2025年04月30日

オードリー・ヘプバーンのカムバックを報じる1975年の「ロードショー」


 今年は「ロビンとマリアン」の撮影からちょうど50年に当たります。
 5年前にオードリーのカムバックを知らせる「スクリーン」の記事を載せたので、今回はライバル誌「ロードショー」での記事を紹介。

 本体はもうとっくに潰してしまって、74〜75年であることはわかりますが、何月号かはわかりません。

 19●5年という年は、僕らみたいな一般人からすると、活躍してたオードリーには縁遠い年ばかりなのですよね。

 例えば55年はオードリーの新作は日米とも公開されてないし、65年も75年も85年もそう(65年は前年からの超大ヒットで「マイ・フェア・レディ」は上映され続けてるけど)。

 でもオードリーの立場に立ってそれらの年を眺めてみると、違った景色が見えてくるんですよね。

 それらの年はみんなオードリーからすると、再起を賭けた年ばかりになるんです。

 というのも55年は「ローマの休日」「麗しのサブリナ」と公開された後で、センセーショナルなオードリーの登場から54年にはメル・ファーラーとの結婚を経て、約1年オードリーはお休みするんですよね。

 当時の若い女優さんは結婚というものが人気にはマイナスになることも多く、日米とも人気が落ち着いて、映画界に復帰するにもファンにも忘れられてないか、オードリーはちょっと不安だったんじゃないかなーと思うんですよ。

 なんせ若い頃のオードリーは「果たして次の役はあるのかしら?」ってずっと不安だったと後年のオードリーが告白していますもんね。

 そんな中、「戦争と平和」に復帰・主演することになって、当時の日本の雑誌でもオードリーの再起という見方をしてたし、 “それにしては作品が大きすぎる”と言われていたほどの超大作。

 失敗は許されなかったでしょうし、オードリーの肩にのしかかる重圧も相当なものだったんだろうなーと思いますよね。
 これがオードリーから見た1955年。

 64年は「マイ・フェア・レディ」バッシングが起きたので、オードリーは精神的に相当やられてましたからね。
 それまで “老けない”と言われていたオードリーだったのに、バッシングのストレスで体重も落ちて痩せてしまい、顔にもシワが刻まれてしまうことになりました。

 63年の12月に「マイ・フェア・レディ」の撮影が終わったオードリーでしたが、そのバッシングのせいなのか、1年7ヶ月も映画に出ませんでした。

 そんな中、65年に恩師ウィリアム・ワイラー監督の「おしゃれ泥棒」で再びカメラの前に立ったオードリーでしたけど、世間から受け入れてもらえるかすっごい不安だったと思います。

 この時、相手役がオードリーを笑わせてくれるピーター・オトゥールで本当に良かった!この時の相手役がハンフリー・ボガートやレックス・ハリスンだったら、余計にオードリーはストレス溜まったでしょうねー。

 そしてこの75年。8年という家庭と子育てを大事にした長いブランクの後に、「ロビンとマリアン」で復帰することになるんですよね。

 オードリー自身は“カムバックなんて言わないでください。私は引退したつもりはありませんでしたから。”って言ってますけど、8年も音沙汰無かったら、そりゃ世間は完全に引退したと思いますよね。

 実際、この「ロビンとマリアン」の時でも、“でも今後はもう映画に出ません”なんて言ってるし。

 それにオードリー自身がインタビューで答えているように、8年も映画に出ない間にハリウッドでも “アメリカン・ニューシネマ”の風が吹き荒れて映画の作り方は変わっているし、最初はオードリーもリチャード・レスター監督の早撮りについていくのが大変だったそうですしね。

 さてさて「ロードショー」での復帰記事は第1報は別にあったかもなんですが今見つからずで、ここでの最初のはオードリーがフランケンハイマー監督の「デス・オブ・ロビン・フッド」という作品でポール・ニューマンと共演、という記事。

 ジョン・フランケンハイマーは確かに最初「ロビンとマリアン」の監督でした。
 その後、リチャード・レスターが自分がどうしても監督をしたいと言って交代になったんですよね。

 ジョン・フランケンハイマーは「ティファニーで朝食を」でも監督の予定だったのに交替になってしまっているので、オードリーとはよくよく縁がないですね。

 そしてこの時はポール・ニューマンが相手役の候補だったんですね。彼は「いつも2人で」でも相手役の第一候補でしたよね。他にも「いつも2人で」つながりのアルバート・フォニーにロビン役のオファーが行ったという話も聞きますね。

 でもポール・ニューマンのロビンはちょっと想像できないかな。マリアンを思うというより、自分のこと優先しそうだしね。
 マリアンを愛で包み込むという設定を信じられるのはショーン・コネリーのほうがピッタリ!

