる者」と「ロビンとマリアン」以降の作品はリバイバルされなかったし、また何か来てほしいなーとオードリーファンなら思ってた頃ですね。
このオードリーに対する渇望は2003年の「ローマの休日」リバイバルまでは満たされなかったんですけれどもね。
さて、昨年は結局2023年のカレンダーの紹介をしませんでした。
その辺のことも含めて、明日は早速2024年のカレンダーの紹介をします。
2000年のオードリーカレンダー!サイズは結構大きいです。B2くらい。
なので、これもこないだ一緒に撮ったんですよー。
そして、これが印刷されているのは普通の紙ではありません。なんか化学繊維でできているような、合成布っぽいもの。
なんて言うの?クラフト生地?フェルト生地?そういうのです。
これは企業さんの販促カレンダーだと思うのですけど、企業名を入れる余白がありませんね。
別の年のなら、下部に余白があったんですけれども。
こういうのはカレンダーの会社に販促用のカレンダーが何十だか何百だかの見本があって、その中から業者がお得意様に配るカレンダーを決めて納入してもらうというもの。
昔は当たり前の光景でしたけど、スマホで日付なんていつでもわかるようになった今は随分廃れてそうです。
これも1999年に会社の出入りの業者さんにいただいたもの。
オードリーを使ってくれるなんて、なんとセンスのいい!と思ってました。
この年のオードリーは「パリの恋人」ですね。
「パリの恋人」まではあった、オードリーの顔の右から写しているという画像。
これ以降はオードリー自身が右側から写した画像をあまり気に入らなくて、顔にコンプレックスのあるオードリーはカメラマンに「左側からお願いします」と言うほど常に左側を向けるようになっていきます。
なので、これは本当に右側から写した、貴重な画像ということになりますね。
でもこっち側からだと、やっぱり鼻が間延びしています。
それと1999年〜2000年ごろというと、オードリーのブームも落ち着いて、今度はなかなかオードリー映画来ないなーっていう時期。
そろそろ全てのオードリー映画のリバイバルの権利が切れてしまって、もう劇場にはオードリー映画がほとんどかからなくなってました。
結局80年代後半〜90年代初期の大ブーム時でも「尼僧物語」「許されざる者」と「ロビンとマリアン」以降の作品はリバイバルされなかったし、また何か来てほしいなーとオードリーファンなら思ってた頃ですね。
このオードリーに対する渇望は2003年の「ローマの休日」リバイバルまでは満たされなかったんですけれどもね。
さて、昨年は結局2023年のカレンダーの紹介をしませんでした。
その辺のことも含めて、明日は早速2024年のカレンダーの紹介をします。
2023年09月23日
1990年 帯広シネマアポロン版 “ヘプバーンの魅力” ポスター
(今回も無料の画像をゲッティイメージズ さんからお借りしました。)
ここのところ、オードリーのポスターを全然紹介してなかったなーと思い、今回は劇場版ポスターの紹介をします。
まあもともと僕はポスターの撮影がヘタクソで綺麗に撮れないので、ちょっと後回しのつもりにしていたら、相当長い間ポスターって紹介してませんでした。
特に劇場版というと、1921年9月11日の記事で紹介した「ロビンとマリアン」のB1ポスター以来2年ぶりですね。
ポスターって、撮るのが面倒くさいんですよ。まずポスターを収納しているところから取り出さないといけないんですよね。
B2サイズはまだポスターファイルから取り出せばいいんですけど(それでも面倒くさい)、B1ポスターだとポスターフレームのネジを外して必要なポスターを抜かないといけなくて、そのポスターフレームが開けると崩れるみたいな物なので、撮影後に戻すのも大変で本当に面倒くさいんです。
B1は大きいので、普段はタンスの後ろに置いてて、フレーム→買った時のビニール→プチプチ、の順に収納されているので、まず出すのも面倒くさいんですよねー。
それに撮影はうまく反射や影が入らないようにしないといけないし、それでも失敗すると2枚の画像を繋ぎ合わせたりとかって、結構大変。
それでついつい後回しになるんですよねー。
今回思い切って、えいやっ!とポスターをいくつかまとめて撮影しましたので、順次紹介出来たら、と思います。
今回はレアものの、帯広版B2劇場ポスター。
“ヘプバーンの魅力”と銘打って、オードリーの3作品が連続上映された時のものです。
80年代後半のオードリーブームの際の、札幌版はいくつか製作されているのは知ってましたが、まさか帯広にも劇場独自版のポスターがあったとは!
(札幌版は「麗しのサブリナ」「ティファニーで朝食を」「パリで一緒に」で見てね)
というのも、印刷って最低1000枚は刷らないと、かなり割高になるんです。今ならオンデマンド印刷という手がありますんで(と言っても品質はめっちゃ落ちる。プリンター並み)、少部数でも対応できるんですが、80年代90年代はまだそんなものありませんからねー。
全国で同じものを使うなら、1000部くらいは簡単に超えるかもしれませんけど、帯広独自のポスターとなると100部も要るかどうかですよねー。
なのでこのポスターはピンクと黒の2色刷りですけど、単価はものすごく高いと思います。
さて、これが帯広とわかったのは、住所から。
シネマアポロンというのは札幌とか旭川とか釧路にもあったみたいなので、チェーン館だったのかなーと思いますが、西4南9(西4条南9丁目)という住所で帯広のものだとわかりました。
そしてそして!メインは「マイ・フェア・レディ」の画像なんですが、このポスターでおおおっ!と思ったのはそこではありません。
なんとなんと、もひとつなんと!「緑の館」が上映されているではありませんかーーっっっ!!
このブログで以前から読んでいただいている方は何度も書いているのでもうご存知だと思いますが、「緑の館」は80年代後半のオードリー作品続々リバイバルの中で、日本ヘラルドが84年にリバイバルの権利は取って映画パンフレットまで準備されていたものの、フィルムの状態が良くなくて、なんと日本で最も集客のできる東京地区と大阪地区ではリバイバルされなかったんです!
88年に名古屋や札幌など地方でリバイバルされましたが、結局東京と大阪は無し。
なので「緑の館」のリバイバルを見れた幸運な人は、ほんの一握りの人達だけになってしまったんですよね。
こちらのブログに来ていただいている方でも、名古屋にいらした明智常楽さん以外は「緑の館」をリバイバルではご覧になってないみたいなんですよねー。
東京では93年にオードリーが亡くなったときに(企画自体はオードリーが元気な時から準備されていた)、JALと日本ヘラルドと銀座文化が組んで半年間オードリー作品だけを連続上映した、「I'll AUDREY THEATER」でも、日本ヘラルドが当時権利を持っていた14作品のうち、「緑の館」と「戦争と平和」だけが外されたんですよねー。ほんともったいない!
今ならいろんな情報がネットで見れるので、名古屋で「緑の館」のリバイバルがある!ってわかったら新幹線や近鉄特急使ってでも行きますが、なんせ88年ですからねー。そんな情報は全く知らないので…。
いつか大阪や神戸でも上映するやろと呑気に構えていたら、そんな日は来ませんでした…。
なので、「緑の館」リバイバルはとっても貴重で、名古屋と札幌以外でも熊本や長崎でリバイバルされたらしいのですが、それ以外は全く不明でした。
それが帯広ではわずか6日間だけですけど、こうしてリバイバル公開されていたなんて!
今は亡きシネマアポロンさんですが、上映してくださってありがとうございます!
帯広にも「緑の館」をご覧になった貴重な方がいらっしゃったことになりますね。当時の思い出話とか聞いてみたいですねー。
さて、「緑の館」自体は1984年からリバイバルの権利が日本ヘラルドにありましたが、同時にポスターに載っている「マイ・フェア・レディ」と「戦争と平和」のリバイバルの権利を取れたのが、それぞれ1986年、1989年になるので、載っている日付と照らし合わせて1990年のポスターだとわかりました。
「緑の館」、オードリーの主演では最も出来が悪いと言われているので、さすがに “午前十時の映画祭”でもリバイバルされるのはないと思います。そう考えると本当に88年のリバイバルは貴重だったんですよね〜。
「戦争と平和」はゲッティイメージズ さんから画像をお借りしましたが、オードリーと一緒に写っているヴィットリオ・ガスマンをちょっと調べてみましたら、イタリア映画などでは主演を張ってた人だったんですね!
なぜいつもオードリーと大きく取り上げられるんだろう…などと思っていましたが、それならクレジットもオードリー、ヘンリー・フォンダ、メル・ファーラーに次いで4番目なのもわかります。
役としてはナポレオンやドーロホフの方が大きいですもんね。
オードリーとの身長差から考えて、きっと身長も190cm近くあっただろうと思いますし、欧米人といえども1950年代では非常に高かったことと思います。
きっと実際はカッコ良かったんでしょうね。
今まではチョイ役の顔の濃い人、というくらいのイメージしかありませんでした。
でも逆にそうなるとなぜこんな小さな役に出演したんだろう、とも思います。
ここのところ、オードリーのポスターを全然紹介してなかったなーと思い、今回は劇場版ポスターの紹介をします。
まあもともと僕はポスターの撮影がヘタクソで綺麗に撮れないので、ちょっと後回しのつもりにしていたら、相当長い間ポスターって紹介してませんでした。
特に劇場版というと、1921年9月11日の記事で紹介した「ロビンとマリアン」のB1ポスター以来2年ぶりですね。
ポスターって、撮るのが面倒くさいんですよ。まずポスターを収納しているところから取り出さないといけないんですよね。
B2サイズはまだポスターファイルから取り出せばいいんですけど(それでも面倒くさい)、B1ポスターだとポスターフレームのネジを外して必要なポスターを抜かないといけなくて、そのポスターフレームが開けると崩れるみたいな物なので、撮影後に戻すのも大変で本当に面倒くさいんです。
B1は大きいので、普段はタンスの後ろに置いてて、フレーム→買った時のビニール→プチプチ、の順に収納されているので、まず出すのも面倒くさいんですよねー。
それに撮影はうまく反射や影が入らないようにしないといけないし、それでも失敗すると2枚の画像を繋ぎ合わせたりとかって、結構大変。
それでついつい後回しになるんですよねー。
今回思い切って、えいやっ!とポスターをいくつかまとめて撮影しましたので、順次紹介出来たら、と思います。
今回はレアものの、帯広版B2劇場ポスター。
“ヘプバーンの魅力”と銘打って、オードリーの3作品が連続上映された時のものです。
80年代後半のオードリーブームの際の、札幌版はいくつか製作されているのは知ってましたが、まさか帯広にも劇場独自版のポスターがあったとは!
(札幌版は「麗しのサブリナ」「ティファニーで朝食を」「パリで一緒に」で見てね)
というのも、印刷って最低1000枚は刷らないと、かなり割高になるんです。今ならオンデマンド印刷という手がありますんで(と言っても品質はめっちゃ落ちる。プリンター並み)、少部数でも対応できるんですが、80年代90年代はまだそんなものありませんからねー。
全国で同じものを使うなら、1000部くらいは簡単に超えるかもしれませんけど、帯広独自のポスターとなると100部も要るかどうかですよねー。
なのでこのポスターはピンクと黒の2色刷りですけど、単価はものすごく高いと思います。
さて、これが帯広とわかったのは、住所から。
シネマアポロンというのは札幌とか旭川とか釧路にもあったみたいなので、チェーン館だったのかなーと思いますが、西4南9(西4条南9丁目)という住所で帯広のものだとわかりました。
そしてそして!メインは「マイ・フェア・レディ」の画像なんですが、このポスターでおおおっ!と思ったのはそこではありません。
なんとなんと、もひとつなんと!「緑の館」が上映されているではありませんかーーっっっ!!
このブログで以前から読んでいただいている方は何度も書いているのでもうご存知だと思いますが、「緑の館」は80年代後半のオードリー作品続々リバイバルの中で、日本ヘラルドが84年にリバイバルの権利は取って映画パンフレットまで準備されていたものの、フィルムの状態が良くなくて、なんと日本で最も集客のできる東京地区と大阪地区ではリバイバルされなかったんです!
88年に名古屋や札幌など地方でリバイバルされましたが、結局東京と大阪は無し。
なので「緑の館」のリバイバルを見れた幸運な人は、ほんの一握りの人達だけになってしまったんですよね。
こちらのブログに来ていただいている方でも、名古屋にいらした明智常楽さん以外は「緑の館」をリバイバルではご覧になってないみたいなんですよねー。
東京では93年にオードリーが亡くなったときに(企画自体はオードリーが元気な時から準備されていた)、JALと日本ヘラルドと銀座文化が組んで半年間オードリー作品だけを連続上映した、「I'll AUDREY THEATER」でも、日本ヘラルドが当時権利を持っていた14作品のうち、「緑の館」と「戦争と平和」だけが外されたんですよねー。ほんともったいない!
今ならいろんな情報がネットで見れるので、名古屋で「緑の館」のリバイバルがある!ってわかったら新幹線や近鉄特急使ってでも行きますが、なんせ88年ですからねー。そんな情報は全く知らないので…。
いつか大阪や神戸でも上映するやろと呑気に構えていたら、そんな日は来ませんでした…。
なので、「緑の館」リバイバルはとっても貴重で、名古屋と札幌以外でも熊本や長崎でリバイバルされたらしいのですが、それ以外は全く不明でした。
それが帯広ではわずか6日間だけですけど、こうしてリバイバル公開されていたなんて!
今は亡きシネマアポロンさんですが、上映してくださってありがとうございます!
