2018年04月17日
さよなら日劇ラストショウ パンフレット
今日は今年の2018年2月4日で閉館になったTOHOシネマズ日劇の “さよなら日劇ラストショウ” というパンフレットの紹介。
日劇は日本劇場(日劇)→TOHOプレックス日劇→TOHOシネマズ日劇 と名を変え、続いてきた映画館でした。
歴史は大変古く、1929年(昭和4年)9月3日に着工、1933年(昭和8年)12月24日開業。
実演と封切りを兼ねた劇場として開場したそうです。
当初は1階席1060人、2階席540人、3階席463人の座席数2063人、定員は2920人だったそうです。
それ以外にも当時は立ち見もありましたから、混んでる時には4000人収容が可能だったそうです!
今では東京ですら1000人収容の映画館は存在しませんから、すごい規模だったんですね!
写真でも当時の劇場の様子が窺えますが、内装も豪華です!
戦争でも消失を免れ、再び実演と映画の封切りを再開。
ただし戦後しばらくして邦画の専門として活躍。洋画は1978年の「スター・ウォーズ」から再開されます。
そんな旧日劇も1981年2月15日で閉館。建て替えが行われ、有楽町マリオンが生まれます。
1984年10月6日に日本劇場(1008席)、日劇東宝(708席)、日劇プラザ(554席)として開場。
同年11月11日にオードリーともゆかりの深い「有楽座」と「日比谷映劇」という東宝のチェーンマスターの大劇場2館が閉館になり、東宝のチェーンマスター機能を担うようになったそうです。
この時期の大ヒットでは「タイタニック」や「ジュラシック・パーク」がなどがあるそうです。
特に「タイタニック」は日本劇場→日劇プラザ→日本劇場(再)と劇場を変えながら50週ものロングランだったとのこと。
2002年に1カ月かけて改装、日劇PLEXとして3月2日に日劇1(946席)、日劇2(667席)、日劇3(523席)にリニューアル。
2004年には全席指定に、2006年にはシネコン的な編成になったそうです。
2009年2月17日には最後のTOHOシネマズ日劇に改称。サービスがTOHOシネマズと統一化されたそうです。
さて、長々と日本劇場の歴史を書いてきましたけど、この日本劇場とオードリーとの接点があったのは1回だけ!
1990年公開のオードリー映画の遺作「オールウェイズ」!
もちろんチェーンマスターの映画館での封切りなので、同時期公開の作品の中では最も期待されていたのでしょう。
神戸でも1番の劇場だった阪急会館で公開されています。
公開日は1990年4月6日から5月11日まで。5週上映していますから、まあそこそこヒットはしたのでしょうね。
(この当時は4週くらいが普通。それ以下だとヒットしていなくて、それ以上だとヒット。)
「オールウェイズ」公開時のパンフレットには“日本劇場”と館名入りのパンフレットが存在します。
あと、1986年には日劇プラザ(日劇3)でオードリーにオファーが行った「愛と哀しみの果て」も上映されています。
「愛と哀しみの果て」は「華麗なる相続人」と同時期にオードリーにオファーが行ったのですが、オードリーのエージェントカート・フリングスが“オードリーを馬鹿げた冒険映画なんかに出演させられるか!”ということでオードリーの意向を無視して蹴ってしまった映画。
プロデューサーはオードリーに直接会っていて、オードリー自身はぜひやりたい!と言っていたようで、そのプロデューサーに「尼僧物語」のフレッド・ジンネマン監督に会いに行くように勧めています。
そこまでトントン拍子で、最後にカート・フリングスに会いに行って全てが駄目になったそうです。
「愛と哀しみの果て」と「愛と喝采の日々」はオードリーが出なかった後期のオファーの中では本当に残念な2大傑作。
これらに出ていれば、後期のオードリー映画ももっと高く評価されていたと思います。
今では「暗くなるまで待って」の後はユニセフの話になることが多いですもんね。
そして箱(劇場)自体は「オールウェイズ」よりも小さな日劇プラザですが、「愛と哀しみの果て」は3月8日〜7月4日まで4か月のロングランになっています。
この当時はまだシネコン的な運営ではなく、一日中同じ作品を上映していたので、4か月は相当なヒットだったとわかります。
「愛と哀しみの果て」はアカデミー作品賞などの賞を30個も取っていますし、他にもノミネートが27個あります(日本アカデミー賞も)。
その中にはアカデミー主演女優賞やゴールデングローブ賞の主演女優賞のノミネートも含まれています。
本当にオードリーが主演していれば…と思います。残念ですね。
TOHOシネマズ日比谷と入れ替わりに閉館となったのですが、チェーンマスターもそちらに移行したのでしょうね。
日劇はスロープが緩かったみたいなので、もしかしたら前の人の頭で見えにくかったかも…と思います。
日劇は日本劇場(日劇)→TOHOプレックス日劇→TOHOシネマズ日劇 と名を変え、続いてきた映画館でした。
歴史は大変古く、1929年(昭和4年)9月3日に着工、1933年(昭和8年)12月24日開業。
実演と封切りを兼ねた劇場として開場したそうです。
当初は1階席1060人、2階席540人、3階席463人の座席数2063人、定員は2920人だったそうです。
それ以外にも当時は立ち見もありましたから、混んでる時には4000人収容が可能だったそうです!
