2024年08月26日
アラン・ドロン追悼 「映画の友」1959年11月号

直接オードリーとの共演はありませんでしたが、50年代終わりと60年代、70年代とオードリーと共にずっと映画雑誌の人気投票で上位だったアラン・ドロンに敬意を表して、今回は「映画の友」1959年11月号を基にオードリーとの関わりなどを書きながらアラン・ドロンのことを書こうと思います。
まずこの号はオードリーが表紙ですね。59年11月号ということは、発売は59年9月21日。
表紙のオードリーは「緑の館」の撮影時期の宣伝写真です。ということは1958年夏〜秋ごろに撮影されたもの。
1959年9月だと、もう既に「許されざる者」の撮影も終わっていますが、「許されざる者」ってあんまり宣伝写真って見たことないんですよね。途中落馬して骨折とかしちゃったんで、そういう宣伝用の写真を撮れなかったのかも。
「許されざる者」を撮り終わった後でも、流産と再度妊娠がありましたから、全く時間が取れなかったんでしょうね。
なので雑誌表紙になる宣伝写真だと、「緑の館」の時期の写真からいきなり「ティファニーで朝食を」になるイメージがあります。

さて、この号ではグラフ写真でアラン・ドロンが映画撮影のために行ったアメリカでのプライベート写真がまず5ページに渡って掲載されています。
1959年だと「お嬢さん、お手やわらかに!」という映画が公開されて、アラン・ドロンが一躍注目されるようになった頃。
あまりの超絶2枚目っぷりに、当時も話題になってたようですし、「映画の友」「スクリーン」の両映画雑誌にも凄い推されてましたね。
そのアラン・ドロン人気に便乗しようと、「お嬢さん、お手やわらかに!」の前の作品「恋ひとすじに」が公開される運びになったようです。
ということで、この号では5ページのグラフ、8ページの「恋ひとすじに」の紹介、記事が2つ、本文ページでの写真が1つ、写真の頒布ページ、それと表3で「恋ひとすじに」のカラー広告と、アラン・ドロン大特集みたいになっています。
さて話を戻すと、そのあまりの美男っぷりに早速アメリカ映画からも目をつけられて出演依頼が来たのかと思いましたが…。

でもキャプションや記事ではやっぱりアメリカ映画に出ることになってる。
なんの作品だろうと思ってよく読むと、作品名は書いてないんですが、テネシー・ウィリアムズの小説を戯曲化したものの映画化で、アラン・ドロンは「年老いたスターの生活を荒らしてしまう若いジゴロの役」…。
あっ…!これって「ローマの哀愁」!!
テネシー・ウィリアムズの唯一の小説で、「年老いたスター」に「ジゴロ」!
これって原作は「ストーン夫人のローマの春」。
昔は新潮文庫から発売されていたようなのですが、僕が中学くらいの頃にはとっくに絶版になっていました。
最終的には1961年にヴィヴィアン・リーとウォーレン・ベイティで映画化され公開されたのじゃないですか!
なんとアラン・ドロンはヴィヴィアン・リーとも共演するかもしれなかったのですね!

それはヴィヴィアン・リーの体調によるのかもしれません。
ヴィヴィアン・リー、もうこの時期は双極性障害に悩まされていましたから、体調が良くないと撮影できないんですよね。
なのでせっかく来たアラン・ドロンは何もせず帰らないといけなかったのかもしれません。
なんせアラン・ドロンはアメリカではぽっと出のペーペー。
対してヴィヴィアン・リーは気位の高い大女優ですからね。
でもその文章には、アラン・ドロンは同じテネシー・ウィリアムズ原作でアンナ・マニャーニと共演する、とも書いてあるんですよね。
これって「蛇皮の服を着た男」になるみたいなんですけど、こちらは実際にはマーロン・ブランドが演じてますね。

でもアラン・ドロンからしたら、2本も映画に主演できると思って意気揚々とアメリカに乗り込んだら、どっちもポシャってしまうなんて、失意のどん底ですよね。
あまりアメリカにいい印象を持てなかったんじゃないかなーと思いますね。
さて、この号ではさらにもう1本、フランスでの撮影ですが、アメリカ資本の映画に出ることが決まったと書かれています。
その作品が「ファニー」!
そう、オードリーもオファーされて出演することになっていた作品ですよね(「パリの恋人(原題:FUNNY FACE)」じゃないですからね。こちらは「FANNY」で人名)。
ここの記事でもアラン・ドロンがオードリーと共演することになった、と書かれています!
なんと!オードリーと共演の可能性が1回はあったのですね!