帯広にも「緑の館」をご覧になった貴重な方がいらっしゃったことになりますね。当時の思い出話とか聞いてみたいですねー。
さて、「緑の館」自体は1984年からリバイバルの権利が日本ヘラルドにありましたが、同時にポスターに載っている「マイ・フェア・レディ」と「戦争と平和」のリバイバルの権利を取れたのが、それぞれ1986年、1989年になるので、載っている日付と照らし合わせて1990年のポスターだとわかりました。
「緑の館」、オードリーの主演では最も出来が悪いと言われているので、さすがに “午前十時の映画祭”でもリバイバルされるのはないと思います。そう考えると本当に88年のリバイバルは貴重だったんですよね〜。
「戦争と平和」はゲッティイメージズ さんから画像をお借りしましたが、オードリーと一緒に写っているヴィットリオ・ガスマンをちょっと調べてみましたら、イタリア映画などでは主演を張ってた人だったんですね!
なぜいつもオードリーと大きく取り上げられるんだろう…などと思っていましたが、それならクレジットもオードリー、ヘンリー・フォンダ、メル・ファーラーに次いで4番目なのもわかります。
役としてはナポレオンやドーロホフの方が大きいですもんね。
オードリーとの身長差から考えて、きっと身長も190cm近くあっただろうと思いますし、欧米人といえども1950年代では非常に高かったことと思います。
きっと実際はカッコ良かったんでしょうね。
今まではチョイ役の顔の濃い人、というくらいのイメージしかありませんでした。
でも逆にそうなるとなぜこんな小さな役に出演したんだろう、とも思います。
2023年09月07日
1963年 “映画の友” 公開60周年「シャレード」誌上プレビュー
「ローマの休日」、上映始まってますが、みなさんもうご覧になりましたか?
僕は今回はいろんなロケ地のことを考えながら見てました。
あと、8月14日の記事でも書いてますが、やっぱり当時の人にとって、あの「ローマの休日」の髪型(いわゆるヘプバーン・カット)は難しかったのかなーとか思いながら見てました。
アン王女も、テヴェレ川に飛び込んだ後は、あのヘアスタイルに戻すことが出来なかったみたいですもんね。
やはり当時は家庭用のドライヤーが無く、ブローという技術もないので、ヘアスタイルはピンカールやカーラーで一晩置いて作るものだったので、濡れた後はもう戻せなかったんかなーとかっていう設定を思っていました。
映画館によっては7日までという所もあったので、みなさんもお早めに劇場で見てくださいねー。
あと関西では、4Kレストア版だけど劇場に4Kの設備がないので、どこも素材は4Kでレストアされたものだけど、2Kで上映っていう劇場ばかりでした。
4Kを4Kで観れる東京の人たちが羨ましいなぁ〜と思っていました。
さて、今回は今年初公開から60周年を迎える「シャレード」関連の紹介。
“オードリイ・ヘップバーン”表記なので、これは「映画の友」での記事だとはわかるのですが、本体は解体して残っていません。
これはたぶんむかーしむかしに買った古本から手に入れたもの。
これは「映画の友」での初公開の時のモノクログラビアページの誌上プレビュー。
文章はオードリー評論家のひとり、山本恭子さんがお書きになっています。
でも誌上プレビューって、実質ストーリー紹介なんですけどね。
なので、このブログで紹介できることがありません。山本恭子さんの無駄遣い。
というわけで、いきおいここでの画像のお話になってしまうのですが…。
実はこれまた書くことがない。
「シャレード」って、レアな画像ってのがほとんどないんです。紹介の時はいつも同じ画像ばっかり。
2010年にちょっとだけ出てた「週刊オードリー・ヘプバーン」の最終号である第9号での「シャレード」特集でも、これは初公開時の映画パンフレットから持ってきたんちゃう???っていう平凡&低画質の見慣れた画像ばかりでした。
もともと執筆者がオードリーに全然詳しくないという間違いだらけでレベルの低い「週刊オードリー・ヘプバーン」でしたけど、画像が酷いことでそれに輪をかけてひどい最終号の仕上がりになっていました。
さて、なんで「シャレード」にはこんなに画像の種類が少ないのか、というのには理由があります。
ほかの作品だと、初公開前の宣伝写真とかには今見るとめっちゃ珍しいのがあって嬉しくなったりするんですけど、「シャレード」にはあんまりそれがない。
オードリーの伝記でも割と信頼のおけるハイアムとパリスの伝記にその理由だと思われることが書いてあります。
オードリーって自分の写真写りをめっちゃ気にする人じゃないですか。
自分のことを全然美しいとは思ってない。なのでポートレートを撮る時も映画界での地位が固まってきた「パリの恋人」以降は(オードリー自身にとっては多少マシに写る)必ず左からか正面に限定している。
これはユニセフに関わるようになった晩年でも譲れないほどの、オードリーを撮影する際の絶対条件だった。
そんな自分の写真うつりに自信のないオードリーに対して、実はケーリー・グラントもそういう人だった。
まあケーリー・グラントの場合は自分に自信がない、というよりも、普段の言動をみると自分がカッコよく写ってないと嫌な人だったんじゃないかと思うのですけどもね。
なので、宣伝係の人はフィルムのベタ焼き2枚焼いて、オードリーとグラントに見てもらい、それぞれ自分が気に入らない写真はパンチで穴を開けてもらっていたとのこと。
そしたらオードリーが穴を開けた写真と、グラントが穴を開けた写真を合わせてみて、どっちか一つでも穴が開いてたらそれはもう宣伝写真として使えないわけです。
自分の容姿を気にする2人が、自分の写りが悪いと思っている写真をボツにしていったら、そりゃ使えるのは数少なくなりますよね。
なので「シャレード」はいつもいつも同じ写真ばっかり使われるんじゃないかなーと思うんですよね。
「シャレード」は大好きな映画ではあるんですけど、画像を「見る」楽しみは少ない映画だなーとは思いますね。
でも、そうすると裏を返せばここで見れる画像は、ふたりとものOKが出た、厳しい基準をクリアした画像ということになりますね。そうすると味わい深いかも…。
ポートレートじゃないので、オードリーも右から写っている画像がありますよね。
僕は今回はいろんなロケ地のことを考えながら見てました。
あと、8月14日の記事でも書いてますが、やっぱり当時の人にとって、あの「ローマの休日」の髪型(いわゆるヘプバーン・カット)は難しかったのかなーとか思いながら見てました。
アン王女も、テヴェレ川に飛び込んだ後は、あのヘアスタイルに戻すことが出来なかったみたいですもんね。
やはり当時は家庭用のドライヤーが無く、ブローという技術もないので、ヘアスタイルはピンカールやカーラーで一晩置いて作るものだったので、濡れた後はもう戻せなかったんかなーとかっていう設定を思っていました。
映画館によっては7日までという所もあったので、みなさんもお早めに劇場で見てくださいねー。
あと関西では、4Kレストア版だけど劇場に4Kの設備がないので、どこも素材は4Kでレストアされたものだけど、2Kで上映っていう劇場ばかりでした。
4Kを4Kで観れる東京の人たちが羨ましいなぁ〜と思っていました。
さて、今回は今年初公開から60周年を迎える「シャレード」関連の紹介。
“オードリイ・ヘップバーン”表記なので、これは「映画の友」での記事だとはわかるのですが、本体は解体して残っていません。
これはたぶんむかーしむかしに買った古本から手に入れたもの。
これは「映画の友」での初公開の時のモノクログラビアページの誌上プレビュー。
文章はオードリー評論家のひとり、山本恭子さんがお書きになっています。
でも誌上プレビューって、実質ストーリー紹介なんですけどね。
なので、このブログで紹介できることがありません。山本恭子さんの無駄遣い。
というわけで、いきおいここでの画像のお話になってしまうのですが…。
実はこれまた書くことがない。
「シャレード」って、レアな画像ってのがほとんどないんです。紹介の時はいつも同じ画像ばっかり。
2010年にちょっとだけ出てた「週刊オードリー・ヘプバーン」の最終号である第9号での「シャレード」特集でも、これは初公開時の映画パンフレットから持ってきたんちゃう???っていう平凡&低画質の見慣れた画像ばかりでした。
もともと執筆者がオードリーに全然詳しくないという間違いだらけでレベルの低い「週刊オードリー・ヘプバーン」でしたけど、画像が酷いことでそれに輪をかけてひどい最終号の仕上がりになっていました。
さて、なんで「シャレード」にはこんなに画像の種類が少ないのか、というのには理由があります。
ほかの作品だと、初公開前の宣伝写真とかには今見るとめっちゃ珍しいのがあって嬉しくなったりするんですけど、「シャレード」にはあんまりそれがない。
オードリーの伝記でも割と信頼のおけるハイアムとパリスの伝記にその理由だと思われることが書いてあります。
オードリーって自分の写真写りをめっちゃ気にする人じゃないですか。
自分のことを全然美しいとは思ってない。なのでポートレートを撮る時も映画界での地位が固まってきた「パリの恋人」以降は(オードリー自身にとっては多少マシに写る)必ず左からか正面に限定している。
これはユニセフに関わるようになった晩年でも譲れないほどの、オードリーを撮影する際の絶対条件だった。
そんな自分の写真うつりに自信のないオードリーに対して、実はケーリー・グラントもそういう人だった。
まあケーリー・グラントの場合は自分に自信がない、というよりも、普段の言動をみると自分がカッコよく写ってないと嫌な人だったんじゃないかと思うのですけどもね。
なので、宣伝係の人はフィルムのベタ焼き2枚焼いて、オードリーとグラントに見てもらい、それぞれ自分が気に入らない写真はパンチで穴を開けてもらっていたとのこと。
そしたらオードリーが穴を開けた写真と、グラントが穴を開けた写真を合わせてみて、どっちか一つでも穴が開いてたらそれはもう宣伝写真として使えないわけです。
自分の容姿を気にする2人が、自分の写りが悪いと思っている写真をボツにしていったら、そりゃ使えるのは数少なくなりますよね。
なので「シャレード」はいつもいつも同じ写真ばっかり使われるんじゃないかなーと思うんですよね。
「シャレード」は大好きな映画ではあるんですけど、画像を「見る」楽しみは少ない映画だなーとは思いますね。
でも、そうすると裏を返せばここで見れる画像は、ふたりとものOKが出た、厳しい基準をクリアした画像ということになりますね。そうすると味わい深いかも…。
ポートレートじゃないので、オードリーも右から写っている画像がありますよね。
2023年08月25日
「戦争と平和」リバイバル50周年 「ロードショー」1973年10月号
本日より「ローマの休日」4Kレストア版が全国の映画館でリバイバル公開されています!
映画パンフレットもあるので、ぜひ皆さん劇場で買ってみてくださいねー。
はい、今日は「戦争と平和」が1973年8月25日にリバイバルされてからちょうど50年になります。10月26日まで9週も続映したことなんかはこないだの「スクリーン」の1973年10月号で書きましたんで、今回はそのライバル誌、「ロードショー」の1973年10月号(8月21日発売)を紹介。
オードリーが亡くなった時は、表紙以外はマットコート紙になっていた「ロードショー」ですけど、この時はまだグラビアでツルツルのコート紙をたっぷり使ってます。
なので発行から50年経ってる今見てもまだカラーは綺麗。
なんで今、劣化・変色していくマットコート紙がメインで使われているのか、全然わかりません。表面が凸凹した上質紙は論外。
「SCREEN」やオードリーの写真集なんかでもマットコート紙ですもんね。
きっと今発売される本の方が、30年前の本より早く劣化していくと思います。
僕がオードリーの写真集を出すなら、絶対の絶対にコート紙を使いますとも!
さて、表紙はキャサリン・ロス。70年代にとても人気のあった女優さんですね。垂れ目がめっちゃキュートでした。
でも結局代表作って60年代の「卒業」と「明日に向かって撃て!」だったような…。
今回の紹介は「戦争と平和」のリバイバル紹介がメイン…のはずなんですが、実は違うんです!
もっとスゴいオードリーのページがあるんです!
この時期の「ロードショー」は最初に分厚めのコート紙でカラーグラビアが始まって、途中からちょっと薄めのコート紙に変わります。
オードリーはその薄めに変わった最初に、7ページを使って特集されてます。
まずはジバンシィの「ランテルディ」が発売された時の宣伝写真の別ショット。
ジバンシィの宣伝で使われるくらいですから、もちろん衣装もジバンシィなんでしょう。
香水「ランテルディ」は、香りが製作されたのは1957年ですけど、一般に市販されたのは「マイ・フェア・レディ」の頃。
それまではオードリー以外には“禁止(ランテルディ)”された香りだったわけですね。
この写真も62年か63年に撮られたものでしたっけ。62年というと「パリで一緒に」「シャレード」を撮影して、63年は「マイ・フェア・レディ」を撮影してましたね。この写真も「マイ・フェア・レディ」の雰囲気が漂います。
その次も「マイ・フェア・レディ」の頃、その次は「ティファニーで朝食を」の宣伝写真、めくって2ページは「シャレード」「マイ・フェア・レディ」の頃の写真、そして「ティファニーで朝食を」の頃の宣伝写真×2と続きます。
いやー、こんなのやってくれちゃったら、絶対買うでしょーっ!
この時期の「ロードショー」って本当にスゴイ!カラーの印刷も綺麗だしね。
もしこの時期に中学生くらいで映画雑誌を買ってたとしたら、「スクリーン」と「ロードショー」、どっちを買うか毎月悩んでいたと思います。
どっちも捨てがたい!でも中学生くらいのお小遣いでは両方買うのは難しいですしね。
でもオードリーの画像の2枚目と4枚目のは裏焼きですね(赤いノースリーブで手を組んでいるのと、白い帽子のスーツを着ている画像)。
鼻が逆向きになってるし、赤いスーツのはレディースなのに、前ボタンが逆になってるでしょ?
