2025年04月20日
「ローマの休日」1970年リバイバル55周年 「スクリーン」1970年4月号

今年2025年には大阪万博がありますが、この1970年も最初の大阪万博の年ですね。
この時の封切館はテアトル銀座と新宿武蔵野館で、4月4日〜6月12日までの上映ののち、全国で上映されました。
はい、55年前の今、まさに上映中ですね。
東京テアトル株式会社のテアトル銀座と、武蔵野興業の新宿武蔵野館はこの当時はロードショー館として組んでいて、前年(1969年)の「ティファニーで朝食を」のリバイバルもこの2館から同時スタートでした。
当時の定員は、同じ70年の別の号の「スクリーン」によると、テアトル銀座が831人、新宿武蔵野館が500人だったそうです。
定員というのが座席数なんですが、館によっては座席よりも多く消防署に届け出てた劇場もあったそうです。
まあ当時は指定席じゃないんで、通路に座ったり、座席の最後部に立って見る人もいたりしたので、そういうのも多少含んでいたのかもしれません。
さて、同じ劇場での69年の「ティファニーで朝食を」が4週間の上映だったのに比べて、こちらの「ローマの休日」は2ヶ月以上の堂々70日(10週)のロングラン!

そして54年初公開時にはポスターからプレスシートからパンフレットからなんでもヘプバーンカット推しでしたが、63年リバイバルのパンフレットでティアラオードリーが出始めて、この70年リバイバルからはポスター、プレスシート、パンフレットでメインイメージは徹底的にティアラオードリーでグイグイ押してます。
このティアラオードリーそのままに73年・77年リバイバルまで行きましたし、VHSのビデオジャケットもLDもティアラオードリー、その後も2003年リバイバルやDVD、昨年と一昨年のリバイバル時のビジュアルまで影響を及ぼすなど、今や日本で「ローマの休日」と言えばティアラオードリーになってますよね。
さてこの1970年というと、同じ洋画ファン雑誌だった「映画の友」は廃刊になってるし、「ロードショー」は創刊前。
なので「スクリーン」の独壇場だった頃ですね。
まずはモノクログラビアページで「おしゃれ泥棒」のオードリーが載っています。
左1ページと、右ページにも少し食い込んでます。
でもこれ、「ロードショー」の創刊2号だった1972年6月号の表紙のカラーの別ショット。
なので、このモノクロでも不自然な感じがあって、本来はカラーなんだろうなという陰影がついています。

当時は濃いマスカラとつけまつげで、芸能人もこういうメイクの人が多かったんです。弘田三枝子さん、山本リンダさん、奥村チヨさん、辺見マリさん、和田アキ子さん、天地真理さんなどなど。
オードリーの「おしゃれ泥棒」が公開された1966年頃は “オードリーも濃いメイクになって…”なんて言われていましたが、やっと時代が追いついてきた、ということですね。
当時は世間でも濃いアイメイクと付けまつげが多かったです。
なので、古本を集めていた中学時代の僕にとって、オードリーの1番のイメージと言えば「おしゃれ泥棒」のオードリーでしたね。
でも文章は “「マイ・フェア・レディ」の再公開でオードリー・ヘプバーンの魅力をはじめて知った人もいるんじゃないかしら?”と69年年末に70年のお正月映画として公開された「マイ・フェア・レディ」のことが書かれています。
「マイ・フェア・レディ」の69年リバイバルは69年12月13日〜70年2月20日まで松竹系の劇場の頂点、丸の内ピカデリーなど全国の最大の松竹系劇場で封切りでしたから、まさにこの「スクリーン」の発売日前日までロングランしてたんですね。
このころの「スクリーン」だと、オードリーは引退中なので、カラーやモノクロのグラビアで載るくらいで、あんまり記事って無いんですが、スターの近況欄でオードリーがルカを出産したことが載っています。
そういえば長男ショーンの誕生日はオードリーの伝記で間違えられていることが多くて、逆に7月17日って覚えちゃいましたが、次男ルカの誕生日って覚えてないなーと思いましたが、この記事で2月8日かーと思いました。

あとは「ローマの休日」のリバイバル紹介のグラビアと、ブロマイド専門店の春美栄光堂さんの紹介でオードリーは出てくるだけですね。
「ローマの休日」は2回目のリバイバルなので、残念ながらもう珍しい画像とかは無し。
こないだの2023年字幕版・2024年吹替版のリバイバルもそうでしたけど、もうリバイバルとなると権利元のパラマウントも同じ画像しか出してくれないんですよね。
そりゃもう100年以上も映画を作ってきたパラマウントですから膨大な作品があるはずで、なんでもかんでも画像って残しとくわけにもいかないですよね。
特に「ローマの休日」は漁り尽くされて珍しい画像が少ない作品ですよね。
解説では
「今でも絶対の人気をもつオードリー・ヘプバーンをして彗星のようにスターの座につかせたばかりでなく、ロマンティック・コメディーとしても、一世を風靡したほどのすぐれた出来ばえの作品である。」
と書かれています。

「スクリーン」で“ぼくの祭典表”というコーナーをお持ちだった双葉十三郎さんの採点では☆☆☆☆★の85点なんですけどね。
まあ☆☆☆☆は「スクリーン」編集部の採点なんでしょうね。
でも今でこそ「ローマの休日」って他に並ぶべくも無いロマンティック・コメディーの最高峰の100点!みたいに扱われますけど、確かにこの当時は出来の良いロマンティック・コメディーの中の1本という扱いでしたね。
それが80点という採点にも現れてますよね。
オードリーは以上ですが、「世界映画のあのスター」という連載で、この号は1948年なんですが、そこではヴィヴィアン・リーの「アンナ・カレニナ」がちょこっと載っています。
「ジュリアン・デュビビエの『アンナ・カレニナ』は気分的によろしいのが取り柄だが、ヴィヴィアン・リーのおかげで見られたようなものだった」
と褒めているのか貶しているのか、ごちゃまぜのような評価ですね。
「欲望という名の電車」でわざとやつれメイクを施すヴィヴィアン・リーにとって、「アンナ・カレニナ」は最後の若く美しい映画でしたね。本当に美しい!
どなたかが言ったように、“あんなに可憐にな”なヴィヴィアン・リーでした。
この号、表紙はミア・ファローですね。
オードリーが「暗くなるまで待って」で半引退状態になった時に、「今後は私の役柄はミア・ファローが継いでくれるでしょう」と言ってましたね。

それでもオードリーが出演予定だったけど、「マイ・フェア・レディ」のために役を降りた「公衆の目」という作品は、オードリーの代わりにジュリー・アンドリュースに回り、結局ジュリーも演じずにミア・ファローに回って「フォロー・ミー」という作品になりますので、この作品だけはオードリーを継いだのかも。
さて、そういえば「午前十時の映画祭」、今年はまさかの「ローマの休日」だそうです。
本当に映画の選定委員を殴ってやりたいような気分です。
こんな「ローマの休日」ばっかり選ぶって、もう老害ですよ、ほんま。
昨年も一昨年も「ローマの休日」は正式にリバイバルされたのに、またやるの???
こんな安易に「ローマの休日」を上映して欲しく無いし、「ローマの休日」が雑に扱われるのもイヤ。
僕にとっては23年に松竹座の特別上映でも見たし、字幕版のリバイバルも見たし、24年の吹替版も見たから、もうお腹いっぱい。
何回も何回も立て続けに見て「ローマの休日」への感動や愛情をすり減らしたく無いから、今年の「午前十時の映画祭」は応援しません。
いい加減に「暗くなるまで待って」「噂の二人」「尼僧物語」「ロビンとマリアン」をやってよ!って感じですね。プンプン。
「ローマの休日」1970年リバイバル 過去記事
立看ポスター
プレスシート
パンフレット
2025年04月10日
「麗しのサブリナ」ポストカード1 1965年リバイバルと著作権切れについて

僕の持っている「麗しのサブリナ」のポストカードの一部の紹介とともに書いていこうと思います。
さて、まず1965年のリバイバルですが、東京のニュー東宝で4月3日〜4月27日まで上映されました。
60年前の今頃はちょうど上映中だったわけですよね。
「麗しのサブリナ」としては初めてのリバイバルだったのですが、3週間と4日だなんて、案外ふるってませんね。そのため65年のニュー東宝館名入りパンフレットもあまり出回っていません。
というのもきっと、「麗しのサブリナ」は初公開時に男性がほとんどだった映画評論家の方たちに受けが良くなかったから。
批評家によっては失敗とまで言われてました。
まあ内容的に、女性が男性2人の間で揺れるものだしね。
この当時の映画評論家って、戦前生まれの人も多くいたでしょうし、女性が主導権を握って男を乗り換えるなんてけしからん!って感覚だったんでしょうね。
かくいう僕も、デイビッドの立場になると、ちょっと怪我して治ったら、彼女はお兄さんに取られていた!ってなんか最悪じゃ無いですか?
映画のように僕はお兄さんとサブリナを祝福なんて出来ないかも…って思っちゃいます。