ここまでで2度も流産してきたオードリーですから、今度こそは!と今回は一切映画出演をしなかったんですよね。とにかく安静。
オードリーの役はレスリー・キャロンが演じています。
50年代後半はオードリーとレスリー・キャロンは「恋の手ほどき(オードリーが舞台で演じた「ジジ」)」とか「ファニー」とか、同じ役で候補になっていますね。
これが60年代前半になると今度はジュリー・アンドリュースとの役の入れ替えが頻繁に起こるようになります。
「マイ・フェア・レディ」「卑怯者の勲章」「ハワイ」「サウンド・オブ・ミュージック」の4本。

この時期には他に「ウエスト・サイド物語」のマリア役(ナタリー・ウッドが演じた)も断っています。
とにかく、この「ファニー」もアラン・ドロンが演じるという話は無くなってしまって、結局ホルスト・ブッフホルツが演じています。

他にも1962年ごろの「映画の友」で「尼僧物語」の名匠フレッド・ジンネマン監督の「日曜日には鼠を殺せ」のオファーもあったことが書かれていました。
これまた結局グレゴリー・ペックが演じています。
アラン・ドロンはその後1965年からアメリカ映画に数本出ますけど、どれもドロンの個性を活かせないパッとしない出来で興行成績もイマイチ。
早々にアメリカに見切りをつけてフランスに戻って「冒険者たち」という傑作に出るんですよね。
でも、同時期に活躍した2人ですから、オードリーとアラン・ドロンの共演ってのも見てみたかったですね。
ただし、「ファニー」は双葉十三郎さんの採点では70点しかなかったので、出なくて正解だったのかも…。

ここでは「許されざる者」の落馬で重傷だと伝えられていたけど、元気そうでよかったと書かれています。
オードリーはこの時は口紅が薄く、肌も日焼けしてるように写っていて、なんかすっぴんのようにも見えます。
「ハリウッド短波放送」ってコーナーの “アラン・ドロン、「ファニー」に出演”ってページの隣のページには、「太陽をいっぱいに」というルネ・クレマン監督の映画でローマに発つアラン・ドロンとマリー・ラフォレとプロデューサーの画像が載っています。
これってアラン・ドロン生涯の代表作、「太陽がいっぱい」のロケに向かうところですね。
ここでも信じられないくらいの超絶美形で写ってます。

さて、この号には1959年8月に公開した作品の紹介と採点と興行について書いてるんですが、「尼僧物語」は「映画の友」での採点は90点。かなりな高評価です。

しかも興行価値が危ぶまれていたのに、見事な当たりだったそうです。
また、8月は夏枯れ興行どこ吹く風ということで、「尼僧物語」「掟」「アルピニスト岩壁に登る」という作品がヒットしたことが書かれています。
まあ前回書いたように「尼僧物語」は日本ではチェーンマスターの日比谷映劇ではヒットしたものの、翌月拡大上映で東宝洋画チェーン各館に降りると、最低記録を作ってしまうほどお客が入らなかったそうなのですけどね。
やはり日本ではカトリックの内部事情、というものに興味がそれほど湧かなかったんでしょうかね。

「スイス ルツェルン ブルゲンシュトック」しか書いてない!
これでファンレターが届くんですから、やっぱり有名人なんですね。
この当時はまだショーンが生まれてないので、トロシュナではなくドイツ語圏のブルゲンシュトックに住んでいた時期ですね。
ちなみにオードリーが借りていたブルゲンシュトックの家は、いまは取り壊されてホテルの敷地に取り込まれていて現存していないそうです。
「映画の友」の通販では表紙になったオードリーの写真や、4枚組のアラン・ドロンの写真なども売られています。
さて、最近の記事などではアラン・ドロンがオードリーと共に1位が定位置だった、と書かれていたりしますが、実はドロンは全盛期と呼べる60年代はあまり「映画の友」でも「スクリーン」でも1位を取れていないのですよね。