赤いノースリーブの画像は、「カタログ オードリー・ヘプバーン」で正向きで収録されています。
「ティファニーで朝食を」のアップのは、本当にオードリーが嫌いな右側から撮らせています。「ティファニーで朝食を」と「パリで一緒に」の時期だけ、右側からを撮影を許可している画像があるんですよね。なんででしょうね。
でもやっぱりお鼻がこちら側からだと綺麗さが減っちゃいますね。
文章では、“50年代後半から60年代をへて現在まで、最も人気の高いスター女優として生き残っていることは、本当に途方もないこと”だと書かれているのですが、73年当時でこれですから、そこからさらに50年経って、やっぱり最も人気の高い女優なんですからスゴイですよね!
しかも今やそれが日本だけじゃなく、80年代後半にやっとオードリーの凄さを再認識した世界にまで広がって行ってるんですから、完全に唯一無二の大スターになっちゃいましたね。
この号にはサイレント映画時代のスター、バスター・キートンの、「キートンの蒸気船」(1928)、「キートンの鍛冶屋」(1922)のリバイバル紹介も載ってて、それもすっごい古いなーと思うのですが、1973年当時の1922年ですから、まだ50年くらい。
それが今年は70年前の「ローマの休日」をリバイバルなんですから、ホント凄い!
他にはこれもよく言われたことですが、オードリーは街の妖精であるとも書かれています。“「緑の館」のオンディーヌがつまらなかったのは物語の妖精そのものにしたから”と書かれています。
ちょっと役名がこんがらがって間違ってますけど、まあ言いたいことはわかります。
でも僕が思うのは、「緑の館」の失敗って本当に森の妖精にしたからなんでしょうかね?監督の夫メル・ファーラーのせいでは…?
「緑の館」のリーマは “森の妖精のような少女”であって、実際は本当の妖精ではない。
ところが舞台「オンディーヌ」では本当に本物の水の妖精を演じて、その年の舞台で最高の賞のトニー賞を獲ってますよね。
もちろんオードリーのオンディーヌは残されていないので見たことないですけど、妖精役が悪いわけではないのでは?と思うのですよね。
舞台独特の演技と違って、リアルさを求められる映画での妖精という役で、CGや特撮の発達していない50年代で観客に納得させられるのか、という問題はあるのですが(当時舞台で大ヒットだった「オンディーヌ」の映画化に、映画会社が揃って尻込みしたのはまさにこの点だっただろうと思います)、監督が他の巨匠の誰かであったならば、もっと違う結果になったのでは?と思うのですよね。
他にもオードリーが流行らせたもののことが書いてあります。「ローマの休日」から“ヘプバーン・カット”、「麗しのサブリナ」から“サブリナ・シューズ”と“トレアドル・パンツ”、「昼下りの情事」から真ん中分けのボブ・スタイル、「ティファニーで朝食を」では部分的に染めた髪とヘアスタイル、など。
“トレアドル・パンツ”のことは“サブリナ・パンツ”と書かれていませんね。「昼下りの情事」の髪型もページボーイと言われていました。
「ティファニーで朝食を」のような部分染めは今はポイントカラーと言うそうですね。
それと、今では「ローマの休日」が“ヘプバーン・カット”と言われてますけど、「ローマの休日」の公開は日本では1954年4月ですから、もうその時期に出回っているオードリーの写真はというと、「麗しのサブリナ」も撮影は終了してるし、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の間に撮ったポートレート写真も出回ってるわけですね。
だから当時のオードリーの髪型を真似たい女性が切り抜きを持って行くときには、「ローマの休日」、「麗しのサブリナ」、ポートレート写真が混在してたんだろうと思うんです。
なので、当時の“ヘプバーン・カット”が流行ったのは「ローマの休日」からだということは否定はしませんが、髪型は実は世の中に混在していた、と思います。
実際、「ローマの休日」のパンフレットでも表紙の写真はポートレート写真のものがあって、「ローマの休日」の髪型とは違いますしね。
なので、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の間に撮られたポートレート写真は、パラマウントの公式のものでも「ローマの休日」と言われたり、「麗しのサブリナ」になってたりと定まっていません。
それと、オードリーにはラテン的なものが一番縁遠いように思われるのにパリを舞台にした話が多いのは、パリに住んでいる人のパリではなく、映画が作り出した途方もなく美しいパリ、パリ的すぎるパリにピッタリと合っているからでしょうと書かれています。
確かに、他の本で見たんですけど、当時のフランスの女優さんと並ぶとオードリーってフランスの感じがないんですよね。
ところが他のアメリカの女優さんと並ぶと思いっきりヨーロッパ、それもパリ的な感じ。
アメリカ人の見たパリジェンヌ、人間の街の妖精、にハマるオードリーって、なんか作り物っぽい役が似合うのか?と思いますけど、作り物じゃなくて血を通わせ、夢や憧れにしてしまうのがオードリー・マジック。
それにオードリーの役は当時の他の女優さんよりよっぽど自分を持って主張する重要な女性の役ばかりですよね。
同時期に活躍した、金髪で色気のある女性はちょっとおバカって役のマリリン・モンローや、作家 橋本治氏によると「美人は何もしなくてもいい。そこにいてくれるだけで。」を実践してたような役のグレース・ケリーを考えると、それらの当時の男性が考えるステレオタイプのお飾り女性の役に比較すると、オードリーの役の自分から動く女性ってのがいかに当時貴重であったかがわかります。
マリリン・モンローはそんな役ばかりやらされるのがイヤで演劇学校に行って演技を勉強しますし、グレース・ケリーは与えられたお飾りの役を拒否すると会社から給料停止の処分を受けたりしてます。
そんな中オードリーは自分の選んだ役だけを演じてこれた、というのは恵まれてたんですよねー。
だって、当時の脚本家ってほぼ男性ですよ。オードリー作品で女性が脚本を書いたのは「緑の館」くらい。でもそれも原作は男性ですしね。
そんな男に都合のいい女の役がほとんどの時代の中で、男性に媚びることなく対等に付き合う女性を演じられた、というのはオードリーにとって非常に幸運なことだったと思います。
でも、“それってむしろ女尊男卑やん”というような主義主張だけのウザイ女性というわけでもなく、綺麗なカラーで柔らかい素材のドレスも着て、女性としての特権も最大限に楽しんでいる、という女性なんですよね。
今年また「午前十時の映画祭」で上映された「マイ・フェア・レディ」も、見た人の中に“最後、ヒギンズの所に戻って行くのが理解できなかった”って意見もよく見かけましたが、それも映画の中で選び取っているのはイライザの方ですしね。
ヒギンズは結局イライザに選んでもらうまで何もできなかった、ということですし。
なので今の女性が見ても、“何、この役!”って不満に思われない普遍的な役を多く演じてたから、今までずっと愛されてきたってこともあるんじゃないでしょうか。
とまあ、また例によって脱線しましたけど、次のオードリーが「戦争と平和」のグラビア紹介。
当時はレイアウトも同じ月の「スクリーン」より「ロードショー」の方がやっぱりオシャレ。
ここでは「戦争と平和」は9月公開ってなってますが、8月25日から前倒しで公開されたということは、その前に丸の内ピカデリーで公開していた1973年版の「トム・ソーヤーの冒険」っていう70mmのミュージカル映画がコケたんでしょうね。
「ウエスト・サイド物語」「マイ・フェア・レディ」「サウンド・オブ・ミュージック」と70mm大作のミュージカルが特大ヒットしたせいで、柳の下のドジョウ狙いで当時は続々と高予算をかけて70mm大作のミュージカルが製作されました。
が、その後はことごとくコケていってますので、「トム・ソーヤーの冒険」ももう時期的には最後に近い、本当に虚しい一打だったのでしょうね。日本版Wikipediaには単独の映画の項目も無いですし、かろうじて原作の「トム・ソーヤーの冒険」のところに1行記述があるだけです。
そんな中でオードリーの「戦争と平和」は安定して稼げる映画だったのだと思います。
映画のストーリーは後ろの上質紙のページに乗っています。
次のオードリーは、「ロードショー」では年1の人気投票とは別に、毎月やっていた方の人気投票の結果のページ。
今月号のオードリーは先月の2位から上がって1位になっています。2位は先月1位だったナタリー・ドロン。
今月号には映画監督のシリーズで、テレンス・ヤング監督のことも書かれているのですが、それまでは007シリーズや「暗くなるまで待って」などで良作・ヒット作を撮っていたヤング監督で、「暗くなるまで待って」のこともちょこっと書かれています。
で、ここで語られているこれまでの失敗作というのがオードリーの元夫のメル・ファーラーも関わった「うたかたの恋」だそうです。
でもこれ以降のヤング監督は、完成したばかりだという「アマゾネス」から内容的にもひどい作品が多く、ヒットからも遠ざかってしまいましたね。
上質紙のページでは芳賀書店のシネアルバムの宣伝が乗っていますね。ここでオードリーの小さい写真も。
73年だから、まだ発行している巻数は16巻のクリント・イーストウッドまで。9月にヴィヴィアン・リーが刊行予定です。
この号での最後のオードリーは、昭和29年(1954年)の日本での洋画界を語る河上英一さんという方の “懐かしの名画ライブラリー 妖精オードリーを生んだ「ローマの休日」”という文章。
最初に昭和29年に何があったかということで、いいことは全く書かれずに、惨事や大事件が語られています。これだけ読むと、1954年が怖くなりますね。
映画界では入場税が地方税から国税になって、入場料が値下げしたそうです。また、前年(53年)年末に公開された「聖衣」から始まったシネマスコープですが、54年年末には上映できる映画館が全国で30館になったそう。
1954年に公開された洋画は136本だったそうです。
「ローマの休日」に関しては、ウィリアム・ワイラー監督にしては小品だが、ロマンティックな雰囲気の中で人生の哀歓別離が甘く描かれた優れた映画であったとが述べられています。
また「ローマの休日」がケタ違いのヒットを飛ばしたこと、後続作品の都合で38日間しか興行できなかったが、1日平均8568人観客を動員して、断然他の追随を許さなかったことが書かれています(年間第1位ヒット)。
「ローマの休日」は1日6回上映ですから、1回の上映で平均1428人来たことになりますね。上映した日比谷映劇の座席数は1370席ですから、ほぼいつ見に行っても立ち見ありの状態。席は争奪戦です。
気になる後続作品ってなんやろ?って思って調べると、フレッド・ジンネマン監督の「山河遥かなり」でした。
でもこの時期の公開らしい15日で上映を終えています。
もしかしてそれ以降の作品が押してたのかな?とさらに調べると、「陽気なドン・カミロ」14日間、「忘れじの面影」10日間、「スミス都へ行く」13日間とどれも短期間で終了しています。
さらにその次の「恐怖の報酬」(年間第8位)が27日間で好調だったくらいですかね。
ずっとお客が減らなかった「ローマの休日」の上映を止めてまで上映しないといけなかったのかな?と疑問に思いますね。
今はすっかり忘れ去られていて、そんなにヒットしたように思えない作品なのに、各作品1ヶ月くらいずっと上映してる有楽座に後続作品なんて振っちゃえばいいのに!と思います。
同じ東宝系の劇場なのに、融通は利かなかったんでしょうかね?
まあ当時は各劇場に劇場支配人がいたので、劇場のプライドもあり、そんな簡単に交換とかできなかったのかもしれません。
本当にこの当時は今と上映の方法が違いますね。まあそれが面白いんですけど。
結局この1954年に日比谷映画劇場で公開された作品で上映期間が1ヶ月を超えたのは、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」(年間第4位)35日間だけでした。
他に有名どころでは「素晴らしき哉人生!」9日間、「第十七捕虜収容所」10日間、「モガンボ」(年間第9位)18日間、「巨象の道」18日間などがあるんですが、名作と言われていてもたったそれだけの日数で次の作品に!?とびっくりします。
ホント、当時は行ける時に行って見とかないと、すぐに次の作品になってしまいますよね。
オードリーは以上ですが、「ロードショー」の読者ページの質の低さは相変わらず。
ここでも、先月のある読者が書いていた自分の好きなスターを上げて、他のスターをけなす、という文章に怒った、下げられたスターのファンがまた反撃するといういつもながらの醜い争い。
正直読む気がしませんし、こんな低レベルのハガキを載せる「ロードショー」のこのページ担当の編集者の考えも疑問です。
編集者が争いの元になるハガキを最初に載せなきゃいいだけなのにね。大会社集英社の編集者としての矜持はないのでしょうか?