 さらにこの記事では、“オードリーは映画に出たがっている” “彼女の家のあるイタリア近くで撮影されなければ、子供たちの夏休みの間に撮影しなければならない”と書かれています。

 当時、オードリーはそろそろ夫のアンドレア・ドッティとの仲が行き詰まり始めていた頃。

 家庭にばかり居て夫の度重なる浮気を目の当たりにしてストレスを溜めるより、映画に出て気分転換にもなるだろうし、外に出ることによって、ドッティに家に居る妻のありがたみをわかってもらおうという考えもあったのかも。

 ここでの記事では家族全員同伴、という条件があったと書かれていますが、実際には次男のまだ当時5歳のルカだけを伴って夏休み中にロケに出かけていきましたね。

 まあドッティは精神科医の仕事でそんなに家を空けるのは無理でしょうし、ショーンはもう14〜15歳で学校があるでしょうし、全員はもともと無理ですよね。

 でもこの記事は作品名も共演者も監督も違うし、契約もまだという、かなり初期のニュースですよね。
 74年〜75年の記事だと思います。

 次の記事ではもっとしっかりした情報が出てきています。
 コロムビア社の発表によれば、同社の新作にオードリーの出演が決定、契約も終わったとのこと。

 映画の題名はまだ決まっていないものの、ロビン・フッドの冒険をもとに、ジェームス・ゴールドマンが脚本、リチャード・レスターが監督、ショーン・コネリーが共演、と実際の「ロビンとマリアン」との齟齬がない情報。

 「スクリーン」でのソース元はバラエティ誌の3月12日号、となっていましたから、この記事もおそらく「ロードショー」の1975年6月号(4月21日発売)くらいの記事。

 そして「スクリーン」でも載っていた、まだ契約していない次の新作「父の日」のことも書いてます。

 こちらは20世紀フォックス作品で、エリザベス・テイラーとパティ・デュークとの共演。
 夫に先立たれて、苦悩する3人の未亡人の1人、という役柄であったようです。

 さて、同じ頃の「ロードショー」だと思うのですが、マットコート紙のピンナップページで「シャレード」のオードリーが。

 “ヘップバーン・ファンに快ニュース。「暗くなるまで待って」以来9年ぶりに映画出演が決定。パートナーはショーン・コネリーとか。”って書いてます。
 でもこれ、1975年時点では「暗くなるまで待って」からは8年なのにね。

 さて「ロードショー」での次は、2ページを使って、森杏子さんという方が書いておられます。

 でもここは見出しで書いてあるだけで、「ロビンとマリアン」の話ではありません。
 オードリーの過去から最近の話までについて語られています。

 よく「許されざる者」の落馬で入院した時に、病室が白一色で覆われていた、という話が、ここでは「尼僧物語」のインタビュー中の話になっています。

 どっちが本当かはわかりませんが、部屋を全部白にするなんて、自宅でインタビューをしたとは思えないオードリーにとって、まあ病室の方がありえそうだなあとは思いますね。

 メル・ファーラーとの結婚では、いつの間にか “かばわれる”側から “被害を受ける”側に変わって、年齢差が気にならなくなっていた、という部分が印象的。

 あと、3人の母である、と書かれているのが、おや?と思いますよね。
 これ、74年にオードリーが妊娠、という記事が「ロードショー」で出ていましたから、その後産まれた、と勘違いしているのかもですね。

 そして “46歳の女性のカムバックをこれほど心待ちにする現象が起こり得るだろうか。「いつも2人で」や「暗くなるまで待って」さえもあり得ないはずなのに…”と書いておられます。

 実際には71年の「エクスラン・ヴァリーエ」で日本にはお目見えしてるので、4年ぶりくらいだし、「ロードショー」や「スクリーン」で頻繁に最近のスナップ記事は載っていたはずなんですよね。

 でもオードリーにそれほど関心がないと、それらを見ていなければ確かに「暗くなるまで待って」の後8年も経ち、一体どうなっているんだろうという思いも出てきますよね。

 それでもこの森杏子さんはオードリーがカムバックするのを楽しみに待ってくれているようです。
 「スクリーン」でカムバック記事を書いた渡辺祥子さんが “出てきてほしくない”と書いたのとは対照的。

 ところで、「ロビンとマリアン」の次の作品が、ここではジョージ・シーガル共演の「チェンジ・オブ・シーズンズ」になる模様、と書かれています。既に「父の日」の話は無くなっていますね。

 そして過去にオードリーが出演するんじゃないかと言われていた「ジャック・ポット」という作品はシャーロット・ランプリングに役が回ったと書かれています。

 結局調べても「父の日」も「チェンジ・オブ・シーズンズ」も「ジャック・ポット」もその後製作されていないようですね。

 最近のこととして、アンソニー・パーキンスとその妻のベリーはローマでオードリーに何度も招待されて食事をしたけど、会話は映画の話ではなく、ほとんど双方とも子供の話だった、というのがわかってほーって思います。

 でもこのアンソニー・パーキンスの奥様って、9.11のアメリカ同時多発テロの時に飛行機に乗っていて命を落とすんですよね…。

 後、ものすごい気になる部分が、“彼女の作品の中でいちばん好きといわれる「いつも2人で」に似たロマンティックな役を求めている”という部分。

 裏面の2ページ目には「いつも2人で」の画像も載っているのですが、そのキャプションも“彼女がいちばん好きだった作品「いつも2人で」”と書いてます。

 まあ出典が無いので話半分ですけど、それでも「いつも2人で」をオードリーが気に入っていた、というのはよく聞きますよね。

 最後に書かれているのは、オードリーの出演の条件は厳しくて、(当時)住んでいるローマの近郊で撮影するか、夫や子供がバカンスの夏休みの間だけか、遠いロケ地の場合は家族の同行を認める、ということ。

 オードリーは「決してスターの贅沢やわがままではありません。これが私の生活の態度なんです。」と語ったそう。
 森杏子さんも “いい奥さんです”と書いておられます。

 確かにショーンが子供の頃は女優を続けていてすっごく寂しかったそうですし、演じていても気になって仕方なかったそうです。演技が終わると即家に電話をかけてショーンがどうしているか聞いていたそう。

