2025年03月31日
「マイ・フェア・レディ」1995年リバイバルと「スクリーン」1995年4月号

今日は「マイ・フェア・レディ」1995年リバイバルが東京の銀座文化劇場から始まった日からちょうど30年です。
30年前の1995年3月31日〜4月27日まで上映された後、全国で上映されました。
銀座文化劇場では、朝の10時の1回のみ4月13日までは「カサブランカ」、14日からは「哀愁」と併映でした。
それ以外の昼からの回はずっと「マイ・フェア・レディ」の上映です。
さて、この95年リバイバルのメイン画像は一新されて、以前紹介したB1ポスターのようになっていました。
この時のメインイメージは、1994年に本国アメリカでデジタル・リマスターされてリバイバルされた際に使用されたものを使用。

でもデジタル・リマスター版とはポスターのどこにも書いてないんですよね。
それで一抹の不安を抱えながら、それでもやっぱり何か月か後の大阪か神戸で見に行きました。85年からオードリー作品の日本ヘラルドによるリバイバルが始まって、「マイ・フェア・レディ」も86年にリバイバルされたので、そこから何回行ったのかもう覚えてないですけどね。
それまで日本ヘラルドのリバイバルは上映前に“この映画は製作されて長い年月が経っております。そのためキズや雑音がある場合がありますが、ご了承ください。”というテロップが映し出されるんですよね。
それで、そのテロップが流れたらリマスターしてないフィルム、流れなかったらリマスター、と思って見たんですが、やっぱり最初に “この映画は製作されて長い年月が…”と出てきました。
せっかくリマスター版が見れるかと思ったのですが、のちに日本ヘラルドさんに直接電話で問い合わせると、やはり95年リバイバルは86年のフィルムの使い回しでした。
それと、日本ではこの95年リバイバルの後、「マイ・フェア・レディ」が劇場でリバイバルされたのは2015年11月4日まで20年来ませんでしたから、この1994年のデジタル・リマスター版は日本では1度も上映されないまま終わりました。

2015年リバイバル以降は、2014年にさらに新しく4Kデジタル・リマスターされたものが上映されたんで、この1995年リバイバルは、94年リマスター版を上映できる唯一のチャンスだったんですけど、残念です!日本ヘラルドさんがフィルムを再度取り寄せてくれたら良かったんですけどね。

94年リマスター版は、今やDVDやブルーレイの初期版でのみ見ることができる物になっています。
さて、3月リバイバルなら、「スクリーン」では3月3日にリバイバルされた「ティファニーで朝食を」とともにリバイバル紹介が4月号(2月21日発売)で載るか、5月号(3月21日発売)で載るか、なんですが、やはり日本ヘラルド公開で、しかもフィルムは使い回しなので、どちらにも載っていません。
その代わりに4月号(表紙はオードリーのことを大好きなジュリア・ロバーツ)にはとうとう日本でも出る「マイ・フェア・レディ」のデジタル・リマスター版のビデオ(VHS)の紹介が載っています。
今年、耐久年数からもう見れなくなってしまうと言われているビデオですね。

もちろん実際にはセシル・ビートンによって1963年に撮影されてますんで、突然湧いて出たものではないんですが、それまでは全く流通してなかったんですよね。特に日本では。
この全く新しい画像を使って、アメリカでの94年リバイバル、リマスター版のビデオ・LD、セシル・ビートンの「マイ・フェア・レディ日記」、が売り出されたんですよね。
後年発売されたブルーレイの初期版もこのイメージでした。

でも2014年イメージの写真に偽物のサインをして、“オードリー直筆サイン”と騙ってヤフオクで売ってる輩がいた時はめっちゃ腹立ちましたけどね。
しかもそれを落札してる人がいました!
さて、この95年4月号の「スクリーン」では、まず最初の方のグラビアページに混じってまずコート紙での広告が1ページ。
高いお金を掛けて広告を打つなんて、当時いかにフォックスが力を入れていたかがわかりますよね。

