2024年11月17日
「戦争と平和」1989年リバイバル35周年 シネアルバム60「スクリーン 愛のテーマ10」
今日は、1989年の「戦争と平和」リバイバルから35周年になります。
それで今日は芳賀書店が発行していたシネアルバムのNo.60「スクリーン 愛のテーマ10 世界文学の恋人たち」を紹介。
1989年リバイバルのグッズは、もう紹介が済んでいるので、今回は何にしようと今年始めからずっと考えていましたが、これというのがありませんでした。先月やっとそういえば「戦争と平和」がいっぱい載っているシネアルバムがあった!と思い出してこれにしました。
奥付(と言ってもシネアルバムはカバーに掲載)では1978年3月30日印刷 4月10日第1刷発行、となっています。
まあ本の奥付というものは発行っていうのは必ずしも実際の発売とは一致していませんので、あくまでもその辺に発売された、と思っておく方がいいでしょう。
シネアルバムも最初の方はスターだけでしたが、そうそう本が売れるほどのスターがいつまでもいっぱいいるわけもなく、1975年ごろからは年鑑と称して各年の1年間に公開された映画をまとめたものや、「映画はやっぱりスターから」や「50 STAR’S PIN UP」といったスターでまとめたものが出ていました。
この「スクリーン 愛のテーマ10」は初めてテーマで括って作品を集めたもの。
今回は「世界文学の恋人たち」と副題があるように、映画の文芸作品を集めたシネアルバムになっています。
表紙はオードリー版「戦争と平和」。それ自体は嬉しいことなのですが、内部のオードリーだけのカラーも合わせて「デラックスカラーシネアルバム」に掲載されたものと同じ画像なのがもったいない!
今までシネアルバムで未収録のカラー画像を使ってくれたらめっちゃ嬉しかっただろうに、残念です。
背表紙も「戦争と平和」のオードリー。裏表紙にはヴィヴィアン・リーやミア・ファローなどが載っています。
それで本屋で見かけた時も最初は少し買うのをためらったのはこの同じ画像、というのが引っかかったんですよね。
まあ今では買っておいてよかった!と思いますけどね。
でもむしろこのシネアルバムを買ったのは、ヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」で珍しい画像があったりとか、当時は画像が載ることが少なくてレアだったヴィヴィアン・リー版の「アンナ・カレニナ」が載っていたから、というのが大きかったと思います。
さて、掲載されているのは文学作品が原作で、そこそこ有名な映画であるもの。
なのでたとえ原作は大傑作でも、映画化が有名でないものは載っていません。たとえばドストエフスキーの「罪と罰」とかは何度も映画化されてはいますが、載ってません。あくまでも映画優先。
あと、原作はあるものの、あんまり原作がある、というのが知られなさすぎだったものも入っていません。
たとえば「太陽がいっぱい」などは公開時には原作本は翻訳されてもいなかったようです。
この本に入っているので、今見るとなんで入ってるの?というのは「悲愁」と「ラスト・タイクーン」でしょうか。
どちらも映画も原作もあまり有名ではありませんよね。「ラスト・タイクーン」は1978年1月にわりと大宣伝かまして日本公開されたようなので、それで掲載されたのでしょうかね?
それと、同じ原作で何度か映画化されているものは、それらの両方(ないしは3つ)が入っています。
まずは主な作品のモノクログラビアがあって(「戦争と平和」もあり)、次に掲載されている作品の愛についてオードリー評論家でもある林冬子さんが文章を書いてらっしゃいます。
そして最初に掲載されているのは「風と共に去りぬ」。
なんといっても原作も映画も有名ですよね。
文芸というよりは大衆文学ともいうべき原作ですけど、原作も超えようかという見事な映画化に、製作から85年も経っているのに、映画史にも興行収入的にもいまだに名を残していますね。
その「風と共に去りぬ」はカラーが4pあって、原作、映画のスタッフ・キャスト、そして解説も書かれたモノクログラビアが16p続きます。
ここに載っている製材所のシーンのヴィヴィアン・リーが珍しくて買う気になったのを覚えています。
次がお待ちかねの「戦争と平和」。
これも同じくカラーは4pあるんですが、「戦争と平和」にはソ連版があるので、最初はオードリー、次の見開きは上がオードリー版、下がソ連版となっています。
でもまあカラーの分量はオードリー版の方が多いし、モノクログラビアでもオードリー版が9pなのに対して、ソ連版は7pと差があるので、買った当時も “勝った!”と思っていましたけどね。
やはり芳賀書店さんも売らなければならないので、変わらず人気のあるオードリーをメインにしたのでしょうね。
解説ではオードリーが一躍35万ドルの出演料をもらったことが書かれていますが、これは別の資料で当時のハリウッドスターの最高額だったそうです。
「ローマの休日」では1万2500ドル、「麗しのサブリナ」では1万5000ドルだったことを考えると、わずか3年で28倍ものギャラになったことになりますね。
あまりにギャラがすごいので、エリザベス・テイラーがエージェントをオードリーと同じカート・フリングスに変えたそうです。
カート・フリングスのギャラ交渉は凄かったらしく、「フリングスはハリウッドを殺してしまう」とまで言われたそうですけど、フリングスは「でもハリウッドは死んだりしてないだろう?」と言ってのけたと。
でもこのおかげでエリザベス・テイラーもオードリーもやがて1本100万ドル(1960年初頭で3億6000万円。今の価値で52億円くらい)という莫大なギャラになっていきますけど、同時期に活躍していたマリリン・モンローなんかは晩年までオードリーの10分の1の10万ドルくらいだったそうですから、ちょっと可哀想ですよね。
他に載っているのは「華麗なるギャツビー」「悲愁」「ラスト・タイクーン」「ドクトル・ジバゴ」「誰がために鐘は鳴る
」「ジェーン・エア」「エデンの東」「アンナ・カレーニナ」「嵐が丘」「陽のあたる場所」です。
今なら「華麗なるギャツビー」はディカプリオバージョンも載ることでしょうし、「アンナ・カレーニナ」ももっといろんな映画化のが収録されるでしょうね。そしてここでは1968年のソ連版の「アンナ・カレーニナ」がメインになってますけど、今なら別のバージョンがメインかと思います。
ヴィヴィアン・リーの「アンナ・カレニナ」はやっぱりお美しい!
ソ連版公開当時、あんまりアンナ役のタチアナ・サモイロワが好評じゃなかったようで、過去のヴィヴィアン・リーのアンナは、“あんなに可憐にな”だったのに…と言われたそうです。
そういえば、ヴィヴィアン・リー版「アンナ・カレニナ」は1976年の「スクリーン」や「ロードショー」でリバイバル公開の紹介でグラビアページに載っていましたが、結局リバイバルはされなかったようでめっちゃ残念です!
もし1976年にリバイバルされていたら、僕も劇場で見れたかもしれませんし、パンフレットも発売していて、珍しい画像も載っていたかもしれませんもんね。
最後の方のページには青い上質紙でWHO'S WHOのページがあって、各作品の主要俳優の略歴が載っています。
オードリーのことでは、
「“グラマーな美女”というハリウッド女優のイメージをひっくり返したスターだった。気品のある顔立ちと、妖精のような美しさで『戦争と平和』のヒロインを好演、特に日本人に愛されて、彼女の作品はすべて公開されてヒットしている。」
「スクリーンの上では生活臭も女くささも感じさせない女優として生きつづけた。洒落た都会的なセンスの作品、文芸大作、シリアスな作品と、様々な映画に出演しながら、どれもオードリーらしい、清潔な個性をつらぬいていた。」
などと書かれています。
ちなみに主な作品では「ローマの休日」から「ロビンとマリアン」までの全作品が書かれていて、代表作が絞られて掲載されている他の俳優と違い、貴重な扱いの1人となっています。
さて、1989年リバイバルの「戦争と平和」は日本ヘラルドの配給で、1989年11月17日〜12月14日まで銀座文化劇場で公開された後、全国に流れて行きました。
何度も書いてますけど、銀座文化は1980年代後半〜1990年代前半にかけて “オードリー劇場”との異名も取ったオードリー作品とはゆかりの深い劇場。
でも「戦争と平和」は1987年にもUIP(パラマウントとユニバーサルの合同配給会社)配給の丸の内ピカデリー2でリバイバルされたばっかりでしたから、人の入りはどうだったんでしょうね。
1993年にI’llオードリーシアターでオードリー作品を半年に渡って連続上映した時にも、当時日本ヘラルドが権利を持っていたオードリー作品のうち、「戦争と平和」と「緑の館」だけ外されて上映されましたからねー。
さて、この日本ヘラルドのリバイバルが、日本での映画の興行の形を変えてしまったような気がするんですよね。
それまでは、銀座のチェーンマスターの劇場で新作もリバイバルも公開して、その後大都市の1番館や、東京や地方の2番館・3番館・4番…名画座という風に順に降りていく、っていう文字通り道に沿って映画が流れていく “ロードショー”公開形式でした。
でも日本ヘラルドが84年から過去の作品を怒涛のようにリバイバルするようになると、それまで名画座や下位の番館だったところがそのリバイバル公開を担う劇場になって、それまでチェーンマスター館とは明確な入場料の差があったものが同等になって、棲み分けするようになったんですよね。
それは名画座にとっては入場料を今までの3倍ほどに引き上げられる、しかも客層も良くなる、という願っても無いことだったのだろうと思いますが、これは実は後から考えると劇薬だったんですよね。
というのも、名画座が無くなってリバイバル館になることで、“ロードショー”とはチェーンマスター館や上位の番館で日本全国一斉に公開するという新しい日本の映画の興行形態に変わっていってしまったんですよね。
ところが、リバイバルの主な作品もブームも90年代後半に尽きてしまうと、かつて名画座だった所は上映するものが無くなってしまったんですよね。
大手の東宝や松竹が公開しない作品を上映するアート・シアターや、細々とまた名画座に転換するところもありましたけど、映画人口も減ってるし、興行形態も変わってしまってる。そうすると全国で続々と閉館する劇場が出てしまうんですよね。
神戸でもかなりの数の劇場の灯が消えてしまいました。
このリバイバル館が潰れていく2000年代までが大体1館で1つの作品を1日中上映する、という興行形態でしたね。
その後2000年代後半くらいから全国に、1つの施設にいくつものスクリーンがあるシネコンが続々と広がっていくようになると、また映画の興行形態が変わって、ヒットしている作品や新しい作品ではいくつものスクリーンで掛けたり、上映期間が長くなったものやヒットしない作品は1日での上映回数を減らす、という現在の形になって行きます。
1989年リバイバルの「戦争と平和」過去記事はこちら
・B2ポスター
・スピードポスター
・チラシ
・パンフレット
それで今日は芳賀書店が発行していたシネアルバムのNo.60「スクリーン 愛のテーマ10 世界文学の恋人たち」を紹介。
1989年リバイバルのグッズは、もう紹介が済んでいるので、今回は何にしようと今年始めからずっと考えていましたが、これというのがありませんでした。先月やっとそういえば「戦争と平和」がいっぱい載っているシネアルバムがあった!と思い出してこれにしました。
奥付(と言ってもシネアルバムはカバーに掲載)では1978年3月30日印刷 4月10日第1刷発行、となっています。
まあ本の奥付というものは発行っていうのは必ずしも実際の発売とは一致していませんので、あくまでもその辺に発売された、と思っておく方がいいでしょう。
シネアルバムも最初の方はスターだけでしたが、そうそう本が売れるほどのスターがいつまでもいっぱいいるわけもなく、1975年ごろからは年鑑と称して各年の1年間に公開された映画をまとめたものや、「映画はやっぱりスターから」や「50 STAR’S PIN UP」といったスターでまとめたものが出ていました。
この「スクリーン 愛のテーマ10」は初めてテーマで括って作品を集めたもの。
今回は「世界文学の恋人たち」と副題があるように、映画の文芸作品を集めたシネアルバムになっています。
表紙はオードリー版「戦争と平和」。それ自体は嬉しいことなのですが、内部のオードリーだけのカラーも合わせて「デラックスカラーシネアルバム」に掲載されたものと同じ画像なのがもったいない!
今までシネアルバムで未収録のカラー画像を使ってくれたらめっちゃ嬉しかっただろうに、残念です。
背表紙も「戦争と平和」のオードリー。裏表紙にはヴィヴィアン・リーやミア・ファローなどが載っています。
それで本屋で見かけた時も最初は少し買うのをためらったのはこの同じ画像、というのが引っかかったんですよね。
まあ今では買っておいてよかった!と思いますけどね。
でもむしろこのシネアルバムを買ったのは、ヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」で珍しい画像があったりとか、当時は画像が載ることが少なくてレアだったヴィヴィアン・リー版の「アンナ・カレニナ」が載っていたから、というのが大きかったと思います。
さて、掲載されているのは文学作品が原作で、そこそこ有名な映画であるもの。
なのでたとえ原作は大傑作でも、映画化が有名でないものは載っていません。たとえばドストエフスキーの「罪と罰」とかは何度も映画化されてはいますが、載ってません。あくまでも映画優先。
あと、原作はあるものの、あんまり原作がある、というのが知られなさすぎだったものも入っていません。
たとえば「太陽がいっぱい」などは公開時には原作本は翻訳されてもいなかったようです。
この本に入っているので、今見るとなんで入ってるの?というのは「悲愁」と「ラスト・タイクーン」でしょうか。
どちらも映画も原作もあまり有名ではありませんよね。「ラスト・タイクーン」は1978年1月にわりと大宣伝かまして日本公開されたようなので、それで掲載されたのでしょうかね?
それと、同じ原作で何度か映画化されているものは、それらの両方(ないしは3つ)が入っています。
まずは主な作品のモノクログラビアがあって(「戦争と平和」もあり)、次に掲載されている作品の愛についてオードリー評論家でもある林冬子さんが文章を書いてらっしゃいます。
そして最初に掲載されているのは「風と共に去りぬ」。
なんといっても原作も映画も有名ですよね。
文芸というよりは大衆文学ともいうべき原作ですけど、原作も超えようかという見事な映画化に、製作から85年も経っているのに、映画史にも興行収入的にもいまだに名を残していますね。
その「風と共に去りぬ」はカラーが4pあって、原作、映画のスタッフ・キャスト、そして解説も書かれたモノクログラビアが16p続きます。
ここに載っている製材所のシーンのヴィヴィアン・リーが珍しくて買う気になったのを覚えています。
次がお待ちかねの「戦争と平和」。
これも同じくカラーは4pあるんですが、「戦争と平和」にはソ連版があるので、最初はオードリー、次の見開きは上がオードリー版、下がソ連版となっています。
でもまあカラーの分量はオードリー版の方が多いし、モノクログラビアでもオードリー版が9pなのに対して、ソ連版は7pと差があるので、買った当時も “勝った!”と思っていましたけどね。
やはり芳賀書店さんも売らなければならないので、変わらず人気のあるオードリーをメインにしたのでしょうね。
解説ではオードリーが一躍35万ドルの出演料をもらったことが書かれていますが、これは別の資料で当時のハリウッドスターの最高額だったそうです。
「ローマの休日」では1万2500ドル、「麗しのサブリナ」では1万5000ドルだったことを考えると、わずか3年で28倍ものギャラになったことになりますね。
あまりにギャラがすごいので、エリザベス・テイラーがエージェントをオードリーと同じカート・フリングスに変えたそうです。
カート・フリングスのギャラ交渉は凄かったらしく、「フリングスはハリウッドを殺してしまう」とまで言われたそうですけど、フリングスは「でもハリウッドは死んだりしてないだろう?」と言ってのけたと。
でもこのおかげでエリザベス・テイラーもオードリーもやがて1本100万ドル(1960年初頭で3億6000万円。今の価値で52億円くらい)という莫大なギャラになっていきますけど、同時期に活躍していたマリリン・モンローなんかは晩年までオードリーの10分の1の10万ドルくらいだったそうですから、ちょっと可哀想ですよね。
他に載っているのは「華麗なるギャツビー」「悲愁」「ラスト・タイクーン」「ドクトル・ジバゴ」「誰がために鐘は鳴る
」「ジェーン・エア」「エデンの東」「アンナ・カレーニナ」「嵐が丘」「陽のあたる場所」です。
今なら「華麗なるギャツビー」はディカプリオバージョンも載ることでしょうし、「アンナ・カレーニナ」ももっといろんな映画化のが収録されるでしょうね。そしてここでは1968年のソ連版の「アンナ・カレーニナ」がメインになってますけど、今なら別のバージョンがメインかと思います。
ヴィヴィアン・リーの「アンナ・カレニナ」はやっぱりお美しい!