こんなのが楽しいの?という、明らかに今なら絶対掲載不可の文章が平気で載っています。
この点では圧倒的に「スクリーン」の方が常識と節度があったんだと思います。
奥付のあるページで今月号は劇場巡りの2回目として日比谷にあった有楽座が紹介されています。
座席数は1531席、入場最高記録は1962年12月18日、「モダン・タイムス」で17137人(深夜興行含む)だったそうです。
有楽座はオードリー作品では「緑の館」「マイ・フェア・レディ」でお世話になってますね。60年代前半には70mm上映ができる数少ない劇場だったので「マイ・フェア・レディ」はわかるとして、なぜ「緑の館」が?と昔は思っていました。
でも「緑の館」は今1番主流のパナビジョンではおそらく1番最初に公開された作品(撮影は「ベン・ハー」が最初に始まったと思うけど、撮影終了も公開も「緑の館」の方が先。)。
アスペクト比はシネマスコープとほぼ同じですから、大画面の有楽座が必要だったのでしょうね。
映画パンフレットもあるので、ぜひ皆さん劇場で買ってみてくださいねー。
はい、今日は「戦争と平和」が1973年8月25日にリバイバルされてからちょうど50年になります。10月26日まで9週も続映したことなんかはこないだの「スクリーン」の1973年10月号で書きましたんで、今回はそのライバル誌、「ロードショー」の1973年10月号(8月21日発売)を紹介。
オードリーが亡くなった時は、表紙以外はマットコート紙になっていた「ロードショー」ですけど、この時はまだグラビアでツルツルのコート紙をたっぷり使ってます。
なので発行から50年経ってる今見てもまだカラーは綺麗。
なんで今、劣化・変色していくマットコート紙がメインで使われているのか、全然わかりません。表面が凸凹した上質紙は論外。
「SCREEN」やオードリーの写真集なんかでもマットコート紙ですもんね。
きっと今発売される本の方が、30年前の本より早く劣化していくと思います。
僕がオードリーの写真集を出すなら、絶対の絶対にコート紙を使いますとも!
さて、表紙はキャサリン・ロス。70年代にとても人気のあった女優さんですね。垂れ目がめっちゃキュートでした。
でも結局代表作って60年代の「卒業」と「明日に向かって撃て!」だったような…。
今回の紹介は「戦争と平和」のリバイバル紹介がメイン…のはずなんですが、実は違うんです!
もっとスゴいオードリーのページがあるんです!
この時期の「ロードショー」は最初に分厚めのコート紙でカラーグラビアが始まって、途中からちょっと薄めのコート紙に変わります。
オードリーはその薄めに変わった最初に、7ページを使って特集されてます。
まずはジバンシィの「ランテルディ」が発売された時の宣伝写真の別ショット。
ジバンシィの宣伝で使われるくらいですから、もちろん衣装もジバンシィなんでしょう。
香水「ランテルディ」は、香りが製作されたのは1957年ですけど、一般に市販されたのは「マイ・フェア・レディ」の頃。
それまではオードリー以外には“禁止(ランテルディ)”された香りだったわけですね。
この写真も62年か63年に撮られたものでしたっけ。62年というと「パリで一緒に」「シャレード」を撮影して、63年は「マイ・フェア・レディ」を撮影してましたね。この写真も「マイ・フェア・レディ」の雰囲気が漂います。
その次も「マイ・フェア・レディ」の頃、その次は「ティファニーで朝食を」の宣伝写真、めくって2ページは「シャレード」「マイ・フェア・レディ」の頃の写真、そして「ティファニーで朝食を」の頃の宣伝写真×2と続きます。
いやー、こんなのやってくれちゃったら、絶対買うでしょーっ!
この時期の「ロードショー」って本当にスゴイ!カラーの印刷も綺麗だしね。
もしこの時期に中学生くらいで映画雑誌を買ってたとしたら、「スクリーン」と「ロードショー」、どっちを買うか毎月悩んでいたと思います。
どっちも捨てがたい!でも中学生くらいのお小遣いでは両方買うのは難しいですしね。
でもオードリーの画像の2枚目と4枚目のは裏焼きですね(赤いノースリーブで手を組んでいるのと、白い帽子のスーツを着ている画像)。
鼻が逆向きになってるし、赤いスーツのはレディースなのに、前ボタンが逆になってるでしょ?
赤いノースリーブの画像は、「カタログ オードリー・ヘプバーン」で正向きで収録されています。
「ティファニーで朝食を」のアップのは、本当にオードリーが嫌いな右側から撮らせています。「ティファニーで朝食を」と「パリで一緒に」の時期だけ、右側からを撮影を許可している画像があるんですよね。なんででしょうね。
でもやっぱりお鼻がこちら側からだと綺麗さが減っちゃいますね。
文章では、“50年代後半から60年代をへて現在まで、最も人気の高いスター女優として生き残っていることは、本当に途方もないこと”だと書かれているのですが、73年当時でこれですから、そこからさらに50年経って、やっぱり最も人気の高い女優なんですからスゴイですよね!
しかも今やそれが日本だけじゃなく、80年代後半にやっとオードリーの凄さを再認識した世界にまで広がって行ってるんですから、完全に唯一無二の大スターになっちゃいましたね。
この号にはサイレント映画時代のスター、バスター・キートンの、「キートンの蒸気船」(1928)、「キートンの鍛冶屋」(1922)のリバイバル紹介も載ってて、それもすっごい古いなーと思うのですが、1973年当時の1922年ですから、まだ50年くらい。
それが今年は70年前の「ローマの休日」をリバイバルなんですから、ホント凄い!
他にはこれもよく言われたことですが、オードリーは街の妖精であるとも書かれています。“「緑の館」のオンディーヌがつまらなかったのは物語の妖精そのものにしたから”と書かれています。
ちょっと役名がこんがらがって間違ってますけど、まあ言いたいことはわかります。
でも僕が思うのは、「緑の館」の失敗って本当に森の妖精にしたからなんでしょうかね?監督の夫メル・ファーラーのせいでは…?
「緑の館」のリーマは “森の妖精のような少女”であって、実際は本当の妖精ではない。
ところが舞台「オンディーヌ」では本当に本物の水の妖精を演じて、その年の舞台で最高の賞のトニー賞を獲ってますよね。
もちろんオードリーのオンディーヌは残されていないので見たことないですけど、妖精役が悪いわけではないのでは?と思うのですよね。
舞台独特の演技と違って、リアルさを求められる映画での妖精という役で、CGや特撮の発達していない50年代で観客に納得させられるのか、という問題はあるのですが(当時舞台で大ヒットだった「オンディーヌ」の映画化に、映画会社が揃って尻込みしたのはまさにこの点だっただろうと思います)、監督が他の巨匠の誰かであったならば、もっと違う結果になったのでは?と思うのですよね。
他にもオードリーが流行らせたもののことが書いてあります。「ローマの休日」から“ヘプバーン・カット”、「麗しのサブリナ」から“サブリナ・シューズ”と“トレアドル・パンツ”、「昼下りの情事」から真ん中分けのボブ・スタイル、「ティファニーで朝食を」では部分的に染めた髪とヘアスタイル、など。
“トレアドル・パンツ”のことは“サブリナ・パンツ”と書かれていませんね。「昼下りの情事」の髪型もページボーイと言われていました。
「ティファニーで朝食を」のような部分染めは今はポイントカラーと言うそうですね。
それと、今では「ローマの休日」が“ヘプバーン・カット”と言われてますけど、「ローマの休日」の公開は日本では1954年4月ですから、もうその時期に出回っているオードリーの写真はというと、「麗しのサブリナ」も撮影は終了してるし、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の間に撮ったポートレート写真も出回ってるわけですね。
だから当時のオードリーの髪型を真似たい女性が切り抜きを持って行くときには、「ローマの休日」、「麗しのサブリナ」、ポートレート写真が混在してたんだろうと思うんです。
なので、当時の“ヘプバーン・カット”が流行ったのは「ローマの休日」からだということは否定はしませんが、髪型は実は世の中に混在していた、と思います。
実際、「ローマの休日」のパンフレットでも表紙の写真はポートレート写真のものがあって、「ローマの休日」の髪型とは違いますしね。
なので、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の間に撮られたポートレート写真は、パラマウントの公式のものでも「ローマの休日」と言われたり、「麗しのサブリナ」になってたりと定まっていません。
それと、オードリーにはラテン的なものが一番縁遠いように思われるのにパリを舞台にした話が多いのは、パリに住んでいる人のパリではなく、映画が作り出した途方もなく美しいパリ、パリ的すぎるパリにピッタリと合っているからでしょうと書かれています。
確かに、他の本で見たんですけど、当時のフランスの女優さんと並ぶとオードリーってフランスの感じがないんですよね。
ところが他のアメリカの女優さんと並ぶと思いっきりヨーロッパ、それもパリ的な感じ。
アメリカ人の見たパリジェンヌ、人間の街の妖精、にハマるオードリーって、なんか作り物っぽい役が似合うのか?と思いますけど、作り物じゃなくて血を通わせ、夢や憧れにしてしまうのがオードリー・マジック。
それにオードリーの役は当時の他の女優さんよりよっぽど自分を持って主張する重要な女性の役ばかりですよね。
同時期に活躍した、金髪で色気のある女性はちょっとおバカって役のマリリン・モンローや、作家 橋本治氏によると「美人は何もしなくてもいい。そこにいてくれるだけで。」を実践してたような役のグレース・ケリーを考えると、それらの当時の男性が考えるステレオタイプのお飾り女性の役に比較すると、オードリーの役の自分から動く女性ってのがいかに当時貴重であったかがわかります。
マリリン・モンローはそんな役ばかりやらされるのがイヤで演劇学校に行って演技を勉強しますし、グレース・ケリーは与えられたお飾りの役を拒否すると会社から給料停止の処分を受けたりしてます。
そんな中オードリーは自分の選んだ役だけを演じてこれた、というのは恵まれてたんですよねー。
だって、当時の脚本家ってほぼ男性ですよ。オードリー作品で女性が脚本を書いたのは「緑の館」くらい。でもそれも原作は男性ですしね。
そんな男に都合のいい女の役がほとんどの時代の中で、男性に媚びることなく対等に付き合う女性を演じられた、というのはオードリーにとって非常に幸運なことだったと思います。
でも、“それってむしろ女尊男卑やん”というような主義主張だけのウザイ女性というわけでもなく、綺麗なカラーで柔らかい素材のドレスも着て、女性としての特権も最大限に楽しんでいる、という女性なんですよね。
今年また「午前十時の映画祭」で上映された「マイ・フェア・レディ」も、見た人の中に“最後、ヒギンズの所に戻って行くのが理解できなかった”って意見もよく見かけましたが、それも映画の中で選び取っているのはイライザの方ですしね。
ヒギンズは結局イライザに選んでもらうまで何もできなかった、ということですし。
なので今の女性が見ても、“何、この役!”って不満に思われない普遍的な役を多く演じてたから、今までずっと愛されてきたってこともあるんじゃないでしょうか。
とまあ、また例によって脱線しましたけど、次のオードリーが「戦争と平和」のグラビア紹介。
当時はレイアウトも同じ月の「スクリーン」より「ロードショー」の方がやっぱりオシャレ。
ここでは「戦争と平和」は9月公開ってなってますが、8月25日から前倒しで公開されたということは、その前に丸の内ピカデリーで公開していた1973年版の「トム・ソーヤーの冒険」っていう70mmのミュージカル映画がコケたんでしょうね。
「ウエスト・サイド物語」「マイ・フェア・レディ」「サウンド・オブ・ミュージック」と70mm大作のミュージカルが特大ヒットしたせいで、柳の下のドジョウ狙いで当時は続々と高予算をかけて70mm大作のミュージカルが製作されました。
が、その後はことごとくコケていってますので、「トム・ソーヤーの冒険」ももう時期的には最後に近い、本当に虚しい一打だったのでしょうね。日本版Wikipediaには単独の映画の項目も無いですし、かろうじて原作の「トム・ソーヤーの冒険」のところに1行記述があるだけです。
そんな中でオードリーの「戦争と平和」は安定して稼げる映画だったのだと思います。
映画のストーリーは後ろの上質紙のページに乗っています。
次のオードリーは、「ロードショー」では年1の人気投票とは別に、毎月やっていた方の人気投票の結果のページ。
今月号のオードリーは先月の2位から上がって1位になっています。2位は先月1位だったナタリー・ドロン。
今月号には映画監督のシリーズで、テレンス・ヤング監督のことも書かれているのですが、それまでは007シリーズや「暗くなるまで待って」などで良作・ヒット作を撮っていたヤング監督で、「暗くなるまで待って」のこともちょこっと書かれています。
で、ここで語られているこれまでの失敗作というのがオードリーの元夫のメル・ファーラーも関わった「うたかたの恋」だそうです。
でもこれ以降のヤング監督は、完成したばかりだという「アマゾネス」から内容的にもひどい作品が多く、ヒットからも遠ざかってしまいましたね。
上質紙のページでは芳賀書店のシネアルバムの宣伝が乗っていますね。ここでオードリーの小さい写真も。
73年だから、まだ発行している巻数は16巻のクリント・イーストウッドまで。9月にヴィヴィアン・リーが刊行予定です。
この号での最後のオードリーは、昭和29年(1954年)の日本での洋画界を語る河上英一さんという方の “懐かしの名画ライブラリー 妖精オードリーを生んだ「ローマの休日」”という文章。
最初に昭和29年に何があったかということで、いいことは全く書かれずに、惨事や大事件が語られています。これだけ読むと、1954年が怖くなりますね。
映画界では入場税が地方税から国税になって、入場料が値下げしたそうです。また、前年(53年)年末に公開された「聖衣」から始まったシネマスコープですが、54年年末には上映できる映画館が全国で30館になったそう。
1954年に公開された洋画は136本だったそうです。
「ローマの休日」に関しては、ウィリアム・ワイラー監督にしては小品だが、ロマンティックな雰囲気の中で人生の哀歓別離が甘く描かれた優れた映画であったとが述べられています。
また「ローマの休日」がケタ違いのヒットを飛ばしたこと、後続作品の都合で38日間しか興行できなかったが、1日平均8568人観客を動員して、断然他の追随を許さなかったことが書かれています(年間第1位ヒット)。
「ローマの休日」は1日6回上映ですから、1回の上映で平均1428人来たことになりますね。上映した日比谷映劇の座席数は1370席ですから、ほぼいつ見に行っても立ち見ありの状態。席は争奪戦です。
気になる後続作品ってなんやろ?って思って調べると、フレッド・ジンネマン監督の「山河遥かなり」でした。
でもこの時期の公開らしい15日で上映を終えています。
もしかしてそれ以降の作品が押してたのかな?とさらに調べると、「陽気なドン・カミロ」14日間、「忘れじの面影」10日間、「スミス都へ行く」13日間とどれも短期間で終了しています。
さらにその次の「恐怖の報酬」(年間第8位)が27日間で好調だったくらいですかね。
ずっとお客が減らなかった「ローマの休日」の上映を止めてまで上映しないといけなかったのかな?と疑問に思いますね。
今はすっかり忘れ去られていて、そんなにヒットしたように思えない作品なのに、各作品1ヶ月くらいずっと上映してる有楽座に後続作品なんて振っちゃえばいいのに!と思います。
同じ東宝系の劇場なのに、融通は利かなかったんでしょうかね?