さて「スクリーン」本文でも、マットコート紙の見開き2ページを使ってこのビデオを紹介しています。
というのも、当時はデジタル・リマスターの黎明期で、今なら簡単にできるちょっとのことでもすごいお金がかかった時代で画期的だったわけですね。
この「マイ・フェア・レディ」も当時の60万ドルものお金をかけて半年かかってリマスターされたことが書かれています。

94〜95年当時は、オードリーの歌が残っているだけでも凄いことでしたし、製作当時と現在(94年)を組み合わせたメイキングが見れるというのもファンからしたらめっちゃ嬉しいことでしたね。
でも、オードリーの歌は完成版ではなく練習版(完成版はCBSが価値をわからず、愚かにも捨ててしまっている)、オードリーの歌を吹き替えたマーニ・ニクソンはオードリーのことを悪く言っているのが腹が立って嫌いになりましたし(後年、4K版の時はだいぶ言い分を変更している)、何より「マイ・フェア・レディ」クラスの名作のフィルムが劣化するままに放置されていたことが大問題!だと思ったものです。

この紹介ページでは、「マイ・フェア・レディ」の珍しい本物のカラー画像が多く見られるのが嬉しいところ。
LDのブックレットにも載っていない画像なので、「スクリーン」が準備したのでしょうか。素晴らしい画像の選択ですね!
それと、近代映画社の本の紹介ページでは、さすがに85年からのオードリーブームも落ち着いて来たからか、以前のようにオードリーだけでドーンと、ってことは無くなっていますが、オードリーだけの本も入れて、ここに画像を載せなかった分も含めて全部で9冊もオードリーが表紙で使われています。
また、当時は阪神大震災直後。編集後記でも被災地や被災者を心配する声が書いてありますし、劇場の上映案内で神戸のアサヒシネマが休館、となっているのが当時の神戸の状況を思い出してしまいますね。
2025年03月26日
1975年11月14日“ゴールデン洋画劇場”放映「いつも2人で」雑誌紹介

これは1975年12月号(10月21日発売)だと思うのですが、これまた中学生の時に買った古本なので、切り抜きの後廃棄してしまって残っていません。
他のラインナップは広告から「宇宙水爆戦」「マーベリックの黄金」「危険がいっぱい」ですが、両誌に掲載された広告を見ると「いつも2人で」が1推し。
ゴールデン洋画劇場の季刊パンフレットでも「いつも2人で」がイチオシでした。
ここでの広告のキャッチコピーは「いつも2人で」初公開時のキャッチコピーに準じたものになっていますね。
“こんにちは!
風に手をふって旅をする恋のふたり
チャーミングな恋と
素敵なモードの華麗な花束!”
こんな感じです。まあ「いつも2人で」って紹介するのも見所を伝えるのも難しい映画ですもんね。
広告できちんと「いつも2人で」公開時のロゴを使ってくれているのが嬉しいです。
僕にとってのオードリーとの出会いはこの「いつも2人で」が最初でした。
以前はなんか深夜のテレビ洋画番組で見たはず、と思っていましたが、時期的にどうやらこの1975年の初放映が僕のオードリーとの最初の出会いだったようです。