ソ連版公開当時、あんまりアンナ役のタチアナ・サモイロワが好評じゃなかったようで、過去のヴィヴィアン・リーのアンナは、“あんなに可憐にな”だったのに…と言われたそうです。
そういえば、ヴィヴィアン・リー版「アンナ・カレニナ」は1976年の「スクリーン」や「ロードショー」でリバイバル公開の紹介でグラビアページに載っていましたが、結局リバイバルはされなかったようでめっちゃ残念です!
もし1976年にリバイバルされていたら、僕も劇場で見れたかもしれませんし、パンフレットも発売していて、珍しい画像も載っていたかもしれませんもんね。
最後の方のページには青い上質紙でWHO'S WHOのページがあって、各作品の主要俳優の略歴が載っています。
オードリーのことでは、
「“グラマーな美女”というハリウッド女優のイメージをひっくり返したスターだった。気品のある顔立ちと、妖精のような美しさで『戦争と平和』のヒロインを好演、特に日本人に愛されて、彼女の作品はすべて公開されてヒットしている。」
「スクリーンの上では生活臭も女くささも感じさせない女優として生きつづけた。洒落た都会的なセンスの作品、文芸大作、シリアスな作品と、様々な映画に出演しながら、どれもオードリーらしい、清潔な個性をつらぬいていた。」
などと書かれています。
ちなみに主な作品では「ローマの休日」から「ロビンとマリアン」までの全作品が書かれていて、代表作が絞られて掲載されている他の俳優と違い、貴重な扱いの1人となっています。
さて、1989年リバイバルの「戦争と平和」は日本ヘラルドの配給で、1989年11月17日〜12月14日まで銀座文化劇場で公開された後、全国に流れて行きました。
何度も書いてますけど、銀座文化は1980年代後半〜1990年代前半にかけて “オードリー劇場”との異名も取ったオードリー作品とはゆかりの深い劇場。
でも「戦争と平和」は1987年にもUIP(パラマウントとユニバーサルの合同配給会社)配給の丸の内ピカデリー2でリバイバルされたばっかりでしたから、人の入りはどうだったんでしょうね。
1993年にI’llオードリーシアターでオードリー作品を半年に渡って連続上映した時にも、当時日本ヘラルドが権利を持っていたオードリー作品のうち、「戦争と平和」と「緑の館」だけ外されて上映されましたからねー。
さて、この日本ヘラルドのリバイバルが、日本での映画の興行の形を変えてしまったような気がするんですよね。
それまでは、銀座のチェーンマスターの劇場で新作もリバイバルも公開して、その後大都市の1番館や、東京や地方の2番館・3番館・4番…名画座という風に順に降りていく、っていう文字通り道に沿って映画が流れていく “ロードショー”公開形式でした。
でも日本ヘラルドが84年から過去の作品を怒涛のようにリバイバルするようになると、それまで名画座や下位の番館だったところがそのリバイバル公開を担う劇場になって、それまでチェーンマスター館とは明確な入場料の差があったものが同等になって、棲み分けするようになったんですよね。
それは名画座にとっては入場料を今までの3倍ほどに引き上げられる、しかも客層も良くなる、という願っても無いことだったのだろうと思いますが、これは実は後から考えると劇薬だったんですよね。
というのも、名画座が無くなってリバイバル館になることで、“ロードショー”とはチェーンマスター館や上位の番館で日本全国一斉に公開するという新しい日本の映画の興行形態に変わっていってしまったんですよね。
ところが、リバイバルの主な作品もブームも90年代後半に尽きてしまうと、かつて名画座だった所は上映するものが無くなってしまったんですよね。
大手の東宝や松竹が公開しない作品を上映するアート・シアターや、細々とまた名画座に転換するところもありましたけど、映画人口も減ってるし、興行形態も変わってしまってる。そうすると全国で続々と閉館する劇場が出てしまうんですよね。
神戸でもかなりの数の劇場の灯が消えてしまいました。
このリバイバル館が潰れていく2000年代までが大体1館で1つの作品を1日中上映する、という興行形態でしたね。
その後2000年代後半くらいから全国に、1つの施設にいくつものスクリーンがあるシネコンが続々と広がっていくようになると、また映画の興行形態が変わって、ヒットしている作品や新しい作品ではいくつものスクリーンで掛けたり、上映期間が長くなったものやヒットしない作品は1日での上映回数を減らす、という現在の形になって行きます。
1989年リバイバルの「戦争と平和」過去記事はこちら
・B2ポスター
・スピードポスター
・チラシ
・パンフレット
2024年11月07日
「朝だ!生です旅サラダ」2012年6月16日放送
ちょっと間が空いてしまって申し訳ありません。
今回は2012年6月16日に放送された、「朝だ!生です旅サラダ」の紹介。
この番組は、ついこのあいだの2024年9月28日まで27年半、神田正輝さんが司会を務めていらっしゃいましたね。
2012年当時も神田さんが司会でした。
それで今回取り上げることにしました。
さて、時期的にも内容的にも、2月に紹介した「知っとこ!」とかなり近いんですよね。
ちょうどこの時期はスイスのモルジュでオードリー展をやっていましたし、2013年にはオードリーの没後20年ということで、2012年から2013年はオードリー関連の番組が各局から多く放送されていました。
そういえば昨年は没後30年だったのに、特集番組がなかったですよね。とても残念です。
今回の「旅サラダ」の内容はスイスのトロシュナやモルジュに行ってオードリーを辿る、という「知っとこ!」と同工異曲。
オードリーの住んでいたトロシュナの家ラ・ペジブルとお墓、そしてモルジュのオードリー展とオードリーがよく行っていたお店の紹介。
違いはレポーター(お名前がわかりません)がいるかどうか、ですね。
まずはトロシュナのラ・ペジブルとオードリーのお墓が紹介されます。
そしてモルジュに行き、まずは期間限定のオードリー展の様子、それからオードリーのゆかりの店、デュマ(ここではデュマス表記)、ワインの店と続きます。
オードリーのお墓は、花を手向ける人が絶えませんね。
もう亡くなって20年も経とうという時期なのに、お墓は新しい花がいくつも供えられています。
ラ・ペジブルの紹介では、いつも気になることがあります。
それはオードリーの亡くなった直後にJALのI’llオードリーツアーとI’llオードリーシアターを敢行した(企画自体はオードリーの病気が伝えられる以前から練られていた)旅行会社(JALPAK)の方に教えていただいたのですが、ラ・ペジブルはオードリーの死後、改装されたそうです。
僕がオードリーの生前に88年に行ったときは、最初の画像の北西を向いている白い門(当時は茶色で、門の形も違う)がメインの門でしたが、改装後は北東を向いている別の門がメインになったそうです。
そう言えば、僕が行った時はお手伝いさんがこの北西の門に続く階段を降りて来て応対してくれたのですが、その階段がありませんし、この白い門の向かって右の柱が緑で覆われて思い出のあるピンポンが押しにくそうになってますよね。
(オードリーの家に1988年に行った時の話はこちらとこちら)
なので今のラ・ペジブルは、オードリーが住んでいたころとは少し違うんですよね。
この88年にオードリーの家に行った写真はいつかまた紹介できれば、と思います。
モルジュではオードリー展の中も紹介されています。ユニセフの写真もいっぱい飾ってありましたが、ここでは「パリで一緒に」のスナップ画像とレポーターさんの画像を紹介。
この「パリで一緒に」は、ラストシーンのエッフェル塔前の噴水のものですが、寒かったのでしょうね、オードリーがコートを羽織っています。
そして、そのオードリー展の方が「彼女はよく自転車に乗って買い物に来ていたのよ」と逸話を教えてくれますし、オードリーゆかりの店ということでデュマやワインの店を紹介してくれています。
デュマでは、オードリーがアンドレア・ドッティとの結婚式の後、しつこいパパラッチから逃げさせてもらったバックヤード、及び裏口まで見せてくれます。
デュマの店主も「まったく嫌味のない自然体のすてきな女性だったなぁ」とオードリーの思い出を語ってくれていますが、なんとなくオードリーはドッティと結婚した頃のイメージで、デュマのご夫婦はこの2012年のビジュアルで考えてしまうのですが、1969年当時はこのご夫婦もだいぶお若かったに違いありません。きっと当時のオードリーと同じくらいだったのでしょうね。
既にこの番組からも12年経っていますし、今もデュマのご夫婦はお元気にしてらっしゃるのでしょうか?とても気になります。数少ない生前のオードリーを知る人物ですもんね。
最後にはオードリーがよく買っていたという白ワインを紹介しています。
2012年当時では日本円で約1100円だったそうですが、スイスでは物価が上がり、日本は円安の今では、5000円くらいになっているのかも!?と思います。
今回は2012年6月16日に放送された、「朝だ!生です旅サラダ」の紹介。
この番組は、ついこのあいだの2024年9月28日まで27年半、神田正輝さんが司会を務めていらっしゃいましたね。
2012年当時も神田さんが司会でした。
それで今回取り上げることにしました。
さて、時期的にも内容的にも、2月に紹介した「知っとこ!」とかなり近いんですよね。
ちょうどこの時期はスイスのモルジュでオードリー展をやっていましたし、2013年にはオードリーの没後20年ということで、2012年から2013年はオードリー関連の番組が各局から多く放送されていました。
そういえば昨年は没後30年だったのに、特集番組がなかったですよね。とても残念です。
今回の「旅サラダ」の内容はスイスのトロシュナやモルジュに行ってオードリーを辿る、という「知っとこ!」と同工異曲。
オードリーの住んでいたトロシュナの家ラ・ペジブルとお墓、そしてモルジュのオードリー展とオードリーがよく行っていたお店の紹介。
違いはレポーター(お名前がわかりません)がいるかどうか、ですね。
まずはトロシュナのラ・ペジブルとオードリーのお墓が紹介されます。
そしてモルジュに行き、まずは期間限定のオードリー展の様子、それからオードリーのゆかりの店、デュマ(ここではデュマス表記)、ワインの店と続きます。
オードリーのお墓は、花を手向ける人が絶えませんね。
もう亡くなって20年も経とうという時期なのに、お墓は新しい花がいくつも供えられています。
ラ・ペジブルの紹介では、いつも気になることがあります。
それはオードリーの亡くなった直後にJALのI’llオードリーツアーとI’llオードリーシアターを敢行した(企画自体はオードリーの病気が伝えられる以前から練られていた)旅行会社(JALPAK)の方に教えていただいたのですが、ラ・ペジブルはオードリーの死後、改装されたそうです。
僕がオードリーの生前に88年に行ったときは、最初の画像の北西を向いている白い門(当時は茶色で、門の形も違う)がメインの門でしたが、改装後は北東を向いている別の門がメインになったそうです。
そう言えば、僕が行った時はお手伝いさんがこの北西の門に続く階段を降りて来て応対してくれたのですが、その階段がありませんし、この白い門の向かって右の柱が緑で覆われて思い出のあるピンポンが押しにくそうになってますよね。
(オードリーの家に1988年に行った時の話はこちらとこちら)
なので今のラ・ペジブルは、オードリーが住んでいたころとは少し違うんですよね。
この88年にオードリーの家に行った写真はいつかまた紹介できれば、と思います。
モルジュではオードリー展の中も紹介されています。ユニセフの写真もいっぱい飾ってありましたが、ここでは「パリで一緒に」のスナップ画像とレポーターさんの画像を紹介。
この「パリで一緒に」は、ラストシーンのエッフェル塔前の噴水のものですが、寒かったのでしょうね、オードリーがコートを羽織っています。
そして、そのオードリー展の方が「彼女はよく自転車に乗って買い物に来ていたのよ」と逸話を教えてくれますし、オードリーゆかりの店ということでデュマやワインの店を紹介してくれています。
デュマでは、オードリーがアンドレア・ドッティとの結婚式の後、しつこいパパラッチから逃げさせてもらったバックヤード、及び裏口まで見せてくれます。
デュマの店主も「まったく嫌味のない自然体のすてきな女性だったなぁ」とオードリーの思い出を語ってくれていますが、なんとなくオードリーはドッティと結婚した頃のイメージで、デュマのご夫婦はこの2012年のビジュアルで考えてしまうのですが、1969年当時はこのご夫婦もだいぶお若かったに違いありません。きっと当時のオードリーと同じくらいだったのでしょうね。
既にこの番組からも12年経っていますし、今もデュマのご夫婦はお元気にしてらっしゃるのでしょうか?とても気になります。数少ない生前のオードリーを知る人物ですもんね。
最後にはオードリーがよく買っていたという白ワインを紹介しています。
2012年当時では日本円で約1100円だったそうですが、スイスでは物価が上がり、日本は円安の今では、5000円くらいになっているのかも!?と思います。
タグ :テレビ
2024年10月07日
「戦争と平和」1964年リバイバル 60周年記念 ブロマイドと共に
今日は「戦争と平和」が1964年に1回目のリバイバルをしてから、ちょうど60年になります。
それを記念して、以前明智常楽さんに頂いた「戦争と平和」のブロマイドを紹介。
これ、以前別の記事用にとスキャンは済んでたんですが、結局使用するのを忘れてしまって、今回使うことにしたんですけど、色修正して黄ばみを取っていたものを、今回の記事のためになるべく現物通りの色で再度スキャンし直しました。
というのも、僕のもうひとつのブログ “おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!”のこちらの記事で書きましたけど、オードリーが実際に生きている時代のブロマイドや写真というものは、これだけ黄ばんでくるというのを見せておきたかったので。
明智常楽さんがオードリーファンになった時代を考えると、手に入れたのは1970年代のはずですが、それでもこれだけ黄ばんでしまうんです。
なので、いろんなところで売っている真っ黒のままのプリントに “自称オードリーの直筆サイン”がされているものが、いかに詐欺であるかを認識していただけたら、と思います。
だいたい、写真が黄ばまない・薄くならない100年プリントというものは1984年に日本で発売されたものですし、それ以前の写真というものはどんなに頑張っても経年劣化してしまうんです。
昔のおじいさん、おばあさんの写真が今見ても白黒ハッキリして、黄ばんでないなんてありますか?
カラーだと退色してない、なんてことありますか?
それに、オードリーのブロマイド写真にオードリーがサインするってどういう状況?
それはオードリーが来るとわかって準備していないと出来ないことですよね。
オードリーがそういうサイン会みたいなのを開いたのは、“オードリー・ヘプバーンの庭園紀行”の本を発売した1991年のこと。
しかもそれはその本にサインしたんですよね。
昔は今みたいなネットの情報がなかった時代ですから、オードリーが空港に来る!などというのがそんなに知れ渡るはずもなく、写真を準備してサインをもらう、というのはほぼ出来ないというのがわかると思います。
運良く偶然街中でオードリーを見かけた人が、オードリーにサインをもらおうとすると、何に書いてもらおうとするかと言うと、普通の紙やノートになるんですよね。
昔の雑誌に載っているオードリーが街中でサインしているスナップ写真でも、オードリーはノートやメモ帳にサインしていることが多いんですよね。
その紙やノートすらほとんど出回らないのに、ブロマイドにサインしたものが大量に出回っているって、常識で考えて有り得ないと思いませんか?
ましてや、オードリーとグレゴリー・ペックなどの共演者の両方のサインがあるなんて、どれだけレアな状況だと思いますか?
そんな貴重なものが、一般人に手に入るとでも?それを数百円〜数万円で手に入れられるとでも?