女性が主導権を握る恋愛って、初公開時もリバイバル時にも珍しかったし、そんなサブリナに感情移入すると心地よかったのではないでしょうか。
1996年に、JALの93年I’ll オードリーツアーに行った人の集いに僕も講演と演奏で参加させてもらいましたけど、女性の方には「麗しのサブリナ」が一番好きって方が数名いらっしゃいました。
さてさて、当時の東宝というと、1500席規模の有楽座、日比谷映劇、スカラ座、テアトル東京などのチェーンマスター館がありましたから、ニュー東宝は封切館といえども規模も小さいんですよね(と言っても今なら大劇場)。
「麗しのサブリナ」自体、今でこそ日本でもオードリーの代表作の1本ですけど、当時はビリー・ワイルダーなら「昼下りの情事」の方が圧倒的に上の扱いでしたからねー。
というわけで、初のリバイバルでしたけど、水準の成績しか残せなかったんではないかと。
その後は日本ヘラルドのパラマウント映画のリバイバルの一環として上映された1985年まで正式リバイバルが途切れます。
でもその後は95年までのオードリーの大ブームや、2013年の「スクリーン・ビューティーズ」や、2011年・2012年・2013年・2017年の午前十時の映画祭と何度も何度も上映されているのはご存知の通り。

2003年にそれまで50年だった著作権が2004年から70年に延長されることになり、1953年の「ローマの休日」は2003年に切れていましたが、とうとうそこからさらに20年経って、「麗しのサブリナ」も切れることになったんですよね。
海外でも70年で切れたところがあるのか、早速YouTubeには「麗しのサブリナ」のカラーライズ化されたものとか挙がってますよね。
まあでもまだ動画のカラーライズ化は一般的ではないので、どこかがクラウド・ファンディングでやっていた「ローマの休日」のカラーライズ化とともにまだまだな出来ですけどね。
だいたい、カラーライズ化する人ってのがきちんと調べてないので、「ローマの休日」のスカートが本来ベージュ(淡いブラウン)なのに水色だったりとか、そういう映画に対して知識もリスペクトも無い人がしたりするのはやめて欲しいですね。
さて、これから27年には「戦争と平和」が、28年には「パリの恋人」と「昼下りの情事」と「マイヤーリング」が、と次々に著作権が切れていきます。
でも、「麗しのサブリナ」の画像やポスターや宣材とかは、肖像権やらカメラマンやデザイナーの著作権やら別の権利が絡んできますので、安易に使ってもいい、というわけでもないです。
さて、今回紹介したポストカードにも説明を入れていきますね。

それと、この画像が使われるのって「アルバム オードリー・ヘップバーン」くらいからなんですけど、その時から「SCREEN」の2008年に表紙になった時も、そしてこのポストカードも裏焼き。
オードリーの「麗しのサブリナ」の髪型って、左分けなんですよね。映画を見てもわかりますけど、何でこんなに裏焼きが多いんでしょうね。
というわけで、ここでは正向きに訂正したものをまず1番に載せてみました。2番目のがポストカードに印刷されているものです。
正向きで載せてくれたのって、宝島のムック本くらいでしたっけ。でもあれは発色が悪いんですよね。オードリーの顔が紫。
3番目と4番目のは「麗しのサブリナ」ビデオを売るためにパラマウントの販促で作られた非売品のポストカード。
僕は「麗しのサブリナ」の字幕版ビデオって持ってないんですけど、吹替版ビデオを買った時にでもらったのかな?
3番目のはここではサブリナ扱いですけど、これって1953年の「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の撮影の間の時期にバド・フレイカーが撮った一連の宣伝写真ですね。髪型が「ローマの休日」でも「麗しのサブリナ」でもありません。
ていうか、この時にネグリジェ着て「ローマの休日」用の宣伝写真を撮ったりしてるんですよね。でもまあ時期的にギリ「麗しのサブリナ」として使われても許せる範囲。

まあこれもパラマウント内にもうオードリーと同時期を生きた人がいないからなんでしょうけどね。
公式が間違った発信をするのはちょっとなーと思います。
4枚目は本国アメリカでのポスターをあしらったもの。こちらは写真を使って着色していますね。
5枚目も海外のポスターですけど、こちらはイラスト。
海外のイラストのオードリーって、なんかオードリーの優しさを捉えられてないことが多いんですよね。
有名な「ティファニーで朝食を」のもそうなんですけど、どうしてもエヴァ・ガードナーとか、グラマー系のものになっちゃうんですよね。
このポスターでは、1952年「アフリカの女王」で主演男優賞を獲ったハンフリー・ボガート、54年に「第十七捕虜収容所」で主演男優賞のウィリアム・ホールデンと同じく54年に「ローマの休日」で主演女優賞を獲ったオードリーのアカデミー賞があしらわれています。
6枚目はマーク・ショウの撮った「麗しのサブリナ」撮影時期のプライベート・オードリー。
これ、モノクロなので白のシャツに黒のパンツみたいに見えますけど、マーク・ショウの写真集に載ってましたが、実際はピンクのシャツに真っ赤のパンツ。
オードリーのファッションについて、とても詳しく素晴らしいサイトがありまして、僕もいつも楽しく読ませていただいてるんですけど、残念ながら書いてらっしゃる方がファッションには詳しくても、実際はどういう色かということは調査不足のよう。

まあ一般の方はネットを見ても見分けられない方ばかりなようなのですけど。
僕は逆にジバンシィとかイーディス・ヘッドとかドロシー・ジーキンズ以外の誰それのデザインとかってのは全然詳しくないんですが、仕事柄フォトショで着色されたものはすぐわかるんです。
なので、着色カラーの「ローマの休日」の大使館のドレスをピンクだと書いてたり、街着のスカートを着色の水色カラーの画像で載せていたりするのが、せっかくの内容なのにとっても残念なんですよね。
このモノクロ画像と同じ衣装も「白のシャツに黒のパンツ」って書かれてるんですが、モノクロ写真で色のこと書いちゃダメなんですよね。
白と黒って書きたかったら、絶対的にカラー写真が必要なんです。もちろん偽物の着色カラーじゃなく。
クレヴィス社の写真展と写真集でも同じ衣装で同じこと書いてて、僕がクレヴィス社さんに連絡したら、2刷りからはその文章が変更されましたが、そのファッションサイトさんも同じ間違いをしてるので、そこはとても残念。
この衣装で別のカラーショットも現存してて「SCREEN」でもシャツが写ってるのが載りましたけど、やはりピンクなんですよね。
さて、最後はジャンパー・スカートを着て頬杖をつくオードリー。
これも有名な画像ですよね。