 さらに離れてることでメル・ファーラーも浮気…となるともう家族と離れたくない!自分の女優業のせいで家庭を崩壊させたくない!というオードリーの考えは一貫してますし、わかりますよね。

 女優もめっちゃしたくてわがままを言ってるんではなく、家族と離れるくらいなら別にその作品には出なくてもいい、という70年代以降のオードリーの姿勢ですよね。

 女優という仕事に貪欲で無くなったオードリーの「ロビンとマリアン」より後ろの4作品はどれもパッとしませんでしたし、「愛と喝采の日々」「愛と哀しみの果て」という2大傑作を逃してしまったというのはほんと残念なんですけどね。

 でもオードリー的には家庭に入れて、これで充実してたんでしょうね。
  


2025年04月20日

「ローマの休日」1970年リバイバル55周年 「スクリーン」1970年4月号

 今日は「ローマの休日」1970年のリバイバルから55周年ということで、その紹介の載った1970年4月号(発売2月21日)の「スクリーン」を紹介。

 今年2025年には大阪万博がありますが、この1970年も最初の大阪万博の年ですね。

 この時の封切館はテアトル銀座と新宿武蔵野館で、4月4日〜6月12日までの上映ののち、全国で上映されました。
 はい、55年前の今、まさに上映中ですね。

 東京テアトル株式会社のテアトル銀座と、武蔵野興業の新宿武蔵野館はこの当時はロードショー館として組んでいて、前年(1969年)の「ティファニーで朝食を」のリバイバルもこの2館から同時スタートでした。

 当時の定員は、同じ70年の別の号の「スクリーン」によると、テアトル銀座が831人、新宿武蔵野館が500人だったそうです。

 定員というのが座席数なんですが、館によっては座席よりも多く消防署に届け出てた劇場もあったそうです。
 まあ当時は指定席じゃないんで、通路に座ったり、座席の最後部に立って見る人もいたりしたので、そういうのも多少含んでいたのかもしれません。

 さて、同じ劇場での69年の「ティファニーで朝食を」が4週間の上映だったのに比べて、こちらの「ローマの休日」は2ヶ月以上の堂々70日(10週)のロングラン!

 当時は「ティファニーで朝食を」のみんなの抱いているイメージが低めだったのと、「ローマの休日」は1963年リバイバル以来の公開ということで、“映画館の観客は7年で入れ替わる”のセオリー通りに上映したこともあり、またまた大ヒットとなったようです。

 そして54年初公開時にはポスターからプレスシートからパンフレットからなんでもヘプバーンカット推しでしたが、63年リバイバルのパンフレットでティアラオードリーが出始めて、この70年リバイバルからはポスター、プレスシート、パンフレットでメインイメージは徹底的にティアラオードリーでグイグイ押してます。

 このティアラオードリーそのままに73年・77年リバイバルまで行きましたし、VHSのビデオジャケットもLDもティアラオードリー、その後も2003年リバイバルやDVD、昨年と一昨年のリバイバル時のビジュアルまで影響を及ぼすなど、今や日本で「ローマの休日」と言えばティアラオードリーになってますよね。

 さてこの1970年というと、同じ洋画ファン雑誌だった「映画の友」は廃刊になってるし、「ロードショー」は創刊前。
 なので「スクリーン」の独壇場だった頃ですね。

 まずはモノクログラビアページで「おしゃれ泥棒」のオードリーが載っています。
 左1ページと、右ページにも少し食い込んでます。

 でもこれ、「ロードショー」の創刊2号だった1972年6月号の表紙のカラーの別ショット。
 なので、このモノクロでも不自然な感じがあって、本来はカラーなんだろうなという陰影がついています。

 とにかく70年代前半は化粧の流行もあって、「おしゃれ泥棒」のオードリーが使われることが多かった!

 当時は濃いマスカラとつけまつげで、芸能人もこういうメイクの人が多かったんです。弘田三枝子さん、山本リンダさん、奥村チヨさん、辺見マリさん、和田アキ子さん、天地真理さんなどなど。

 オードリーの「おしゃれ泥棒」が公開された1966年頃は “オードリーも濃いメイクになって…”なんて言われていましたが、やっと時代が追いついてきた、ということですね。
 当時は世間でも濃いアイメイクと付けまつげが多かったです。

 なので、古本を集めていた中学時代の僕にとって、オードリーの1番のイメージと言えば「おしゃれ泥棒」のオードリーでしたね。

 でも文章は “「マイ・フェア・レディ」の再公開でオードリー・ヘプバーンの魅力をはじめて知った人もいるんじゃないかしら?”と69年年末に70年のお正月映画として公開された「マイ・フェア・レディ」のことが書かれています。

 「マイ・フェア・レディ」の69年リバイバルは69年12月13日〜70年2月20日まで松竹系の劇場の頂点、丸の内ピカデリーなど全国の最大の松竹系劇場で封切りでしたから、まさにこの「スクリーン」の発売日前日までロングランしてたんですね。

 このころの「スクリーン」だと、オードリーは引退中なので、カラーやモノクロのグラビアで載るくらいで、あんまり記事って無いんですが、スターの近況欄でオードリーがルカを出産したことが載っています。

 そういえば長男ショーンの誕生日はオードリーの伝記で間違えられていることが多くて、逆に7月17日って覚えちゃいましたが、次男ルカの誕生日って覚えてないなーと思いましたが、この記事で2月8日かーと思いました。