芸能人にファンレターを送ったら、返事とサイン入りブロマイドが入ってた、っていうのはありますが、もちろんファンレターをくれた全員に返事などくれるわけもなく。
オードリーから個人に返事が来た、サインも入ってた!っていうのは、過去の「映画の友」でも「スクリーン」でも僕は見たことがありません。
「映画の友」や「スクリーン」という雑誌の会社に対してはサイン入り写真を送ってたことが何度かあったようですが(今それらの貴重なサインがどこにあるのかが不明。誰か内部のものがパチった?)、読者には全く。
まあオードリーのことですから、高圧的に書いてあげない!というのではなく、誰かひとりに書くと不公平になってしまうから、というのもあるでしょうし、もちろん家庭での夫や子供との時間を大事にしたいから、というのもあったのでしょうね。
本物のサインは、例えばオードリーの共演者や監督の家にならあるかもしれません。
でもそういうものはメルカリやヤフオクなどではなく、クリスティーズなどの高級オークションなどに掛けられて出て来るものです。
出どころもわからず、安価に大量に売られている(最近は高価になってきて、さらにたちが悪いです)偽物サインを、本物だと思って買わないようにしてください。
さて、大きく話が逸れてますけど、今日は「戦争と平和」1964年リバイバルから60年でしたね。
このリバイバルは、1964年10月7日から10月30日まで東急系の劇場である渋谷東急・新宿東急・上野東急という劇場で封切られた後、全国を巡りました。
銀座に劇場を持たない東急系での公開だったからか、この「戦争と平和」64年リバイバルはかなり地味。
いくつかの資料では64年リバイバルを忘れられてたりしますしね。
東宝や松竹での公開だとパンフレットも豪華になるんですが、東急系の公開だったので、外部のパンフレット業者の日本映画社とかに丸投げで作成してて、あんまり64年リバイバルの「戦争と平和」パンフレットは出来が良くないです。
さて、以前の記事の「映画の友」1962年5月号(1962年3月発売)で書いたように、リバイバルブームが起こっていた60年代前半でのリバイバル希望で、第20位という高順位だった「戦争と平和」。やっと1964年にリバイバルと相成ったわけですね。
20位というのはオードリー作品では「ローマの休日」に次ぐ2番目、「麗しのサブリナ」(圏外)よりも上位だったわけですよね。
それだけ当時はオードリー版の「戦争と平和」が高く評価されていたということ。
当時のオードリーファンは、「戦争と平和」がリバイバルされて、本当に嬉しかったでしょうね!
それに今と違って、映画ファンの中には文芸映画(有名な原作本のある映画)というジャンルが好きっていう人たちもいたようなので、そういう人にも支持されていたのでしょう。
まだソ連版も公開されてないし、パラマウント日本支社は絶妙なタイミングでリバイバルしたことになりますね。
1966年の7月にはソ連版「戦争と平和」日本公開の運びとなります。
そういえば、ソ連版のナターシャの初登場シーンは、米国版のオードリー初登場シーンをなぞったと言われてますね。
本当かどうかは、僕はソ連版には興味がなく、見てないので知りませんが…。
そしてオードリーの「戦争と平和」は、1956年、64年、73年、87年、89年と5回も日本で全国公開され、公開数ではソ連版を圧倒しています。最近リバイバルがないのが残念ですが。
僕はオードリーの「戦争と平和」を見るときは、内容がお堅いので、かなり「よいしょ!」と構えないと見れないのですけど、昔の人は軽く観れたのかなぁ〜、凄いな〜と思ったり。
僕はやっぱりロマンティック・コメディのオードリーがいいと思っています。
1964年リバイバル「戦争と平和」関連過去記事
・立看ポスター
・プレスシート
・バンフレットA・B
・パンフレットC
・バンフレットD
・バンフレットE(大阪映実版)
・バンフレットF・G(外映版)
それを記念して、以前明智常楽さんに頂いた「戦争と平和」のブロマイドを紹介。
これ、以前別の記事用にとスキャンは済んでたんですが、結局使用するのを忘れてしまって、今回使うことにしたんですけど、色修正して黄ばみを取っていたものを、今回の記事のためになるべく現物通りの色で再度スキャンし直しました。
というのも、僕のもうひとつのブログ “おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!”のこちらの記事で書きましたけど、オードリーが実際に生きている時代のブロマイドや写真というものは、これだけ黄ばんでくるというのを見せておきたかったので。
明智常楽さんがオードリーファンになった時代を考えると、手に入れたのは1970年代のはずですが、それでもこれだけ黄ばんでしまうんです。
なので、いろんなところで売っている真っ黒のままのプリントに “自称オードリーの直筆サイン”がされているものが、いかに詐欺であるかを認識していただけたら、と思います。
だいたい、写真が黄ばまない・薄くならない100年プリントというものは1984年に日本で発売されたものですし、それ以前の写真というものはどんなに頑張っても経年劣化してしまうんです。
昔のおじいさん、おばあさんの写真が今見ても白黒ハッキリして、黄ばんでないなんてありますか?
カラーだと退色してない、なんてことありますか?
それに、オードリーのブロマイド写真にオードリーがサインするってどういう状況?
それはオードリーが来るとわかって準備していないと出来ないことですよね。
オードリーがそういうサイン会みたいなのを開いたのは、“オードリー・ヘプバーンの庭園紀行”の本を発売した1991年のこと。
しかもそれはその本にサインしたんですよね。
昔は今みたいなネットの情報がなかった時代ですから、オードリーが空港に来る!などというのがそんなに知れ渡るはずもなく、写真を準備してサインをもらう、というのはほぼ出来ないというのがわかると思います。
運良く偶然街中でオードリーを見かけた人が、オードリーにサインをもらおうとすると、何に書いてもらおうとするかと言うと、普通の紙やノートになるんですよね。
昔の雑誌に載っているオードリーが街中でサインしているスナップ写真でも、オードリーはノートやメモ帳にサインしていることが多いんですよね。
その紙やノートすらほとんど出回らないのに、ブロマイドにサインしたものが大量に出回っているって、常識で考えて有り得ないと思いませんか?
ましてや、オードリーとグレゴリー・ペックなどの共演者の両方のサインがあるなんて、どれだけレアな状況だと思いますか?
そんな貴重なものが、一般人に手に入るとでも?それを数百円〜数万円で手に入れられるとでも?
芸能人にファンレターを送ったら、返事とサイン入りブロマイドが入ってた、っていうのはありますが、もちろんファンレターをくれた全員に返事などくれるわけもなく。
オードリーから個人に返事が来た、サインも入ってた!っていうのは、過去の「映画の友」でも「スクリーン」でも僕は見たことがありません。
「映画の友」や「スクリーン」という雑誌の会社に対してはサイン入り写真を送ってたことが何度かあったようですが(今それらの貴重なサインがどこにあるのかが不明。誰か内部のものがパチった?)、読者には全く。
まあオードリーのことですから、高圧的に書いてあげない!というのではなく、誰かひとりに書くと不公平になってしまうから、というのもあるでしょうし、もちろん家庭での夫や子供との時間を大事にしたいから、というのもあったのでしょうね。
本物のサインは、例えばオードリーの共演者や監督の家にならあるかもしれません。
でもそういうものはメルカリやヤフオクなどではなく、クリスティーズなどの高級オークションなどに掛けられて出て来るものです。
出どころもわからず、安価に大量に売られている(最近は高価になってきて、さらにたちが悪いです)偽物サインを、本物だと思って買わないようにしてください。
さて、大きく話が逸れてますけど、今日は「戦争と平和」1964年リバイバルから60年でしたね。
このリバイバルは、1964年10月7日から10月30日まで東急系の劇場である渋谷東急・新宿東急・上野東急という劇場で封切られた後、全国を巡りました。
銀座に劇場を持たない東急系での公開だったからか、この「戦争と平和」64年リバイバルはかなり地味。
いくつかの資料では64年リバイバルを忘れられてたりしますしね。
東宝や松竹での公開だとパンフレットも豪華になるんですが、東急系の公開だったので、外部のパンフレット業者の日本映画社とかに丸投げで作成してて、あんまり64年リバイバルの「戦争と平和」パンフレットは出来が良くないです。
さて、以前の記事の「映画の友」1962年5月号(1962年3月発売)で書いたように、リバイバルブームが起こっていた60年代前半でのリバイバル希望で、第20位という高順位だった「戦争と平和」。やっと1964年にリバイバルと相成ったわけですね。
20位というのはオードリー作品では「ローマの休日」に次ぐ2番目、「麗しのサブリナ」(圏外)よりも上位だったわけですよね。
それだけ当時はオードリー版の「戦争と平和」が高く評価されていたということ。
当時のオードリーファンは、「戦争と平和」がリバイバルされて、本当に嬉しかったでしょうね!
それに今と違って、映画ファンの中には文芸映画(有名な原作本のある映画)というジャンルが好きっていう人たちもいたようなので、そういう人にも支持されていたのでしょう。
まだソ連版も公開されてないし、パラマウント日本支社は絶妙なタイミングでリバイバルしたことになりますね。
1966年の7月にはソ連版「戦争と平和」日本公開の運びとなります。
そういえば、ソ連版のナターシャの初登場シーンは、米国版のオードリー初登場シーンをなぞったと言われてますね。
本当かどうかは、僕はソ連版には興味がなく、見てないので知りませんが…。
そしてオードリーの「戦争と平和」は、1956年、64年、73年、87年、89年と5回も日本で全国公開され、公開数ではソ連版を圧倒しています。最近リバイバルがないのが残念ですが。
僕はオードリーの「戦争と平和」を見るときは、内容がお堅いので、かなり「よいしょ!」と構えないと見れないのですけど、昔の人は軽く観れたのかなぁ〜、凄いな〜と思ったり。
僕はやっぱりロマンティック・コメディのオードリーがいいと思っています。
1964年リバイバル「戦争と平和」関連過去記事
・立看ポスター
・プレスシート
・バンフレットA・B
・パンフレットC
・バンフレットD
・バンフレットE(大阪映実版)
・バンフレットF・G(外映版)
タグ :戦争と平和
2024年09月25日
オードリーとメル・ファーラー 結婚70年
(↑舞台「オンディーヌ」の楽屋での2人。舞台の初日だそうです。知り合いからのおめでとうの電報でも読んでいるのでしょうか?)
今日は、オードリーとメル・ファーラーの結婚からちょうど70年になります。
それで今回はゲッティイメージズ さんの無料の画像をお借りして、オードリーとメルのことについて書きます。
知り合ったのはパーティーの時でしたね。
グレゴリー・ペックがメル・ファーラーをオードリーに紹介したのが最初。
伝記ではこのパーティーは「ローマの休日」のロンドン・プレミアの後の豪華パーティーだったという説、ロンドンで映画を撮っていたグレゴリー・ペックがオードリーのために開いたパーティーだったという説、オードリーの母エッラが催したものであるという説、など色々になっています。
その後メルの尽力でブロードウェイの舞台「オンディーヌ」で共演することとなり、急速に接近、そして54年9月24日と25日に結婚式、ということになります。
(↑ブルゲンシュトックでの結婚式の様子)
24日はルツェルン湖畔のブオスクにて町長に執り行ってもらったオードリーとメル・ファーラー以外には2人だけ(誰だか不明)というもの、そして25日に親族を招いてブルゲンシュトックにて盛大なもの、ということが公開当時のスクリーンに書いてました。
なので、ショーンやバリー・パリスは24日と書いてるし、ハイアムや「timeless audrey」では25日と書いてるしで、どちらが正式なものかがわかりません。
まあどちらにしても、日本とは時差もあることですし、だいたい25日ということでいいんじゃないでしょうか。
さて、この25日の方の結婚式の写真はわりと出回っていますよね。オードリーがジバンシィのウエディングドレスを着ているものです。
(↑オードリーとメルが新婚旅行で訪れたアルバーノというところで、マスコミに追いかけられて逃げる2人)
でもこれ、オードリーは結婚式でマスコミをシャットアウトしていて、結婚式の写真(職業カメラマンだか身内だかに撮ってもらったもの)は限られた出席者に送る際もマスコミに出さないように、と厳命していたのに、オードリーの祖母がマスコミに売ってしまい、オードリーが激怒した、って書いてあるものがありましたね。
さて、この祖母ってのが不明。オードリーの母方なのか父方なのかも書いてなかったし、オードリーの伝記で、祖母ってこの時しか出てこないんですよ。フラウ・フォン・フォレッガーって名前にフォンって貴族の称号がついてるので、母方?
でもとなると有名な祖父のヘームストラ男爵の妻ということになるし、苗字が違うんですよね。英語版のWikiのヘームストラ男爵の欄の妻の欄にもそんな名前なし。 いったいこの祖母ってのは誰???
なのでその文章を読んだときは結構衝撃でした。オードリーのお祖母さんって生きてたん!?みたいな。
(↑1955年「戦争と平和」の頃の2人。見たらわかるように写真のキャプションが間違ってますね。1960年だと、オードリーのメイクも髪の長さも流行りのスカートの形も全く違います。だいたい、1960年ならオードリーは妊娠中or「ティファニーで朝食を」だし。髪の毛の後ろに付けている髪飾りも、オードリーが髪の毛を伸ばし始めた1955年後半によく付けていたもの)
当時その祖母は困窮していたそうで、マスコミに売ってしまったそうです。
まあその後オードリーとの関係はすぐに修復されたそうですけど、二束三文で写真を売らなくても、当時はもうオードリーに言えば助けてくれたでしょうにね(出演料、「ローマの休日」1万2500ドル、「麗しのサブリナ」1万5000ドル、「オンディーヌ」3万ドル)。
さて、結婚式が終わって観光地グシュタートのホテルに行こうとすると、ホテルがオードリーが居ると漏らしたためにマスコミが山のように居て、どこに行くにも付いて回る付いて回る!