サブブログの“おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!”でも僕がオードリーに興味を持ったきっかけを書いてますが、小学校の時に仲の良かった同級生の女子たちが、1人はヴィヴィアン・リー、もう1人がオードリー・ヘプバーンを好きだと言っていて、それで見てみようと思ったのが最初のきっかけです。
小学生でヴィヴィアン・リーやオードリー・ヘプバーンが好きなんて、なんとおませさん!と今なら思いますが、当時は別に背伸びでもなんでもなかったですね。
そしてたまたまテレビでやるこの「いつも2人で」を最初に見た、というわけですね。
まず、最初のタイトルバックからしておお〜!と思いましたね。
いろんな道路標識が次々現れては動いて消えて行くのが、切り絵のような車や森のデザインとも相まってすぐにやられてしまいました。
ストーリーも小学生にはまだ早い内容でしたが、それでも次々と入れ替わる時間軸に惹きつけられて、一気に見てしまいました。
「いつも2人で」のオードリーは “魅力も褪せて…”なんて書かれることも多いですが、小学生からしたら別にそんなことは思わずに、“綺麗なお姉さん”って思ってました。そして可愛い!!すぐに好きな女優さんになりました。
小学生だから、映画の作り方なんてわかるわけもなく、最初に見た時に、この映画は5年〜10年かけて撮ったんかな?などと思っていました。
でもオードリーが撮影時は37才などとは思ってなく(小学生からしたら当時の37才って母親の年齢ですもんね)、10代後半から20代だと思っていました。

でも、今考えても「いつも2人で」が僕のオードリー人生の最初で良かったー!と思いますね。
一般的には「いつも2人で」ではなく「おしゃれ泥棒」の方が最初がいいんじゃないかと思ってるんですけど、僕にはこれで良かった!
「おしゃれ泥棒」や「いつも2人で」が最初だったら何がいいかって、どの時代のオードリーにも分け隔てなく入っていけるからですよね。
「ローマの休日」からだと、その時代をオードリーと歩んだ人じゃなく、途中から入ってきた人だと若いオードリーばっかりに目がいってしまう。
でも「おしゃれ泥棒」や「いつも2人で」が最初だと、歳をとった「ロビンとマリアン」にも若い「昼下りの情事」にも違和感なくすぐに映画に入り込めるんですよね。
なので、僕は「いつも2人で」で良かった!と思ってるわけです。
というわけで、僕の人生を変えたこの時の放映の「いつも2人で」ですが、あまりにオシャレで新鮮な感覚に恋い焦がれてしまってて、ずっともう1度見たいと思っていました。
でも深夜放映であった時は新聞を見逃して翌朝気づく、ロイヤルホテルで自主上映があった時もその月だけ情報誌を見逃す、などということがあって、次に見れたのは高校も卒業して、ロイヤルホテルで見逃した時に再度上映してもらえるようにお願いして叶った時か、レーザーディスクで「いつも2人で」が出て、友人のお母さんが買った時かのどちらかです。

それだけ待って再見しても、やっぱり素晴らしい映画でした!今でも僕のベスト1オードリー作品です!
さて、そんなゴールデン洋画劇場で放映された吹替版ですが、これまた僕は長い年月見ることができませんでした。DVDにも収録されなかったし。
でもこちらにお越しいただいているwimpoleさんに、1987年に日テレで再放映されたものの録画のを2019年に見せていただき、44年ぶりに見ることができました!本当にありがとうございました!
池田昌子さんの吹替がとっても素敵でした!
2025年03月21日
1975年4月13日“日曜洋画劇場”放映「暗くなるまで待って」雑誌紹介