よくまあこれをポストカードにしようと思ったなーと思います。
そして今回見てて思ったんですが、なんか保存年月日もだいぶ経つので、カビが生えたように見えるのが、よく見たら模様なんですよね、これ。
こんなピンボケ画像に、カビに見える模様って…。だれやー!デザインしたの!
これと同じ画像で、別のポストカードも持っているんですが、そちらは鮮明。
そちらはまた別の機会に。
65年リバイバルの過去の記事
・B2ポスター Aタイプ
・プレスシート
・キャビネ写真
・パンフレット(東宝版)
・パンフレット(大阪映実版)
・パンフレット(一般用A)
・パンフレット(一般用B)
・パンフレット(一般用C)
2025年04月05日
1965年アカデミー賞授賞式 「マイ・フェア・レディ」
今日からちょうど60年前の1965年4月5日は、1965年(1964年度)のアカデミー賞授賞式が行われた日です。
以前から、今日はこの1965年アカデミー授賞式の様子を載せた雑誌の切り抜きを紹介しようと思っていたのですが、ここのところ雑誌の紹介ばかりだったので、趣向を変えて当時の授賞式の動画をYouTubeからお借りして紹介することにしました。
まずは授賞式開始前〜開始の様子。
当時の放送はカラーだったでしょうが、モノクロしか残ってないのが残念ですね。翌年の1966年からはカラーが残っているようなのですが…。
と言っても、当時はビデオにしろキネスコープ(キネコ)にしろものすごい高価で、録画された上から上書きされる使い回しが多かったそうですから、モノクロでも残っているだけいいんだろうなーと思います。
日本でもNHKとか、お金のかかった大河ドラマでも80年以前は残ってないそうですからね。
まずは会場前から。リチャード・チェンバレン、「奥さまは魔女」でサマンサのお母さんエンドラ役で有名なアグネス・ムーアヘッド(助演女優賞候補)、アン・マーグレット、デボラ・カー、ジェーン・フォンダなんかが写っていますね。
開始の音楽は「マイ・フェア・レディ」の“踊り明かそう”“君住む街で”“彼女のことで頭がいっぱい”のアレンジ(他の候補曲と混ぜてる?)で始まります。
こんなに「マイ・フェア・レディ」の音楽ばっかりでいいの?って思ってしまいます。こんなの編曲賞で候補になっている「マイ・フェア・レディ」が獲ったも同然やん、みたいな。まあ本当に獲りましたけどね。
4:37にオードリー登場。自分が写っていることに気づいてちょっと照れるオードリーが可愛い!横には監督のジョージ・キューカーが座っています。
すぐその後にジュリー・アンドリュースとレックス・ハリスンが写りますが、しばらく後にまたオードリーが写ります。
12:32のジュリー・アンドリュースが映るシーンに次いで、2番目に再生回数が最も多い部分になってます。
その後授賞式が開始されますが、この映像で終わりの方でプレゼンターとしてスティーブ・マックイーンも出てきます。これが3番目に再生の多い部分です。
続いては、衣裳デザイン賞と撮影賞と編曲省。どれも「マイ・フェア・レディ」が獲っています。
3つとも映像の最後の方に拍手をするオードリーが出てきます。
次は主演男優賞。もちろんレックス・ハリスンが獲っていますね。
そしてプレゼンターはオードリー。
本来、オードリーは主演女優賞にノミネートされていませんし、前年度の主演女優賞を獲得したわけでもないので、ここに出演する義理はないのですが、友人のグレゴリー・ペックに請われて、脳卒中のために歩くことも喋ることもできず臥せっている前年度の主演女優賞のパトリシア・ニール(「ティファニーで朝食を」の2Eとしてオードリーと共演済み)の代役として舞台に上がりました。
でもここまでに、マーニ・ニクソンの旦那だった映画音楽家のアーネスト・ゴールドによって、吹替の事をバラされており、オードリーに対しては酷いバッシングが起こっていました。いまだったら炎上してるところですね。
ジュリー・アンドリュースを使わなかったのはワーナー映画の総帥ジャック・ワーナーだし、オードリーは、ジュリーが役を自分のものとしていると一旦は断ったくらい。
オードリーは一生懸命発声練習をして、全曲吹き込んでいたのに、それを使わなかったのはジョージ・キューカーたち。
それでもジュリー本人がスクリーン・テストを蹴ったことや、オードリーはほとんど吹き替えられることを知らなかったにもかかわらず、オードリーへのものすごいバッシングが起こったんですよね。
今まで何も悪いこともせず、人を傷つけることもしなかったオードリー。ただ、ちょっとハリウッドとは距離をおいて、平穏に暮らしたいからスイスに住んでいただけなんですが、それを品行方正過ぎてお高くとまっている、とここぞとばかりに叩くマスコミなどがいたんですよね。
それでアカデミー主演女優賞のノミネートからも落ちてしまったオードリーですが、当時、オードリーに対してあまりに不当!と、ノミネートされてなくてもオードリーに投票しよう!とアカデミー会員からの反発の運動も起きたくらい。
あまりにその運動のうねりが大きかったので、当時のアカデミーの会長が、ノミネートされていない人に投票しても無効、とわざわざ声明を出したくらいでした。
ここでも、授賞式に出席しなかったら嫉妬や妬みで参加しなかった負け犬だとまたマスコミに叩かれるとわかって、グレゴリー・ペックも出席させるのはあまりに酷だとわかっていても友人のオードリーに頼んだんでしょうし、オードリーも無理して出席したんだと思います。
オードリーにとっては本当に針のむしろにいるような思いで出席していたんだと思います。他の賞で「マイ・フェア・レディ」が受賞している時でも、オードリーの顔は緊張していて強張っています。
この主演男優賞のプレゼンターもオードリーは無理して笑顔で登場しますが、ブーイングされるんではないかと頭真っ白で、緊張で本当に倒れそうだったんじゃないかと。
でもバッシングの反動で、ここでのオードリーはひときわ大きな長い拍手で迎えられます。伝記でも、“ノミネートもしなかったことへのお詫びの気持ちが入っていた”と書かれていました。
でもここで、オードリーは緊張のあまり、息子ショーンの言う “人生で最も悪いこと”をしてしまいます。
なんと前年度の主演女優賞のパトリシア・ニールの代役であることをいうのを忘れてしまったんですよね。
オードリーがパトリシア・ニールの代わりであるということを言い忘れたので、テレビで見ていたパトリシア・ニールは怒りで言葉にならない叫びをあげ、動く方の手でテーブルをバンバン叩いたそうです。
夫のロアルド・ダールは後ですぐにオードリーが謝罪の電話を入れても「失せやがれ!」と言って許さなかったとか。
でもパトリシア・ニール本人は、のちに当時酷いバッシングを受けていたオードリーの緊張しまくりの心情を慮って、「もうそんなことは忘れていました。彼女が私を今でも友人だと思ってくれてればいいと思います。私が彼女の友人であるように」と言っています。
オードリーの代わりに、司会のボブ・ホープが重病で来れなかったパトリシア・ニールのことについて語り、オードリーはのちにパトリシア・ニールにお詫びの陶器のバラを送ったそうです。
それでも、最優秀主演男優賞が共演のレックス・ハリスンだとわかって喜ぶオードリーは、本当に嬉しそうです。
たいていは嫌なヤツのレックス・ハリスンも、ここでは“深い愛を、2人のフェアレディに”と述べるなど、紳士ぶりを発揮。
監督賞と作品賞はまとめられていますね。オードリーは写っていません。
最後に、別カメラでの主演男優賞と主演女優賞の映像を。
未だに「マイ・フェア・レディ」はジュリーが良かったとかっていう論調を見かけますが、ナンセンスですね。
何度も書いてますが、「マイ・フェア・レディ」にジュリーが出ていたら、ジュリーの「メリー・ポピンズ」は無かったでしょうし、「サウンド・オブ・ミュージック」には最初にオファーを受けていたオードリーが出ていたかもしれません。
「マイ・フェア・レディ」はあるけど、「メリー・ポピンズ」と「サウンド・オブ・ミュージック」の無いジュリーでいいのでしょうか?
ジュリーだけのファンは、「マイ・フェア・レディ」も「メリー・ポピンズ」も「サウンド・オブ・ミュージック」も、さらにいうとオードリーが演じるはずだった「卑怯者の勲章」も「ハワイ」も総取り出来ると思っているのがスゴイ発想だなーと思います。
ジュリーも大変ですよね。
でもオードリーとジュリーは個人的には仲が良く、別荘ではお互いの家をよく行き来してたようですし、ジュリーはオードリーに本も送っています。
2人とも性格の良いフェア・レディですもんね。気が合わないわけがないです。
ちなみに、載せませんでしたが、この年のアカデミー賞にはアラン・ドロンも視覚効果賞のプレゼンターとして出演しています。
以前から、今日はこの1965年アカデミー授賞式の様子を載せた雑誌の切り抜きを紹介しようと思っていたのですが、ここのところ雑誌の紹介ばかりだったので、趣向を変えて当時の授賞式の動画をYouTubeからお借りして紹介することにしました。
まずは授賞式開始前〜開始の様子。
当時の放送はカラーだったでしょうが、モノクロしか残ってないのが残念ですね。翌年の1966年からはカラーが残っているようなのですが…。
と言っても、当時はビデオにしろキネスコープ(キネコ)にしろものすごい高価で、録画された上から上書きされる使い回しが多かったそうですから、モノクロでも残っているだけいいんだろうなーと思います。
日本でもNHKとか、お金のかかった大河ドラマでも80年以前は残ってないそうですからね。
まずは会場前から。リチャード・チェンバレン、「奥さまは魔女」でサマンサのお母さんエンドラ役で有名なアグネス・ムーアヘッド(助演女優賞候補)、アン・マーグレット、デボラ・カー、ジェーン・フォンダなんかが写っていますね。
開始の音楽は「マイ・フェア・レディ」の“踊り明かそう”“君住む街で”“彼女のことで頭がいっぱい”のアレンジ(他の候補曲と混ぜてる?)で始まります。
こんなに「マイ・フェア・レディ」の音楽ばっかりでいいの?って思ってしまいます。こんなの編曲賞で候補になっている「マイ・フェア・レディ」が獲ったも同然やん、みたいな。まあ本当に獲りましたけどね。
4:37にオードリー登場。自分が写っていることに気づいてちょっと照れるオードリーが可愛い!横には監督のジョージ・キューカーが座っています。
すぐその後にジュリー・アンドリュースとレックス・ハリスンが写りますが、しばらく後にまたオードリーが写ります。
12:32のジュリー・アンドリュースが映るシーンに次いで、2番目に再生回数が最も多い部分になってます。
その後授賞式が開始されますが、この映像で終わりの方でプレゼンターとしてスティーブ・マックイーンも出てきます。これが3番目に再生の多い部分です。
続いては、衣裳デザイン賞と撮影賞と編曲省。どれも「マイ・フェア・レディ」が獲っています。
3つとも映像の最後の方に拍手をするオードリーが出てきます。
次は主演男優賞。もちろんレックス・ハリスンが獲っていますね。
そしてプレゼンターはオードリー。
本来、オードリーは主演女優賞にノミネートされていませんし、前年度の主演女優賞を獲得したわけでもないので、ここに出演する義理はないのですが、友人のグレゴリー・ペックに請われて、脳卒中のために歩くことも喋ることもできず臥せっている前年度の主演女優賞のパトリシア・ニール(「ティファニーで朝食を」の2Eとしてオードリーと共演済み)の代役として舞台に上がりました。
でもここまでに、マーニ・ニクソンの旦那だった映画音楽家のアーネスト・ゴールドによって、吹替の事をバラされており、オードリーに対しては酷いバッシングが起こっていました。いまだったら炎上してるところですね。
ジュリー・アンドリュースを使わなかったのはワーナー映画の総帥ジャック・ワーナーだし、オードリーは、ジュリーが役を自分のものとしていると一旦は断ったくらい。
オードリーは一生懸命発声練習をして、全曲吹き込んでいたのに、それを使わなかったのはジョージ・キューカーたち。
それでもジュリー本人がスクリーン・テストを蹴ったことや、オードリーはほとんど吹き替えられることを知らなかったにもかかわらず、オードリーへのものすごいバッシングが起こったんですよね。
今まで何も悪いこともせず、人を傷つけることもしなかったオードリー。ただ、ちょっとハリウッドとは距離をおいて、平穏に暮らしたいからスイスに住んでいただけなんですが、それを品行方正過ぎてお高くとまっている、とここぞとばかりに叩くマスコミなどがいたんですよね。
それでアカデミー主演女優賞のノミネートからも落ちてしまったオードリーですが、当時、オードリーに対してあまりに不当!と、ノミネートされてなくてもオードリーに投票しよう!とアカデミー会員からの反発の運動も起きたくらい。
あまりにその運動のうねりが大きかったので、当時のアカデミーの会長が、ノミネートされていない人に投票しても無効、とわざわざ声明を出したくらいでした。
ここでも、授賞式に出席しなかったら嫉妬や妬みで参加しなかった負け犬だとまたマスコミに叩かれるとわかって、グレゴリー・ペックも出席させるのはあまりに酷だとわかっていても友人のオードリーに頼んだんでしょうし、オードリーも無理して出席したんだと思います。
オードリーにとっては本当に針のむしろにいるような思いで出席していたんだと思います。他の賞で「マイ・フェア・レディ」が受賞している時でも、オードリーの顔は緊張していて強張っています。
この主演男優賞のプレゼンターもオードリーは無理して笑顔で登場しますが、ブーイングされるんではないかと頭真っ白で、緊張で本当に倒れそうだったんじゃないかと。
でもバッシングの反動で、ここでのオードリーはひときわ大きな長い拍手で迎えられます。伝記でも、“ノミネートもしなかったことへのお詫びの気持ちが入っていた”と書かれていました。
でもここで、オードリーは緊張のあまり、息子ショーンの言う “人生で最も悪いこと”をしてしまいます。
なんと前年度の主演女優賞のパトリシア・ニールの代役であることをいうのを忘れてしまったんですよね。
オードリーがパトリシア・ニールの代わりであるということを言い忘れたので、テレビで見ていたパトリシア・ニールは怒りで言葉にならない叫びをあげ、動く方の手でテーブルをバンバン叩いたそうです。
夫のロアルド・ダールは後ですぐにオードリーが謝罪の電話を入れても「失せやがれ!」と言って許さなかったとか。
でもパトリシア・ニール本人は、のちに当時酷いバッシングを受けていたオードリーの緊張しまくりの心情を慮って、「もうそんなことは忘れていました。彼女が私を今でも友人だと思ってくれてればいいと思います。私が彼女の友人であるように」と言っています。
オードリーの代わりに、司会のボブ・ホープが重病で来れなかったパトリシア・ニールのことについて語り、オードリーはのちにパトリシア・ニールにお詫びの陶器のバラを送ったそうです。
それでも、最優秀主演男優賞が共演のレックス・ハリスンだとわかって喜ぶオードリーは、本当に嬉しそうです。
たいていは嫌なヤツのレックス・ハリスンも、ここでは“深い愛を、2人のフェアレディに”と述べるなど、紳士ぶりを発揮。
監督賞と作品賞はまとめられていますね。オードリーは写っていません。
最後に、別カメラでの主演男優賞と主演女優賞の映像を。
未だに「マイ・フェア・レディ」はジュリーが良かったとかっていう論調を見かけますが、ナンセンスですね。
何度も書いてますが、「マイ・フェア・レディ」にジュリーが出ていたら、ジュリーの「メリー・ポピンズ」は無かったでしょうし、「サウンド・オブ・ミュージック」には最初にオファーを受けていたオードリーが出ていたかもしれません。
「マイ・フェア・レディ」はあるけど、「メリー・ポピンズ」と「サウンド・オブ・ミュージック」の無いジュリーでいいのでしょうか?
ジュリーだけのファンは、「マイ・フェア・レディ」も「メリー・ポピンズ」も「サウンド・オブ・ミュージック」も、さらにいうとオードリーが演じるはずだった「卑怯者の勲章」も「ハワイ」も総取り出来ると思っているのがスゴイ発想だなーと思います。
ジュリーも大変ですよね。
でもオードリーとジュリーは個人的には仲が良く、別荘ではお互いの家をよく行き来してたようですし、ジュリーはオードリーに本も送っています。
2人とも性格の良いフェア・レディですもんね。気が合わないわけがないです。
ちなみに、載せませんでしたが、この年のアカデミー賞にはアラン・ドロンも視覚効果賞のプレゼンターとして出演しています。
タグ :マイ・フェア・レディ動画
2025年04月03日
オードリー・ヘプバーンの家「ラ・ペジブル」が売りに出されている!!
3月にちょっとビックリするニュースがあったみたいなので、遅ればせながら臨時で記事を。
オードリーが1965年から住んで、終の住処としたスイス、トロシュナの「ラ・ペジブル」が売りに出されているということで、ニュースになっていました!