ゲッティイメージズ さんの画像にも追いかけ回される2人の画像がありますね。
オードリーはもう精神的にやられてしまって、結局グシュタートをやめて、簡単に連絡の取れないブルゲンシュトックの別荘を借りることになりましたね。
(↑2人とネコ。オードリーと猫はプライベートでは珍しいですね。オードリーは完全に犬派なので。でもこれもキャプションが1955年って間違ってると思います。この感じは「パリの恋人」の1956年ごろですね)
これがオードリーにとってのブルゲンシュトックに住むきっかけになりましたし、その後トロシュナの家を買うことに繋がりますけど、プライバシーが守られるからですよね。
そういえば、このメルとの結婚から「戦争と平和」の撮影が始まる1955年7月までは、オードリーが自分でメイクしているからか、オードリーの眉毛が前後の「麗しのサブリナ」「オンディーヌ」や「戦争と平和」と違って細眉で長く描いているのが特徴ですね。
まあでもメルとの関係は最初のうちはとても良さそうでしたよね。「パリの恋人」の頃にメルのコートに2人一緒入る写真やら、海辺の写真なんかを見ると本当にお互いを大事に思ってそうだし。
「許されざる者」で落馬したオードリーが運ばれて行くときのメルの表情も本当に心配している様子が伺えますしね。
(↑1959年1月、「許されざる者」撮影中に落馬して骨折し、飛行機で緊急搬送されるオードリーに寄り添うメル。みんなを心配にさせまいと、健気にマスコミに笑顔を絶やさないオードリー)
父がいなくなったオードリーにとって、尊敬できる男性に一生庇護されるという愛され方は、当時のオードリーの理想だったでしょうし、オードリーの持っていた結婚観にもピッタリ合っていたのでしょう。
それにメル・ファーラーも同じ俳優だったからか、出る・出ないで女優オードリーへの助言は的確なものが多く、それはオードリーが出演してきた50年代60年代16本の作品を見れば明らかですよね。
自身が監督をした「緑の館」はオードリーを客観的に見れなかったのか、出来がいまいちでしたけど、それでもオードリーのイメージを壊すようなものではなく、やはりオードリーだから出来た役でした。
結婚から、ショーンが生まれた翌々年の1962年くらいまでがオードリーとメルの幸福な時代だったんじゃないかと思います。
(↑1959年12月、再度妊娠したオードリーとメルが花?を買って歩いているところ。マスコミに追いかけられて、メルはちょっとお怒りモード。オードリーが長い髪をおろしてそのままに歩くのはめっちゃ珍しいこと。生涯でこの時期だけですね)
でも「パリの恋人」の頃に何かの集まりで酔っ払ってしまったオードリーが醜態を晒しそうになっていると、メルが乱暴に怒鳴って連れ帰ったり、高圧的なところ(今でいうモラハラ?)が出てくるようになると、ちょっとずつ違うと感じたのかなーと。
決定的にズレてきたのは、ジバンシィがオードリーのために作った香水「ランテルディ」を63年ごろに一般発売した時にオードリーの宣伝写真を1枚使った時、メルがジバンシィに、オードリーはランテルディを定価で買っている。タダでもらってもいいくらいなのに、なんでジバンシィは写真の権利金を払わずに宣伝しているんだ!と言ったこと。
それと同時期にカンヌ映画祭に来て欲しいとエージェントを通して頼まれたオードリーですけど、その時にオードリーに何かの賞を与えるべきだとメルが言ったこと。
どちらもメルから直接ではなく、代理人を使ったようですけど、結局それでその代理人をクビにせざるをえなかったというのが2つ続けてあったようですしね。
(これも画像のキャプションが大間違いのもの。これは髪型でわかるように完全に1962年「パリで一緒に」撮影中の時期のもの。1960年カンヌ映画祭に出席するオードリーとメルなんて書いてますが、本当は1962年10月「史上最大の作戦」のフランス試写会に行く2人。この時期辺りまでが2人の幸せな結婚生活だったころ)
それでもメルとの関係を修復したいと思っていたオードリーだったようで、その後も2度(か1度)妊娠もしますけど、どちらも流産。
メルはその後浮気。66年夏の「いつも2人で」撮影中はオードリーはめっちゃやつれていましたし、撮影中にオードリーにインタビューした日野康一さんによると、「この映画には私の苦悩が織り込まれています」と語ったそうです。
67年の7月にはもう修復不可能で別居、その後68年には離婚となります。
雑誌「FLIX」の1993年3月号に載っていた晩年のインタビューで、「あなたは54年のファーラー氏との結婚以来、ずっと男性と暮らして来ましたね。彼らから何か学びましたか?」と聞かれて「何もないわ。何を学ぶことができて?彼らも弱さを持った人間なのよ。」と答えていたオードリー。
(↑1965年、映画の試写会に参加するオードリーとメル。モナコの公族と同じ席で同じ扱いを受けるオードリーとメル。もちろんこれはオードリーがいるからですね。メルだけだとこういう扱いはありません。オードリーの隣はモナコ公レーニエ3世、向こうを向いて笑っているのはオードリーとも仲の良いモナコ公妃のグレース・ケリーですね)
2度の結婚の失敗、特にメルとの離婚はオードリーが結婚というものに抱いていた理想や幻想をズタズタに壊してしまい、一生消えない大きな傷を残してしまったと思います。
なのでメルと会えば心の傷が疼くんでしょう、その後オードリーはメルと会うことはほぼなかったようです。
2番目の夫ドッティの浮気も凄まじく、それでもメルとの結婚で悟っていたのか諦めていたのか(諦観という言葉がしっくりきますね)、メルとのときほど傷つかずに、オードリーは心を “無”の状態にしていたのかなーと思います。
その後ロバート・ウォルダーズとの出会いで再びオードリーの心も溶けて良かったなーと思います。
(↑1966年8月、「いつも2人で」撮影時期のオードリーとメル。顔はにこやかですが、もうオードリーはメルとの離婚を考え始めていますね)
でもロバート・ウォルダーズって、オードリーの死後、94年から95年にはレスリー・キャロンとパートナーになって、その後は95年から2018年に亡くなるまでヘンリー・フォンダの奥さんだったシャーリー・フォンダとパートナーだったそうですから、時期が被ってないとはいえ、知った時にはちょっとびっくりしたんですよね。
そういえば1980年にオードリーに出会う前もマール・オベロンと結婚していましたし(79年にオベロンの死によって寡夫となっていた)、常に女性のそばにいる感じです。
ちょっと脱線しましたけど、オードリーのお葬式にもメルが来てましたが、メルの泣いている辛そうな顔を見ると、やはりメルなりにオードリーを愛してはいたんだろうなーと思いました。
(↑オードリーのお葬式に参列するメル・ファーラー。他の珍しい画像にしようと思いましたが、メルの心痛が現れているのがこの写真だったので、写真集でも見たこの写真にしました)
最後に2000年初期、日本でオードリーのサイトを作ってらしたTさんのサイトで中学生の女の子が書き込みをしてたんですけど、その子がのちに短期間別のオードリーのサイトを立ち上げたことがあったんですよね。
そこでオードリーとメル・ファーラーの結婚を美化したようなページを作ったんで、“なんでオードリーに結婚や男性に不信感を抱かせるような原因となったメルとのことを美化してるの?”と当時思ったんですが、今回、僕のページもそんな感じ?とか思ってちょっと自嘲気味に笑ったり…。
まあ僕にはメル・ファーラーを美化するつもりなどは全くないんですけどね。
それでもオードリーは70年前の今日、確かに幸せの絶頂だったんだろうなーと思うのです。
2024年09月17日
「麗しのサブリナ」日本公開70周年記念 月刊「パラマウント」11月号
さて、1954年「麗しのサブリナ」は今日が日本公開日。
ちょうど封切りから70年に当たります。
今回は月刊「パラマウント」1954年11月号の紹介。
表紙はジェームス・スチュアート。
オードリーとの共演はありませんでしたが、オードリーとの親交は深く、もうガンで助からないとわかったオードリーが、アメリカを発つ前日に親友コニー・ウォルドの家でグレゴリー・ペックらと共に会っていたことを息子ショーンが書いていますし、そのショーンの1度目の結婚式でオードリーとジェームス・スチュアートが踊っていたのをピーター・ボグダノヴィッチが書き留めています。
でも1954年の時点で、結構なオジさん具合だったんですね。
オードリーの約20才年上なので、この当時で45才くらいでしょうか。
さて、この号発刊時点で、すでに「麗しのサブリナ」は東京では封切り済み。
日比谷映画劇場にて1954年9月17日〜10月21日まで35日間の上映でした。
35日間はこの当時としては、かなり成績優秀。なんせ当時は1〜3週間が普通の時代。
それで5週も上映したのなら、かなりな好成績なのがわかります。
実際、「麗しのサブリナ」は1億5243万円の配給収入を叩き出し、1954年度洋画の第4位の成績を残しています。(この年の1位は「ローマの休日」)
発行日の11月1日時点では、東京の2番館や地方の主要都市で絶賛上映中かもしれません。
若い方は知らないかもしれませんが、シネコンが出来る前は、1つの劇場にスクリーンは1つだけしかなく、同じ映画をその劇場でずっと1日中掛けていました。「麗しのサブリナ」だったら、朝から晩まで6回「麗しのサブリナ」を上映していた、ということ。
ヒットすればいいですけど、ヒットしないと劇場は大弱りですよね。たとえガラガラでも作品1つだけの勝負で、別の作品を掛けることができないので、ヒットしないと3日〜1週間で早々に打ち切って次の作品を上映していました。
しかも封切館は指定席も少しありましたが、ほとんど自由席。2番館〜名画座などでは完全自由席なので、大ヒットだと席の争奪戦も激しいんですよね。
さて、この号には“私の見た「麗しのサブリナ」”という事で、牧和子さんという方と、若生浩之さんという月刊パラマウント発行に携わっている方の文章が見開き2ページで載っています。
どちらの方も、読み応えのある文章なんですが、全部紹介もできないので、ダイジェストで。
牧和子さん
「ヘップバーンの第二快作。お嬢様方必見の生きたスタイルブック。さすがワイルダーだけあって、会話の面白さは毎度のこと。伊達男のデイヴィッドに比べて、ライナスがヨット遊びに出かけようとしたいでたちは、おじいちゃんが6つ7つの子のセーターをひっかけたようで、みるに忍びない。だからサブリナがライナスに惹かれてしまうなんて私には想像外だった。トレアドル・パンツのサブリナの涙はそっと両手で受けたいほどの美しい涙。前作「ローマの休日」を女学生の夢物語だとすると、今回は大人のお伽噺。ワイルダーの作としては少し物足らぬ感ながら、彼の快作の1本である。」
若生浩之さん
「期待のヘップバーン第二作は「ローマの休日」よりもずっとパラマウントカラー豊かな作品だった。誰でも感じることは、洗練された会話で非常に垢抜けしているということ。大人の映画であり、パラマウント自慢の都会映画である。ハンフリー・ボガートは好演しているが重大なミスキャスト。彼の起用でソフィスティケーションに徹することが出来ず、中途半端になってしまっている。脚色が良かっただけに特に惜しまれる。小生のアルバイト先の横浜国際劇場でアメリカのGIが『全く素晴らしい映画だ』と言っていた。」
また、読者の採点から、と幾人か評価をしているのが載せられています。“憎らしいたらありゃしない”などと、ものすごく時代を感じる言い回しが気になったりもしますが、みなさん高得点なのが嬉しいところ。90点、90点、80点、90点、100点、70点となっています。
文章ではオードリーが女優くさくなっている、と書いている人も点数は70点でそこそこ高いんですよね。
でもこの人はオードリーファンではなく、「ローマの休日」ファンになっていく原型のような感じもしますね。
それと、この号では国際出版社の「麗しのサブリナ」英和対訳シナリオの宣伝があります。
国際出版社は同じ絵柄の表紙で一般用の映画パンフレットも作っていますが、この時期は乱立していた映画パンフレットの制作会社が淘汰されていく時期。
国際出版社もこの「麗しのサブリナ」以降、映画パンフレットも英和対訳シナリオでも全く見なくなります。
最末期の国際出版社の状況に思いを馳せて合掌。
読者のページでも相変わらずオードリー大人気ですが、この号では「麗しのサブリナ」のことももちろんあるのですが、地方では公開がまだの「麗しのサブリナ」より、むしろ9月25日にメル・ファーラーと結婚したことの方がみんなビックリのようです。
編集後記では、パラマウント友の会の原稿用紙が売られているようなのですが、オードリーの写真とパラマウントのマーク入りで、1冊送料込みで30円だそうです。わー、どんなのだったのか見てみたいですねー。
さらに雄鶏社の「オードリー・ヘップバーン特集号」を定価100円のところ、パラマウント友の会に頼むと送料込みで84円で買えることも書いています。
そして最後の読者の採点コーナーでは「麗しのサブリナ」が87点で「ローマの休日」の90点に次ぐ第2位に入ってきています。
まだまだ集計時点では東京などの大都市だけでの上映だったので投票数は少ないのですが、満足度が高いということですね。
さて「麗しのサブリナ」、最近のBSプレミアムで放映の際、画角(スクリーン・サイズ)が2種類になっています。
通常の画質で放映されるときはスタンダードサイズ、そして4Kで放映されるときはビスタビジョンサイズで放映されています。
正式なビスタビジョンが作られたのは1954年なので(月刊「パラマウント」54年4月号で紹介)、1953年に撮影している「麗しのサブリナ」はどう考えてもスタンダードサイズで撮影されているはずなのです。
でも芳賀書店のシネアルバムでも「麗しのサブリナ」はビスタビジョンサイズだと書かれているので、公開はアメリカでも1954年9月だったので、当時横に広い大画面で話題をさらっていた20世紀フォックスのシネマスコープに対抗して、もしかしたらビスタサイズに上下をカットして上映されていたのかもしれません。
そういえばパラマウント日本支社は「ローマの休日」で大当たりをとって日本全国でオードリーの大ブームが起きていたので、タイミングを逃さず鉄は熱いうちに打てとばかりに「麗しのサブリナ」は日米同時公開にしようと奔走していたようです。
今はデジタル上映なので、別に日米同時公開など別に珍しくも難しくもありませんが、1954年は10巻以上もあるフィルムをアメリカから取り寄せて、翻訳してスーパー(字幕)を1コマずつ焼き入れしなければならず、それを全国で上映できるように何十本という複製も作らねばならず、ものすごい大変だったことと思います。
日米同時公開を目指していた「麗しのサブリナ」は、結局一般公開はアメリカよりも日本の方が早くなってしまいました。
まあでもその結果54年の第4位配給収入だったんですから、パラマウント日本支社の目論見はいい意味でまんまと当たったわけですね。
さて、そんな高度成長期に汗を流しながら勝ち取った日米同時公開でしたが、日本が豊かな80年代〜90年代にはわりと普通だったのに、なんか最近は日本での公開がやたら遅いことが多いですよね。
あれっ?と思ったのが「アナと雪の女王」から。当時主要国では日本が公開が最後だと言われてましたんで、なんで?と思いましたが、その後どうやら日本はかなり他の国と比べて洋画の公開が遅いみたいです。
昔はビデオで日本の洋画ビデオが先に販売してアメリカに逆輸入されたりするため、DVDの規格を決めるときに日本とアメリカでリージョンが分けられてしまうくらいだったのに、やはり国力が落ちてしまうと重要視されなくなったんでしょうか?
そういえば、最近は欧米の主演スターが来日して映画をアピール、ってこともめっきり無くなりましたよね。
日本が貧しくて呼べなくなったのか、昔の洋高邦低だった時代と違って、邦高洋低の現代では日本のマーケットが小さくなりすぎて宣伝しても効果薄だとアメリカに思われてるんでしょうかね?