むしろ70年代前半の方が1位をよく取れていたようです。
しかも面白いことに、「スクリーン」ではオードリーとドロンは1975年にふたり揃って2位に落ち、1983年にとうとうベスト10からもふたり一緒に落ちてしまうというシンクロ。
オードリーはその後、87年から再ブームでまたベスト10圏内に返り咲き、2007年には1位まで取ってしまいますけど、アラン・ドロンはその後再びベスト10には入りませんでした。
僕なんかは「お嬢さん、お手やわらかに!」のようなロマンティック・コメディ路線が良いんじゃないかと思ってましたが、その後の作品はどっちかっていうとドロンの黒い面を活かした裏社会的なものが多かったですね。
なので、新規ファンもある程度は獲得はできたでしょうが、ロマンティックな映画が好きなファンは逃してしまったような印象があります。

(最後の画像は93年にオードリーのお葬式に来たアラン・ドロン)
アラン・ドロンは、「残念ながら個人的なお付き合いがあったわけではありません。しかし彼女は皆に別れを告げてもらうに値する、偉大な女性だと思ったのです。」とお葬式で述べていました。
あと、アラン・ドロンが発売した「サムライ」という香水が良い匂いでした。ご冥福をお祈りします。
この記事へのコメント
こんにちは
アラン・ドロンは我々日本の洋画ファンにとって特別な存在でしたね。
オードリィと同じ時代に(特に)日本で絶大な人気を誇った大スター
子供のころ(小学生後半から中学にかけて)
ドロンを知らない子っていなかった気がします。
まず名前の語呂がなんか覚えやすいというか言いやすいというか
あとはその当時は70年代で、おっしゃる通りその頃が特に全盛だったのかもしれません。
私の周りにもファンな女子多く、4つ年上の姉は特に大ファンで、家に2枚組の映画音楽特集LPがあって、付き合いで何度も何度も聴かされました。
結構気に入って「地下室のメロディー」「ボルサリーノ」「ゾロ」が好きでした。
一方その頃はオードリィ暗黒時代
学校で周囲に訊いても、結構それ誰な感じではありました。
で女優では圧倒的知名度を誇ったのはマリリン・モンロー
これまたなんか語呂がいいし、イメージが強烈だし
映画は知らんけど名前は知ってるぞ状態でした。懐かしいです。
ドロンとオードリィの共演って結構チャンスはあったんですね。
実現していたら・・・と夢想も膨らみますが、できればロマコメですね。
ドロンは確かに名作多いけど、ノワール調の作品が多く
一般的な人気作ってそんなになかった印象です。
人気投票では上位だけど、主演作はランクインの常連ではない。
でも「冒険者たち」なんて最高に良かったです。
そんなドロンがオードリィの葬儀に参列するなんて!
ただその真意・真相は不明でしたね。
A)残念ながら個人的なお付き合いがあったわけではありません。しかし彼女は皆に別れを告げてもらうに値する、偉大な女性だと思ったのです。
B)遅刻してすみません。彼女と初めてのデートでも僕は遅れてしまいました。本当にすみません。
C)ずっと彼女のことを尊敬していたんだ
D)(ただ一言)彼女は本当に美しい人でした・・・
僕はみつおさん同様にAだと思っていますが、
当時AとBという全く正反対な感じのコメントが載っていて困惑したものです。
とにかく超絶美形で今見ても驚きますね。
たくさんの充実した映画体験や想い出も提供してくれて感謝です。
Requiescat in pace
アラン・ドロンは我々日本の洋画ファンにとって特別な存在でしたね。
オードリィと同じ時代に(特に)日本で絶大な人気を誇った大スター
子供のころ(小学生後半から中学にかけて)
ドロンを知らない子っていなかった気がします。
まず名前の語呂がなんか覚えやすいというか言いやすいというか
あとはその当時は70年代で、おっしゃる通りその頃が特に全盛だったのかもしれません。
私の周りにもファンな女子多く、4つ年上の姉は特に大ファンで、家に2枚組の映画音楽特集LPがあって、付き合いで何度も何度も聴かされました。
結構気に入って「地下室のメロディー」「ボルサリーノ」「ゾロ」が好きでした。
一方その頃はオードリィ暗黒時代
学校で周囲に訊いても、結構それ誰な感じではありました。
で女優では圧倒的知名度を誇ったのはマリリン・モンロー
これまたなんか語呂がいいし、イメージが強烈だし
映画は知らんけど名前は知ってるぞ状態でした。懐かしいです。