 このルカ誕生の記事って、次号にもなぜか載ってるんですよね。しかも詳細ではなく、より簡素になってるし。

 あとは「ローマの休日」のリバイバル紹介のグラビアと、ブロマイド専門店の春美栄光堂さんの紹介でオードリーは出てくるだけですね。

 「ローマの休日」は2回目のリバイバルなので、残念ながらもう珍しい画像とかは無し。

 こないだの2023年字幕版・2024年吹替版のリバイバルもそうでしたけど、もうリバイバルとなると権利元のパラマウントも同じ画像しか出してくれないんですよね。

 そりゃもう100年以上も映画を作ってきたパラマウントですから膨大な作品があるはずで、なんでもかんでも画像って残しとくわけにもいかないですよね。

 特に「ローマの休日」は漁り尽くされて珍しい画像が少ない作品ですよね。

 解説では
「今でも絶対の人気をもつオードリー・ヘプバーンをして彗星のようにスターの座につかせたばかりでなく、ロマンティック・コメディーとしても、一世を風靡したほどのすぐれた出来ばえの作品である。」
と書かれています。

 とまあそれはいいんですけどね。3カ月後の号(7月号)では4月リバイバル公開作品として「ローマの休日」も載っているんですが、採点が☆☆☆☆の80点なんですよね。

 「スクリーン」で“ぼくの祭典表”というコーナーをお持ちだった双葉十三郎さんの採点では☆☆☆☆★の85点なんですけどね。
 まあ☆☆☆☆は「スクリーン」編集部の採点なんでしょうね。

 でも今でこそ「ローマの休日」って他に並ぶべくも無いロマンティック・コメディーの最高峰の100点!みたいに扱われますけど、確かにこの当時は出来の良いロマンティック・コメディーの中の1本という扱いでしたね。
 それが80点という採点にも現れてますよね。

 オードリーは以上ですが、「世界映画のあのスター」という連載で、この号は1948年なんですが、そこではヴィヴィアン・リーの「アンナ・カレニナ」がちょこっと載っています。

「ジュリアン・デュビビエの『アンナ・カレニナ』は気分的によろしいのが取り柄だが、ヴィヴィアン・リーのおかげで見られたようなものだった」
と褒めているのか貶しているのか、ごちゃまぜのような評価ですね。

 「欲望という名の電車」でわざとやつれメイクを施すヴィヴィアン・リーにとって、「アンナ・カレニナ」は最後の若く美しい映画でしたね。本当に美しい!
 どなたかが言ったように、“あんなに可憐にな”なヴィヴィアン・リーでした。

 この号、表紙はミア・ファローですね。
 オードリーが「暗くなるまで待って」で半引退状態になった時に、「今後は私の役柄はミア・ファローが継いでくれるでしょう」と言ってましたね。

 でもミアは「ローズマリーの赤ちゃん」が代表作なように、オードリーよりもかなりエキセントリック。活動家の一面もあったりで、オードリーの後は継いでないですよね。

 それでもオードリーが出演予定だったけど、「マイ・フェア・レディ」のために役を降りた「公衆の目」という作品は、オードリーの代わりにジュリー・アンドリュースに回り、結局ジュリーも演じずにミア・ファローに回って「フォロー・ミー」という作品になりますので、この作品だけはオードリーを継いだのかも。

 さて、そういえば「午前十時の映画祭」、今年はまさかの「ローマの休日」だそうです。

 本当に映画の選定委員を殴ってやりたいような気分です。
 こんな「ローマの休日」ばっかり選ぶって、もう老害ですよ、ほんま。

 昨年も一昨年も「ローマの休日」は正式にリバイバルされたのに、またやるの???
 こんな安易に「ローマの休日」を上映して欲しく無いし、「ローマの休日」が雑に扱われるのもイヤ。

 僕にとっては23年に松竹座の特別上映でも見たし、字幕版のリバイバルも見たし、24年の吹替版も見たから、もうお腹いっぱい。

 何回も何回も立て続けに見て「ローマの休日」への感動や愛情をすり減らしたく無いから、今年の「午前十時の映画祭」は応援しません。

 いい加減に「暗くなるまで待って」「噂の二人」「尼僧物語」「ロビンとマリアン」をやってよ!って感じですね。プンプン。

「ローマの休日」1970年リバイバル 過去記事
立看ポスター
プレスシート
パンフレット
  


2025年04月10日

「麗しのサブリナ」ポストカード1 1965年リバイバルと著作権切れについて

 はい、今年は「麗しのサブリナ」の1965年リバイバルからちょうど60年に当たるのと、とうとうパラマウントの著作権が切れてしまったことについて。

 僕の持っている「麗しのサブリナ」のポストカードの一部の紹介とともに書いていこうと思います。

 さて、まず1965年のリバイバルですが、東京のニュー東宝で4月3日〜4月27日まで上映されました。
 60年前の今頃はちょうど上映中だったわけですよね。

 「麗しのサブリナ」としては初めてのリバイバルだったのですが、3週間と4日だなんて、案外ふるってませんね。そのため65年のニュー東宝館名入りパンフレットもあまり出回っていません。

 というのもきっと、「麗しのサブリナ」は初公開時に男性がほとんどだった映画評論家の方たちに受けが良くなかったから。
 批評家によっては失敗とまで言われてました。

 まあ内容的に、女性が男性2人の間で揺れるものだしね。
 この当時の映画評論家って、戦前生まれの人も多くいたでしょうし、女性が主導権を握って男を乗り換えるなんてけしからん!って感覚だったんでしょうね。