ちなみに、「麗しのサブリナ」は来年、とうとう映画の著作権が切れますが、それに付随するポスターや宣伝写真などは美術品扱いで、デザイナーやカメラマンが亡くなってから著作権が切れますので、まだ自由には使えないようです。
ちょうど封切りから70年に当たります。
今回は月刊「パラマウント」1954年11月号の紹介。
表紙はジェームス・スチュアート。
オードリーとの共演はありませんでしたが、オードリーとの親交は深く、もうガンで助からないとわかったオードリーが、アメリカを発つ前日に親友コニー・ウォルドの家でグレゴリー・ペックらと共に会っていたことを息子ショーンが書いていますし、そのショーンの1度目の結婚式でオードリーとジェームス・スチュアートが踊っていたのをピーター・ボグダノヴィッチが書き留めています。
でも1954年の時点で、結構なオジさん具合だったんですね。
オードリーの約20才年上なので、この当時で45才くらいでしょうか。
さて、この号発刊時点で、すでに「麗しのサブリナ」は東京では封切り済み。
日比谷映画劇場にて1954年9月17日〜10月21日まで35日間の上映でした。
35日間はこの当時としては、かなり成績優秀。なんせ当時は1〜3週間が普通の時代。
それで5週も上映したのなら、かなりな好成績なのがわかります。
実際、「麗しのサブリナ」は1億5243万円の配給収入を叩き出し、1954年度洋画の第4位の成績を残しています。(この年の1位は「ローマの休日」)
発行日の11月1日時点では、東京の2番館や地方の主要都市で絶賛上映中かもしれません。
若い方は知らないかもしれませんが、シネコンが出来る前は、1つの劇場にスクリーンは1つだけしかなく、同じ映画をその劇場でずっと1日中掛けていました。「麗しのサブリナ」だったら、朝から晩まで6回「麗しのサブリナ」を上映していた、ということ。
ヒットすればいいですけど、ヒットしないと劇場は大弱りですよね。たとえガラガラでも作品1つだけの勝負で、別の作品を掛けることができないので、ヒットしないと3日〜1週間で早々に打ち切って次の作品を上映していました。
しかも封切館は指定席も少しありましたが、ほとんど自由席。2番館〜名画座などでは完全自由席なので、大ヒットだと席の争奪戦も激しいんですよね。
さて、この号には“私の見た「麗しのサブリナ」”という事で、牧和子さんという方と、若生浩之さんという月刊パラマウント発行に携わっている方の文章が見開き2ページで載っています。
どちらの方も、読み応えのある文章なんですが、全部紹介もできないので、ダイジェストで。
牧和子さん
「ヘップバーンの第二快作。お嬢様方必見の生きたスタイルブック。さすがワイルダーだけあって、会話の面白さは毎度のこと。伊達男のデイヴィッドに比べて、ライナスがヨット遊びに出かけようとしたいでたちは、おじいちゃんが6つ7つの子のセーターをひっかけたようで、みるに忍びない。だからサブリナがライナスに惹かれてしまうなんて私には想像外だった。トレアドル・パンツのサブリナの涙はそっと両手で受けたいほどの美しい涙。前作「ローマの休日」を女学生の夢物語だとすると、今回は大人のお伽噺。ワイルダーの作としては少し物足らぬ感ながら、彼の快作の1本である。」
若生浩之さん
「期待のヘップバーン第二作は「ローマの休日」よりもずっとパラマウントカラー豊かな作品だった。誰でも感じることは、洗練された会話で非常に垢抜けしているということ。大人の映画であり、パラマウント自慢の都会映画である。ハンフリー・ボガートは好演しているが重大なミスキャスト。彼の起用でソフィスティケーションに徹することが出来ず、中途半端になってしまっている。脚色が良かっただけに特に惜しまれる。小生のアルバイト先の横浜国際劇場でアメリカのGIが『全く素晴らしい映画だ』と言っていた。」
また、読者の採点から、と幾人か評価をしているのが載せられています。“憎らしいたらありゃしない”などと、ものすごく時代を感じる言い回しが気になったりもしますが、みなさん高得点なのが嬉しいところ。90点、90点、80点、90点、100点、70点となっています。
文章ではオードリーが女優くさくなっている、と書いている人も点数は70点でそこそこ高いんですよね。
でもこの人はオードリーファンではなく、「ローマの休日」ファンになっていく原型のような感じもしますね。
それと、この号では国際出版社の「麗しのサブリナ」英和対訳シナリオの宣伝があります。
国際出版社は同じ絵柄の表紙で一般用の映画パンフレットも作っていますが、この時期は乱立していた映画パンフレットの制作会社が淘汰されていく時期。
国際出版社もこの「麗しのサブリナ」以降、映画パンフレットも英和対訳シナリオでも全く見なくなります。
最末期の国際出版社の状況に思いを馳せて合掌。
読者のページでも相変わらずオードリー大人気ですが、この号では「麗しのサブリナ」のことももちろんあるのですが、地方では公開がまだの「麗しのサブリナ」より、むしろ9月25日にメル・ファーラーと結婚したことの方がみんなビックリのようです。
編集後記では、パラマウント友の会の原稿用紙が売られているようなのですが、オードリーの写真とパラマウントのマーク入りで、1冊送料込みで30円だそうです。わー、どんなのだったのか見てみたいですねー。
さらに雄鶏社の「オードリー・ヘップバーン特集号」を定価100円のところ、パラマウント友の会に頼むと送料込みで84円で買えることも書いています。
そして最後の読者の採点コーナーでは「麗しのサブリナ」が87点で「ローマの休日」の90点に次ぐ第2位に入ってきています。
まだまだ集計時点では東京などの大都市だけでの上映だったので投票数は少ないのですが、満足度が高いということですね。
さて「麗しのサブリナ」、最近のBSプレミアムで放映の際、画角(スクリーン・サイズ)が2種類になっています。
通常の画質で放映されるときはスタンダードサイズ、そして4Kで放映されるときはビスタビジョンサイズで放映されています。
正式なビスタビジョンが作られたのは1954年なので(月刊「パラマウント」54年4月号で紹介)、1953年に撮影している「麗しのサブリナ」はどう考えてもスタンダードサイズで撮影されているはずなのです。
でも芳賀書店のシネアルバムでも「麗しのサブリナ」はビスタビジョンサイズだと書かれているので、公開はアメリカでも1954年9月だったので、当時横に広い大画面で話題をさらっていた20世紀フォックスのシネマスコープに対抗して、もしかしたらビスタサイズに上下をカットして上映されていたのかもしれません。
そういえばパラマウント日本支社は「ローマの休日」で大当たりをとって日本全国でオードリーの大ブームが起きていたので、タイミングを逃さず鉄は熱いうちに打てとばかりに「麗しのサブリナ」は日米同時公開にしようと奔走していたようです。
今はデジタル上映なので、別に日米同時公開など別に珍しくも難しくもありませんが、1954年は10巻以上もあるフィルムをアメリカから取り寄せて、翻訳してスーパー(字幕)を1コマずつ焼き入れしなければならず、それを全国で上映できるように何十本という複製も作らねばならず、ものすごい大変だったことと思います。
日米同時公開を目指していた「麗しのサブリナ」は、結局一般公開はアメリカよりも日本の方が早くなってしまいました。
まあでもその結果54年の第4位配給収入だったんですから、パラマウント日本支社の目論見はいい意味でまんまと当たったわけですね。
さて、そんな高度成長期に汗を流しながら勝ち取った日米同時公開でしたが、日本が豊かな80年代〜90年代にはわりと普通だったのに、なんか最近は日本での公開がやたら遅いことが多いですよね。
あれっ?と思ったのが「アナと雪の女王」から。当時主要国では日本が公開が最後だと言われてましたんで、なんで?と思いましたが、その後どうやら日本はかなり他の国と比べて洋画の公開が遅いみたいです。
昔はビデオで日本の洋画ビデオが先に販売してアメリカに逆輸入されたりするため、DVDの規格を決めるときに日本とアメリカでリージョンが分けられてしまうくらいだったのに、やはり国力が落ちてしまうと重要視されなくなったんでしょうか?
そういえば、最近は欧米の主演スターが来日して映画をアピール、ってこともめっきり無くなりましたよね。
日本が貧しくて呼べなくなったのか、昔の洋高邦低だった時代と違って、邦高洋低の現代では日本のマーケットが小さくなりすぎて宣伝しても効果薄だとアメリカに思われてるんでしょうかね?
ちなみに、「麗しのサブリナ」は来年、とうとう映画の著作権が切れますが、それに付随するポスターや宣伝写真などは美術品扱いで、デザイナーやカメラマンが亡くなってから著作権が切れますので、まだ自由には使えないようです。
2024年09月12日
1989年「パリ名画ウィーク」チラシ
今回は1989年の35年前に銀座文化劇場で上映された、“パリ名画ウィーク”のチラシの紹介。
9月15日から10月19日まで、週替わりでパリが舞台の映画を掛けていってたんですが、オードリー作品としては「パリの恋人」がスタートの9月15日(金)〜9月21日(木)、「パリで一緒に」が10月5日(金)〜10月12日(木)となっています。
メインイメージも「パリの恋人」のオードリーになっていますね。
でもこの絵柄を見るたびに、“オードリーの顔のラインの切り抜き、おかしくない?”と思ってしまいます。
ちょっとほっぺた削りすぎって言うか、ね。
フランス国旗をイメージした絵柄の、左側のブルーのラインの引き方がオードリーの顔に被って余計に変に見えるんですよね。
ブルーはまっすぐ下に引くかなんかして、オードリーの顔の輪郭と被らないようにしてくれたらよかったのに…と見る度に思ってしまいます。
でも全体の雰囲気は好きなんですよね。
裏面はストーリーメインであんまり取り立てて書く事は無いんですけど、「パリの恋人」は “「マイ・フェア・レディ」などとは全く違ったミュージカル映画に仕上がっている。” 「パリで一緒に」は “現実と虚構の交錯が楽しい。”と買いてあります。
ということで、このチラシそのものにはあまり語ることもないのですが…。
それでもこの銀座文化での“パリ名画ウィーク”にはスゴイことが2つあります。
まず1つめは銀座文化のこと。
この映画館は、80年代後半〜90年代前半にかけて、“オードリー専門劇場”と言われただけあって、オードリー作品の上映がすごいことになっています。
85年に「噂の二人」(2回)「麗しのサブリナ」「ローマの休日」を上映したあとも続々とオードリー映画を掛けていて、“パリ名画ウィーク”前年の88年には「ローマの休日」「シャレード」「ティファニーで朝食を」「パリの恋人」「麗しのサブリナ」などを上映しており、89年には他に「昼下りの情事」を4月29日から7月27日まで上映してました。
93年には追悼で(上映検討時はまだオードリーの病気はわからなかった)日本航空のJALPAKと組んで、オードリーの12作品を約半年間連続上映しています。
さすが“オードリー専門劇場”と言われるだけのことはありますね。当時のオードリー大ブームを牽引してたんでしょうね。
さて、もう一つの“スゴイなあ〜”はこのチラシと同柄のポスター、及びパンフレットのこと。
だってですよ、この“パリ名画ウィーク”、日本全国で上映された、とはあまり思えないんですよね。
少なくとも、僕は銀座文化以外のチラシを見たことないです。
下手すると全国で銀座文化だけかもしれない。
でもそのためにポスターやパンフレットをわざわざ製作してるんです!
印刷するってなったら、1000部以上刷らないともの凄く割高になるんです。
チラシは劇場においておく無料のものだし、1000枚でも捌けると思うんです。
パンフレットもまあ当時なら1000冊くらいなら売り切れたと思うんです。
でもポスターはどうでしょうね?別に劇場で売るためのものではないですし、映画館で飾るものはせいぜい5枚もあれば大丈夫でしょう。
昔なら近所の商店街とかの看板などに貼ってあることもありましたんで、ムリクリあと10枚くらいは使い道もあるかもしれません。
でも1000枚には程遠いですよね。
まあ多分、このポスターはせいぜい100枚くらいしか刷られていないと思います。
B2のポスターを作る際には、四六判と言う紙が使われて印刷されるのですけど、B2なら1枚の四六判の紙で2枚同時に印刷できます。
なので100枚要るとなったら、50枚しか刷らないことになるんですよね。
きっとあまりにも少なくて、あまりにも1枚あたりの単価が割高だったと思うんです。
それでも当時は作ってしまうんですよね。
というのも1989年というと日本は空前の好景気。いわゆるバブル真っ只中。
会社もお金が湯水のように使えた時代。
配給の日本ヘラルドさんも、“割高?気にすんな、行っちゃえ行っちゃえ!”って感じで日本でたった1館でしか上映しないものでもバンバンポスターやパンフレットが製作できたんじゃないでしょうか(知らんけど)。
すごい時代ですよねー。日本の80年代後半のコカコーラのCMをYouTubeで見ると、色々問題はあれど、ほんとあの時代は輝いてたんだなーと思います。
9月15日から10月19日まで、週替わりでパリが舞台の映画を掛けていってたんですが、オードリー作品としては「パリの恋人」がスタートの9月15日(金)〜9月21日(木)、「パリで一緒に」が10月5日(金)〜10月12日(木)となっています。
メインイメージも「パリの恋人」のオードリーになっていますね。
でもこの絵柄を見るたびに、“オードリーの顔のラインの切り抜き、おかしくない?”と思ってしまいます。
ちょっとほっぺた削りすぎって言うか、ね。
フランス国旗をイメージした絵柄の、左側のブルーのラインの引き方がオードリーの顔に被って余計に変に見えるんですよね。
ブルーはまっすぐ下に引くかなんかして、オードリーの顔の輪郭と被らないようにしてくれたらよかったのに…と見る度に思ってしまいます。
でも全体の雰囲気は好きなんですよね。
裏面はストーリーメインであんまり取り立てて書く事は無いんですけど、「パリの恋人」は “「マイ・フェア・レディ」などとは全く違ったミュージカル映画に仕上がっている。” 「パリで一緒に」は “現実と虚構の交錯が楽しい。”と買いてあります。
ということで、このチラシそのものにはあまり語ることもないのですが…。
それでもこの銀座文化での“パリ名画ウィーク”にはスゴイことが2つあります。
まず1つめは銀座文化のこと。
この映画館は、80年代後半〜90年代前半にかけて、“オードリー専門劇場”と言われただけあって、オードリー作品の上映がすごいことになっています。
85年に「噂の二人」(2回)「麗しのサブリナ」「ローマの休日」を上映したあとも続々とオードリー映画を掛けていて、“パリ名画ウィーク”前年の88年には「ローマの休日」「シャレード」「ティファニーで朝食を」「パリの恋人」「麗しのサブリナ」などを上映しており、89年には他に「昼下りの情事」を4月29日から7月27日まで上映してました。
93年には追悼で(上映検討時はまだオードリーの病気はわからなかった)日本航空のJALPAKと組んで、オードリーの12作品を約半年間連続上映しています。
さすが“オードリー専門劇場”と言われるだけのことはありますね。当時のオードリー大ブームを牽引してたんでしょうね。
さて、もう一つの“スゴイなあ〜”はこのチラシと同柄のポスター、及びパンフレットのこと。
だってですよ、この“パリ名画ウィーク”、日本全国で上映された、とはあまり思えないんですよね。
少なくとも、僕は銀座文化以外のチラシを見たことないです。
下手すると全国で銀座文化だけかもしれない。
でもそのためにポスターやパンフレットをわざわざ製作してるんです!
印刷するってなったら、1000部以上刷らないともの凄く割高になるんです。
チラシは劇場においておく無料のものだし、1000枚でも捌けると思うんです。
パンフレットもまあ当時なら1000冊くらいなら売り切れたと思うんです。
でもポスターはどうでしょうね?別に劇場で売るためのものではないですし、映画館で飾るものはせいぜい5枚もあれば大丈夫でしょう。
昔なら近所の商店街とかの看板などに貼ってあることもありましたんで、ムリクリあと10枚くらいは使い道もあるかもしれません。
でも1000枚には程遠いですよね。
まあ多分、このポスターはせいぜい100枚くらいしか刷られていないと思います。
B2のポスターを作る際には、四六判と言う紙が使われて印刷されるのですけど、B2なら1枚の四六判の紙で2枚同時に印刷できます。
なので100枚要るとなったら、50枚しか刷らないことになるんですよね。
きっとあまりにも少なくて、あまりにも1枚あたりの単価が割高だったと思うんです。
それでも当時は作ってしまうんですよね。
というのも1989年というと日本は空前の好景気。いわゆるバブル真っ只中。
会社もお金が湯水のように使えた時代。
配給の日本ヘラルドさんも、“割高?気にすんな、行っちゃえ行っちゃえ!”って感じで日本でたった1館でしか上映しないものでもバンバンポスターやパンフレットが製作できたんじゃないでしょうか(知らんけど)。
すごい時代ですよねー。日本の80年代後半のコカコーラのCMをYouTubeで見ると、色々問題はあれど、ほんとあの時代は輝いてたんだなーと思います。
2024年09月07日
「麗しのサブリナ」公開70周年直前 月刊「パラマウント」1954年9月号
今年日本公開70周年なのは「ローマの休日」だけではありません。「麗しのサブリナ」も9月17日に公開70周年になります。
ということで、今日はプレ公開記念ということで、月刊「パラマウント」1954年9月号を紹介。
この月刊「パラマウント」は、パラマウント友の会が本当に9月号は9月1日に発行していたようです。
この号は「麗しのサブリナ」のデコルテ・サブリナ(肩にリボンのあるジバンシィデザインのドレスで、ライナスの社長室に行く際に着ていたドレス)の装いのオードリーが表紙です。
月刊「パラマウント」で表紙になるのは1953年12月号に次いで2回目。
もちろんこの段階で2度も表紙になったのはオードリーのみ。それだけ大ブームだったということですね。
さて、この号は「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」封切りの狭間の時期で、あまりオードリーの話題はありません。
と言っても、この号の編集の8月までには「ローマの休日」は全国主要都市での公開は終わってますし、主要都市での2番館、3番館や、地方都市での公開の真っ只中。
なので、読者のページ(4P)ではオードリーのイラストが2点あったり、「ローマの休日」を話題にしている人も多いです。
最初の方の、ヘップバーン型ヘアスタイル、「ローマの休日」型ブラウスに次いで、福岡では“脚のヘップバーンは〇〇靴店で”という広告が出た、というのが興味深いですね。
投稿された方は “靴をまさぐるアン王女のたくましい足”などと書いてますが、足そのものではなく、ヘップバーンからとった、いわゆる“ヘップ履き”と言われる現代のミュールのことでしょうか?