今日は4月13日にテレビ初放映された「暗くなるまで待って」の紹介。
前回紹介した4/4に初放映された「おしゃれ泥棒」からわずか9日で、今度は「暗くなるまで待って」。
これはオードリーファンは狂喜したでしょうね。
「おしゃれ泥棒」も「暗くなるまで待って」も1971年にリバイバルされて以来、映画館には来ませんでしたから(その後も「おしゃれ泥棒」は1991年まで、「暗くなるまで待って」は1987年まで延々リバイバルは来なかった)、家庭で観れるオードリーはめっちゃファンには嬉しいですよね。
そしてこの「暗くなるまで待って」(と前回紹介の「おしゃれ泥棒」も)の紹介が載っている1975年の5月号の「スクリーン」は年に1度の読者の人気投票の発表のある号。
オードリーファンはドキドキしながらページをめくったことでしょうね。
この時のカラーグラビアも紹介しておきますが、1975年は第2位になったオードリー。
評価の対象の1974年は「マイ・フェア・レディ」の3回目の日本公開だけで、新作はありませんでした。
並みいる若手の女優さんたちを差し置いて、引退状態のオードリーがそれでも2位というのは本当に凄いことなんですが、オードリーファンとしては72年から74年までは3年連続で1位でしたから、きっとちょっと悔しかったでしょうね。
でもこの75年から84年まではオードリーファンにとっては試練の暗黒時代が続くんですけどね。リバイバル来ない、人気投票ではどんどん順位下がっていく…というのは当時を経験した人ならわかっていただけるはずです。
さて、このカラーグラビアでは台本(「暗くなるまで待って」のもの)を持つオードリーですけど、当時は知られてなかったんですが、この台本カバー、ルイ・ヴィトンですよね。おそらく特注。
バッグでもルイ・ヴィトンを持ち歩くオードリーですから、オードリーの信頼が篤いのでしょうね。

先ほど書いた暗黒時代が始まるので、完全な王座奪還はこの後2007年まで待たないといけないんですけどね。
本題の「暗くなるまで待って」の紹介ですが…
「スクリーン」では
“スクリーン復帰が実現しないオードリーだが、これは今のところ最後の作品。劇場公開の時クライマックスで思わず「キャーッ!」と叫び声が上がったほどのショッキングな場面がある。ヒッチコックに負けないヤング監督のサスペンス映画の秀作である。”
「ロードショー」では
“オードリー・ヘップバーンが明き盲目の難しい演技を無難にこなしている。妖精スターのオードリーがミステリードラマで新境地を開いた話題作。電話線が切られてからの30分間の恐怖のクライマックス。殺害寸前に追い込まれるあたりの緊迫感はヤング監督の真価発揮。この1作を最後にオードリーの長い「休養」が始まったのは惜しまれてならない。”
と書かれています。
さて、この「暗くなるまで待って」ですが、今発売されているDVDには吹替が収録されていませんし、何度もいろんなオードリー作品の吹替が発掘されて放映されているのに、この作品だけは吹替版が放映されませんよね。
これは一体なぜ?と思ってらっしゃる方もいるかもしれませんが、僕は80年代にテレビで放映していた時の録画したビデオをを持っていますので、見たところ、これだろうなーというのがわかります。
実はこの吹替版が製作されるときに、セリフのない音楽と効果音だけの音源が無かったようなのですよね。

この音源がない作品がある、というのは昔の吹替版で苦労していたことのようで、当時の「スクリーン」などでも書かれていました。
というわけで、この「暗くなるまで待って」もサントラとして発売されていたEPレコードからメインタイトルは流していましたが、もちろんこれもヘンリー・マンシーニがレコード用は新たに録音し直して発売するので、映画とは違う響きがします。
そしてそれ以外の部分はマンシーニでもないという音楽が取って付けられてしまっているのです!
「暗くなるまで待って」を劇場や字幕で見た人からすると、違和感ありまくりの安っぽいサスペンスやホラー映画の伴奏がつけられて吹替られているので、ユルかった昔ならともかく、今は著作権的にアウトなんだろうなーというのはわかります。
マンシーニ的にも、ワーナー映画的にも、安っぽい何かの伴奏曲の作曲者(不明)的にもアウトだし、今後も放映は難しいと思います。
せっかくの池田昌子さんの吹替なのに、めっちゃもったいない!
これは日曜洋画劇場のスタッフが悪かったのではなく、音源を送って来なかったワーナーが悪い!
今の技術なら音楽は消して、吹き替えた池田昌子さんらの日本語だけを取り出して、本来の音楽と効果音の音源と合体ってできないんですかね?
でもこれもそうすることに対して利益が出るならどこかがしてくれるでしょうが、何も収入を生まなければ会社としてはやってくれませんよね。お蔵入りになるなんて、あー勿体無い!
2025年03月16日
1975年4月4日“ゴールデン洋画劇場”放映「おしゃれ泥棒」雑誌紹介