下記に主なニュースのソースを載せておきます。
モダンリビングマガジン
Yahoo!ニュース1
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産経ニュース
今まで完全非公開だった「ラ・ペジブル」の内部が見れるニュースもいくつかありますね。
改めて知ると、すごい豪邸です。
リビングも寝室も広ーい!
でもきっとオードリーが住んでいた時代にはプールはなかったんじゃないかなーとか思ったり。
オードリー自身が泳ぐのをあまり得意とはしてないようですしね。
オードリーならプールより草や花や木があって、庭を愛犬達と駆け回る方が嬉しいだろうなと思いますしね。
えーっ、ショーンとルカ!売っちゃうの!?と思いましたが、元々すでに「ラ・ペジブル」には“別の人が住んでいる”という記事は読んでいましたし、旅行会社の方からも他人が住んでいる、という話は伺ってましたので、既に息子2人の手を離れているのかな?とは以前から思っていましたが、そうやらそのようです。
ということは、オードリーが亡くなってそんなに経たずに、「ラ・ペジブル」は売られてしまっていたのですね。
貸しているだけかとも思っていましたが…オードリーと血縁関係ではない人のものになってるってなんか悲しい。
でもこれだけの豪邸、維持するのも大変でしょうし、ショーンもルカもここには住んでなかったようなので、大事にしてくれる人に買ってもらった方が良かったのかも…。
さて、今回は約32億円で売りに出されてるとのこと。
まあ海外の物価は今の日本よりはるかに高いですし、特にスイスですしね。
オードリーが買ったのは65年説と63年説があるけど、僕は65年説支持派。なんでって、63年や64年に「ラ・ペジブル」で写っているオードリーの写真が無いから。
まあ63年があるとしても、そこでは書類上で手に入れただけで、改装をして移り住んだのは65年とかかなーと。
で買ったのは65年として、その当時オードリーが買ったのは高くても今の7〜10億円相当くらいじゃないかと。
だって、まだオードリーが住んでいた家、という付加価値は無い田舎の家ですもんね。
それだけでも一般人には凄い金額ですが、今と当時の物価の差を考えると、オードリーが買ったのは当時の20〜25万ドルくらいかなーと。
有り得そうな値段ですよね。
これは当時の日本円だと、7200万円〜9000万円。
一見、安そうに思いますが、当時は1000万円もあれば余裕で東京23区内で大きな家が買えたでしょうから、東京で一軒家を10軒以上建てられるほどの金額。
でもオードリーはメル・ファーラーと結婚していた時期でしたけど、お金は2人で払ったんでしょうかね?
離婚時に「ラ・ペジブル」はオードリー所有となっているので、もしかしたらオードリーだけが払ったのかもしれませんね。
当時、「マイ・フェア・レディ」でオードリーのギャラは100万ドルに達していましたが、メル・ファーラーの方はその10分の1ももう無かったでしょうしね。
なのでオードリーにとっては楽々払える金額でも、メル・ファーラーにとっては厳しい金額だったでしょうし。
オードリーの「マイ・フェア・レディ」のギャラの一部で買ったんかなーとか。
でも当時の100万ドルって3億6000万円ですけど、今の価値になおすと50億円くらいじゃないかと思います。もっとかな?
オードリーの映画1本の出演料、スゴー!
さて、記事では10年前に改装された、と書いてありますが、2012年のテレビ番組(こちらとかこちら)で写っていたものは、既に僕が1988年オードリーが生きている時期に行ったものとは違っていましたから、最低2回は改装されていますね。
オードリーが生きていた時代の「ラ・ペジブル」の僕の画像は、またいつかここで載せたいと思います。
ちなみに、2017年にオードリーがロサンゼルスで住んでいた家が売りに出されている、という記事もありましたね。
こちらは16億円でしたが、オードリーってロスは映画を撮る時だけの仮の賃貸物件だったので、そんなにオードリーも思い入れはなかったでしょうね。
後年は親友のコニー・ウォルド家で泊まっていたみたいですし、縁はあまりない邸宅だったのかも。
記事はコチラ
ハーパーズ・バザー
朝日新聞
オードリーが1965年から住んで、終の住処としたスイス、トロシュナの「ラ・ペジブル」が売りに出されているということで、ニュースになっていました!