ドロンとオードリィの共演って結構チャンスはあったんですね。
実現していたら・・・と夢想も膨らみますが、できればロマコメですね。
ドロンは確かに名作多いけど、ノワール調の作品が多く
一般的な人気作ってそんなになかった印象です。
人気投票では上位だけど、主演作はランクインの常連ではない。
でも「冒険者たち」なんて最高に良かったです。
そんなドロンがオードリィの葬儀に参列するなんて!
ただその真意・真相は不明でしたね。
A)残念ながら個人的なお付き合いがあったわけではありません。しかし彼女は皆に別れを告げてもらうに値する、偉大な女性だと思ったのです。
B)遅刻してすみません。彼女と初めてのデートでも僕は遅れてしまいました。本当にすみません。
C)ずっと彼女のことを尊敬していたんだ
D)(ただ一言)彼女は本当に美しい人でした・・・
僕はみつおさん同様にAだと思っていますが、
当時AとBという全く正反対な感じのコメントが載っていて困惑したものです。
とにかく超絶美形で今見ても驚きますね。
たくさんの充実した映画体験や想い出も提供してくれて感謝です。
Requiescat in pace
Posted by まる at 2024年08月26日 21:42
まるさん、こんにちは!
確かにアラン・ドロンの認知度は絶大でしたよね。
洋画をまだそんなに見てなかった小学校4年生の時の僕でも名前だけは知っていました。まだオードリー・ヘプバーンは知らなかったのですけど。
マリリン・モンローも認知度は絶大だったし、70年代前半はちょっと人気が復活した(というか、初めて日本で人気が出た)のか、生きていた頃には30位内にも入らなかった映画雑誌の人気投票でも、この時期は入ってましたね。と言ってもごく短期間でしたが。
ドロンの映画音楽、「太陽がいっぱい」のサントラが欲しくて、キング・レコードの「スクリーン・スター・ミュージック・ライブラリー」のアラン・ドロン編のCDを買いました。なんだか「太陽がいっぱい」の音楽はニーノ・ロータ自身が気に入ってなくて、サントラが出たのは日本だけだったとか。
その中での僕のお気に入りは「太陽がいっぱい」「ボルサリーノ」「太陽はひとりぼっち」「山猫」です。
一時期、アラン・ドロンの若い頃の作品を見ようと、LDで「若者のすべて」と「黒いチューリップ」を買いましたが、「若者のすべて」は暗く、「黒いチューリップ」は雰囲気は好きだったものの出来が…と思ってそこで挫折してしまいました。そんなにお金もなかったもので。
「学生たちの道」「生きる歓び」「お嬢さん、お手やわらかに!」は見ておきたかったんですけどねー。
でも音楽だけで言うと、「黒いチューリップ」も豪放で大好きです!
オードリーと6才年下のアラン・ドロン、共演するならやはり「ファニー」で1960年(オードリーが妊娠・出産しなかったとして)がよかったのかなーと思います。
オードリーは「パリで一緒に」の頃まではアラン・ドロンとも合う感じだとは思うのですが、ドロンの方がだんだん黒い部分を身にまとってしまうので、ロマコメがキツくなってくるんですよね。
その点、まだ1959年だと「お嬢さん、お手やわらかに!」の明るい好青年なので、行けそうな気がするんですよね。
同じジゴロ的な役でも、「ティファニーで朝食を」のジョージ・ペパードの代わりにアラン・ドロンだとどうだったでしょうね?
アラン・ドロンの作品は、僕がオードリーファンになった頃だと「パリの灯は遠く」「ブーメランのように」「友よ静かに死ね」辺りだと思うのですが、まるさんのおっしゃるように映画雑誌でも宣伝をかましてたわりにはヒットしてた印象は全く無いです。
やはり70年代のアラン・ドロンはダーバンの印象ですね。
それに、まるさんに書いていただいたオードリーの葬儀でのアラン・ドロンの発言、確かにBのも書かれてましたね。
でもどう考えてもオードリーとアラン・ドロンは性格的には相入れないと思うんですよね。あくまでも生真面目なオードリーと、裏のあるアラン・ドロン。
オードリーってそういう合う・合わないを嗅ぎつける能力には長けてそうですしね(浮気は見抜けないけど)。
なので交流は無かったと思います。
僕なんかオードリーの葬儀直後は、アラン・ドロンはオードリーの葬儀に来たら他のスター(や映画界のお偉いさん)たちももっといっぱい来てるだろうと踏んで売り込みに来たか、あるいはスターとして目立つから来た、と言う理由じゃないかとゲスの勘ぐりをしていました。