 かくいう僕も、デイビッドの立場になると、ちょっと怪我して治ったら、彼女はお兄さんに取られていた!ってなんか最悪じゃ無いですか?
 映画のように僕はお兄さんとサブリナを祝福なんて出来ないかも…って思っちゃいます。

 なので昔から「麗しのサブリナ」は女性のファンが多いと思います。
 女性が主導権を握る恋愛って、初公開時もリバイバル時にも珍しかったし、そんなサブリナに感情移入すると心地よかったのではないでしょうか。

 1996年に、JALの93年I’ll オードリーツアーに行った人の集いに僕も講演と演奏で参加させてもらいましたけど、女性の方には「麗しのサブリナ」が一番好きって方が数名いらっしゃいました。

 さてさて、当時の東宝というと、1500席規模の有楽座、日比谷映劇、スカラ座、テアトル東京などのチェーンマスター館がありましたから、ニュー東宝は封切館といえども規模も小さいんですよね(と言っても今なら大劇場)。

 「麗しのサブリナ」自体、今でこそ日本でもオードリーの代表作の1本ですけど、当時はビリー・ワイルダーなら「昼下りの情事」の方が圧倒的に上の扱いでしたからねー。

 というわけで、初のリバイバルでしたけど、水準の成績しか残せなかったんではないかと。
 その後は日本ヘラルドのパラマウント映画のリバイバルの一環として上映された1985年まで正式リバイバルが途切れます。

 でもその後は95年までのオードリーの大ブームや、2013年の「スクリーン・ビューティーズ」や、2011年・2012年・2013年・2017年の午前十時の映画祭と何度も何度も上映されているのはご存知の通り。

 …とまあパラマウントのドル箱映画の1本だった「麗しのサブリナ」ですけど、昨年2024年をもって日本での70年という著作権が切れ、今年からは著作権フリーになりました。

 2003年にそれまで50年だった著作権が2004年から70年に延長されることになり、1953年の「ローマの休日」は2003年に切れていましたが、とうとうそこからさらに20年経って、「麗しのサブリナ」も切れることになったんですよね。

 海外でも70年で切れたところがあるのか、早速YouTubeには「麗しのサブリナ」のカラーライズ化されたものとか挙がってますよね。

 まあでもまだ動画のカラーライズ化は一般的ではないので、どこかがクラウド・ファンディングでやっていた「ローマの休日」のカラーライズ化とともにまだまだな出来ですけどね。

 だいたい、カラーライズ化する人ってのがきちんと調べてないので、「ローマの休日」のスカートが本来ベージュ(淡いブラウン)なのに水色だったりとか、そういう映画に対して知識もリスペクトも無い人がしたりするのはやめて欲しいですね。

 さて、これから27年には「戦争と平和」が、28年には「パリの恋人」と「昼下りの情事」と「マイヤーリング」が、と次々に著作権が切れていきます。

 でも、「麗しのサブリナ」の画像やポスターや宣材とかは、肖像権やらカメラマンやデザイナーの著作権やら別の権利が絡んできますので、安易に使ってもいい、というわけでもないです。

 さて、今回紹介したポストカードにも説明を入れていきますね。

 まずメインで使ったのは「麗しのサブリナ」の宣伝写真。これ、夕方か朝に撮ったんだと思うんですが、全体的に本当の色が難しい。ここのもちょっと濃いすぎですよね。

 それと、この画像が使われるのって「アルバム オードリー・ヘップバーン」くらいからなんですけど、その時から「SCREEN」の2008年に表紙になった時も、そしてこのポストカードも裏焼き。

 オードリーの「麗しのサブリナ」の髪型って、左分けなんですよね。映画を見てもわかりますけど、何でこんなに裏焼きが多いんでしょうね。

 というわけで、ここでは正向きに訂正したものをまず1番に載せてみました。2番目のがポストカードに印刷されているものです。
 正向きで載せてくれたのって、宝島のムック本くらいでしたっけ。でもあれは発色が悪いんですよね。オードリーの顔が紫。

 3番目と4番目のは「麗しのサブリナ」ビデオを売るためにパラマウントの販促で作られた非売品のポストカード。
 僕は「麗しのサブリナ」の字幕版ビデオって持ってないんですけど、吹替版ビデオを買った時にでもらったのかな?

 3番目のはここではサブリナ扱いですけど、これって1953年の「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の撮影の間の時期にバド・フレイカーが撮った一連の宣伝写真ですね。髪型が「ローマの休日」でも「麗しのサブリナ」でもありません。

 ていうか、この時にネグリジェ着て「ローマの休日」用の宣伝写真を撮ったりしてるんですよね。でもまあ時期的にギリ「麗しのサブリナ」として使われても許せる範囲。

 パラマウントって、他にも「パリの恋人」の画像を「麗しのサブリナ」扱いで使ったりもするんで(別のポストカードやクレジットカードでも)、公式のものといえどもあんまり信用できないんですよね。

 まあこれもパラマウント内にもうオードリーと同時期を生きた人がいないからなんでしょうけどね。
 公式が間違った発信をするのはちょっとなーと思います。 

 4枚目は本国アメリカでのポスターをあしらったもの。こちらは写真を使って着色していますね。

 5枚目も海外のポスターですけど、こちらはイラスト。

 海外のイラストのオードリーって、なんかオードリーの優しさを捉えられてないことが多いんですよね。
 有名な「ティファニーで朝食を」のもそうなんですけど、どうしてもエヴァ・ガードナーとか、グラマー系のものになっちゃうんですよね。