まず、1975年に東京地区をはじめとする全国(一部地域は除く)でテレビ放映されたオードリー映画は4本あります。
4/4に「おしゃれ泥棒」、4/13に「暗くなるまで待って」、5/21に「パリの恋人」、11/14に「いつも2人で」。
このうち「パリの恋人」は再放映。75年の「ロードショー」での紹介はこちらの記事で既に紹介済み。
この時は1970年の素材を使っていて、オードリーの吹替は池田昌子さんではなく阪口美奈子さんで、のちにサンテレビ?か何かの局で見た時は正直違和感ありまくりでした。
1975年だと僕はまだ小学校の同級生の女子から聞いてオードリーを初めて知った頃で、この中だとたぶん「いつも2人で」しか見れていません。
さて、今日は4/4にテレビ初放映した「おしゃれ泥棒」の紹介。
放映したのはフジテレビの“ゴールデン洋画劇場”。この当時は毎週金曜日の午後9時からスタートしていました。
“ゴールデン洋画劇場”、かなりフジテレビも力入れてたんでしょうね。この「スクリーン」と「ロードショー」の両誌でも宣伝かましていますし、この当時はなんと!“ゴールデン洋画劇場”だけの季刊パンフレットまで製作していました!

この記事を紹介しているのは両誌とも1975年5月号(3/21発売)だと思いますが、本体はとっくの昔にバラしてしまっていて、この記事しか残っていません。
この時の3月〜4月のラインナップは「地獄のパスポート」「ビスマルク号を撃沈せよ」「おしゃれ泥棒」「猿の惑星」「西部番外地」。
この中で強力なのは「おしゃれ泥棒」と「猿の惑星」だと思うのですが、「猿の惑星」は以前TBSに既に放映されていたのと、初公開時の配給収入で「おしゃれ泥棒」の方が上回っていたためにきっと1推しは「おしゃれ泥棒」になったのでしょう。
なので“ゴールデン洋画劇場”のパンフでも、「スクリーン」と「ロードショー」の広告でも、「おしゃれ泥棒」が最推しになってます。嬉しいですよね!
フジテレビ独自のキャッチコピーは
“オードリー・ヘプバーン、
すばらしく愛らしく笑うひと……。
「おしゃれ泥棒」でその魅力を
ふんだんに披露します。”

さて、「スクリーン」ではえんじ色1色のグラビアページ(コート紙)、「ロードショー」はマットコート紙での墨一色ページに載っています。
そのため、デザイン的にも色的にも「スクリーン」の方が相変わらずモッサリしているんですけど、紙がコート紙なので、この50年という半世紀もの時間を経ても、黄ばみの圧倒的に少ないのは「スクリーン」。
「ロードショー」の方はかなり変色しているので、ここでは修正をかけています。
やはりコート紙は時の流れにも強いですね。
今やマットコートともっと悪い上質紙になってしまった「SCREEN」ですけど、今の号の方が長い歳月には耐えられないかもしれません。
最近写真集などでもやたら使用頻度が高いマットコートですけど、経年劣化に弱く発色も悪いのに、なぜそんな紙を使うのか、僕には理解できません。
ちょっとオードリーの写真集を出すような会社には物申したいです!
さて、「スクリーン」での洋画劇場でのグラビア紹介では、「おしゃれ泥棒」がトップ。
文章では “名匠ウィリアム・ワイラーがオードリー・ヘプバーンの魅力を知り尽くして作ったロマンティック・コメディ。オードリーの着るジバンシィのシックなファッションも見もの。”と書いてます。