ちなみにオードリーの足が筋肉質なのはバレエをやっていたからですね。
他にも、「ローマの休日」がすばらしすぎて「サブリナ」が待ち遠しい、などの文面が載っています。
別の方の投稿では、“「ローマの休日」で大当たりを取ったパラマウントは、すぐさまロードショーから2番館へと矢継ぎ早に流し、今3番館で上映の看板を掲げている。驚き入った次第だ。”というのもあります。
当時は好評だった作品はそんなすぐに2番館や3番館に流すことはなかったそうなのですが、「ローマの休日」は違ったそうです。
やはり世間でオードリーが大ブームで、稼げる時にどんどん稼ごうという魂胆なんですかね。
さらにまもなく「麗しのサブリナ」の公開も控えていますからね。
この「パラマウント」では読者の採点ということで、本年(1954年)封切りのパラマウント作品での発表も行っています。
読者には100点、90点、80点などと1桁には端数をつけずに採点してもらい、ハガキで応募してもらう。
合計点を投票してくれた人数で割る、という方式です。
毎月新作が封切られたり、どんどん応募総数も多くなっていくので点数は変動するのですが、この号(集計は8月6日)では「ローマの休日」が107人で9640点ということで、90点でトップになっています。やっぱりもの凄い好評だったんですね。
ふつう、前評判があまりにも高いと、見たら “なーんだ”って思われることも多いんですが、「ローマの休日」は前評判通り、というかそれ以上だったということですね。
でも編集後記の欄で“あんまり「ローマの休日」が当たったので最初褒めていた人たちがなんのかんのと文句をつけ始めた(ああ、島国根性よ!)”ということで、世間一般では難癖を付ける人が出てきたようですが、我が友の会はさすが!ということでそんな人もいなかったようです。
でも島国根性って言葉、最近は全く聞かないですよね。
さて、本文には春美栄光堂というブロマイド屋さんの宣伝が載っているのですけど、戦後すぐに人気の出たイングリッド・バーグマンやジューン・アリスンの70種というのには負けてますが、まだ「ローマの休日」でお目見えしたばかりのオードリーが既に50種類はスゴイ!
ヴィヴィアン・リーやエリザベス・テイラーともう肩を並べています。
春美栄光堂さん、一体どこから写真の原版の仕入れてるんでしょうねー。
「風と共に去りぬ」公開時にMGM日本支社が、アメリカからいつまでたっても宣伝写真を送ってこないので、春美栄光堂さんから借りて宣伝で使った、MGMから届いたのは公開が終わってからだった、とのことなので、どこかのパクリではなさそうです。
70年代後半、僕がオードリーのファンになった頃は春美栄光堂さんの「スクリーン」での広告ではオードリーは最高の100種類になっていました。いつか全種類買いたいと思っていましたが、学生時代にはお金が足りず、90年代にはオードリーは256種類にもなっていて、社会人でも一度に買うには手痛い出費になることから、ずるずると後回しにしていたら春美栄光堂さんがいつの間にか閉業してしまっていました…。
一度全種類見てみたかったですねー。
そして原版はどこへ行ってしまったんでしょうか。
さて、「麗しのサブリナ」の続きのお話は次回…ではなく、17日に。
ということで、今日はプレ公開記念ということで、月刊「パラマウント」1954年9月号を紹介。
この月刊「パラマウント」は、パラマウント友の会が本当に9月号は9月1日に発行していたようです。
この号は「麗しのサブリナ」のデコルテ・サブリナ(肩にリボンのあるジバンシィデザインのドレスで、ライナスの社長室に行く際に着ていたドレス)の装いのオードリーが表紙です。
月刊「パラマウント」で表紙になるのは1953年12月号に次いで2回目。
もちろんこの段階で2度も表紙になったのはオードリーのみ。それだけ大ブームだったということですね。
さて、この号は「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」封切りの狭間の時期で、あまりオードリーの話題はありません。
と言っても、この号の編集の8月までには「ローマの休日」は全国主要都市での公開は終わってますし、主要都市での2番館、3番館や、地方都市での公開の真っ只中。
なので、読者のページ(4P)ではオードリーのイラストが2点あったり、「ローマの休日」を話題にしている人も多いです。
最初の方の、ヘップバーン型ヘアスタイル、「ローマの休日」型ブラウスに次いで、福岡では“脚のヘップバーンは〇〇靴店で”という広告が出た、というのが興味深いですね。
投稿された方は “靴をまさぐるアン王女のたくましい足”などと書いてますが、足そのものではなく、ヘップバーンからとった、いわゆる“ヘップ履き”と言われる現代のミュールのことでしょうか?
ちなみにオードリーの足が筋肉質なのはバレエをやっていたからですね。
他にも、「ローマの休日」がすばらしすぎて「サブリナ」が待ち遠しい、などの文面が載っています。
別の方の投稿では、“「ローマの休日」で大当たりを取ったパラマウントは、すぐさまロードショーから2番館へと矢継ぎ早に流し、今3番館で上映の看板を掲げている。驚き入った次第だ。”というのもあります。
当時は好評だった作品はそんなすぐに2番館や3番館に流すことはなかったそうなのですが、「ローマの休日」は違ったそうです。
やはり世間でオードリーが大ブームで、稼げる時にどんどん稼ごうという魂胆なんですかね。
さらにまもなく「麗しのサブリナ」の公開も控えていますからね。
この「パラマウント」では読者の採点ということで、本年(1954年)封切りのパラマウント作品での発表も行っています。
読者には100点、90点、80点などと1桁には端数をつけずに採点してもらい、ハガキで応募してもらう。
合計点を投票してくれた人数で割る、という方式です。
毎月新作が封切られたり、どんどん応募総数も多くなっていくので点数は変動するのですが、この号(集計は8月6日)では「ローマの休日」が107人で9640点ということで、90点でトップになっています。やっぱりもの凄い好評だったんですね。
ふつう、前評判があまりにも高いと、見たら “なーんだ”って思われることも多いんですが、「ローマの休日」は前評判通り、というかそれ以上だったということですね。
でも編集後記の欄で“あんまり「ローマの休日」が当たったので最初褒めていた人たちがなんのかんのと文句をつけ始めた(ああ、島国根性よ!)”ということで、世間一般では難癖を付ける人が出てきたようですが、我が友の会はさすが!ということでそんな人もいなかったようです。
でも島国根性って言葉、最近は全く聞かないですよね。
さて、本文には春美栄光堂というブロマイド屋さんの宣伝が載っているのですけど、戦後すぐに人気の出たイングリッド・バーグマンやジューン・アリスンの70種というのには負けてますが、まだ「ローマの休日」でお目見えしたばかりのオードリーが既に50種類はスゴイ!
ヴィヴィアン・リーやエリザベス・テイラーともう肩を並べています。
春美栄光堂さん、一体どこから写真の原版の仕入れてるんでしょうねー。
「風と共に去りぬ」公開時にMGM日本支社が、アメリカからいつまでたっても宣伝写真を送ってこないので、春美栄光堂さんから借りて宣伝で使った、MGMから届いたのは公開が終わってからだった、とのことなので、どこかのパクリではなさそうです。
70年代後半、僕がオードリーのファンになった頃は春美栄光堂さんの「スクリーン」での広告ではオードリーは最高の100種類になっていました。いつか全種類買いたいと思っていましたが、学生時代にはお金が足りず、90年代にはオードリーは256種類にもなっていて、社会人でも一度に買うには手痛い出費になることから、ずるずると後回しにしていたら春美栄光堂さんがいつの間にか閉業してしまっていました…。
一度全種類見てみたかったですねー。
そして原版はどこへ行ってしまったんでしょうか。
さて、「麗しのサブリナ」の続きのお話は次回…ではなく、17日に。
2024年08月31日
「ティファニーで朝食を」1969年リバイバル紹介「スクリーン」切り抜き
はい、今日は雑誌「スクリーン」からの切り抜きの紹介。
今日は1969年8月31日から始まった、「ティファニーで朝食を」の最初のリバイバルから55年になります。
それでこの「ティファニーで朝食を」のリバイバル紹介の「スクリーン」の切り抜きを選びました。
これも買ったのはあまりに昔すぎて本を潰してしまっているので、1969年の10月号(8月21日発売)だとは思うのですが、確証はありません。もしかしたら9月号(7月21日発売)かもしれません。
この当時は、こういう映画のファン雑誌は「スクリーン」だけになっていました。
同じ性格の「映画の友」は1968年3月号(1月21日発売。オードリーが最後の表紙)で廃刊になっていますし、「ロードショー」は1972年5月号が創刊ですから、この隙間の時期は「スクリーン」のみだったというわけですね。
紹介は見開き2ページ。今となっては珍しい画像はありません。
左下に小さくデニッシュを食べる珍しい画像がありますが、これは映画からのチャプターだし。
解説も取り立ててここで書くことは何もないので、今まで紹介してきた
・1969年リバイバルポスターA
・1969年リバイバルポスターB
・1969年リバイバル立看ポスター
・1969年リバイバルプレスシート
・1969年リバイバルパンフレット
なども参考にしていただくとありがたいです。
さて、1961年の初公開時は清純なオードリーが高級娼婦!?というショックからか、内容に共感できなかった人が多かったのか、批評も素晴らしかったのに、全盛期のオードリー映画16本の中ではワースト4位の水準ヒットだったせいで、大ヒットだった63年初公開の「シャレード」にリバイバルでは68年と先を越されてしまってましたが、「ティファニーで朝食を」もやっとのリバイバル。
それでもB2ポスターが2種類作られるなんて、リベンジだったのか映画会社としてはチカラ入ってます。
メインの封切館は東宝系列だけど東宝直営ではないテアトル銀座と新宿武蔵野館。
当時この2館はチェーンを組んでいて、1969年再映の「風と共に去りぬ」や1970年リバイバルの「ローマの休日」などでも2館同時に封切っていました。
上映期間は1969年8月31日から9月26日まで。4週の続映でした。
でもこの当時の4週だと、まあ可もなく不可もなく、っていう普通の入りだったんだろうなと思います。
70年の「ローマの休日」などは同じ劇場で2ヶ月以上上映してましたしね。
なので、70年代後半〜80年代前半での「ティファニーで朝食を」の立ち位置としては、“代表作なんだけど、もう一つパッとしない…”って感じでした。
そのため、この1969年リバイバル以降は長い間リバイバルが来ず、1986年に日本ヘラルド配給でやっとリバイバルが叶います。
その後はだんだんお客さんも入ってきたのか、現在に至るまで日本では8回も上映されたのは86年リバイバルの大阪版チラシで書いた通り。
今や名実ともにオードリーの代表作となっています。
2024年08月26日
アラン・ドロン追悼 「映画の友」1959年11月号
フランスの2枚目スター、アラン・ドロンが18日に亡くなりました。
直接オードリーとの共演はありませんでしたが、50年代終わりと60年代、70年代とオードリーと共にずっと映画雑誌の人気投票で上位だったアラン・ドロンに敬意を表して、今回は「映画の友」1959年11月号を基にオードリーとの関わりなどを書きながらアラン・ドロンのことを書こうと思います。
まずこの号はオードリーが表紙ですね。59年11月号ということは、発売は59年9月21日。
表紙のオードリーは「緑の館」の撮影時期の宣伝写真です。ということは1958年夏〜秋ごろに撮影されたもの。
1959年9月だと、もう既に「許されざる者」の撮影も終わっていますが、「許されざる者」ってあんまり宣伝写真って見たことないんですよね。途中落馬して骨折とかしちゃったんで、そういう宣伝用の写真を撮れなかったのかも。
「許されざる者」を撮り終わった後でも、流産と再度妊娠がありましたから、全く時間が取れなかったんでしょうね。
なので雑誌表紙になる宣伝写真だと、「緑の館」の時期の写真からいきなり「ティファニーで朝食を」になるイメージがあります。
ふっくらしてた「緑の館」とショーンを生んだ後の痩せた「ティファニーで朝食を」だと、えらく雰囲気違いますよね。
さて、この号ではグラフ写真でアラン・ドロンが映画撮影のために行ったアメリカでのプライベート写真がまず5ページに渡って掲載されています。
1959年だと「お嬢さん、お手やわらかに!」という映画が公開されて、アラン・ドロンが一躍注目されるようになった頃。
あまりの超絶2枚目っぷりに、当時も話題になってたようですし、「映画の友」「スクリーン」の両映画雑誌にも凄い推されてましたね。
そのアラン・ドロン人気に便乗しようと、「お嬢さん、お手やわらかに!」の前の作品「恋ひとすじに」が公開される運びになったようです。
ということで、この号では5ページのグラフ、8ページの「恋ひとすじに」の紹介、記事が2つ、本文ページでの写真が1つ、写真の頒布ページ、それと表3で「恋ひとすじに」のカラー広告と、アラン・ドロン大特集みたいになっています。
さて話を戻すと、そのあまりの美男っぷりに早速アメリカ映画からも目をつけられて出演依頼が来たのかと思いましたが…。
でもアラン・ドロンって「泥棒を消せ」っていう1965年の映画まで、アメリカ映画には出てない、って知ってましたので、じゃあこのアメリカに行ったのは何?と思いますよね。
でもキャプションや記事ではやっぱりアメリカ映画に出ることになってる。
なんの作品だろうと思ってよく読むと、作品名は書いてないんですが、テネシー・ウィリアムズの小説を戯曲化したものの映画化で、アラン・ドロンは「年老いたスターの生活を荒らしてしまう若いジゴロの役」…。
あっ…!これって「ローマの哀愁」!!
テネシー・ウィリアムズの唯一の小説で、「年老いたスター」に「ジゴロ」!
これって原作は「ストーン夫人のローマの春」。
昔は新潮文庫から発売されていたようなのですが、僕が中学くらいの頃にはとっくに絶版になっていました。
最終的には1961年にヴィヴィアン・リーとウォーレン・ベイティで映画化され公開されたのじゃないですか!
なんとアラン・ドロンはヴィヴィアン・リーとも共演するかもしれなかったのですね!
なぜこの時に「ローマの哀愁」は撮影されなかったんでしょうね。
それはヴィヴィアン・リーの体調によるのかもしれません。
ヴィヴィアン・リー、もうこの時期は双極性障害に悩まされていましたから、体調が良くないと撮影できないんですよね。
なのでせっかく来たアラン・ドロンは何もせず帰らないといけなかったのかもしれません。
なんせアラン・ドロンはアメリカではぽっと出のペーペー。
対してヴィヴィアン・リーは気位の高い大女優ですからね。
でもその文章には、アラン・ドロンは同じテネシー・ウィリアムズ原作でアンナ・マニャーニと共演する、とも書いてあるんですよね。
これって「蛇皮の服を着た男」になるみたいなんですけど、こちらは実際にはマーロン・ブランドが演じてますね。
こちらを演じられなかった理由はわかりませんが、英語の発音の問題?それともアメリカでの集客力でブランドに代えられたとか?
でもアラン・ドロンからしたら、2本も映画に主演できると思って意気揚々とアメリカに乗り込んだら、どっちもポシャってしまうなんて、失意のどん底ですよね。
あまりアメリカにいい印象を持てなかったんじゃないかなーと思いますね。
さて、この号ではさらにもう1本、フランスでの撮影ですが、アメリカ資本の映画に出ることが決まったと書かれています。
その作品が「ファニー」!
そう、オードリーもオファーされて出演することになっていた作品ですよね(「パリの恋人(原題:FUNNY FACE)」じゃないですからね。こちらは「FANNY」で人名)。
ここの記事でもアラン・ドロンがオードリーと共演することになった、と書かれています!
なんと!オードリーと共演の可能性が1回はあったのですね!