 このポスターでは、1952年「アフリカの女王」で主演男優賞を獲ったハンフリー・ボガート、54年に「第十七捕虜収容所」で主演男優賞のウィリアム・ホールデンと同じく54年に「ローマの休日」で主演女優賞を獲ったオードリーのアカデミー賞があしらわれています。

 6枚目はマーク・ショウの撮った「麗しのサブリナ」撮影時期のプライベート・オードリー。
 これ、モノクロなので白のシャツに黒のパンツみたいに見えますけど、マーク・ショウの写真集に載ってましたが、実際はピンクのシャツに真っ赤のパンツ。

 オードリーのファッションについて、とても詳しく素晴らしいサイトがありまして、僕もいつも楽しく読ませていただいてるんですけど、残念ながら書いてらっしゃる方がファッションには詳しくても、実際はどういう色かということは調査不足のよう。

 それに本物のカラー写真なのか、後年誰かが勝手にカラーライズした着色カラーなのかの分別もイマイチなようなのですよね。
 まあ一般の方はネットを見ても見分けられない方ばかりなようなのですけど。

 僕は逆にジバンシィとかイーディス・ヘッドとかドロシー・ジーキンズ以外の誰それのデザインとかってのは全然詳しくないんですが、仕事柄フォトショで着色されたものはすぐわかるんです。

 なので、着色カラーの「ローマの休日」の大使館のドレスをピンクだと書いてたり、街着のスカートを着色の水色カラーの画像で載せていたりするのが、せっかくの内容なのにとっても残念なんですよね。

 このモノクロ画像と同じ衣装も「白のシャツに黒のパンツ」って書かれてるんですが、モノクロ写真で色のこと書いちゃダメなんですよね。
 白と黒って書きたかったら、絶対的にカラー写真が必要なんです。もちろん偽物の着色カラーじゃなく。

 クレヴィス社の写真展と写真集でも同じ衣装で同じこと書いてて、僕がクレヴィス社さんに連絡したら、2刷りからはその文章が変更されましたが、そのファッションサイトさんも同じ間違いをしてるので、そこはとても残念。

 この衣装で別のカラーショットも現存してて「SCREEN」でもシャツが写ってるのが載りましたけど、やはりピンクなんですよね。

 さて、最後はジャンパー・スカートを着て頬杖をつくオードリー。
 これも有名な画像ですよね。

 でもこのポストカードの画像はどえらいピンボケ。本来の画像はめっちゃ鮮明なんですけどね。
 よくまあこれをポストカードにしようと思ったなーと思います。

 そして今回見てて思ったんですが、なんか保存年月日もだいぶ経つので、カビが生えたように見えるのが、よく見たら模様なんですよね、これ。

 こんなピンボケ画像に、カビに見える模様って…。だれやー!デザインしたの!

 これと同じ画像で、別のポストカードも持っているんですが、そちらは鮮明。
 そちらはまた別の機会に。

65年リバイバルの過去の記事
B2ポスター Aタイプ
プレスシート
キャビネ写真
パンフレット(東宝版)
パンフレット(大阪映実版)
パンフレット(一般用A)
パンフレット(一般用B)
パンフレット(一般用C)
  


2025年04月05日

1965年アカデミー賞授賞式 「マイ・フェア・レディ」

 今日からちょうど60年前の1965年4月5日は、1965年(1964年度)のアカデミー賞授賞式が行われた日です。

 以前から、今日はこの1965年アカデミー授賞式の様子を載せた雑誌の切り抜きを紹介しようと思っていたのですが、ここのところ雑誌の紹介ばかりだったので、趣向を変えて当時の授賞式の動画をYouTubeからお借りして紹介することにしました。

 まずは授賞式開始前〜開始の様子。
 当時の放送はカラーだったでしょうが、モノクロしか残ってないのが残念ですね。翌年の1966年からはカラーが残っているようなのですが…。

 と言っても、当時はビデオにしろキネスコープ(キネコ)にしろものすごい高価で、録画された上から上書きされる使い回しが多かったそうですから、モノクロでも残っているだけいいんだろうなーと思います。

 日本でもNHKとか、お金のかかった大河ドラマでも80年以前は残ってないそうですからね。

 まずは会場前から。リチャード・チェンバレン、「奥さまは魔女」でサマンサのお母さんエンドラ役で有名なアグネス・ムーアヘッド(助演女優賞候補)、アン・マーグレット、デボラ・カー、ジェーン・フォンダなんかが写っていますね。

 開始の音楽は「マイ・フェア・レディ」の“踊り明かそう”“君住む街で”“彼女のことで頭がいっぱい”のアレンジ(他の候補曲と混ぜてる?)で始まります。

 こんなに「マイ・フェア・レディ」の音楽ばっかりでいいの?って思ってしまいます。こんなの編曲賞で候補になっている「マイ・フェア・レディ」が獲ったも同然やん、みたいな。まあ本当に獲りましたけどね。

 4:37にオードリー登場。自分が写っていることに気づいてちょっと照れるオードリーが可愛い!横には監督のジョージ・キューカーが座っています。

 すぐその後にジュリー・アンドリュースとレックス・ハリスンが写りますが、しばらく後にまたオードリーが写ります。
 12:32のジュリー・アンドリュースが映るシーンに次いで、2番目に再生回数が最も多い部分になってます。