下記に主なニュースのソースを載せておきます。
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産経ニュース
今まで完全非公開だった「ラ・ペジブル」の内部が見れるニュースもいくつかありますね。
改めて知ると、すごい豪邸です。
リビングも寝室も広ーい!
でもきっとオードリーが住んでいた時代にはプールはなかったんじゃないかなーとか思ったり。
オードリー自身が泳ぐのをあまり得意とはしてないようですしね。
オードリーならプールより草や花や木があって、庭を愛犬達と駆け回る方が嬉しいだろうなと思いますしね。
えーっ、ショーンとルカ!売っちゃうの!?と思いましたが、元々すでに「ラ・ペジブル」には“別の人が住んでいる”という記事は読んでいましたし、旅行会社の方からも他人が住んでいる、という話は伺ってましたので、既に息子2人の手を離れているのかな?とは以前から思っていましたが、そうやらそのようです。
ということは、オードリーが亡くなってそんなに経たずに、「ラ・ペジブル」は売られてしまっていたのですね。
貸しているだけかとも思っていましたが…オードリーと血縁関係ではない人のものになってるってなんか悲しい。
でもこれだけの豪邸、維持するのも大変でしょうし、ショーンもルカもここには住んでなかったようなので、大事にしてくれる人に買ってもらった方が良かったのかも…。
さて、今回は約32億円で売りに出されてるとのこと。
まあ海外の物価は今の日本よりはるかに高いですし、特にスイスですしね。
オードリーが買ったのは65年説と63年説があるけど、僕は65年説支持派。なんでって、63年や64年に「ラ・ペジブル」で写っているオードリーの写真が無いから。
まあ63年があるとしても、そこでは書類上で手に入れただけで、改装をして移り住んだのは65年とかかなーと。
で買ったのは65年として、その当時オードリーが買ったのは高くても今の7〜10億円相当くらいじゃないかと。
だって、まだオードリーが住んでいた家、という付加価値は無い田舎の家ですもんね。
それだけでも一般人には凄い金額ですが、今と当時の物価の差を考えると、オードリーが買ったのは当時の20〜25万ドルくらいかなーと。
有り得そうな値段ですよね。
これは当時の日本円だと、7200万円〜9000万円。
一見、安そうに思いますが、当時は1000万円もあれば余裕で東京23区内で大きな家が買えたでしょうから、東京で一軒家を10軒以上建てられるほどの金額。
でもオードリーはメル・ファーラーと結婚していた時期でしたけど、お金は2人で払ったんでしょうかね?
離婚時に「ラ・ペジブル」はオードリー所有となっているので、もしかしたらオードリーだけが払ったのかもしれませんね。
当時、「マイ・フェア・レディ」でオードリーのギャラは100万ドルに達していましたが、メル・ファーラーの方はその10分の1ももう無かったでしょうしね。
なのでオードリーにとっては楽々払える金額でも、メル・ファーラーにとっては厳しい金額だったでしょうし。
オードリーの「マイ・フェア・レディ」のギャラの一部で買ったんかなーとか。
でも当時の100万ドルって3億6000万円ですけど、今の価値になおすと50億円くらいじゃないかと思います。もっとかな?
オードリーの映画1本の出演料、スゴー!
さて、記事では10年前に改装された、と書いてありますが、2012年のテレビ番組(こちらとかこちら)で写っていたものは、既に僕が1988年オードリーが生きている時期に行ったものとは違っていましたから、最低2回は改装されていますね。
オードリーが生きていた時代の「ラ・ペジブル」の僕の画像は、またいつかここで載せたいと思います。
ちなみに、2017年にオードリーがロサンゼルスで住んでいた家が売りに出されている、という記事もありましたね。
こちらは16億円でしたが、オードリーってロスは映画を撮る時だけの仮の賃貸物件だったので、そんなにオードリーも思い入れはなかったでしょうね。
後年は親友のコニー・ウォルド家で泊まっていたみたいですし、縁はあまりない邸宅だったのかも。
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ハーパーズ・バザー
朝日新聞
2025年03月31日
「マイ・フェア・レディ」1995年リバイバルと「スクリーン」1995年4月号

今日は「マイ・フェア・レディ」1995年リバイバルが東京の銀座文化劇場から始まった日からちょうど30年です。
30年前の1995年3月31日〜4月27日まで上映された後、全国で上映されました。
銀座文化劇場では、朝の10時の1回のみ4月13日までは「カサブランカ」、14日からは「哀愁」と併映でした。
それ以外の昼からの回はずっと「マイ・フェア・レディ」の上映です。
さて、この95年リバイバルのメイン画像は一新されて、以前紹介したB1ポスターのようになっていました。
この時のメインイメージは、1994年に本国アメリカでデジタル・リマスターされてリバイバルされた際に使用されたものを使用。

でもデジタル・リマスター版とはポスターのどこにも書いてないんですよね。
それで一抹の不安を抱えながら、それでもやっぱり何か月か後の大阪か神戸で見に行きました。85年からオードリー作品の日本ヘラルドによるリバイバルが始まって、「マイ・フェア・レディ」も86年にリバイバルされたので、そこから何回行ったのかもう覚えてないですけどね。
それまで日本ヘラルドのリバイバルは上映前に“この映画は製作されて長い年月が経っております。そのためキズや雑音がある場合がありますが、ご了承ください。”というテロップが映し出されるんですよね。
それで、そのテロップが流れたらリマスターしてないフィルム、流れなかったらリマスター、と思って見たんですが、やっぱり最初に “この映画は製作されて長い年月が…”と出てきました。
せっかくリマスター版が見れるかと思ったのですが、のちに日本ヘラルドさんに直接電話で問い合わせると、やはり95年リバイバルは86年のフィルムの使い回しでした。
それと、日本ではこの95年リバイバルの後、「マイ・フェア・レディ」が劇場でリバイバルされたのは2015年11月4日まで20年来ませんでしたから、この1994年のデジタル・リマスター版は日本では1度も上映されないまま終わりました。