まあ当時は各劇場に劇場支配人がいたので、劇場のプライドもあり、そんな簡単に交換とかできなかったのかもしれません。
本当にこの当時は今と上映の方法が違いますね。まあそれが面白いんですけど。
結局この1954年に日比谷映画劇場で公開された作品で上映期間が1ヶ月を超えたのは、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」(年間第4位)35日間だけでした。
他に有名どころでは「素晴らしき哉人生!」9日間、「第十七捕虜収容所」10日間、「モガンボ」(年間第9位)18日間、「巨象の道」18日間などがあるんですが、名作と言われていてもたったそれだけの日数で次の作品に!?とびっくりします。
ホント、当時は行ける時に行って見とかないと、すぐに次の作品になってしまいますよね。
オードリーは以上ですが、「ロードショー」の読者ページの質の低さは相変わらず。
ここでも、先月のある読者が書いていた自分の好きなスターを上げて、他のスターをけなす、という文章に怒った、下げられたスターのファンがまた反撃するといういつもながらの醜い争い。
正直読む気がしませんし、こんな低レベルのハガキを載せる「ロードショー」のこのページ担当の編集者の考えも疑問です。
編集者が争いの元になるハガキを最初に載せなきゃいいだけなのにね。大会社集英社の編集者としての矜持はないのでしょうか?
こんなのが楽しいの?という、明らかに今なら絶対掲載不可の文章が平気で載っています。
この点では圧倒的に「スクリーン」の方が常識と節度があったんだと思います。
奥付のあるページで今月号は劇場巡りの2回目として日比谷にあった有楽座が紹介されています。
座席数は1531席、入場最高記録は1962年12月18日、「モダン・タイムス」で17137人(深夜興行含む)だったそうです。
有楽座はオードリー作品では「緑の館」「マイ・フェア・レディ」でお世話になってますね。60年代前半には70mm上映ができる数少ない劇場だったので「マイ・フェア・レディ」はわかるとして、なぜ「緑の館」が?と昔は思っていました。
でも「緑の館」は今1番主流のパナビジョンではおそらく1番最初に公開された作品(撮影は「ベン・ハー」が最初に始まったと思うけど、撮影終了も公開も「緑の館」の方が先。)。
アスペクト比はシネマスコープとほぼ同じですから、大画面の有楽座が必要だったのでしょうね。
2023年08月18日
「ローマの休日」4Kレストア版パンフレットが発売されます
さて、リバイバルまであと1週間となりましたが、TCエンタテインメントさんからの情報です。
今回のリバイバルで、嬉しいことに映画パンフレットが発売されます。
オードリーの映画パンフレットは2014年1月4日「マイヤーリング」公開時以来の約10年ぶりとなりますね。
今回いただいた画像は本物ではなく、バリバリデジタルで作ったイメージ画像だとわかっちゃいますよね。
「70年にわたって愛されつづける不朽の名作の魅力を専門家らが詳細に解説。
また、2022年に新録吹替版でオードリーを演じた声優・早見沙織のスペシャル・インタビューも収録。」
だそうです。まあ専門家の人選がどんなもんかってのはわかりませんけど、加藤タキさんや池田昌子さんなら嬉しいですが、吉村英夫氏や立川志らく氏や有村昆氏などだったらガッカリですね。
でも昔のようなしっかりした映画評論家さんというものがほぼ絶滅しているので、あまり期待できなさそうです。
内容もおかしなことばかり書いてたらどうしよう…と思っちゃいます。
もうおかしなことを書いていても、それを判断できる人もご存命ではないでしょうし…。
今回、このパンフレットの情報も、本日の12時に情報解禁、と縛りがあったのですが、リバイバル作品でそんな縛り要るのかなーと疑問。
リバイバルって、使用できる画像や情報が非常に乏しいんですよね。
むしろリバイバルするよって認知度を上げるために、早め早めに情報を出したほうがいいのでは?と思っちゃいます。
実は10日解禁で、著名人による推薦コメントってのもいただいてたんですけど、加藤タキさんと池田昌子さんはともかく、それ以外の人が一体オードリーや「ローマの休日」とどんな関係が?と思ってここでも紹介しなかったんですが、ほかのネットでも紹介したのは「SCREEN Online」だけのようでした。
今回のパンフレット発売しますよーって情報もそうなんですけど、ニュースとして紹介するにはあまりにも弱い内容なんですよね。
もうちょっとパンチのある情報が欲しいです。
パンフレットは表紙に画像は一切無しですね。これも使用できる画像の数に限りがあるのかな?と思っちゃいます。
値段は今回知らせていただけませんでしたが、最近のパンフレットって1000円くらいするんですね!
500円くらいの時代までしか知らなかったので、そりゃ若い人たちは買わないよねーって思います。
「マイヤーリング」のパンフレットは、貴重な写真のオンパレードで、「マイヤーリング」写真集の役目を果たしていましたが、今回の「ローマの休日」パンフレットはどうでしょうね。
追記:おっ!実はもっと詳しい情報を送ってくださってました。以下追加です。
B5判 カラー /モノクロ 52P 1,500 円(ちょっと高い? )
編集 :近代映画社 SCREEN編集部
発行 :『ローマの休日 4K』配給委員会
内容:『ローマの休日 製作70 周年 4K レストア版』パンフレット コンテンツ
●ブレイク前夜のオードリー 清藤秀人
●アン王女という女性像 山崎まどか
●ロマンス映画としての『ローマの休日』LiLiCo
●グレゴリー・ペックのダンディズム 井上健一
●アン王女とオードリー・ヘプバーンの親和性 真琴つばさ
●声優:早見沙織スペシャル・インタビュー
●『ローマの休日』ファッション考 児玉美月
●脚本家、ダルトン・トランボとは 藤えりか
●『ローマの休日』が私たちに教えてくれた映画の楽しさ 永千絵
●吹替で見る『ローマの休日』とり・みき
●コメント:加藤タキ・マイコ・白澤貴子・伊藤さとり・池田昌子
●ロケ地MAP
ほか
だそうです。
今回のリバイバルで、嬉しいことに映画パンフレットが発売されます。
オードリーの映画パンフレットは2014年1月4日「マイヤーリング」公開時以来の約10年ぶりとなりますね。
今回いただいた画像は本物ではなく、バリバリデジタルで作ったイメージ画像だとわかっちゃいますよね。
「70年にわたって愛されつづける不朽の名作の魅力を専門家らが詳細に解説。
また、2022年に新録吹替版でオードリーを演じた声優・早見沙織のスペシャル・インタビューも収録。」
だそうです。まあ専門家の人選がどんなもんかってのはわかりませんけど、加藤タキさんや池田昌子さんなら嬉しいですが、吉村英夫氏や立川志らく氏や有村昆氏などだったらガッカリですね。
でも昔のようなしっかりした映画評論家さんというものがほぼ絶滅しているので、あまり期待できなさそうです。
内容もおかしなことばかり書いてたらどうしよう…と思っちゃいます。
もうおかしなことを書いていても、それを判断できる人もご存命ではないでしょうし…。
今回、このパンフレットの情報も、本日の12時に情報解禁、と縛りがあったのですが、リバイバル作品でそんな縛り要るのかなーと疑問。
リバイバルって、使用できる画像や情報が非常に乏しいんですよね。
むしろリバイバルするよって認知度を上げるために、早め早めに情報を出したほうがいいのでは?と思っちゃいます。
実は10日解禁で、著名人による推薦コメントってのもいただいてたんですけど、加藤タキさんと池田昌子さんはともかく、それ以外の人が一体オードリーや「ローマの休日」とどんな関係が?と思ってここでも紹介しなかったんですが、ほかのネットでも紹介したのは「SCREEN Online」だけのようでした。
今回のパンフレット発売しますよーって情報もそうなんですけど、ニュースとして紹介するにはあまりにも弱い内容なんですよね。
もうちょっとパンチのある情報が欲しいです。
パンフレットは表紙に画像は一切無しですね。これも使用できる画像の数に限りがあるのかな?と思っちゃいます。
値段は今回知らせていただけませんでしたが、最近のパンフレットって1000円くらいするんですね!
500円くらいの時代までしか知らなかったので、そりゃ若い人たちは買わないよねーって思います。
「マイヤーリング」のパンフレットは、貴重な写真のオンパレードで、「マイヤーリング」写真集の役目を果たしていましたが、今回の「ローマの休日」パンフレットはどうでしょうね。
追記:おっ!実はもっと詳しい情報を送ってくださってました。以下追加です。
B5判 カラー /モノクロ 52P 1,500 円(ちょっと高い? )
編集 :近代映画社 SCREEN編集部
発行 :『ローマの休日 4K』配給委員会
内容:『ローマの休日 製作70 周年 4K レストア版』パンフレット コンテンツ
●ブレイク前夜のオードリー 清藤秀人
●アン王女という女性像 山崎まどか
●ロマンス映画としての『ローマの休日』LiLiCo
●グレゴリー・ペックのダンディズム 井上健一
●アン王女とオードリー・ヘプバーンの親和性 真琴つばさ
●声優:早見沙織スペシャル・インタビュー
●『ローマの休日』ファッション考 児玉美月
●脚本家、ダルトン・トランボとは 藤えりか
●『ローマの休日』が私たちに教えてくれた映画の楽しさ 永千絵
●吹替で見る『ローマの休日』とり・みき
●コメント:加藤タキ・マイコ・白澤貴子・伊藤さとり・池田昌子
●ロケ地MAP
ほか
だそうです。
2023年08月14日
「ローマの休日」リバイバル直前「サンデー毎日」1954年7月4日号“ヘップバーン旋風”
さて、「ローマの休日」4K版リバイバルもあとちょっとに迫ってきました。
皆さんはもう観に行かれる予定はたてられましたか?8月25日からですよー。
今回はそんな「ローマの休日」リバイバル応援で1954年発売の週刊 “サンデー毎日”の紹介。
これ、本当は来年紹介しようと思ってたんです。来年は日本公開70周年ですからね。
でもまあ今年正式リバイバルが来ちゃいましたんで、先にやっちゃいます。
で、この “サンデー毎日”1954年7月4日号ですけど、いったい本当はいつ発行されたんでしょうね。
本って、普通の本の奥付も週刊誌や月刊誌の発行日も、本当の発売日じゃなくてだいぶ先のことが書いてあるんで、非常に困ります。
いつからこんな風習が始まったんでしょうね。
さて、この内容は1987年の写真集「AUDREY HIGHNESS &SABRINA」をお持ちの方ならご存知かと思います。付録で縮刷版が載ってましたもんね。
でも87年に買った時は、その縮刷されてものすごく小さな文字も平気で読めたんですけど、いまはかなり苦しい。
スマホで撮影して大きくして読むしかないでしょうね。
さてこの “サンデー毎日”、表紙は薄っぺらいマットコートのような紙。
中身もほとんどがわら半紙的な上質紙で、8ページだけ薄いモノクログラビアが真ん中のページにあります。
本文は上質紙なんでだいぶ黄色く変色してて、スキャナして一所懸命黄色味を取ろうとしたんですけど、うまくいかなくて、一旦グレー化しました。
そしたらコピーしたみたいになって。まあ元からそんなに鮮明ではないのですが。
今回は画像があまり綺麗じゃなくてすみません。
まず表紙をめくると、右は表紙裏の広告、そして左が目次のページ。そこには既に“ヘップバーン旋風 五つの秘密”という題字が。もう巻頭特集が始まっているんですね。
これは公開当時の日比谷映画劇場でしょうか?懐かしい手書きの看板、そしてキャビネや四つ切りなどの写真が展示されているのもわかります。
昭和レトロな映画館そのものの風景ですね。
めくると「この荒稼ぎレコード破り」と大きく書かれていて、最初の見出しの文章では「ローマの休日」が「君の名は」や「七人の侍」を蹴とばして大当たりになった、アメリカでは平凡な成績であった、日本では今「ヘップバーン旋風」が吹きまくっている。ということが書かれています。
そうそう、オードリーの伝記でも書かれていましたが、実は「ローマの休日」はアメリカではそんなに大ヒットしてないんですよね。
もちろんヒットではあるのですが、予想をだいぶ下回ってたそうです。
「ローマの休日」が大ヒットだったのはヨーロッパ、アジア、その中でも特に日本だったんですよね。
日本での大ヒットぶりは「ローマの休日」の制作費の1/3が日本で回収出来たというくらいだったそうですからね。
内容は、まず映画の大ヒットぶりが書かれています。3週の予定だったものが5週と3日になって、洋画の興行記録を作ってしまったこと、大阪でも大ヒットだったこと。ダフ屋が氾濫して300円の指定席が1000円で売られていたこと。
まず今と物価が全然違いますからね。1954年は大卒初任給が8700円くらい。元々の封切館(日比谷映劇)の指定席300円でも今の7000円程度で、映画1本見るには超高額。
今の新宿ピカデリーのプラチナシートやグランドシネマサンシャイン池袋のグランドクラスで約5000円ですからね。
当時は封切館というのがいかに格があったかということですよね。
それがダフ屋で1000円って、今の25000円くらいですよ!ぼったくりもいいとこですね。今の転売ヤーさんと同じですね。
洋画興行の常識として、都市人口の10%が動員可能限界なのに、「ローマの休日」は各地の1番館だけで10%〜23%も来たそうです。
それまで洋画の最高だった「風と共に去りぬ」で東京の封切りで84日で28万6953人だったのに、「ローマの休日」は38日間で32万3885人も動員したそう!
