2011年12月03日
オードリー・ヘプバーンとティファニーで朝食を
2011年の今年は「ティファニーで朝食を」の製作から50周年なことは、今年の記事で何度か書いていましたが、10月26日に発売されたのがこれ、「オードリー・ヘプバーンとティファニーで朝食を オードリーが創った、自由に生きる女性像」。
著者はサム・ワッソン、翻訳は清水晶子氏。発行はマーブルブックスで、発売は中央公論新社です。
この本は、「ティファニーで朝食を」の製作裏話的なものになっています。
原書は英語だらけで、正直翻訳されなかったら、読まなかったであろうと思います。
でも、ここでわかることは非常に興味あることばかりで、この本を翻訳してくれてありがとうございます!ってめっちゃ思いました。
「ティファニーで朝食を」って僕はリアルで見たわけじゃないので、その時代とひっつけて考えたことはなかったのですが、この本でオードリーのホリーが、60年代初めの女性の価値観を変えていったと知ってビックリしました。
50年代までの清潔で清純でなければいけない、という女性の置かれた状況が、清純の代表であるオードリーによって変革される端緒になったのかと思うと、面白いですね。
まあ、オードリーだからこそ女性がすんなり入っていきやすかったのかもとも思いますけどね。これがマリリン・モンローみたいな肉体派の女優が演じていたら、女性は反発したかもしれませんしね。
あと、色んな裏話が面白かったですね。オードリーが激怒して“ムーン・リヴァー”をカットをさせなかった、という有名なエピソードですが、ここで書かれている事実は、どうやらそれを行ったのはプロデューサーのリチャード・シェパードであったということ。
確かにオードリーのエピソードとしては浮いてますよね。オードリーと激怒って、あんまり結びつきませんし。
今までのオードリーの伝記では他の人から聞いた的な書き方なので、その場に居た、ヘンリー・マンシーニの自伝で書かれているような方が正しく、オードリーが激怒の方は伝記を面白くするために脚色されたものなんでしょうね。
カポーティのお母さんの話が出てきた時、“これってホリーやん!”って即行思いましたけど、どうやらその考えは合っていたみたいで、母ともう一人ベイヴという女性(とカポーティ自身)がホリーなんやなってのがわかります。
それと、原作者のカポーティも、監督のブレーク・エドワーズも嘘を平気でつけるってのが読んでてとても気になりました。
カポーティがわざわざオードリーに宛てた手紙では、“大変嬉しく思っている、オードリーもホリーも素晴らしい女性だから、必ず良い作品になる”、
当時のエドワーズ監督の妻のパトリシア・スネルには“君の旦那に監督してもらって、本当によかった。出来が素晴らしくて映画に満足。”だとか言っておきながら、別の所では“監督は無能、ひどいミスキャスト、吐きそう!” とかって言うって、人間としてどうなんやろ?って思ってしまいます。
まあ、芸術家さんなので、そういうものなのかもしれないですけどね。
あと、ジョージ・ペパードがいかに場に合ってなかったかとか。
確かに映画を見てると、ポールって2E に囲われてる身なのに、ポールは2Eを全然好きそうに見えないんですよね。だから2人が別れる時にポールがめっちゃ決意したんや、って感じが皆無なんですよね。
なので、ホリーの最後の決意に比べて、ポールの決意の浅さが気になります。
ミスター・ユニヨシの件は、今でも色々言われてますけど、僕はあんまり何とも思ってないんですよね。
当時の日本人の捉えられ方ってあんなんだったんかな、っていう程度で。
今もそのまんまだったら怒るかもしれないですけど、渡辺謙の映画とか見ると、もうそうじゃないでしょ?