2015年リバイバル以降は、2014年にさらに新しく4Kデジタル・リマスターされたものが上映されたんで、この1995年リバイバルは、94年リマスター版を上映できる唯一のチャンスだったんですけど、残念です!日本ヘラルドさんがフィルムを再度取り寄せてくれたら良かったんですけどね。

94年リマスター版は、今やDVDやブルーレイの初期版でのみ見ることができる物になっています。
さて、3月リバイバルなら、「スクリーン」では3月3日にリバイバルされた「ティファニーで朝食を」とともにリバイバル紹介が4月号(2月21日発売)で載るか、5月号(3月21日発売)で載るか、なんですが、やはり日本ヘラルド公開で、しかもフィルムは使い回しなので、どちらにも載っていません。
その代わりに4月号(表紙はオードリーのことを大好きなジュリア・ロバーツ)にはとうとう日本でも出る「マイ・フェア・レディ」のデジタル・リマスター版のビデオ(VHS)の紹介が載っています。
今年、耐久年数からもう見れなくなってしまうと言われているビデオですね。

もちろん実際にはセシル・ビートンによって1963年に撮影されてますんで、突然湧いて出たものではないんですが、それまでは全く流通してなかったんですよね。特に日本では。
この全く新しい画像を使って、アメリカでの94年リバイバル、リマスター版のビデオ・LD、セシル・ビートンの「マイ・フェア・レディ日記」、が売り出されたんですよね。
後年発売されたブルーレイの初期版もこのイメージでした。

でも2014年イメージの写真に偽物のサインをして、“オードリー直筆サイン”と騙ってヤフオクで売ってる輩がいた時はめっちゃ腹立ちましたけどね。
しかもそれを落札してる人がいました!
さて、この95年4月号の「スクリーン」では、まず最初の方のグラビアページに混じってまずコート紙での広告が1ページ。
高いお金を掛けて広告を打つなんて、当時いかにフォックスが力を入れていたかがわかりますよね。

さて「スクリーン」本文でも、マットコート紙の見開き2ページを使ってこのビデオを紹介しています。
というのも、当時はデジタル・リマスターの黎明期で、今なら簡単にできるちょっとのことでもすごいお金がかかった時代で画期的だったわけですね。
この「マイ・フェア・レディ」も当時の60万ドルものお金をかけて半年かかってリマスターされたことが書かれています。

94〜95年当時は、オードリーの歌が残っているだけでも凄いことでしたし、製作当時と現在(94年)を組み合わせたメイキングが見れるというのもファンからしたらめっちゃ嬉しいことでしたね。
でも、オードリーの歌は完成版ではなく練習版(完成版はCBSが価値をわからず、愚かにも捨ててしまっている)、オードリーの歌を吹き替えたマーニ・ニクソンはオードリーのことを悪く言っているのが腹が立って嫌いになりましたし(後年、4K版の時はだいぶ言い分を変更している)、何より「マイ・フェア・レディ」クラスの名作のフィルムが劣化するままに放置されていたことが大問題!だと思ったものです。

この紹介ページでは、「マイ・フェア・レディ」の珍しい本物のカラー画像が多く見られるのが嬉しいところ。
LDのブックレットにも載っていない画像なので、「スクリーン」が準備したのでしょうか。素晴らしい画像の選択ですね!
それと、近代映画社の本の紹介ページでは、さすがに85年からのオードリーブームも落ち着いて来たからか、以前のようにオードリーだけでドーンと、ってことは無くなっていますが、オードリーだけの本も入れて、ここに画像を載せなかった分も含めて全部で9冊もオードリーが表紙で使われています。
また、当時は阪神大震災直後。編集後記でも被災地や被災者を心配する声が書いてありますし、劇場の上映案内で神戸のアサヒシネマが休館、となっているのが当時の神戸の状況を思い出してしまいますね。
2025年03月26日
1975年11月14日“ゴールデン洋画劇場”放映「いつも2人で」雑誌紹介

これは1975年12月号(10月21日発売)だと思うのですが、これまた中学生の時に買った古本なので、切り抜きの後廃棄してしまって残っていません。
他のラインナップは広告から「宇宙水爆戦」「マーベリックの黄金」「危険がいっぱい」ですが、両誌に掲載された広告を見ると「いつも2人で」が1推し。
ゴールデン洋画劇場の季刊パンフレットでも「いつも2人で」がイチオシでした。
ここでの広告のキャッチコピーは「いつも2人で」初公開時のキャッチコピーに準じたものになっていますね。
“こんにちは!
風に手をふって旅をする恋のふたり
チャーミングな恋と
素敵なモードの華麗な花束!”
こんな感じです。まあ「いつも2人で」って紹介するのも見所を伝えるのも難しい映画ですもんね。
広告できちんと「いつも2人で」公開時のロゴを使ってくれているのが嬉しいです。
僕にとってのオードリーとの出会いはこの「いつも2人で」が最初でした。
以前はなんか深夜のテレビ洋画番組で見たはず、と思っていましたが、時期的にどうやらこの1975年の初放映が僕のオードリーとの最初の出会いだったようです。

サブブログの“おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!”でも僕がオードリーに興味を持ったきっかけを書いてますが、小学校の時に仲の良かった同級生の女子たちが、1人はヴィヴィアン・リー、もう1人がオードリー・ヘプバーンを好きだと言っていて、それで見てみようと思ったのが最初のきっかけです。
小学生でヴィヴィアン・リーやオードリー・ヘプバーンが好きなんて、なんとおませさん!と今なら思いますが、当時は別に背伸びでもなんでもなかったですね。
そしてたまたまテレビでやるこの「いつも2人で」を最初に見た、というわけですね。
まず、最初のタイトルバックからしておお〜!と思いましたね。
いろんな道路標識が次々現れては動いて消えて行くのが、切り絵のような車や森のデザインとも相まってすぐにやられてしまいました。
ストーリーも小学生にはまだ早い内容でしたが、それでも次々と入れ替わる時間軸に惹きつけられて、一気に見てしまいました。
「いつも2人で」のオードリーは “魅力も褪せて…”なんて書かれることも多いですが、小学生からしたら別にそんなことは思わずに、“綺麗なお姉さん”って思ってました。そして可愛い!!すぐに好きな女優さんになりました。
小学生だから、映画の作り方なんてわかるわけもなく、最初に見た時に、この映画は5年〜10年かけて撮ったんかな?などと思っていました。
でもオードリーが撮影時は37才などとは思ってなく(小学生からしたら当時の37才って母親の年齢ですもんね)、10代後半から20代だと思っていました。

でも、今考えても「いつも2人で」が僕のオードリー人生の最初で良かったー!と思いますね。
一般的には「いつも2人で」ではなく「おしゃれ泥棒」の方が最初がいいんじゃないかと思ってるんですけど、僕にはこれで良かった!
「おしゃれ泥棒」や「いつも2人で」が最初だったら何がいいかって、どの時代のオードリーにも分け隔てなく入っていけるからですよね。
「ローマの休日」からだと、その時代をオードリーと歩んだ人じゃなく、途中から入ってきた人だと若いオードリーばっかりに目がいってしまう。
でも「おしゃれ泥棒」や「いつも2人で」が最初だと、歳をとった「ロビンとマリアン」にも若い「昼下りの情事」にも違和感なくすぐに映画に入り込めるんですよね。
なので、僕は「いつも2人で」で良かった!と思ってるわけです。
というわけで、僕の人生を変えたこの時の放映の「いつも2人で」ですが、あまりにオシャレで新鮮な感覚に恋い焦がれてしまってて、ずっともう1度見たいと思っていました。
でも深夜放映であった時は新聞を見逃して翌朝気づく、ロイヤルホテルで自主上映があった時もその月だけ情報誌を見逃す、などということがあって、次に見れたのは高校も卒業して、ロイヤルホテルで見逃した時に再度上映してもらえるようにお願いして叶った時か、レーザーディスクで「いつも2人で」が出て、友人のお母さんが買った時かのどちらかです。