これも確かオードリーの妊娠・出産によって断った作品ですよね。
ここまでで2度も流産してきたオードリーですから、今度こそは!と今回は一切映画出演をしなかったんですよね。とにかく安静。
オードリーの役はレスリー・キャロンが演じています。
50年代後半はオードリーとレスリー・キャロンは「恋の手ほどき(オードリーが舞台で演じた「ジジ」)」とか「ファニー」とか、同じ役で候補になっていますね。
これが60年代前半になると今度はジュリー・アンドリュースとの役の入れ替えが頻繁に起こるようになります。
「マイ・フェア・レディ」「卑怯者の勲章」「ハワイ」「サウンド・オブ・ミュージック」の4本。
この時期には他に「ウエスト・サイド物語」のマリア役(ナタリー・ウッドが演じた)も断っています。
とにかく、この「ファニー」もアラン・ドロンが演じるという話は無くなってしまって、結局ホルスト・ブッフホルツが演じています。
ここでそれらのアメリカ映画3作品を演じていたら、アラン・ドロンの人生はまた違ったものになっていたんでしょうかね。
他にも1962年ごろの「映画の友」で「尼僧物語」の名匠フレッド・ジンネマン監督の「日曜日には鼠を殺せ」のオファーもあったことが書かれていました。
これまた結局グレゴリー・ペックが演じています。
アラン・ドロンはその後1965年からアメリカ映画に数本出ますけど、どれもドロンの個性を活かせないパッとしない出来で興行成績もイマイチ。
早々にアメリカに見切りをつけてフランスに戻って「冒険者たち」という傑作に出るんですよね。
でも、同時期に活躍した2人ですから、オードリーとアラン・ドロンの共演ってのも見てみたかったですね。
ただし、「ファニー」は双葉十三郎さんの採点では70点しかなかったので、出なくて正解だったのかも…。
オードリーでは他にグラビアページで、イヴ・サンローランデザインのディオールブランドのアメリカ雑誌用のモデルになるためにパリに来たということでメル・ファーラーと一緒に写る画像が載っています。
ここでは「許されざる者」の落馬で重傷だと伝えられていたけど、元気そうでよかったと書かれています。
オードリーはこの時は口紅が薄く、肌も日焼けしてるように写っていて、なんかすっぴんのようにも見えます。
「ハリウッド短波放送」ってコーナーの “アラン・ドロン、「ファニー」に出演”ってページの隣のページには、「太陽をいっぱいに」というルネ・クレマン監督の映画でローマに発つアラン・ドロンとマリー・ラフォレとプロデューサーの画像が載っています。
これってアラン・ドロン生涯の代表作、「太陽がいっぱい」のロケに向かうところですね。
ここでも信じられないくらいの超絶美形で写ってます。
さて、この号には1959年8月に公開した作品の紹介と採点と興行について書いてるんですが、「尼僧物語」は「映画の友」での採点は90点。かなりな高評価です。
でも、この号での最高点は「十二人の怒れる男」の100点満点。
しかも興行価値が危ぶまれていたのに、見事な当たりだったそうです。
また、8月は夏枯れ興行どこ吹く風ということで、「尼僧物語」「掟」「アルピニスト岩壁に登る」という作品がヒットしたことが書かれています。
まあ前回書いたように「尼僧物語」は日本ではチェーンマスターの日比谷映劇ではヒットしたものの、翌月拡大上映で東宝洋画チェーン各館に降りると、最低記録を作ってしまうほどお客が入らなかったそうなのですけどね。
やはり日本ではカトリックの内部事情、というものに興味がそれほど湧かなかったんでしょうかね。
あと、質問コーナーでオードリーの住所を尋ねている人がいて、編集部が答えているんですけど、これがえらく大雑把!
「スイス ルツェルン ブルゲンシュトック」しか書いてない!
これでファンレターが届くんですから、やっぱり有名人なんですね。
この当時はまだショーンが生まれてないので、トロシュナではなくドイツ語圏のブルゲンシュトックに住んでいた時期ですね。
ちなみにオードリーが借りていたブルゲンシュトックの家は、いまは取り壊されてホテルの敷地に取り込まれていて現存していないそうです。
「映画の友」の通販では表紙になったオードリーの写真や、4枚組のアラン・ドロンの写真なども売られています。
さて、最近の記事などではアラン・ドロンがオードリーと共に1位が定位置だった、と書かれていたりしますが、実はドロンは全盛期と呼べる60年代はあまり「映画の友」でも「スクリーン」でも1位を取れていないのですよね。
スティーブ・マックイーンやチャールトン・ヘストンなどに阻まれています。
むしろ70年代前半の方が1位をよく取れていたようです。
しかも面白いことに、「スクリーン」ではオードリーとドロンは1975年にふたり揃って2位に落ち、1983年にとうとうベスト10からもふたり一緒に落ちてしまうというシンクロ。
オードリーはその後、87年から再ブームでまたベスト10圏内に返り咲き、2007年には1位まで取ってしまいますけど、アラン・ドロンはその後再びベスト10には入りませんでした。
僕なんかは「お嬢さん、お手やわらかに!」のようなロマンティック・コメディ路線が良いんじゃないかと思ってましたが、その後の作品はどっちかっていうとドロンの黒い面を活かした裏社会的なものが多かったですね。
なので、新規ファンもある程度は獲得はできたでしょうが、ロマンティックな映画が好きなファンは逃してしまったような印象があります。
日本では絶大な人気を誇った2人でしたが、映画という本業では交わらないままに終わったので、オードリーが亡くなった時にアラン・ドロンがわざわざオードリーのお葬式に来てくれていたのが意外でした。
(最後の画像は93年にオードリーのお葬式に来たアラン・ドロン)
アラン・ドロンは、「残念ながら個人的なお付き合いがあったわけではありません。しかし彼女は皆に別れを告げてもらうに値する、偉大な女性だと思ったのです。」とお葬式で述べていました。
あと、アラン・ドロンが発売した「サムライ」という香水が良い匂いでした。ご冥福をお祈りします。
直接オードリーとの共演はありませんでしたが、50年代終わりと60年代、70年代とオードリーと共にずっと映画雑誌の人気投票で上位だったアラン・ドロンに敬意を表して、今回は「映画の友」1959年11月号を基にオードリーとの関わりなどを書きながらアラン・ドロンのことを書こうと思います。
まずこの号はオードリーが表紙ですね。59年11月号ということは、発売は59年9月21日。
表紙のオードリーは「緑の館」の撮影時期の宣伝写真です。ということは1958年夏〜秋ごろに撮影されたもの。
1959年9月だと、もう既に「許されざる者」の撮影も終わっていますが、「許されざる者」ってあんまり宣伝写真って見たことないんですよね。途中落馬して骨折とかしちゃったんで、そういう宣伝用の写真を撮れなかったのかも。
「許されざる者」を撮り終わった後でも、流産と再度妊娠がありましたから、全く時間が取れなかったんでしょうね。
なので雑誌表紙になる宣伝写真だと、「緑の館」の時期の写真からいきなり「ティファニーで朝食を」になるイメージがあります。
ふっくらしてた「緑の館」とショーンを生んだ後の痩せた「ティファニーで朝食を」だと、えらく雰囲気違いますよね。
さて、この号ではグラフ写真でアラン・ドロンが映画撮影のために行ったアメリカでのプライベート写真がまず5ページに渡って掲載されています。
1959年だと「お嬢さん、お手やわらかに!」という映画が公開されて、アラン・ドロンが一躍注目されるようになった頃。
あまりの超絶2枚目っぷりに、当時も話題になってたようですし、「映画の友」「スクリーン」の両映画雑誌にも凄い推されてましたね。
そのアラン・ドロン人気に便乗しようと、「お嬢さん、お手やわらかに!」の前の作品「恋ひとすじに」が公開される運びになったようです。
ということで、この号では5ページのグラフ、8ページの「恋ひとすじに」の紹介、記事が2つ、本文ページでの写真が1つ、写真の頒布ページ、それと表3で「恋ひとすじに」のカラー広告と、アラン・ドロン大特集みたいになっています。
さて話を戻すと、そのあまりの美男っぷりに早速アメリカ映画からも目をつけられて出演依頼が来たのかと思いましたが…。
でもアラン・ドロンって「泥棒を消せ」っていう1965年の映画まで、アメリカ映画には出てない、って知ってましたので、じゃあこのアメリカに行ったのは何?と思いますよね。
でもキャプションや記事ではやっぱりアメリカ映画に出ることになってる。
なんの作品だろうと思ってよく読むと、作品名は書いてないんですが、テネシー・ウィリアムズの小説を戯曲化したものの映画化で、アラン・ドロンは「年老いたスターの生活を荒らしてしまう若いジゴロの役」…。
あっ…!これって「ローマの哀愁」!!
テネシー・ウィリアムズの唯一の小説で、「年老いたスター」に「ジゴロ」!
これって原作は「ストーン夫人のローマの春」。
昔は新潮文庫から発売されていたようなのですが、僕が中学くらいの頃にはとっくに絶版になっていました。
最終的には1961年にヴィヴィアン・リーとウォーレン・ベイティで映画化され公開されたのじゃないですか!
なんとアラン・ドロンはヴィヴィアン・リーとも共演するかもしれなかったのですね!
なぜこの時に「ローマの哀愁」は撮影されなかったんでしょうね。
それはヴィヴィアン・リーの体調によるのかもしれません。
ヴィヴィアン・リー、もうこの時期は双極性障害に悩まされていましたから、体調が良くないと撮影できないんですよね。
なのでせっかく来たアラン・ドロンは何もせず帰らないといけなかったのかもしれません。
なんせアラン・ドロンはアメリカではぽっと出のペーペー。
対してヴィヴィアン・リーは気位の高い大女優ですからね。
でもその文章には、アラン・ドロンは同じテネシー・ウィリアムズ原作でアンナ・マニャーニと共演する、とも書いてあるんですよね。
これって「蛇皮の服を着た男」になるみたいなんですけど、こちらは実際にはマーロン・ブランドが演じてますね。
こちらを演じられなかった理由はわかりませんが、英語の発音の問題?それともアメリカでの集客力でブランドに代えられたとか?
でもアラン・ドロンからしたら、2本も映画に主演できると思って意気揚々とアメリカに乗り込んだら、どっちもポシャってしまうなんて、失意のどん底ですよね。
あまりアメリカにいい印象を持てなかったんじゃないかなーと思いますね。
さて、この号ではさらにもう1本、フランスでの撮影ですが、アメリカ資本の映画に出ることが決まったと書かれています。
その作品が「ファニー」!
そう、オードリーもオファーされて出演することになっていた作品ですよね(「パリの恋人(原題:FUNNY FACE)」じゃないですからね。こちらは「FANNY」で人名)。
ここの記事でもアラン・ドロンがオードリーと共演することになった、と書かれています!
なんと!オードリーと共演の可能性が1回はあったのですね!
これも確かオードリーの妊娠・出産によって断った作品ですよね。
ここまでで2度も流産してきたオードリーですから、今度こそは!と今回は一切映画出演をしなかったんですよね。とにかく安静。
オードリーの役はレスリー・キャロンが演じています。
50年代後半はオードリーとレスリー・キャロンは「恋の手ほどき(オードリーが舞台で演じた「ジジ」)」とか「ファニー」とか、同じ役で候補になっていますね。
これが60年代前半になると今度はジュリー・アンドリュースとの役の入れ替えが頻繁に起こるようになります。
「マイ・フェア・レディ」「卑怯者の勲章」「ハワイ」「サウンド・オブ・ミュージック」の4本。
この時期には他に「ウエスト・サイド物語」のマリア役(ナタリー・ウッドが演じた)も断っています。
とにかく、この「ファニー」もアラン・ドロンが演じるという話は無くなってしまって、結局ホルスト・ブッフホルツが演じています。
ここでそれらのアメリカ映画3作品を演じていたら、アラン・ドロンの人生はまた違ったものになっていたんでしょうかね。
他にも1962年ごろの「映画の友」で「尼僧物語」の名匠フレッド・ジンネマン監督の「日曜日には鼠を殺せ」のオファーもあったことが書かれていました。
これまた結局グレゴリー・ペックが演じています。
アラン・ドロンはその後1965年からアメリカ映画に数本出ますけど、どれもドロンの個性を活かせないパッとしない出来で興行成績もイマイチ。
早々にアメリカに見切りをつけてフランスに戻って「冒険者たち」という傑作に出るんですよね。
でも、同時期に活躍した2人ですから、オードリーとアラン・ドロンの共演ってのも見てみたかったですね。
ただし、「ファニー」は双葉十三郎さんの採点では70点しかなかったので、出なくて正解だったのかも…。
オードリーでは他にグラビアページで、イヴ・サンローランデザインのディオールブランドのアメリカ雑誌用のモデルになるためにパリに来たということでメル・ファーラーと一緒に写る画像が載っています。
ここでは「許されざる者」の落馬で重傷だと伝えられていたけど、元気そうでよかったと書かれています。
オードリーはこの時は口紅が薄く、肌も日焼けしてるように写っていて、なんかすっぴんのようにも見えます。
「ハリウッド短波放送」ってコーナーの “アラン・ドロン、「ファニー」に出演”ってページの隣のページには、「太陽をいっぱいに」というルネ・クレマン監督の映画でローマに発つアラン・ドロンとマリー・ラフォレとプロデューサーの画像が載っています。
これってアラン・ドロン生涯の代表作、「太陽がいっぱい」のロケに向かうところですね。
ここでも信じられないくらいの超絶美形で写ってます。
さて、この号には1959年8月に公開した作品の紹介と採点と興行について書いてるんですが、「尼僧物語」は「映画の友」での採点は90点。かなりな高評価です。
でも、この号での最高点は「十二人の怒れる男」の100点満点。
しかも興行価値が危ぶまれていたのに、見事な当たりだったそうです。
また、8月は夏枯れ興行どこ吹く風ということで、「尼僧物語」「掟」「アルピニスト岩壁に登る」という作品がヒットしたことが書かれています。
まあ前回書いたように「尼僧物語」は日本ではチェーンマスターの日比谷映劇ではヒットしたものの、翌月拡大上映で東宝洋画チェーン各館に降りると、最低記録を作ってしまうほどお客が入らなかったそうなのですけどね。
やはり日本ではカトリックの内部事情、というものに興味がそれほど湧かなかったんでしょうかね。
あと、質問コーナーでオードリーの住所を尋ねている人がいて、編集部が答えているんですけど、これがえらく大雑把!
「スイス ルツェルン ブルゲンシュトック」しか書いてない!