多い日には5月2日で13633人も入ったそうです!再度「AUDREY HIGHNESS &SABRINA」の付録の当時の日比谷映劇の広告を見ると、「ローマの休日」は平日も休日も1日6回上映なので、1回に2272人も入ったことになります!
いくら当時は日比谷映劇が1500人規模の大劇場だったからといって、1回に700人くらい立ち見が出たということになりますね!座席の半分規模じゃないですか!1階2階とも通路や後ろまで人でギッシリだったことでしょうね。
また映画館ではオードリーが髪を着る場面では決まって若い女性の嘆声が聞こえるそうです。
アメリカでは製作費が200万ドルだったのに、純益が100万ドルがやっとの不成績だったと書かれています。オードリーの伝記本などでも300万ドルとよく出て来ますので、当時はアメリカでも配給収入(興行収入から映画館の取り分を引いた額)で成績が出ていましたから、まあそんな感じですよね。興行収入に直すと600万ドル稼げたということになります。
次になぜ日本でこんな記録的ヒットになったのかの分析がされていて、日本人の皇室というものに対する憧れの根強さ、ロマンスと別れものへの人気、そして肉体派女優へのアンチテーゼとしての清純派オードリーが挙げられています。
さらに書かれているのは、“ヘップバーンが美人型のスターではないため、一般女性が親近感をもった”“ヘップバーンの髪型が目新しくジャーナリズムが騒いだため”とも分析されてます。
オードリーが美人型ではない。今の女性ならオードリーが最高の美人という女性も多いんですけど、当時の美人の基準が違いますからね。
当時は作家橋本治氏の言葉を借りると、「エリザベス・テイラーこそ美の基準とする」とされてましたもんね。そりゃオードリー外れますよね。
今の若い子だと、エリザベス・テイラーを見せても美人だと思わない人も多そうですね。“濃い!”で片付けられそう…。
オードリーはいわば自分では意図せずに美の基準を変えた人ですよね。
さて記事に戻って、海外の「タイム」誌、「ライフ」誌のオードリーの最大級の賛辞と取り上げ方を皮切りに、まだオードリーの映画は1本も公開されていないのに新聞や雑誌に取り上げられまくり、53年年末から54年5月末までに東京の主要紙が「ローマの休日」やオードリーの記事を掲載したのはざっと170回。映画雑誌が表紙や特集でオードリーを載せると、売れ行きはてきめんだったそう。
あー、なんかこれ僕も見たことある風景。80年代後半からのブームがそんな感じでしたよね。いろんな雑誌でオードリーの特集が組まれて、オードリーを載せるとめっちゃ売上が上がったとか。93年にオードリーが亡くなってしばらくまでそんな感じで続いてました。
次は「百貨店では禁止令」って見出しで出ています。東京のあるデパートで、「ヘップバーン刈りなどという奇矯な髪型は当社の方針にそぐわないから慎むよう」とお達しがあったとか。
デパートって、当時は流行を生むという勢いのあった所なので、「ローマの休日」が公開されるやあっという間に900人の女性従業員のうち1割が“ヘップバーン刈”になったそう。
それを男性経営陣がおふれを出したため、女性の側から女性の命であるオシャレに干渉するとは!ということで “これはヘップバーン刈を禁止する意味なりや否や”と掛け合ったそう。
それに対する某幹部の意見では「あの髪型がいけないという意味ではないのです。ただ、ああいう髪型はとかく手入れが不十分になり不快な感じをお客様に与えがちなので」とのこと。
お手入れが不十分ってどゆこと?って思いますけど、当時はブローという技術がないので、何でもかんでもパーマ&ピンカール、あるいはカーラー。
その上、50年代は髪の毛を洗うのは1週間に1度みたいな状況ですから(詳しくは「93.『昼下りの情事』と洗髪事情に関して」で)、不十分かどうかは知りませんが、まあ確かに自分で毎日やる手入れが大変なのは間違いないと思います。
映画界でもオードリーの髪型を真似る女優が続出ということで、久我美子さんがオードリーそのままの髪型のほか、淡島千景さん、美空ひばりさん、有馬稲子さんらが“ヘップバーン・スタイル”をご愛用とのことです。
街の生態ってとこでは、“ヘップバーン刈”は公開1ヶ月前の4月初旬には少数ながら見受けられ、封切と同時に堰を切ったように広がったそうです。
しかも昭和らしく、普通は東京から地方への流行は6ヶ月ほどかかるらしいのに、今回は東京と時を同じくして東北や九州でも広がったとのこと。
ここでは何も書かれていませんが、実は「ローマの休日」は全国的に公開が早かったんですよね。東京は4月27日ですけど、佐世保・名古屋・四日市・新潟・広島では東京より早く、甲府・浜松では東京と同時公開、みたいな感じ。
全都道府県の「ローマの休日」公開日を調べていますので、詳しくは「『ローマの休日』記録室」で。
当時は東京のチェーン・マスターの劇場で公開の後、大阪、名古屋の1番館と東京の東宝チェーンや松竹チェーンなどへ。そしてその後当時の政令指定都市の1番館へ、さらに地方の1番館や大都市の2番・3番館へ、さらには地方の2番館へ、みたいな流れでしたから、東京から半年ほど遅れるのは当たり前。
だから「ローマの休日」は異例の速さで地方で公開されたんですよね。
まあそれだから日本で同時にオードリーの髪型が流行ったんですよね。
福島では東京から美容師を招いてヘップバーン刈の講習会が開かれたり、沼津ではヘップバーン刈の美人コンテストが開かれたことも書かれています。
美容師の意見では映画が公開されたのが初夏で、快適なショートカットにしたいと考える季節だった、銀座界隈では10代よりも、20代・30代の女性に好まれている、と答えています。
さらには文化服装学院、ドレスメーカー女子学院、慶応女子高校にアンケートを取っています。
「ローマの休日」をご覧になりましたか?ヘップバーンのヘヤー・スタイルをどうお思いになりますか?ヘップバーンのヘヤー・スタイルはあなたに似合うとお思いですか?あのヘヤー・スタイルを他の人がしてるのをどうお思いですか?
などから、「ローマの休日」とは関係ないことまで質問されています。 なので、その辺は飛ばして…。
最後に身だしなみに気を遣う男性からの意見として、“ヘップバーン嬢の方は髪や襟足の手入れが大変だそうですから、無精なお嬢さんやお金のないお嬢さんには向きません。ただ、こういう流行を追うお嬢さんにケチをつけるジャーナリストがいて、大抵それらは身だしなみに関心を持たない評論家や新聞記者という連中です。新鮮な感覚の女優を見て、及ばずながら髪型だけでも真似したいと思うのは若い女性の心意気というものです。”と述べています。
全体で、ここでは現在言われているような“ヘプバーン・カット”ではなく、“ヘップバーン刈”だの“ヘップバーン・スタイル”などと色々な呼び方で呼ばれているのが当時の空気感を醸し出していますね。
「ローマの休日」初公開当時のもの凄い稼ぎっぷりや、貴重なデータが色々と読める特集でした。
皆さんはもう観に行かれる予定はたてられましたか?8月25日からですよー。
今回はそんな「ローマの休日」リバイバル応援で1954年発売の週刊 “サンデー毎日”の紹介。
これ、本当は来年紹介しようと思ってたんです。来年は日本公開70周年ですからね。
でもまあ今年正式リバイバルが来ちゃいましたんで、先にやっちゃいます。
で、この “サンデー毎日”1954年7月4日号ですけど、いったい本当はいつ発行されたんでしょうね。
本って、普通の本の奥付も週刊誌や月刊誌の発行日も、本当の発売日じゃなくてだいぶ先のことが書いてあるんで、非常に困ります。
いつからこんな風習が始まったんでしょうね。
さて、この内容は1987年の写真集「AUDREY HIGHNESS &SABRINA」をお持ちの方ならご存知かと思います。付録で縮刷版が載ってましたもんね。
でも87年に買った時は、その縮刷されてものすごく小さな文字も平気で読めたんですけど、いまはかなり苦しい。
スマホで撮影して大きくして読むしかないでしょうね。
さてこの “サンデー毎日”、表紙は薄っぺらいマットコートのような紙。
中身もほとんどがわら半紙的な上質紙で、8ページだけ薄いモノクログラビアが真ん中のページにあります。
本文は上質紙なんでだいぶ黄色く変色してて、スキャナして一所懸命黄色味を取ろうとしたんですけど、うまくいかなくて、一旦グレー化しました。
そしたらコピーしたみたいになって。まあ元からそんなに鮮明ではないのですが。
今回は画像があまり綺麗じゃなくてすみません。
まず表紙をめくると、右は表紙裏の広告、そして左が目次のページ。そこには既に“ヘップバーン旋風 五つの秘密”という題字が。もう巻頭特集が始まっているんですね。
これは公開当時の日比谷映画劇場でしょうか?懐かしい手書きの看板、そしてキャビネや四つ切りなどの写真が展示されているのもわかります。
昭和レトロな映画館そのものの風景ですね。
めくると「この荒稼ぎレコード破り」と大きく書かれていて、最初の見出しの文章では「ローマの休日」が「君の名は」や「七人の侍」を蹴とばして大当たりになった、アメリカでは平凡な成績であった、日本では今「ヘップバーン旋風」が吹きまくっている。ということが書かれています。
そうそう、オードリーの伝記でも書かれていましたが、実は「ローマの休日」はアメリカではそんなに大ヒットしてないんですよね。
もちろんヒットではあるのですが、予想をだいぶ下回ってたそうです。
「ローマの休日」が大ヒットだったのはヨーロッパ、アジア、その中でも特に日本だったんですよね。
日本での大ヒットぶりは「ローマの休日」の制作費の1/3が日本で回収出来たというくらいだったそうですからね。
内容は、まず映画の大ヒットぶりが書かれています。3週の予定だったものが5週と3日になって、洋画の興行記録を作ってしまったこと、大阪でも大ヒットだったこと。ダフ屋が氾濫して300円の指定席が1000円で売られていたこと。
まず今と物価が全然違いますからね。1954年は大卒初任給が8700円くらい。元々の封切館(日比谷映劇)の指定席300円でも今の7000円程度で、映画1本見るには超高額。
今の新宿ピカデリーのプラチナシートやグランドシネマサンシャイン池袋のグランドクラスで約5000円ですからね。
当時は封切館というのがいかに格があったかということですよね。
それがダフ屋で1000円って、今の25000円くらいですよ!ぼったくりもいいとこですね。今の転売ヤーさんと同じですね。
洋画興行の常識として、都市人口の10%が動員可能限界なのに、「ローマの休日」は各地の1番館だけで10%〜23%も来たそうです。
それまで洋画の最高だった「風と共に去りぬ」で東京の封切りで84日で28万6953人だったのに、「ローマの休日」は38日間で32万3885人も動員したそう!
多い日には5月2日で13633人も入ったそうです!再度「AUDREY HIGHNESS &SABRINA」の付録の当時の日比谷映劇の広告を見ると、「ローマの休日」は平日も休日も1日6回上映なので、1回に2272人も入ったことになります!