それだけ待って再見しても、やっぱり素晴らしい映画でした!今でも僕のベスト1オードリー作品です!
さて、そんなゴールデン洋画劇場で放映された吹替版ですが、これまた僕は長い年月見ることができませんでした。DVDにも収録されなかったし。
でもこちらにお越しいただいているwimpoleさんに、1987年に日テレで再放映されたものの録画のを2019年に見せていただき、44年ぶりに見ることができました!本当にありがとうございました!
池田昌子さんの吹替がとっても素敵でした!
2025年03月21日
1975年4月13日“日曜洋画劇場”放映「暗くなるまで待って」雑誌紹介

今日は4月13日にテレビ初放映された「暗くなるまで待って」の紹介。
前回紹介した4/4に初放映された「おしゃれ泥棒」からわずか9日で、今度は「暗くなるまで待って」。
これはオードリーファンは狂喜したでしょうね。
「おしゃれ泥棒」も「暗くなるまで待って」も1971年にリバイバルされて以来、映画館には来ませんでしたから(その後も「おしゃれ泥棒」は1991年まで、「暗くなるまで待って」は1987年まで延々リバイバルは来なかった)、家庭で観れるオードリーはめっちゃファンには嬉しいですよね。
そしてこの「暗くなるまで待って」(と前回紹介の「おしゃれ泥棒」も)の紹介が載っている1975年の5月号の「スクリーン」は年に1度の読者の人気投票の発表のある号。
オードリーファンはドキドキしながらページをめくったことでしょうね。
この時のカラーグラビアも紹介しておきますが、1975年は第2位になったオードリー。
評価の対象の1974年は「マイ・フェア・レディ」の3回目の日本公開だけで、新作はありませんでした。
並みいる若手の女優さんたちを差し置いて、引退状態のオードリーがそれでも2位というのは本当に凄いことなんですが、オードリーファンとしては72年から74年までは3年連続で1位でしたから、きっとちょっと悔しかったでしょうね。
でもこの75年から84年まではオードリーファンにとっては試練の暗黒時代が続くんですけどね。リバイバル来ない、人気投票ではどんどん順位下がっていく…というのは当時を経験した人ならわかっていただけるはずです。
さて、このカラーグラビアでは台本(「暗くなるまで待って」のもの)を持つオードリーですけど、当時は知られてなかったんですが、この台本カバー、ルイ・ヴィトンですよね。おそらく特注。
バッグでもルイ・ヴィトンを持ち歩くオードリーですから、オードリーの信頼が篤いのでしょうね。

先ほど書いた暗黒時代が始まるので、完全な王座奪還はこの後2007年まで待たないといけないんですけどね。
本題の「暗くなるまで待って」の紹介ですが…
「スクリーン」では
“スクリーン復帰が実現しないオードリーだが、これは今のところ最後の作品。劇場公開の時クライマックスで思わず「キャーッ!」と叫び声が上がったほどのショッキングな場面がある。ヒッチコックに負けないヤング監督のサスペンス映画の秀作である。”
「ロードショー」では
“オードリー・ヘップバーンが明き盲目の難しい演技を無難にこなしている。妖精スターのオードリーがミステリードラマで新境地を開いた話題作。電話線が切られてからの30分間の恐怖のクライマックス。殺害寸前に追い込まれるあたりの緊迫感はヤング監督の真価発揮。この1作を最後にオードリーの長い「休養」が始まったのは惜しまれてならない。”
と書かれています。
さて、この「暗くなるまで待って」ですが、今発売されているDVDには吹替が収録されていませんし、何度もいろんなオードリー作品の吹替が発掘されて放映されているのに、この作品だけは吹替版が放映されませんよね。
これは一体なぜ?と思ってらっしゃる方もいるかもしれませんが、僕は80年代にテレビで放映していた時の録画したビデオをを持っていますので、見たところ、これだろうなーというのがわかります。
実はこの吹替版が製作されるときに、セリフのない音楽と効果音だけの音源が無かったようなのですよね。

この音源がない作品がある、というのは昔の吹替版で苦労していたことのようで、当時の「スクリーン」などでも書かれていました。
というわけで、この「暗くなるまで待って」もサントラとして発売されていたEPレコードからメインタイトルは流していましたが、もちろんこれもヘンリー・マンシーニがレコード用は新たに録音し直して発売するので、映画とは違う響きがします。
そしてそれ以外の部分はマンシーニでもないという音楽が取って付けられてしまっているのです!
「暗くなるまで待って」を劇場や字幕で見た人からすると、違和感ありまくりの安っぽいサスペンスやホラー映画の伴奏がつけられて吹替られているので、ユルかった昔ならともかく、今は著作権的にアウトなんだろうなーというのはわかります。
マンシーニ的にも、ワーナー映画的にも、安っぽい何かの伴奏曲の作曲者(不明)的にもアウトだし、今後も放映は難しいと思います。
せっかくの池田昌子さんの吹替なのに、めっちゃもったいない!
これは日曜洋画劇場のスタッフが悪かったのではなく、音源を送って来なかったワーナーが悪い!
今の技術なら音楽は消して、吹き替えた池田昌子さんらの日本語だけを取り出して、本来の音楽と効果音の音源と合体ってできないんですかね?
でもこれもそうすることに対して利益が出るならどこかがしてくれるでしょうが、何も収入を生まなければ会社としてはやってくれませんよね。お蔵入りになるなんて、あー勿体無い!
2025年03月16日
1975年4月4日“ゴールデン洋画劇場”放映「おしゃれ泥棒」雑誌紹介

まず、1975年に東京地区をはじめとする全国(一部地域は除く)でテレビ放映されたオードリー映画は4本あります。
4/4に「おしゃれ泥棒」、4/13に「暗くなるまで待って」、5/21に「パリの恋人」、11/14に「いつも2人で」。
このうち「パリの恋人」は再放映。75年の「ロードショー」での紹介はこちらの記事で既に紹介済み。
この時は1970年の素材を使っていて、オードリーの吹替は池田昌子さんではなく阪口美奈子さんで、のちにサンテレビ?か何かの局で見た時は正直違和感ありまくりでした。
1975年だと僕はまだ小学校の同級生の女子から聞いてオードリーを初めて知った頃で、この中だとたぶん「いつも2人で」しか見れていません。
さて、今日は4/4にテレビ初放映した「おしゃれ泥棒」の紹介。
放映したのはフジテレビの“ゴールデン洋画劇場”。この当時は毎週金曜日の午後9時からスタートしていました。
“ゴールデン洋画劇場”、かなりフジテレビも力入れてたんでしょうね。この「スクリーン」と「ロードショー」の両誌でも宣伝かましていますし、この当時はなんと!“ゴールデン洋画劇場”だけの季刊パンフレットまで製作していました!

この記事を紹介しているのは両誌とも1975年5月号(3/21発売)だと思いますが、本体はとっくの昔にバラしてしまっていて、この記事しか残っていません。
この時の3月〜4月のラインナップは「地獄のパスポート」「ビスマルク号を撃沈せよ」「おしゃれ泥棒」「猿の惑星」「西部番外地」。
この中で強力なのは「おしゃれ泥棒」と「猿の惑星」だと思うのですが、「猿の惑星」は以前TBSに既に放映されていたのと、初公開時の配給収入で「おしゃれ泥棒」の方が上回っていたためにきっと1推しは「おしゃれ泥棒」になったのでしょう。
なので“ゴールデン洋画劇場”のパンフでも、「スクリーン」と「ロードショー」の広告でも、「おしゃれ泥棒」が最推しになってます。嬉しいですよね!
フジテレビ独自のキャッチコピーは
“オードリー・ヘプバーン、
すばらしく愛らしく笑うひと……。
「おしゃれ泥棒」でその魅力を
ふんだんに披露します。”

さて、「スクリーン」ではえんじ色1色のグラビアページ(コート紙)、「ロードショー」はマットコート紙での墨一色ページに載っています。
そのため、デザイン的にも色的にも「スクリーン」の方が相変わらずモッサリしているんですけど、紙がコート紙なので、この50年という半世紀もの時間を経ても、黄ばみの圧倒的に少ないのは「スクリーン」。
「ロードショー」の方はかなり変色しているので、ここでは修正をかけています。
やはりコート紙は時の流れにも強いですね。
今やマットコートともっと悪い上質紙になってしまった「SCREEN」ですけど、今の号の方が長い歳月には耐えられないかもしれません。
最近写真集などでもやたら使用頻度が高いマットコートですけど、経年劣化に弱く発色も悪いのに、なぜそんな紙を使うのか、僕には理解できません。
ちょっとオードリーの写真集を出すような会社には物申したいです!
さて、「スクリーン」での洋画劇場でのグラビア紹介では、「おしゃれ泥棒」がトップ。
文章では “名匠ウィリアム・ワイラーがオードリー・ヘプバーンの魅力を知り尽くして作ったロマンティック・コメディ。オードリーの着るジバンシィのシックなファッションも見もの。”と書いてます。