こういう風に書かれてる文章が今だにあって、なんだかな〜と思ってしまいます。
「ロードショー」の方でも “100万ドルで売り込んだ!”って書いてあって、みんな映画を見てないのかな?と思ってしまいます。
「ロードショー」での “見どころ”では “痛快な泥棒映画である。ワイラーは文芸対策と取り組む時の姿勢をガラリと崩してすこぶる気軽に作り、「ローマの休日」を思わせる粋で楽しいロマンティック・コメディにしている。大人のおとぎ話もここまでうまくシャレていれば文句なし。ビーナスの奪還シーンの迫力はヒッチコックも顔負け。”と書いてます。
2025年03月03日
「ティファニーで朝食を」1995年リバイバルチラシ

というわけで、今回は1995年リバイバル時のチラシを紹介。
1995年リバイバルは3月3日から30日まで東京の銀座文化劇場で最初に公開されました。
当時、朝の10時の1回だけの「サウンド・オブ・ミュージック」と併映だったようです。
1日の残りの4回(金曜はさらにもう1回)が「ティファニーで朝食を」だったというわけですね。
この記事のアップもその時の最初の「ティファニーで朝食を」上映の13:10にしてみました。
ちなみに銀座文化劇場で「ティファニーで朝食を」が終わった3月31日からは、「マイ・フェア・レディ」の1995年リバイバルに突入します。
どちらの映画も1993年に“I’ll オードリー・シアター”として上映しているのに、2年でまたリバイバルの先鞭を引き受けるとは、さすが当時“オードリー専用劇場”と言われただけのことはありますね。
95年の「ティファニーで朝食を」リバイバルでは、このチラシと、さらに同柄のB1ポスターが新たにデザインされて制作されました。
でもこのチラシ、なんかメインの画像が暗いんですよね。もっと綺麗なカラーを使えばいいのに、なんでこんなの選んできたんでしょうね。それにメインの画像の切り抜きが雑。
全体にあんまりいい出来だとは思わない。
メインの画像の下には、ティファニー本店の前に立つホリー、ニューヨークで歩くポールとホリー、夜にポールの部屋に逃れてきたホリーの3点の画像があしらわれてますけど、全然映えてないし効果ない。
89年リバイバルの「昼下りの情事」のデザインがかなり気合入ってたのに比べると、また86年あたりのやっつけ仕事っぽい出来になってます。
予算カットのために日本ヘラルドさんの身内でデザインしたんでしょうか?

映画にはティファニー・ブルーの要素って全くないですもんね。
それになんとなく発色が良くないのは、紙がコート紙ではなくマットコート紙だから。
あきませんよ!チラシにマットコート使うのは!
それでなくてもメインの画像が暗いのに、ますます色が沈んでしまいます。
これはこの紙を選んだ担当者の失敗ですね。
チラシの裏面も墨一色で刷られていて、マットコート紙と合わさって華やかさや高級感とは無縁。
そういえば真ん中の上部にある画像、2Eとホリーとポールの画像ですけど、珍しく正向きで画像が載ってます。
チラシの解説では、“オードリー・ヘプバーンの代表作中の代表作” “オードリーの小粋な姿が多くの人の眼にいまなお深く強く焼き付いている都会映画の傑作である” “ヘンリー・マンシーニにとってもこれは生涯を代表する仕事となった”と書かれています。
この1985年に始まった日本ヘラルド配給のオードリー映画のリバイバル、86年からはオードリーが再ブームの大ブームになって、女性誌なんかでもオードリーを載せれば売れる!という時代でした。
でも1993年に「尼僧物語」と「許されざる者」と「ロビンとマリアン」以降を除く主な作品(「初恋」を含む15作品で17回)のリバイバルは全て終わってしまい(さらにこの時期には新作「オールウェイズ」上映と「おしゃれ泥棒2」ビデオ発売もあった)、同じ93年にオードリーが亡くなってしまうとさすがにそのブームもだんだんと落ち着き始め、1995年はもうオードリーブームにも翳りが見えてきました。
なので僕的にはこの85年から始まるオードリーの大ブームは、95年までの約10年というイメージで捉えています。