いくら当時は日比谷映劇が1500人規模の大劇場だったからといって、1回に700人くらい立ち見が出たということになりますね!座席の半分規模じゃないですか!1階2階とも通路や後ろまで人でギッシリだったことでしょうね。
また映画館ではオードリーが髪を着る場面では決まって若い女性の嘆声が聞こえるそうです。
アメリカでは製作費が200万ドルだったのに、純益が100万ドルがやっとの不成績だったと書かれています。オードリーの伝記本などでも300万ドルとよく出て来ますので、当時はアメリカでも配給収入(興行収入から映画館の取り分を引いた額)で成績が出ていましたから、まあそんな感じですよね。興行収入に直すと600万ドル稼げたということになります。
次になぜ日本でこんな記録的ヒットになったのかの分析がされていて、日本人の皇室というものに対する憧れの根強さ、ロマンスと別れものへの人気、そして肉体派女優へのアンチテーゼとしての清純派オードリーが挙げられています。
さらに書かれているのは、“ヘップバーンが美人型のスターではないため、一般女性が親近感をもった”“ヘップバーンの髪型が目新しくジャーナリズムが騒いだため”とも分析されてます。
オードリーが美人型ではない。今の女性ならオードリーが最高の美人という女性も多いんですけど、当時の美人の基準が違いますからね。
当時は作家橋本治氏の言葉を借りると、「エリザベス・テイラーこそ美の基準とする」とされてましたもんね。そりゃオードリー外れますよね。
今の若い子だと、エリザベス・テイラーを見せても美人だと思わない人も多そうですね。“濃い!”で片付けられそう…。
オードリーはいわば自分では意図せずに美の基準を変えた人ですよね。
さて記事に戻って、海外の「タイム」誌、「ライフ」誌のオードリーの最大級の賛辞と取り上げ方を皮切りに、まだオードリーの映画は1本も公開されていないのに新聞や雑誌に取り上げられまくり、53年年末から54年5月末までに東京の主要紙が「ローマの休日」やオードリーの記事を掲載したのはざっと170回。映画雑誌が表紙や特集でオードリーを載せると、売れ行きはてきめんだったそう。
あー、なんかこれ僕も見たことある風景。80年代後半からのブームがそんな感じでしたよね。いろんな雑誌でオードリーの特集が組まれて、オードリーを載せるとめっちゃ売上が上がったとか。93年にオードリーが亡くなってしばらくまでそんな感じで続いてました。
次は「百貨店では禁止令」って見出しで出ています。東京のあるデパートで、「ヘップバーン刈りなどという奇矯な髪型は当社の方針にそぐわないから慎むよう」とお達しがあったとか。
デパートって、当時は流行を生むという勢いのあった所なので、「ローマの休日」が公開されるやあっという間に900人の女性従業員のうち1割が“ヘップバーン刈”になったそう。
それを男性経営陣がおふれを出したため、女性の側から女性の命であるオシャレに干渉するとは!ということで “これはヘップバーン刈を禁止する意味なりや否や”と掛け合ったそう。
それに対する某幹部の意見では「あの髪型がいけないという意味ではないのです。ただ、ああいう髪型はとかく手入れが不十分になり不快な感じをお客様に与えがちなので」とのこと。
お手入れが不十分ってどゆこと?って思いますけど、当時はブローという技術がないので、何でもかんでもパーマ&ピンカール、あるいはカーラー。
その上、50年代は髪の毛を洗うのは1週間に1度みたいな状況ですから(詳しくは「93.『昼下りの情事』と洗髪事情に関して」で)、不十分かどうかは知りませんが、まあ確かに自分で毎日やる手入れが大変なのは間違いないと思います。
映画界でもオードリーの髪型を真似る女優が続出ということで、久我美子さんがオードリーそのままの髪型のほか、淡島千景さん、美空ひばりさん、有馬稲子さんらが“ヘップバーン・スタイル”をご愛用とのことです。
街の生態ってとこでは、“ヘップバーン刈”は公開1ヶ月前の4月初旬には少数ながら見受けられ、封切と同時に堰を切ったように広がったそうです。
しかも昭和らしく、普通は東京から地方への流行は6ヶ月ほどかかるらしいのに、今回は東京と時を同じくして東北や九州でも広がったとのこと。
ここでは何も書かれていませんが、実は「ローマの休日」は全国的に公開が早かったんですよね。東京は4月27日ですけど、佐世保・名古屋・四日市・新潟・広島では東京より早く、甲府・浜松では東京と同時公開、みたいな感じ。
全都道府県の「ローマの休日」公開日を調べていますので、詳しくは「『ローマの休日』記録室」で。
当時は東京のチェーン・マスターの劇場で公開の後、大阪、名古屋の1番館と東京の東宝チェーンや松竹チェーンなどへ。そしてその後当時の政令指定都市の1番館へ、さらに地方の1番館や大都市の2番・3番館へ、さらには地方の2番館へ、みたいな流れでしたから、東京から半年ほど遅れるのは当たり前。
だから「ローマの休日」は異例の速さで地方で公開されたんですよね。
まあそれだから日本で同時にオードリーの髪型が流行ったんですよね。
福島では東京から美容師を招いてヘップバーン刈の講習会が開かれたり、沼津ではヘップバーン刈の美人コンテストが開かれたことも書かれています。
美容師の意見では映画が公開されたのが初夏で、快適なショートカットにしたいと考える季節だった、銀座界隈では10代よりも、20代・30代の女性に好まれている、と答えています。
さらには文化服装学院、ドレスメーカー女子学院、慶応女子高校にアンケートを取っています。
「ローマの休日」をご覧になりましたか?ヘップバーンのヘヤー・スタイルをどうお思いになりますか?ヘップバーンのヘヤー・スタイルはあなたに似合うとお思いですか?あのヘヤー・スタイルを他の人がしてるのをどうお思いですか?
などから、「ローマの休日」とは関係ないことまで質問されています。 なので、その辺は飛ばして…。
最後に身だしなみに気を遣う男性からの意見として、“ヘップバーン嬢の方は髪や襟足の手入れが大変だそうですから、無精なお嬢さんやお金のないお嬢さんには向きません。ただ、こういう流行を追うお嬢さんにケチをつけるジャーナリストがいて、大抵それらは身だしなみに関心を持たない評論家や新聞記者という連中です。新鮮な感覚の女優を見て、及ばずながら髪型だけでも真似したいと思うのは若い女性の心意気というものです。”と述べています。
全体で、ここでは現在言われているような“ヘプバーン・カット”ではなく、“ヘップバーン刈”だの“ヘップバーン・スタイル”などと色々な呼び方で呼ばれているのが当時の空気感を醸し出していますね。
「ローマの休日」初公開当時のもの凄い稼ぎっぷりや、貴重なデータが色々と読める特集でした。
2023年08月08日
“スクリーン”1973年10月号 「戦争と平和」リバイバル紹介
さて、今年は「戦争と平和」1973年リバイバルから50年です。
上映は松竹系の劇場で最も格の高い丸の内ピカデリーから全国ロードショー。
当時のもう間もなく、1973年の8月25日から上映開始です。
今年4K版が公開される「ローマの休日」と日付が当たっちゃいましたね。
50年前の8月25日は「戦争と平和」、今年の8月25日は「ローマの休日」。そして奇しくもどちらも丸の内ピカデリー!
1973年リバイバルの「戦争と平和」は、1964年以来の久々のリバイバルだったので、興行成績は好調。9週間続映されました。
前にも書きましたけど、同じ1973年に公開された、ちょっとリバイバルやりすぎの「ローマの休日」(スバル座、306席5週)、「シャレード」(ニュー東宝シネマ2、396席3週)よりも圧倒的に好成績。
しかもそれらよりもずっと大きな1500席クラスの丸の内ピカデリーですからね。73年に関しては「戦争と平和」圧勝ですね。
当時は上映期間4週が普通でしたから、9週というのはいかにヒットしたか、ということですね。
今では影に隠れがちな「戦争と平和」ですけど、当時はれっきとしたオードリーの代表作の1本でした。
さて今回はそんな50年前の「戦争と平和」を紹介する雑誌“スクリーン”の1973年10月号の紹介(発売は8月21日)。
表紙は当時なぜか人気があったナタリー・ドロンです。
でもこの当時の“スクリーン”はスゴイですね!
もうオードリーはすっかり引退中。「エクスラン・ヴァリーエ」すら終わってます。
なのに“スクリーン”は毎号毎号オードリーの昔のカラーグラビアや、最近のプライベート写真を載せてました。
それ以外にもオードリーの特集があったり。
僕が70年代後半に“スクリーン”を買ってた頃はライバルの“ロードショー”よりはマシだったとはいえ、やっぱりオードリーの記事とかって少なくて、古本屋さんでこういう70年代前半の“スクリーン”を見るとめっちゃオードリーの記事が充実してたので、羨ましかったものです。
“なんで最近はオードリーを載せてくれへんねん!”って思ってましたね。
さて、この号でもまずカラーグラビアでオードリーが登場。
この号ではキャンディス・バーゲン、カトリーヌ・ドヌーヴに次いで3番目に登場。
「おしゃれ泥棒」の宣伝写真のオードリーですね。
でもこの画像、なんか違和感を感じるんですよね。顔が歪んでいるような…。
というか、この画像裏焼きですね。髪型が逆になってますし、オードリーの鼻の鼻柱と呼ばれる箇所も逆ですね。
オードリーの鼻柱って、鼻の下に続く部分が、オードリーの左(向かって右)にクルンって巻き込まれるんですけど、この画像ではオードリーの右(向かって左)にクルンってなってますよね。
写真のキャプションは右ページのカトリーヌ・ドヌーヴの下に書かれています。映画出演に慎重なオードリー、だそうです。
次は“よく似てるでしょ!スターと子供”っていう特集でショーンと写る最近のオードリー。
続いて“映画が生んだヤングの流行”ってページになって、「ヘプバーン・カット」と「サブリナ・スタイル」が紹介されてます。
でも、「ヘプバーン・カット」って、当時は「ヘップバーン刈り」とも呼ばれてたんですよね。
これも近いうちに当時の雑誌を紹介しますけど、「ヘプバーン・スタイル」だとか、当時は呼び名も定まってなかったようです。
次のオードリーは、近代映画社の雑誌の紹介で「ジュニア洋画ファン」って雑誌の宣伝で表紙に「暗くなるまで待って」のオードリー。
70年代前半は近代映画社も“スクリーン”だけじゃなく、いろんな洋画雑誌を出そうとしていたみたいですね。
でもどれもすぐに廃刊になったみたいで、70年代後半にはどれも生き残っていませんでした。
次は“ビッグスター・アルバム”っていう特集ページで、今号はウィリアム・ホールデン。
昔の“スクリーン”は、こういう昔のスターをよく取り上げてくれてたので、自分の知らない過去のスターでも知ったりするきっかけになってたりしてました。それで名画と呼ばれる映画を知ったり、とか。
こういうのは今の“SCREEN”には全然ありませんね。
ここでは無論ホールデンなので、「麗しのサブリナ」と「パリで一緒に」が載ってます。
「パリで一緒に」では “新趣向は面白いが、少々アイデア負けの感あり。”って書かれてます。あちゃー!でも僕は大好きなんですけどね。
次は “オードリーなど、家庭のことは何もしないお嬢さん女優だろう”などと以前から勝手な決め付けで書いていた津村秀夫氏による、“映画的ムードの世界 「慕情」でジェニファー・ジョーンズを再認識する”ってページで「暗くなるまで待って」宣伝写真のオードリーが載っています。
何事かと読んでみると、昔のジェニファー・ジョーンズには反感すら抱いていた、あの時代の女優ならマーナ・ロイ、グリア・ガースン、デボラ・カーなどを推賞していた。マリリン・モンローは軽蔑していたし、エリザベス・テイラーなんぞと思っていた、などと津村節全開な自説が語られています。
今は映画界が味気なくなってしまった。ソフィア・ローレンか少し落ちるカトリーヌ・ドヌーヴくらい。アン・マーグレットもキャンディス・バーゲンも女優1人で1編の映画を背負えるようなムードは持っていない、だんだん育ち損なった感じ。
キャサリン・ロス、アリ・マッグロー、ドミニク・サンダはチンピラ女優。問題にならない。そこへ行くと、さすがに全盛期は過ぎたがオードリー・ヘプバーンはかつては立派なムードを持っていた、と書いてます。
うーん、かなり失礼なような、でも合ってもいるような…。
まあ好き嫌いははっきり分かれるような映画評論家さんですね。
次は双葉十三郎先生の映画音楽のコーナーで、「マイ・フェア・レディ」の話と画像が載っています。
と言っても、舞台の「マイ・フェア・レディ」の舞台でお客さんが「踊り明かそう」で湧くという話。映画関係ないやーん!
他に「ティファニーで朝食を」と「昼下りの情事」も少し語られてます。
次がお待ちかね、「戦争と平和」の紹介。
まあ書いてある文章的にはここで書くことは何もないんですが。
皆さんはオードリー映画それぞれに色って思い浮かびますか?
僕は各作品に色があって、「戦争と平和」は赤。
これはもしかしたら中学の時に手に入れた「戦争と平和」の73年リバイバルのプレスシートが印象的な赤バックだったからかもしれませんが。
でも僕の思う赤は、プレスシートの赤とはちょっと違う。プレスシートのはどちらかというと「紅」っていう少しピンクがかったもの。
僕の「戦争と平和」の赤は、色の三原色のマゼンタとイエローを100%混ぜた、印刷・デザイン業界の専門用語でいわゆる「金赤」って言われる純粋な赤。
でも金赤は金赤でも、日本のインクのマゼンタとイエローを混ぜると、ちょっと深い赤が出来上がってしまうんですけど、オードリーの「戦争と平和」には深みがないんですよね。
なので、僕の「戦争と平和」の金赤は、アメリカのインクのマゼンタとイエローを混ぜ合わせたもの。
これが日本のインクと違って、ちょっと明るい(深みのない)赤になるんですよね。そんな赤のイメージ。
アメリカと日本ではインクが違うんです。
「戦争と平和」って、オードリーが出てくると4社で同時に製作発表がなされて、その全社でオードリーをナターシャに!って争奪戦が始まったんですよね。
みんなナターシャを演じられる女優が現れた!ナターシャにはオードリーしかいない!って思ったんです。
確かにオードリーにはスラブ民族の香りはしないけど、アメリカで作るならオードリー以上にナターシャにピッタリな女優はいない!って思いますよね。
なんせナターシャが最初に出てくるときは14才の設定だそうですから。
10代と20代を演じられるのが当時のオードリーですよね。しかも実際は既に奥様なのに、どう見ても純粋無垢の少女。さらに貴族の娘と言っても違和感のないノーブルさ!