こういう風に書かれてる文章が今だにあって、なんだかな〜と思ってしまいます。
「ロードショー」の方でも “100万ドルで売り込んだ!”って書いてあって、みんな映画を見てないのかな?と思ってしまいます。
「ロードショー」での “見どころ”では “痛快な泥棒映画である。ワイラーは文芸対策と取り組む時の姿勢をガラリと崩してすこぶる気軽に作り、「ローマの休日」を思わせる粋で楽しいロマンティック・コメディにしている。大人のおとぎ話もここまでうまくシャレていれば文句なし。ビーナスの奪還シーンの迫力はヒッチコックも顔負け。”と書いてます。
2025年03月03日
「ティファニーで朝食を」1995年リバイバルチラシ

というわけで、今回は1995年リバイバル時のチラシを紹介。
1995年リバイバルは3月3日から30日まで東京の銀座文化劇場で最初に公開されました。
当時、朝の10時の1回だけの「サウンド・オブ・ミュージック」と併映だったようです。
1日の残りの4回(金曜はさらにもう1回)が「ティファニーで朝食を」だったというわけですね。
この記事のアップもその時の最初の「ティファニーで朝食を」上映の13:10にしてみました。
ちなみに銀座文化劇場で「ティファニーで朝食を」が終わった3月31日からは、「マイ・フェア・レディ」の1995年リバイバルに突入します。
どちらの映画も1993年に“I’ll オードリー・シアター”として上映しているのに、2年でまたリバイバルの先鞭を引き受けるとは、さすが当時“オードリー専用劇場”と言われただけのことはありますね。
95年の「ティファニーで朝食を」リバイバルでは、このチラシと、さらに同柄のB1ポスターが新たにデザインされて制作されました。
でもこのチラシ、なんかメインの画像が暗いんですよね。もっと綺麗なカラーを使えばいいのに、なんでこんなの選んできたんでしょうね。それにメインの画像の切り抜きが雑。
全体にあんまりいい出来だとは思わない。
メインの画像の下には、ティファニー本店の前に立つホリー、ニューヨークで歩くポールとホリー、夜にポールの部屋に逃れてきたホリーの3点の画像があしらわれてますけど、全然映えてないし効果ない。
89年リバイバルの「昼下りの情事」のデザインがかなり気合入ってたのに比べると、また86年あたりのやっつけ仕事っぽい出来になってます。
予算カットのために日本ヘラルドさんの身内でデザインしたんでしょうか?

映画にはティファニー・ブルーの要素って全くないですもんね。
それになんとなく発色が良くないのは、紙がコート紙ではなくマットコート紙だから。
あきませんよ!チラシにマットコート使うのは!
それでなくてもメインの画像が暗いのに、ますます色が沈んでしまいます。
これはこの紙を選んだ担当者の失敗ですね。
チラシの裏面も墨一色で刷られていて、マットコート紙と合わさって華やかさや高級感とは無縁。
そういえば真ん中の上部にある画像、2Eとホリーとポールの画像ですけど、珍しく正向きで画像が載ってます。
チラシの解説では、“オードリー・ヘプバーンの代表作中の代表作” “オードリーの小粋な姿が多くの人の眼にいまなお深く強く焼き付いている都会映画の傑作である” “ヘンリー・マンシーニにとってもこれは生涯を代表する仕事となった”と書かれています。
この1985年に始まった日本ヘラルド配給のオードリー映画のリバイバル、86年からはオードリーが再ブームの大ブームになって、女性誌なんかでもオードリーを載せれば売れる!という時代でした。
でも1993年に「尼僧物語」と「許されざる者」と「ロビンとマリアン」以降を除く主な作品(「初恋」を含む15作品で17回)のリバイバルは全て終わってしまい(さらにこの時期には新作「オールウェイズ」上映と「おしゃれ泥棒2」ビデオ発売もあった)、同じ93年にオードリーが亡くなってしまうとさすがにそのブームもだんだんと落ち着き始め、1995年はもうオードリーブームにも翳りが見えてきました。
なので僕的にはこの85年から始まるオードリーの大ブームは、95年までの約10年というイメージで捉えています。
2025年02月28日
神戸阪急の“Audrey in Cinema”展、行って来ました!

画像は会場の様子(写していい場所だけ)と、神戸阪急にも置いてあった2月の催事のビラと当日の入場券です。
2月の催事のビラは新聞広告のチラシとしても全くおんなじものが入っていたので、実は僕はそのチラシを見て“おっ!オードリーの展示会やるんや!”と思ったのでした。
まず、催事場のある9階に行ったんですが、エレベーターで行ったのでいきなりフォトスポットの方に着きました。
こちらは出口側で、最初の写真の右手に物販の場所があり、「ローマの休日」のオードリーのポスターの左側に入口がありました。
もしエスカレーターで登ってきたら、エスカレーターを降りたところに「ティファニーで朝食を」のオードリーがお出迎え、という状態になっている、とこれはチケットのもぎりの方に教えていただいた情報。
エレベーターで来ると、その画像は見えないんですよね。もちろん後で写真は撮りましたが。
さて、前回の記事で載せた招待状を持っていたのですが、どうやら他の人の様子を見ていると、当日券のチケットにもオードリーの写真が付いている様子!
これは買うしかないと、招待状があるにもかかわらず当日券も買いました。その画像も載せましたよー。

でも当日券はまだこのブログで紹介していないので、招待状を使って入りました。
すると招待状の人だけなのか、前売券や当日券の人でも貰えるのかよくわからないのですが、2階で何かの抽選ができる券をもぎりの方にいただきました。
さて、中に入ってオードリーの画像を堪能したのですが、一部京都とは違っていました。
それと前回も書いたように、僕の今回のチェックポイントは、京都で間違っていた展示物(クレヴィス社さんに連絡済み)はきちんと訂正されているのか、というのもありました。

それと京都では「ローマの休日」のトップに「パリの恋人」の画像が使われていたのですが(写真集「Audrey in Cinema」ではp7の写真)今回はその画像は「ローマの休日」にところにはありませんでした。
そしてその画像は無事「パリの恋人」の中に展示されていました。
それと、やはり「ローマの休日」「麗しのサブリナ」「パリの恋人」などは画像の点数が多いですね。「戦争と平和」とか「許されざる者」とか、「シャレード」などは画像が少なく、3.4点しかありませんでした。
「緑の館」や「パリで一緒に」が意外と多めだったのは、やはりボブ・ウィロビーの画像を借りているからでしょうね。

映画作品が終わると、各国のポスターで1作品1枚飾られていました。
これは写真集には収録されていないので、展示会でだけ見れるというもの。
京都では後でまとめて、ではなく各作品のところに飾られていたと思います。
しかもその時は全作品は無かったのですが、神戸では「暗くなるまで待って」までは全作品揃っていました。
京都では「戦争と平和」のとこに日本版が飾られていたのですが、UIP配給のポスターなのに、京都では “1973年リバイバル版ポスター”などと書かれていましたが、これも今回は “1987年リバイバル版ポスター”に修正されていました。

そこには「マイヤーリング」や「おしゃれ泥棒2」などのテレビ作品も載っていたのですが、「エクスラン・ヴァリーエ」「銀座リザ」のCMのことは載っていませんでした。
結局最後まで行って出口は出ずにまた戻って始めから見直し、というので3往復プラス一部をさらに見直ししてきました。
出口を出てからは、もちろん物販コーナーに行ったのですが、「AUDREY HEPBURN オードリー・ヘプバーン」や「オードリー・スタイル」という過去の写真集は順調に版を重ねているのですが、「Audrey in Cinema」はまだ全部1刷でした。
ちょっと残念。

というわけで、京都で確実に間違っていたものは全部訂正されてて、トンデモ本も排除されてた!
唯一「昼下りの情事」のカラーのオードリーのアップの画像が裏焼きなんだけど、鼻で判断するしかなくて、僕は確実に裏焼き、ってわかるけど、多分クレヴィス社さんの方はそこまで自信を持てなかったんでしょうね。これのみ裏焼きのまま展示されてました。
とにかく、今回はクレヴィス社さん、やるやん!というのが感想でしょうか。
あとは「オードリー・スタイル」展を梅田阪急でやってたのですが、新型コロナで1度中止になって、その後再度開催されたのですが、その時は大幅に画像の展示を少なくして無料になってしまっていたので、その完全版をどこかで見てみたいです。

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