ミスター・ユニヨシは、「ティファニーで朝食を」ではコメディ・リリーフだし、僕は“あっ!日本語喋ってる!”って嬉しかったり、とかね。
まあ、もう50年も前の映画なんだからいいじゃん、みたいな。
原作との相違(特に結末)ですけど、“ホリーは南米に行かなきゃ!”って意見をよく聞きますけど、僕はそこもそうは思わないんですよね。
ホリーって、別に結婚しない女でもないじゃないですか。独身の金持ちリストも頭に入れてるし(ということは愛人はイヤってこと)、ホセと結婚する気満々でしたしね。
だから、南米に行ってもいいし、映画みたいなのもありじゃないかなーって。
むしろ、“南米に行かなきゃホリーじゃない!”って決め付ける方がよっぽどホリーと違うんちゃうかなー。それはホリーをあなたの鋳型に入れてるだけでしょ?とか。
ホリーからしたら、自分のしたいようにするだけで、“南米に行くべきだ!”って言われたら、“そうね、シド。”とかって言って目の前でドア閉められるんちゃうやろか。そしてネズミ野郎の仲間入り、みたいな。
ま、みんなの思ってるホリーはそれぞれ違うかもよ、みたいな可能性はあるわけで、“こうするべき”っていうのがそもそも違うんじゃないの?って感じるんですけどね。
それ以外にも、この本で「ティファニーで朝食を」以降として「いつも2人で」だけが取り上げられていたり、ブレーク・エドワーズと脚本のジョージ・アクセルロッドとが不仲になったりとか、なぜ原作から改変されたのか、とかが色々わかって大変興味深い本に仕上がっていました。
オススメ度:★★★★
著者はサム・ワッソン、翻訳は清水晶子氏。発行はマーブルブックスで、発売は中央公論新社です。
この本は、「ティファニーで朝食を」の製作裏話的なものになっています。
原書は英語だらけで、正直翻訳されなかったら、読まなかったであろうと思います。
でも、ここでわかることは非常に興味あることばかりで、この本を翻訳してくれてありがとうございます!ってめっちゃ思いました。
「ティファニーで朝食を」って僕はリアルで見たわけじゃないので、その時代とひっつけて考えたことはなかったのですが、この本でオードリーのホリーが、60年代初めの女性の価値観を変えていったと知ってビックリしました。
50年代までの清潔で清純でなければいけない、という女性の置かれた状況が、清純の代表であるオードリーによって変革される端緒になったのかと思うと、面白いですね。
まあ、オードリーだからこそ女性がすんなり入っていきやすかったのかもとも思いますけどね。これがマリリン・モンローみたいな肉体派の女優が演じていたら、女性は反発したかもしれませんしね。
あと、色んな裏話が面白かったですね。オードリーが激怒して“ムーン・リヴァー”をカットをさせなかった、という有名なエピソードですが、ここで書かれている事実は、どうやらそれを行ったのはプロデューサーのリチャード・シェパードであったということ。
確かにオードリーのエピソードとしては浮いてますよね。オードリーと激怒って、あんまり結びつきませんし。
今までのオードリーの伝記では他の人から聞いた的な書き方なので、その場に居た、ヘンリー・マンシーニの自伝で書かれているような方が正しく、オードリーが激怒の方は伝記を面白くするために脚色されたものなんでしょうね。
カポーティのお母さんの話が出てきた時、“これってホリーやん!”って即行思いましたけど、どうやらその考えは合っていたみたいで、母ともう一人ベイヴという女性(とカポーティ自身)がホリーなんやなってのがわかります。
それと、原作者のカポーティも、監督のブレーク・エドワーズも嘘を平気でつけるってのが読んでてとても気になりました。
カポーティがわざわざオードリーに宛てた手紙では、“大変嬉しく思っている、オードリーもホリーも素晴らしい女性だから、必ず良い作品になる”、
当時のエドワーズ監督の妻のパトリシア・スネルには“君の旦那に監督してもらって、本当によかった。出来が素晴らしくて映画に満足。”だとか言っておきながら、別の所では“監督は無能、ひどいミスキャスト、吐きそう!” とかって言うって、人間としてどうなんやろ?って思ってしまいます。
まあ、芸術家さんなので、そういうものなのかもしれないですけどね。
あと、ジョージ・ペパードがいかに場に合ってなかったかとか。
確かに映画を見てると、ポールって2E に囲われてる身なのに、ポールは2Eを全然好きそうに見えないんですよね。だから2人が別れる時にポールがめっちゃ決意したんや、って感じが皆無なんですよね。
なので、ホリーの最後の決意に比べて、ポールの決意の浅さが気になります。
ミスター・ユニヨシの件は、今でも色々言われてますけど、僕はあんまり何とも思ってないんですよね。
当時の日本人の捉えられ方ってあんなんだったんかな、っていう程度で。
今もそのまんまだったら怒るかもしれないですけど、渡辺謙の映画とか見ると、もうそうじゃないでしょ?
ミスター・ユニヨシは、「ティファニーで朝食を」ではコメディ・リリーフだし、僕は“あっ!日本語喋ってる!”って嬉しかったり、とかね。
まあ、もう50年も前の映画なんだからいいじゃん、みたいな。
原作との相違(特に結末)ですけど、“ホリーは南米に行かなきゃ!”って意見をよく聞きますけど、僕はそこもそうは思わないんですよね。
ホリーって、別に結婚しない女でもないじゃないですか。独身の金持ちリストも頭に入れてるし(ということは愛人はイヤってこと)、ホセと結婚する気満々でしたしね。
だから、南米に行ってもいいし、映画みたいなのもありじゃないかなーって。
むしろ、“南米に行かなきゃホリーじゃない!”って決め付ける方がよっぽどホリーと違うんちゃうかなー。それはホリーをあなたの鋳型に入れてるだけでしょ?とか。
ホリーからしたら、自分のしたいようにするだけで、“南米に行くべきだ!”って言われたら、“そうね、シド。”とかって言って目の前でドア閉められるんちゃうやろか。そしてネズミ野郎の仲間入り、みたいな。
ま、みんなの思ってるホリーはそれぞれ違うかもよ、みたいな可能性はあるわけで、“こうするべき”っていうのがそもそも違うんじゃないの?って感じるんですけどね。
それ以外にも、この本で「ティファニーで朝食を」以降として「いつも2人で」だけが取り上げられていたり、ブレーク・エドワーズと脚本のジョージ・アクセルロッドとが不仲になったりとか、なぜ原作から改変されたのか、とかが色々わかって大変興味深い本に仕上がっていました。
オススメ度:★★★★
この記事へのコメント
うん、これはとても面白かった!