まあそういう部分も含めて、まだドロンが映画界でスレてしまう前の1959年や60年にオードリーに会えていればなあ〜と思った次第です。
でも本当に若い頃のドロンは絶世の美男ですよね。その遺伝子があるはずの息子たちがそこまでじゃないのが、やはりアラン・ドロンが不世出たる所以ですね。
今見てもすごい美形ですもんね。
ただ、令和のイケメンではないかもしれませんが、誰が見ても “好みじゃない”とは言えても、“ブサイク”だとは絶対に言えないですよね。
確かにアラン・ドロンの認知度は絶大でしたよね。
洋画をまだそんなに見てなかった小学校4年生の時の僕でも名前だけは知っていました。まだオードリー・ヘプバーンは知らなかったのですけど。
マリリン・モンローも認知度は絶大だったし、70年代前半はちょっと人気が復活した(というか、初めて日本で人気が出た)のか、生きていた頃には30位内にも入らなかった映画雑誌の人気投票でも、この時期は入ってましたね。と言ってもごく短期間でしたが。
ドロンの映画音楽、「太陽がいっぱい」のサントラが欲しくて、キング・レコードの「スクリーン・スター・ミュージック・ライブラリー」のアラン・ドロン編のCDを買いました。なんだか「太陽がいっぱい」の音楽はニーノ・ロータ自身が気に入ってなくて、サントラが出たのは日本だけだったとか。
その中での僕のお気に入りは「太陽がいっぱい」「ボルサリーノ」「太陽はひとりぼっち」「山猫」です。
一時期、アラン・ドロンの若い頃の作品を見ようと、LDで「若者のすべて」と「黒いチューリップ」を買いましたが、「若者のすべて」は暗く、「黒いチューリップ」は雰囲気は好きだったものの出来が…と思ってそこで挫折してしまいました。そんなにお金もなかったもので。
「学生たちの道」「生きる歓び」「お嬢さん、お手やわらかに!」は見ておきたかったんですけどねー。
でも音楽だけで言うと、「黒いチューリップ」も豪放で大好きです!
オードリーと6才年下のアラン・ドロン、共演するならやはり「ファニー」で1960年(オードリーが妊娠・出産しなかったとして)がよかったのかなーと思います。
オードリーは「パリで一緒に」の頃まではアラン・ドロンとも合う感じだとは思うのですが、ドロンの方がだんだん黒い部分を身にまとってしまうので、ロマコメがキツくなってくるんですよね。
その点、まだ1959年だと「お嬢さん、お手やわらかに!」の明るい好青年なので、行けそうな気がするんですよね。
同じジゴロ的な役でも、「ティファニーで朝食を」のジョージ・ペパードの代わりにアラン・ドロンだとどうだったでしょうね?
アラン・ドロンの作品は、僕がオードリーファンになった頃だと「パリの灯は遠く」「ブーメランのように」「友よ静かに死ね」辺りだと思うのですが、まるさんのおっしゃるように映画雑誌でも宣伝をかましてたわりにはヒットしてた印象は全く無いです。
やはり70年代のアラン・ドロンはダーバンの印象ですね。
それに、まるさんに書いていただいたオードリーの葬儀でのアラン・ドロンの発言、確かにBのも書かれてましたね。
でもどう考えてもオードリーとアラン・ドロンは性格的には相入れないと思うんですよね。あくまでも生真面目なオードリーと、裏のあるアラン・ドロン。
オードリーってそういう合う・合わないを嗅ぎつける能力には長けてそうですしね(浮気は見抜けないけど)。
なので交流は無かったと思います。
僕なんかオードリーの葬儀直後は、アラン・ドロンはオードリーの葬儀に来たら他のスター(や映画界のお偉いさん)たちももっといっぱい来てるだろうと踏んで売り込みに来たか、あるいはスターとして目立つから来た、と言う理由じゃないかとゲスの勘ぐりをしていました。
まあそういう部分も含めて、まだドロンが映画界でスレてしまう前の1959年や60年にオードリーに会えていればなあ〜と思った次第です。
でも本当に若い頃のドロンは絶世の美男ですよね。その遺伝子があるはずの息子たちがそこまでじゃないのが、やはりアラン・ドロンが不世出たる所以ですね。
今見てもすごい美形ですもんね。
ただ、令和のイケメンではないかもしれませんが、誰が見ても “好みじゃない”とは言えても、“ブサイク”だとは絶対に言えないですよね。
Posted by みつお
at 2024年08月27日 17:48