そりゃみんな「今」のオードリーでナターシャを演じてもらいたい!と思うはずです。
マイケル・トッドというプロデューサーも同じ考えで、フレッド・ジンネマン(のちに「尼僧物語」でオードリーを監督する)を監督に、ユーゴスラヴィアの軍隊を借りる許可まで取り付けていたのに、結局メル・ファーラーをアンドレイに配役という搦め手でオードリーを手に入れたディノ・デ・ラウレンティスに負けちゃいました。
でももし、トッドバージョンで映画化されて、フレッド・ジンネマン監督で「戦争と平和」が作られていたら、もっと重厚な「戦争と平和」になったと思うんです。そしたら赤は赤でも、日本のインクの金赤になっていたかも…と思うんですよね。
別にキング・ヴィダー監督が悪いとか劣っているとか思っているわけではなくって、充分立派な「戦争と平和」だと思っているんですが、ジンネマン監督だと映画の重みが変わってきただろうなーと思うんです。原作が大部なんで成功したかどうかはわかりませんが。
あとは宣伝ページでオードリーを見れるだけなんですが、ブロマイド・サービス・センターさんで売ってるオードリーの「パリで一緒に」ポスター!持ってる!
もちろん後年(2003年ごろ)に手に入れたんですが、確か1972年とかってマークがあったから、きっとこれだと思います。
よく30年も色褪せせずに保ったなと思いますが、やっぱり飾ってしまうと退色して行ってるんですよね、うーん。
最後はFOXスクリーンフレンドさん。
アクリル製の40×53cmのか33×40cmのものと、週刊誌大の写真20枚セットのものの宣伝。オードリーの写真が2種載っています。
あ、ヴィヴィアン・リーも居るね。
ちなみに「戦争と平和」は、この次の号くらいで“8月の封切り作品一覧”ってページで採点も載るんですが、その時は☆☆☆★★★(75点)って載るんですよね。
僕は双葉十三郎さんの採点だと思っていたんで、よしよし、「戦争と平和」も高得点だね!って長い間信じてたんですよね(僕は75点から高得点だと思っていたので)。
後に「ぼくの採点表」で☆☆☆★★(70点)ってなってたのであれっ?点数変えた??って思ったんですが、実は1973年の段階では「戦争と平和」には採点が無かったんですよね。
というのも、双葉さんが “スクリーン”で採点してたのは、最初(50年代初期)はB級C級作品のみ。
A級作品は他の人が評論(採点なし)を書いてたんです。
「ぼくの採点表」の最初の役割は、映画雑誌でも評論として取り上げられないようなB級C級作品を短評でささっと評価するというもの。
なので、のちに本としてまとめられた時に、初期のA級作品の採点が無いので、過去の別の雑誌に書いていた双葉さんのA級作品の評論とその時初めてA級作品に採点を付けて載せたんです。
だからこの“スクリーン”で載ったのはおそらく編集部で付けられたものだったんでしょうね。
同じように編集部が付けたんだろうな、という作品に「初恋」があります(☆☆☆の60点)。
双葉さんには「初恋」の評論は無いんですよねー。
上映は松竹系の劇場で最も格の高い丸の内ピカデリーから全国ロードショー。
当時のもう間もなく、1973年の8月25日から上映開始です。
今年4K版が公開される「ローマの休日」と日付が当たっちゃいましたね。
50年前の8月25日は「戦争と平和」、今年の8月25日は「ローマの休日」。そして奇しくもどちらも丸の内ピカデリー!
1973年リバイバルの「戦争と平和」は、1964年以来の久々のリバイバルだったので、興行成績は好調。9週間続映されました。
前にも書きましたけど、同じ1973年に公開された、ちょっとリバイバルやりすぎの「ローマの休日」(スバル座、306席5週)、「シャレード」(ニュー東宝シネマ2、396席3週)よりも圧倒的に好成績。
しかもそれらよりもずっと大きな1500席クラスの丸の内ピカデリーですからね。73年に関しては「戦争と平和」圧勝ですね。
当時は上映期間4週が普通でしたから、9週というのはいかにヒットしたか、ということですね。
今では影に隠れがちな「戦争と平和」ですけど、当時はれっきとしたオードリーの代表作の1本でした。
さて今回はそんな50年前の「戦争と平和」を紹介する雑誌“スクリーン”の1973年10月号の紹介(発売は8月21日)。
表紙は当時なぜか人気があったナタリー・ドロンです。
でもこの当時の“スクリーン”はスゴイですね!
もうオードリーはすっかり引退中。「エクスラン・ヴァリーエ」すら終わってます。
なのに“スクリーン”は毎号毎号オードリーの昔のカラーグラビアや、最近のプライベート写真を載せてました。
それ以外にもオードリーの特集があったり。
僕が70年代後半に“スクリーン”を買ってた頃はライバルの“ロードショー”よりはマシだったとはいえ、やっぱりオードリーの記事とかって少なくて、古本屋さんでこういう70年代前半の“スクリーン”を見るとめっちゃオードリーの記事が充実してたので、羨ましかったものです。
“なんで最近はオードリーを載せてくれへんねん!”って思ってましたね。
さて、この号でもまずカラーグラビアでオードリーが登場。
この号ではキャンディス・バーゲン、カトリーヌ・ドヌーヴに次いで3番目に登場。
「おしゃれ泥棒」の宣伝写真のオードリーですね。
でもこの画像、なんか違和感を感じるんですよね。顔が歪んでいるような…。
というか、この画像裏焼きですね。髪型が逆になってますし、オードリーの鼻の鼻柱と呼ばれる箇所も逆ですね。
オードリーの鼻柱って、鼻の下に続く部分が、オードリーの左(向かって右)にクルンって巻き込まれるんですけど、この画像ではオードリーの右(向かって左)にクルンってなってますよね。
写真のキャプションは右ページのカトリーヌ・ドヌーヴの下に書かれています。映画出演に慎重なオードリー、だそうです。
次は“よく似てるでしょ!スターと子供”っていう特集でショーンと写る最近のオードリー。
続いて“映画が生んだヤングの流行”ってページになって、「ヘプバーン・カット」と「サブリナ・スタイル」が紹介されてます。
でも、「ヘプバーン・カット」って、当時は「ヘップバーン刈り」とも呼ばれてたんですよね。
これも近いうちに当時の雑誌を紹介しますけど、「ヘプバーン・スタイル」だとか、当時は呼び名も定まってなかったようです。
次のオードリーは、近代映画社の雑誌の紹介で「ジュニア洋画ファン」って雑誌の宣伝で表紙に「暗くなるまで待って」のオードリー。
70年代前半は近代映画社も“スクリーン”だけじゃなく、いろんな洋画雑誌を出そうとしていたみたいですね。
でもどれもすぐに廃刊になったみたいで、70年代後半にはどれも生き残っていませんでした。
次は“ビッグスター・アルバム”っていう特集ページで、今号はウィリアム・ホールデン。
昔の“スクリーン”は、こういう昔のスターをよく取り上げてくれてたので、自分の知らない過去のスターでも知ったりするきっかけになってたりしてました。それで名画と呼ばれる映画を知ったり、とか。
こういうのは今の“SCREEN”には全然ありませんね。
ここでは無論ホールデンなので、「麗しのサブリナ」と「パリで一緒に」が載ってます。
「パリで一緒に」では “新趣向は面白いが、少々アイデア負けの感あり。”って書かれてます。あちゃー!でも僕は大好きなんですけどね。
次は “オードリーなど、家庭のことは何もしないお嬢さん女優だろう”などと以前から勝手な決め付けで書いていた津村秀夫氏による、“映画的ムードの世界 「慕情」でジェニファー・ジョーンズを再認識する”ってページで「暗くなるまで待って」宣伝写真のオードリーが載っています。
何事かと読んでみると、昔のジェニファー・ジョーンズには反感すら抱いていた、あの時代の女優ならマーナ・ロイ、グリア・ガースン、デボラ・カーなどを推賞していた。マリリン・モンローは軽蔑していたし、エリザベス・テイラーなんぞと思っていた、などと津村節全開な自説が語られています。
今は映画界が味気なくなってしまった。ソフィア・ローレンか少し落ちるカトリーヌ・ドヌーヴくらい。アン・マーグレットもキャンディス・バーゲンも女優1人で1編の映画を背負えるようなムードは持っていない、だんだん育ち損なった感じ。
キャサリン・ロス、アリ・マッグロー、ドミニク・サンダはチンピラ女優。問題にならない。そこへ行くと、さすがに全盛期は過ぎたがオードリー・ヘプバーンはかつては立派なムードを持っていた、と書いてます。
うーん、かなり失礼なような、でも合ってもいるような…。
まあ好き嫌いははっきり分かれるような映画評論家さんですね。
次は双葉十三郎先生の映画音楽のコーナーで、「マイ・フェア・レディ」の話と画像が載っています。
と言っても、舞台の「マイ・フェア・レディ」の舞台でお客さんが「踊り明かそう」で湧くという話。映画関係ないやーん!
他に「ティファニーで朝食を」と「昼下りの情事」も少し語られてます。
次がお待ちかね、「戦争と平和」の紹介。
まあ書いてある文章的にはここで書くことは何もないんですが。
皆さんはオードリー映画それぞれに色って思い浮かびますか?
僕は各作品に色があって、「戦争と平和」は赤。
これはもしかしたら中学の時に手に入れた「戦争と平和」の73年リバイバルのプレスシートが印象的な赤バックだったからかもしれませんが。
でも僕の思う赤は、プレスシートの赤とはちょっと違う。プレスシートのはどちらかというと「紅」っていう少しピンクがかったもの。
僕の「戦争と平和」の赤は、色の三原色のマゼンタとイエローを100%混ぜた、印刷・デザイン業界の専門用語でいわゆる「金赤」って言われる純粋な赤。
でも金赤は金赤でも、日本のインクのマゼンタとイエローを混ぜると、ちょっと深い赤が出来上がってしまうんですけど、オードリーの「戦争と平和」には深みがないんですよね。
なので、僕の「戦争と平和」の金赤は、アメリカのインクのマゼンタとイエローを混ぜ合わせたもの。
これが日本のインクと違って、ちょっと明るい(深みのない)赤になるんですよね。そんな赤のイメージ。
アメリカと日本ではインクが違うんです。
「戦争と平和」って、オードリーが出てくると4社で同時に製作発表がなされて、その全社でオードリーをナターシャに!って争奪戦が始まったんですよね。
みんなナターシャを演じられる女優が現れた!ナターシャにはオードリーしかいない!って思ったんです。
確かにオードリーにはスラブ民族の香りはしないけど、アメリカで作るならオードリー以上にナターシャにピッタリな女優はいない!って思いますよね。
なんせナターシャが最初に出てくるときは14才の設定だそうですから。
10代と20代を演じられるのが当時のオードリーですよね。しかも実際は既に奥様なのに、どう見ても純粋無垢の少女。さらに貴族の娘と言っても違和感のないノーブルさ!
そりゃみんな「今」のオードリーでナターシャを演じてもらいたい!と思うはずです。
マイケル・トッドというプロデューサーも同じ考えで、フレッド・ジンネマン(のちに「尼僧物語」でオードリーを監督する)を監督に、ユーゴスラヴィアの軍隊を借りる許可まで取り付けていたのに、結局メル・ファーラーをアンドレイに配役という搦め手でオードリーを手に入れたディノ・デ・ラウレンティスに負けちゃいました。
でももし、トッドバージョンで映画化されて、フレッド・ジンネマン監督で「戦争と平和」が作られていたら、もっと重厚な「戦争と平和」になったと思うんです。そしたら赤は赤でも、日本のインクの金赤になっていたかも…と思うんですよね。
別にキング・ヴィダー監督が悪いとか劣っているとか思っているわけではなくって、充分立派な「戦争と平和」だと思っているんですが、ジンネマン監督だと映画の重みが変わってきただろうなーと思うんです。原作が大部なんで成功したかどうかはわかりませんが。
あとは宣伝ページでオードリーを見れるだけなんですが、ブロマイド・サービス・センターさんで売ってるオードリーの「パリで一緒に」ポスター!持ってる!
もちろん後年(2003年ごろ)に手に入れたんですが、確か1972年とかってマークがあったから、きっとこれだと思います。
よく30年も色褪せせずに保ったなと思いますが、やっぱり飾ってしまうと退色して行ってるんですよね、うーん。
最後はFOXスクリーンフレンドさん。
アクリル製の40×53cmのか33×40cmのものと、週刊誌大の写真20枚セットのものの宣伝。オードリーの写真が2種載っています。
あ、ヴィヴィアン・リーも居るね。
ちなみに「戦争と平和」は、この次の号くらいで“8月の封切り作品一覧”ってページで採点も載るんですが、その時は☆☆☆★★★(75点)って載るんですよね。
僕は双葉十三郎さんの採点だと思っていたんで、よしよし、「戦争と平和」も高得点だね!って長い間信じてたんですよね(僕は75点から高得点だと思っていたので)。
後に「ぼくの採点表」で☆☆☆★★(70点)ってなってたのであれっ?点数変えた??って思ったんですが、実は1973年の段階では「戦争と平和」には採点が無かったんですよね。
というのも、双葉さんが “スクリーン”で採点してたのは、最初(50年代初期)はB級C級作品のみ。
A級作品は他の人が評論(採点なし)を書いてたんです。
「ぼくの採点表」の最初の役割は、映画雑誌でも評論として取り上げられないようなB級C級作品を短評でささっと評価するというもの。
なので、のちに本としてまとめられた時に、初期のA級作品の採点が無いので、過去の別の雑誌に書いていた双葉さんのA級作品の評論とその時初めてA級作品に採点を付けて載せたんです。
だからこの“スクリーン”で載ったのはおそらく編集部で付けられたものだったんでしょうね。
同じように編集部が付けたんだろうな、という作品に「初恋」があります(☆☆☆の60点)。
双葉さんには「初恋」の評論は無いんですよねー。