これでファンレターが届くんですから、やっぱり有名人なんですね。
この当時はまだショーンが生まれてないので、トロシュナではなくドイツ語圏のブルゲンシュトックに住んでいた時期ですね。
ちなみにオードリーが借りていたブルゲンシュトックの家は、いまは取り壊されてホテルの敷地に取り込まれていて現存していないそうです。
「映画の友」の通販では表紙になったオードリーの写真や、4枚組のアラン・ドロンの写真なども売られています。
さて、最近の記事などではアラン・ドロンがオードリーと共に1位が定位置だった、と書かれていたりしますが、実はドロンは全盛期と呼べる60年代はあまり「映画の友」でも「スクリーン」でも1位を取れていないのですよね。
スティーブ・マックイーンやチャールトン・ヘストンなどに阻まれています。
むしろ70年代前半の方が1位をよく取れていたようです。
しかも面白いことに、「スクリーン」ではオードリーとドロンは1975年にふたり揃って2位に落ち、1983年にとうとうベスト10からもふたり一緒に落ちてしまうというシンクロ。
オードリーはその後、87年から再ブームでまたベスト10圏内に返り咲き、2007年には1位まで取ってしまいますけど、アラン・ドロンはその後再びベスト10には入りませんでした。
僕なんかは「お嬢さん、お手やわらかに!」のようなロマンティック・コメディ路線が良いんじゃないかと思ってましたが、その後の作品はどっちかっていうとドロンの黒い面を活かした裏社会的なものが多かったですね。
なので、新規ファンもある程度は獲得はできたでしょうが、ロマンティックな映画が好きなファンは逃してしまったような印象があります。
日本では絶大な人気を誇った2人でしたが、映画という本業では交わらないままに終わったので、オードリーが亡くなった時にアラン・ドロンがわざわざオードリーのお葬式に来てくれていたのが意外でした。
(最後の画像は93年にオードリーのお葬式に来たアラン・ドロン)
アラン・ドロンは、「残念ながら個人的なお付き合いがあったわけではありません。しかし彼女は皆に別れを告げてもらうに値する、偉大な女性だと思ったのです。」とお葬式で述べていました。
あと、アラン・ドロンが発売した「サムライ」という香水が良い匂いでした。ご冥福をお祈りします。
2024年08月22日
「尼僧物語」レーザーディスク 日本公開65周年記念
今日は「尼僧物語」が東京の日比谷映画劇場で1959年8月22日に初公開してからちょうど65周年に当たります。
日比谷映画劇場(日比谷映劇)は当時の東宝の映画館のチェーンマスター館の1つですよね。
座席数は、今では日本の映画館には1館もない1000席超えの1375席の巨大劇場でした。
オードリー作品では「ローマの休日」「麗しのサブリナ」以来の上映になります。
そしてこの「尼僧物語」が日比谷映劇での最後のオードリー作品となりました。
65周年には公開当時の雑誌を紹介しようかとも思ったのですが、レーザーディスクの紹介にしました。
ええっと、これは88年何月の発売だったのかな?アマゾンだと88年12月15日になってますが…。
またはっきりわかったらこの欄に追加しときます。
まあでもそれくらいの発売だと思います。
このレーザーディスクには筈見有弘さんの4ページものライナーノートが付いてるんですが、その文章が1986年発売のチャールズ・ハイアムのオードリーの伝記に基づいているので。
さてこのディスクのジャケット、いまいちですねー。
オードリーの画像は映画からそのままキャプチャーしたかのような粗くて綺麗じゃない画像。しかもアラを見せないようにするためか、小さい。
なんだかよくわからない模様のデザインもなんでしょうね。
少なくともジャケ買いはしないデザイン。
もちろん初公開時とは違って、使える宣伝画像というのは減ってるんでしょうけど、これは無いかなー。
「尼僧物語」にも美しいカラーの宣伝画像はあるので、発売はパイオニアだとしても、たとえ珍しくなくても権利元のワーナーさんからちゃんとしたのを借りて欲しかったです。
海外の「尼僧物語」のLDのジャケットって全然デザインが違うみたいです。
でも日本盤って帯があるのがいいですよねー。
さて「尼僧物語」は150分の映画。対してレーザーディスクは片面60分、両面で120分が最大で融通がききません。
なので「尼僧物語」は2枚3面の収録になって、120分以内の1枚ものに比べるとちょっとお高め。
でもその代わりに嬉しいのが2枚組になると見開きジャケットになるんですよね。
そうすると収録される写真の点数が増えるという。
見開きジャケットの中には9点の宣伝写真が掲載されています。
宣伝写真だから、映画からキャプチャーしたものと違って、とても綺麗で高解像度。
宣材の写真って、映画そのものと写してるアングルが違うので、映画の本番撮影中だとカメラのシャッター音が入ってしまうのでどうやって撮っているのかと中学時代などは思っていましたが、どうやらリハーサルの時に撮っているんじゃないかと勝手に思うようになりました。
でもそれが裏付けられたのがこの見開きジャケットの中にある1枚の画像。
1番左上の画像のシーンは映画にはありませんよね?これ、昔はなんのシーンだろうと不思議に思っていましたが、93年に発売されたフレッド・ジンネマン監督の自伝や、「尼僧物語」の原作を読んで判明。
これって、突然大雨が降って、河の中州にいた3人の男たちがなすすべもなく水の中に飲み込まれていくのを岸辺で見守ることしかできない神父とオードリー演じるシスター・ルークと現地の人々のシーン、だったんですよね。
神父はもう最後の祈りを捧げていますし、シスター・ルークは嘆くしかできない、というシーンなんですよね。
これは原作にもあって、シスター・ルークはとっさに何か看護師として役に立つことはできないかと河へ急いだのですが、それがなかなか病院の外に出ることのできない、開放されない尼僧にとっては、なぜ他のシスターに譲らなかったのか、仕事を放り出して行ったために他の尼僧の負担が増えることになって謙譲の心に欠けているということになるんですよね。
で、このシーンは前日にリハーサルをしていたのに、本番当日になると河の水位が2mも下がってしまって、仕込んでおいたリフトやセメントが丸見えになってしまって結局撮影されなかった、とジンネマン監督の自伝に書いてありました。
ということで、この大雨の写真は前日のリハーサルで撮っていて、宣伝写真というものはリハーサル時に撮影されているんだ、とわかりました。
裏ジャケットのカラー画像も映画そのままのキャプチャーですが、ここでは岡原教郎さんという方が解説を書いておられます。
「ジンネマンは修道院での儀式の模様を遠近感のある縦の構図で丁寧に描く。修道院内部のセットも重厚な素晴らしいもので、撮影効果を十分に満足させている。」
「ヘップバーンが苦悩し、次第にやつれていく演技は、これまでの作品とは違う『暗』の分野への挑戦であり、その意気込みが強く感じられる。」
「名匠ジンネマンは抑制された演出で主人公の自己葛藤の緊張感を全編にみなぎらせている。ヘップバーンもまた、内面的苦しみを無表情の中に表現する難しい役作りをよくこなしている。撮影のフランツ・プラナーの色彩感覚は見事。ラストの長回しショットの余韻は映画ファンにはたまらない。」
さらに上述しましたが、ここには4ページの筈見有弘さんのライナーノートなどがありまして、画像はジャケットの内側のものと同じなのが残念です。
筈見さんの解説はチャールズ・ハイアムのオードリー伝記に基づいたものが多く、ハイアムの受け売り的な文章が多いために実はおおっ!と思う部分が少ないのが難点です。
むしろ「この映画が封切られた時、僕はオードリー・ヘップバーンが演じていたから見に行ったのであって、そうでなければ敬遠していただろう」という個人の当時の正直な考えが面白く感じられました。
また映画に対しては「起承転結をはっきりさせた構成により、綿密でオーソドックスな描き方をし、静かな場面を積み重ねていくが、次第にヒロインの心の奥の激しさを観客に感じさせて見事である。」と書いています。
オードリーに対しては「アカデミー賞は逃したが、ニューヨーク批評家協会の演技賞を受けた。それに値するだけの演技である。」と書いてくださってます。
3ページ目には「名せりふ集」があって、現地の男性の問いとシスター・ルークの返答が噛み合わない愉快なシーンのセリフもあれば、生徒は騙せても、自分と神は騙せませんというシスター・ルークが修道院を出る時の重い言葉もあります。
最後のページには「ディテール小事典」というのがあって、俗界と隔てられる「扉」、オードリーがシスター・ルークのモデルとなったマリー=ルイーズ・アベに乗り降りの仕方も聞いた「路面電車」、精神病院での「格闘シーン」、本当の「ハンセン氏病の村」でロケしたことなどが書かれています。
さて、ジャケットの裏側にもストーリーと解説、中にも4pものライナーノートを封入、と至れり尽くせりのこのレーザーディスクですけど、DVDの時代になってからは軽い解説だけ、配信にいたっては今やあらすじがちょこっと書いているだけ、というありさま。
日本は昔から映画パンフレットを作ってたし、テレビの映画劇場でも解説付き、っていうのが普通でしたが、今やそういう文化は無くなりかけていますよね。なんか勿体無いなーと思うのです。
それと「尼僧物語」ですが、海外では大ヒットだったのですが、日本では日比谷映劇の封切りではヒットしましたが、その次に東宝洋画チェーンに流れた時が不名誉な最低新記録を作ってしまい、全体ではオードリー作品としてはワースト3位の、水準ヒットレベルの配給収入で終わってしまっています。
それでも翌年の映画雑誌では、「キネマ旬報」第13位、「映画の友」で執筆者投票第13位(俳優部門は無し。ただし番付で横綱)、読者投票第7位、女優第1位。「スクリーン」では執筆者投票で第11位、女優1位。読者投票で第4位、女優第1位の成績を残しています。
作品としては高く評価されたということですね。
ただ、その後1度もリバイバルが無いのが残念!1966年に名画座で上映されたのを最後に権利が切れ、その後映画館では上映されていません。
ぜひ一度「午前十時の映画祭」で上映してもらいたいものです。
日比谷映画劇場(日比谷映劇)は当時の東宝の映画館のチェーンマスター館の1つですよね。
座席数は、今では日本の映画館には1館もない1000席超えの1375席の巨大劇場でした。
オードリー作品では「ローマの休日」「麗しのサブリナ」以来の上映になります。
そしてこの「尼僧物語」が日比谷映劇での最後のオードリー作品となりました。
65周年には公開当時の雑誌を紹介しようかとも思ったのですが、レーザーディスクの紹介にしました。
ええっと、これは88年何月の発売だったのかな?アマゾンだと88年12月15日になってますが…。
またはっきりわかったらこの欄に追加しときます。
まあでもそれくらいの発売だと思います。
このレーザーディスクには筈見有弘さんの4ページものライナーノートが付いてるんですが、その文章が1986年発売のチャールズ・ハイアムのオードリーの伝記に基づいているので。
さてこのディスクのジャケット、いまいちですねー。
オードリーの画像は映画からそのままキャプチャーしたかのような粗くて綺麗じゃない画像。しかもアラを見せないようにするためか、小さい。
なんだかよくわからない模様のデザインもなんでしょうね。
少なくともジャケ買いはしないデザイン。
もちろん初公開時とは違って、使える宣伝画像というのは減ってるんでしょうけど、これは無いかなー。
「尼僧物語」にも美しいカラーの宣伝画像はあるので、発売はパイオニアだとしても、たとえ珍しくなくても権利元のワーナーさんからちゃんとしたのを借りて欲しかったです。
海外の「尼僧物語」のLDのジャケットって全然デザインが違うみたいです。
でも日本盤って帯があるのがいいですよねー。
さて「尼僧物語」は150分の映画。対してレーザーディスクは片面60分、両面で120分が最大で融通がききません。
なので「尼僧物語」は2枚3面の収録になって、120分以内の1枚ものに比べるとちょっとお高め。
でもその代わりに嬉しいのが2枚組になると見開きジャケットになるんですよね。
そうすると収録される写真の点数が増えるという。
見開きジャケットの中には9点の宣伝写真が掲載されています。
宣伝写真だから、映画からキャプチャーしたものと違って、とても綺麗で高解像度。
宣材の写真って、映画そのものと写してるアングルが違うので、映画の本番撮影中だとカメラのシャッター音が入ってしまうのでどうやって撮っているのかと中学時代などは思っていましたが、どうやらリハーサルの時に撮っているんじゃないかと勝手に思うようになりました。
でもそれが裏付けられたのがこの見開きジャケットの中にある1枚の画像。
1番左上の画像のシーンは映画にはありませんよね?これ、昔はなんのシーンだろうと不思議に思っていましたが、93年に発売されたフレッド・ジンネマン監督の自伝や、「尼僧物語」の原作を読んで判明。
これって、突然大雨が降って、河の中州にいた3人の男たちがなすすべもなく水の中に飲み込まれていくのを岸辺で見守ることしかできない神父とオードリー演じるシスター・ルークと現地の人々のシーン、だったんですよね。
神父はもう最後の祈りを捧げていますし、シスター・ルークは嘆くしかできない、というシーンなんですよね。
これは原作にもあって、シスター・ルークはとっさに何か看護師として役に立つことはできないかと河へ急いだのですが、それがなかなか病院の外に出ることのできない、開放されない尼僧にとっては、なぜ他のシスターに譲らなかったのか、仕事を放り出して行ったために他の尼僧の負担が増えることになって謙譲の心に欠けているということになるんですよね。
で、このシーンは前日にリハーサルをしていたのに、本番当日になると河の水位が2mも下がってしまって、仕込んでおいたリフトやセメントが丸見えになってしまって結局撮影されなかった、とジンネマン監督の自伝に書いてありました。
ということで、この大雨の写真は前日のリハーサルで撮っていて、宣伝写真というものはリハーサル時に撮影されているんだ、とわかりました。
裏ジャケットのカラー画像も映画そのままのキャプチャーですが、ここでは岡原教郎さんという方が解説を書いておられます。
「ジンネマンは修道院での儀式の模様を遠近感のある縦の構図で丁寧に描く。修道院内部のセットも重厚な素晴らしいもので、撮影効果を十分に満足させている。」
「ヘップバーンが苦悩し、次第にやつれていく演技は、これまでの作品とは違う『暗』の分野への挑戦であり、その意気込みが強く感じられる。」
「名匠ジンネマンは抑制された演出で主人公の自己葛藤の緊張感を全編にみなぎらせている。ヘップバーンもまた、内面的苦しみを無表情の中に表現する難しい役作りをよくこなしている。撮影のフランツ・プラナーの色彩感覚は見事。ラストの長回しショットの余韻は映画ファンにはたまらない。」
さらに上述しましたが、ここには4ページの筈見有弘さんのライナーノートなどがありまして、画像はジャケットの内側のものと同じなのが残念です。
筈見さんの解説はチャールズ・ハイアムのオードリー伝記に基づいたものが多く、ハイアムの受け売り的な文章が多いために実はおおっ!と思う部分が少ないのが難点です。
むしろ「この映画が封切られた時、僕はオードリー・ヘップバーンが演じていたから見に行ったのであって、そうでなければ敬遠していただろう」という個人の当時の正直な考えが面白く感じられました。
また映画に対しては「起承転結をはっきりさせた構成により、綿密でオーソドックスな描き方をし、静かな場面を積み重ねていくが、次第にヒロインの心の奥の激しさを観客に感じさせて見事である。」と書いています。
オードリーに対しては「アカデミー賞は逃したが、ニューヨーク批評家協会の演技賞を受けた。それに値するだけの演技である。」と書いてくださってます。
3ページ目には「名せりふ集」があって、現地の男性の問いとシスター・ルークの返答が噛み合わない愉快なシーンのセリフもあれば、生徒は騙せても、自分と神は騙せませんというシスター・ルークが修道院を出る時の重い言葉もあります。
最後のページには「ディテール小事典」というのがあって、俗界と隔てられる「扉」、オードリーがシスター・ルークのモデルとなったマリー=ルイーズ・アベに乗り降りの仕方も聞いた「路面電車」、精神病院での「格闘シーン」、本当の「ハンセン氏病の村」でロケしたことなどが書かれています。
さて、ジャケットの裏側にもストーリーと解説、中にも4pものライナーノートを封入、と至れり尽くせりのこのレーザーディスクですけど、DVDの時代になってからは軽い解説だけ、配信にいたっては今やあらすじがちょこっと書いているだけ、というありさま。
日本は昔から映画パンフレットを作ってたし、テレビの映画劇場でも解説付き、っていうのが普通でしたが、今やそういう文化は無くなりかけていますよね。なんか勿体無いなーと思うのです。
それと「尼僧物語」ですが、海外では大ヒットだったのですが、日本では日比谷映劇の封切りではヒットしましたが、その次に東宝洋画チェーンに流れた時が不名誉な最低新記録を作ってしまい、全体ではオードリー作品としてはワースト3位の、水準ヒットレベルの配給収入で終わってしまっています。
それでも翌年の映画雑誌では、「キネマ旬報」第13位、「映画の友」で執筆者投票第13位(俳優部門は無し。ただし番付で横綱)、読者投票第7位、女優第1位。「スクリーン」では執筆者投票で第11位、女優1位。読者投票で第4位、女優第1位の成績を残しています。
作品としては高く評価されたということですね。
ただ、その後1度もリバイバルが無いのが残念!1966年に名画座で上映されたのを最後に権利が切れ、その後映画館では上映されていません。
ぜひ一度「午前十時の映画祭」で上映してもらいたいものです。