 その後授賞式が開始されますが、この映像で終わりの方でプレゼンターとしてスティーブ・マックイーンも出てきます。これが3番目に再生の多い部分です。




 続いては、衣裳デザイン賞と撮影賞と編曲省。どれも「マイ・フェア・レディ」が獲っています。
 3つとも映像の最後の方に拍手をするオードリーが出てきます。








 次は主演男優賞。もちろんレックス・ハリスンが獲っていますね。
 そしてプレゼンターはオードリー。

 本来、オードリーは主演女優賞にノミネートされていませんし、前年度の主演女優賞を獲得したわけでもないので、ここに出演する義理はないのですが、友人のグレゴリー・ペックに請われて、脳卒中のために歩くことも喋ることもできず臥せっている前年度の主演女優賞のパトリシア・ニール(「ティファニーで朝食を」の2Eとしてオードリーと共演済み)の代役として舞台に上がりました。

 でもここまでに、マーニ・ニクソンの旦那だった映画音楽家のアーネスト・ゴールドによって、吹替の事をバラされており、オードリーに対しては酷いバッシングが起こっていました。いまだったら炎上してるところですね。

 ジュリー・アンドリュースを使わなかったのはワーナー映画の総帥ジャック・ワーナーだし、オードリーは、ジュリーが役を自分のものとしていると一旦は断ったくらい。
 オードリーは一生懸命発声練習をして、全曲吹き込んでいたのに、それを使わなかったのはジョージ・キューカーたち。

 それでもジュリー本人がスクリーン・テストを蹴ったことや、オードリーはほとんど吹き替えられることを知らなかったにもかかわらず、オードリーへのものすごいバッシングが起こったんですよね。

 今まで何も悪いこともせず、人を傷つけることもしなかったオードリー。ただ、ちょっとハリウッドとは距離をおいて、平穏に暮らしたいからスイスに住んでいただけなんですが、それを品行方正過ぎてお高くとまっている、とここぞとばかりに叩くマスコミなどがいたんですよね。

 それでアカデミー主演女優賞のノミネートからも落ちてしまったオードリーですが、当時、オードリーに対してあまりに不当!と、ノミネートされてなくてもオードリーに投票しよう!とアカデミー会員からの反発の運動も起きたくらい。

 あまりにその運動のうねりが大きかったので、当時のアカデミーの会長が、ノミネートされていない人に投票しても無効、とわざわざ声明を出したくらいでした。

 ここでも、授賞式に出席しなかったら嫉妬や妬みで参加しなかった負け犬だとまたマスコミに叩かれるとわかって、グレゴリー・ペックも出席させるのはあまりに酷だとわかっていても友人のオードリーに頼んだんでしょうし、オードリーも無理して出席したんだと思います。

 オードリーにとっては本当に針のむしろにいるような思いで出席していたんだと思います。他の賞で「マイ・フェア・レディ」が受賞している時でも、オードリーの顔は緊張していて強張っています。

 この主演男優賞のプレゼンターもオードリーは無理して笑顔で登場しますが、ブーイングされるんではないかと頭真っ白で、緊張で本当に倒れそうだったんじゃないかと。

 でもバッシングの反動で、ここでのオードリーはひときわ大きな長い拍手で迎えられます。伝記でも、“ノミネートもしなかったことへのお詫びの気持ちが入っていた”と書かれていました。

 でもここで、オードリーは緊張のあまり、息子ショーンの言う “人生で最も悪いこと”をしてしまいます。
 なんと前年度の主演女優賞のパトリシア・ニールの代役であることをいうのを忘れてしまったんですよね。

 オードリーがパトリシア・ニールの代わりであるということを言い忘れたので、テレビで見ていたパトリシア・ニールは怒りで言葉にならない叫びをあげ、動く方の手でテーブルをバンバン叩いたそうです。

 夫のロアルド・ダールは後ですぐにオードリーが謝罪の電話を入れても「失せやがれ!」と言って許さなかったとか。

 でもパトリシア・ニール本人は、のちに当時酷いバッシングを受けていたオードリーの緊張しまくりの心情を慮って、「もうそんなことは忘れていました。彼女が私を今でも友人だと思ってくれてればいいと思います。私が彼女の友人であるように」と言っています。

 オードリーの代わりに、司会のボブ・ホープが重病で来れなかったパトリシア・ニールのことについて語り、オードリーはのちにパトリシア・ニールにお詫びの陶器のバラを送ったそうです。

 それでも、最優秀主演男優賞が共演のレックス・ハリスンだとわかって喜ぶオードリーは、本当に嬉しそうです。
 たいていは嫌なヤツのレックス・ハリスンも、ここでは“深い愛を、2人のフェアレディに”と述べるなど、紳士ぶりを発揮。

 


 監督賞と作品賞はまとめられていますね。オードリーは写っていません。



 最後に、別カメラでの主演男優賞と主演女優賞の映像を。



 未だに「マイ・フェア・レディ」はジュリーが良かったとかっていう論調を見かけますが、ナンセンスですね。

 何度も書いてますが、「マイ・フェア・レディ」にジュリーが出ていたら、ジュリーの「メリー・ポピンズ」は無かったでしょうし、「サウンド・オブ・ミュージック」には最初にオファーを受けていたオードリーが出ていたかもしれません。

 「マイ・フェア・レディ」はあるけど、「メリー・ポピンズ」と「サウンド・オブ・ミュージック」の無いジュリーでいいのでしょうか?