「ティファニーで朝食を」がますます好きになり、特別な映画になりました。
(もともとそうだったけど)
エピソードも興味深く、かなり信憑性が高いのではないかと感じます。
もちろん鵜呑みにはできないでしょうが。
それにしても、一本の映画を造るって物凄いドラマなんですよね。
ティファニーで~のオードリィって日本では割と過小評価されてたけど、
僕はずっと違和感を覚えていました。
これを読んで、女優としての真価を“本当に発揮できた”記念すべき作品
なんだと確信しました。
清藤さんも名演技として称賛されていましたよね。
このご時世、翻訳してくれて本当に感謝です。
「ティファニーで朝食を」がますます好きになり、特別な映画になりました。
(もともとそうだったけど)
エピソードも興味深く、かなり信憑性が高いのではないかと感じます。
もちろん鵜呑みにはできないでしょうが。
それにしても、一本の映画を造るって物凄いドラマなんですよね。
ティファニーで~のオードリィって日本では割と過小評価されてたけど、
僕はずっと違和感を覚えていました。
これを読んで、女優としての真価を“本当に発揮できた”記念すべき作品
なんだと確信しました。
清藤さんも名演技として称賛されていましたよね。
このご時世、翻訳してくれて本当に感謝です。
Posted by まる at 2011年12月03日 22:41
ミスター・ユニオシの描写ですが、もしも悪役だったらみつおさんも相当異なる受け取り方をされたでしょうね。おそらくビジュアル的な面によって(多くの場合)否定的な評価になっているのだと思われますが。
Posted by take at 2011年12月03日 23:12
>まるさん
僕もこれが出てくれて、本当に良かった!って思ってます。
で、やっぱりマリリンよりも、オードリーの方が
やっぱりホリーに合ってたやん!って思いました。
マリリンの方が、よっぽど神経細いですしね。
オードリーは弱そうでも芯はしっかりしてますしね。
確かに信憑性はかなり高いと僕も感じました。
でも、順調そうな「ティファニーで朝食を」でもこれだと、
「マイ・フェア・レディ」なんかは本当に大変だったんでしょうね。
でも、ペパードとの関係、
確か以前にまるさんに教えていただいた
セシル・B・デミル賞の受賞スピーチでしたっけ、
アルバート・フィニーの名はなく、ジョージ・ペパードは入ってましたよね。
あれは本人がいたからなんでしょうか(笑)。
でもこの本の売れない時代に翻訳してくれて、本当にありがたいですよね。
僕も「ティファニーで朝食を」、ますます好きになりそうです!(^-^
僕もこれが出てくれて、本当に良かった!って思ってます。
で、やっぱりマリリンよりも、オードリーの方が
やっぱりホリーに合ってたやん!って思いました。
マリリンの方が、よっぽど神経細いですしね。
オードリーは弱そうでも芯はしっかりしてますしね。
確かに信憑性はかなり高いと僕も感じました。
でも、順調そうな「ティファニーで朝食を」でもこれだと、
「マイ・フェア・レディ」なんかは本当に大変だったんでしょうね。
でも、ペパードとの関係、
確か以前にまるさんに教えていただいた
セシル・B・デミル賞の受賞スピーチでしたっけ、
アルバート・フィニーの名はなく、ジョージ・ペパードは入ってましたよね。
あれは本人がいたからなんでしょうか(笑)。
でもこの本の売れない時代に翻訳してくれて、本当にありがたいですよね。
僕も「ティファニーで朝食を」、ますます好きになりそうです!(^-^
Posted by みつお at 2011年12月04日 12:25
>takeさん
そうですね、悪役というより、侮蔑された扱いだったら
僕も感じ方が変わっていたかもしれません。
でもここでのユニヨシは、単にホリーに“あしらわれてる”って感じで、
蔑まれているわけではないですしね。
僕は“この程度で目くじらたてるほどかなー”って見てるだけです。
それと、ビジュアルがあまりにも当時のステレオタイプなんですかね。
ま、これも今となっては改善されているでしょうし、
ミッキー・ルーニーって、この映画のせいで昔は日系人かと思っていたので、
後に全然普通の白人さんだと知って、メイクでの代わり映えの凄さに
ビックリしたものです。
そうですね、悪役というより、侮蔑された扱いだったら
僕も感じ方が変わっていたかもしれません。
でもここでのユニヨシは、単にホリーに“あしらわれてる”って感じで、
蔑まれているわけではないですしね。
僕は“この程度で目くじらたてるほどかなー”って見てるだけです。
それと、ビジュアルがあまりにも当時のステレオタイプなんですかね。
ま、これも今となっては改善されているでしょうし、
ミッキー・ルーニーって、この映画のせいで昔は日系人かと思っていたので、
後に全然普通の白人さんだと知って、メイクでの代わり映えの凄さに
ビックリしたものです。
Posted by みつお at 2011年12月04日 12:36