 ジュリーだけのファンは、「マイ・フェア・レディ」も「メリー・ポピンズ」も「サウンド・オブ・ミュージック」も、さらにいうとオードリーが演じるはずだった「卑怯者の勲章」も「ハワイ」も総取り出来ると思っているのがスゴイ発想だなーと思います。
 ジュリーも大変ですよね。

 でもオードリーとジュリーは個人的には仲が良く、別荘ではお互いの家をよく行き来してたようですし、ジュリーはオードリーに本も送っています。
 2人とも性格の良いフェア・レディですもんね。気が合わないわけがないです。

 ちなみに、載せませんでしたが、この年のアカデミー賞にはアラン・ドロンも視覚効果賞のプレゼンターとして出演しています。
  


2025年04月03日

オードリー・ヘプバーンの家「ラ・ペジブル」が売りに出されている!!

 3月にちょっとビックリするニュースがあったみたいなので、遅ればせながら臨時で記事を。

 オードリーが1965年から住んで、終の住処としたスイス、トロシュナの「ラ・ペジブル」が売りに出されているということで、ニュースになっていました!


 下記に主なニュースのソースを載せておきます。

 モダンリビングマガジン
 Yahoo!ニュース1
 Yahoo!ニュース2
 産経ニュース

 今まで完全非公開だった「ラ・ペジブル」の内部が見れるニュースもいくつかありますね。

 改めて知ると、すごい豪邸です。
 リビングも寝室も広ーい!

 でもきっとオードリーが住んでいた時代にはプールはなかったんじゃないかなーとか思ったり。
 オードリー自身が泳ぐのをあまり得意とはしてないようですしね。

 オードリーならプールより草や花や木があって、庭を愛犬達と駆け回る方が嬉しいだろうなと思いますしね。

 えーっ、ショーンとルカ!売っちゃうの!?と思いましたが、元々すでに「ラ・ペジブル」には“別の人が住んでいる”という記事は読んでいましたし、旅行会社の方からも他人が住んでいる、という話は伺ってましたので、既に息子2人の手を離れているのかな?とは以前から思っていましたが、そうやらそのようです。

 ということは、オードリーが亡くなってそんなに経たずに、「ラ・ペジブル」は売られてしまっていたのですね。
 貸しているだけかとも思っていましたが…オードリーと血縁関係ではない人のものになってるってなんか悲しい。

 でもこれだけの豪邸、維持するのも大変でしょうし、ショーンもルカもここには住んでなかったようなので、大事にしてくれる人に買ってもらった方が良かったのかも…。

 さて、今回は約32億円で売りに出されてるとのこと。
 まあ海外の物価は今の日本よりはるかに高いですし、特にスイスですしね。

 オードリーが買ったのは65年説と63年説があるけど、僕は65年説支持派。なんでって、63年や64年に「ラ・ペジブル」で写っているオードリーの写真が無いから。
 まあ63年があるとしても、そこでは書類上で手に入れただけで、改装をして移り住んだのは65年とかかなーと。

 で買ったのは65年として、その当時オードリーが買ったのは高くても今の7〜10億円相当くらいじゃないかと。
 だって、まだオードリーが住んでいた家、という付加価値は無い田舎の家ですもんね。

 それだけでも一般人には凄い金額ですが、今と当時の物価の差を考えると、オードリーが買ったのは当時の20〜25万ドルくらいかなーと。
 有り得そうな値段ですよね。

 これは当時の日本円だと、7200万円〜9000万円。
 一見、安そうに思いますが、当時は1000万円もあれば余裕で東京23区内で大きな家が買えたでしょうから、東京で一軒家を10軒以上建てられるほどの金額。

 でもオードリーはメル・ファーラーと結婚していた時期でしたけど、お金は2人で払ったんでしょうかね?
 離婚時に「ラ・ペジブル」はオードリー所有となっているので、もしかしたらオードリーだけが払ったのかもしれませんね。

 当時、「マイ・フェア・レディ」でオードリーのギャラは100万ドルに達していましたが、メル・ファーラーの方はその10分の1ももう無かったでしょうしね。

 なのでオードリーにとっては楽々払える金額でも、メル・ファーラーにとっては厳しい金額だったでしょうし。
 オードリーの「マイ・フェア・レディ」のギャラの一部で買ったんかなーとか。

 でも当時の100万ドルって3億6000万円ですけど、今の価値になおすと50億円くらいじゃないかと思います。もっとかな?
 オードリーの映画1本の出演料、スゴー!

 さて、記事では10年前に改装された、と書いてありますが、2012年のテレビ番組(こちらとかこちら)で写っていたものは、既に僕が1988年オードリーが生きている時期に行ったものとは違っていましたから、最低2回は改装されていますね。

 オードリーが生きていた時代の「ラ・ペジブル」の僕の画像は、またいつかここで載せたいと思います。

 ちなみに、2017年にオードリーがロサンゼルスで住んでいた家が売りに出されている、という記事もありましたね。

 こちらは16億円でしたが、オードリーってロスは映画を撮る時だけの仮の賃貸物件だったので、そんなにオードリーも思い入れはなかったでしょうね。

 後年は親友のコニー・ウォルド家で泊まっていたみたいですし、縁はあまりない邸宅だったのかも。

 記事はコチラ
 ハーパーズ・バザー
 朝日新聞  

Posted by みつお at 14:00Comments(0)オードリー関連情報