今では東京ですら1000人収容の映画館は存在しませんから、すごい規模だったんですね!
写真でも当時の劇場の様子が窺えますが、内装も豪華です!
戦争でも消失を免れ、再び実演と映画の封切りを再開。
ただし戦後しばらくして邦画の専門として活躍。洋画は1978年の「スター・ウォーズ」から再開されます。
そんな旧日劇も1981年2月15日で閉館。建て替えが行われ、有楽町マリオンが生まれます。
1984年10月6日に日本劇場(1008席)、日劇東宝(708席)、日劇プラザ(554席)として開場。
同年11月11日にオードリーともゆかりの深い「有楽座」と「日比谷映劇」という東宝のチェーンマスターの大劇場2館が閉館になり、東宝のチェーンマスター機能を担うようになったそうです。
この時期の大ヒットでは「タイタニック」や「ジュラシック・パーク」がなどがあるそうです。
特に「タイタニック」は日本劇場→日劇プラザ→日本劇場(再)と劇場を変えながら50週ものロングランだったとのこと。
2002年に1カ月かけて改装、日劇PLEXとして3月2日に日劇1(946席)、日劇2(667席)、日劇3(523席)にリニューアル。
2004年には全席指定に、2006年にはシネコン的な編成になったそうです。
2009年2月17日には最後のTOHOシネマズ日劇に改称。サービスがTOHOシネマズと統一化されたそうです。
さて、長々と日本劇場の歴史を書いてきましたけど、この日本劇場とオードリーとの接点があったのは1回だけ!
1990年公開のオードリー映画の遺作「オールウェイズ」!
もちろんチェーンマスターの映画館での封切りなので、同時期公開の作品の中では最も期待されていたのでしょう。
神戸でも1番の劇場だった阪急会館で公開されています。
公開日は1990年4月6日から5月11日まで。5週上映していますから、まあそこそこヒットはしたのでしょうね。
(この当時は4週くらいが普通。それ以下だとヒットしていなくて、それ以上だとヒット。)
「オールウェイズ」公開時のパンフレットには“日本劇場”と館名入りのパンフレットが存在します。
あと、1986年には日劇プラザ(日劇3)でオードリーにオファーが行った「愛と哀しみの果て」も上映されています。
「愛と哀しみの果て」は「華麗なる相続人」と同時期にオードリーにオファーが行ったのですが、オードリーのエージェントカート・フリングスが“オードリーを馬鹿げた冒険映画なんかに出演させられるか!”ということでオードリーの意向を無視して蹴ってしまった映画。
プロデューサーはオードリーに直接会っていて、オードリー自身はぜひやりたい!と言っていたようで、そのプロデューサーに「尼僧物語」のフレッド・ジンネマン監督に会いに行くように勧めています。
そこまでトントン拍子で、最後にカート・フリングスに会いに行って全てが駄目になったそうです。
「愛と哀しみの果て」と「愛と喝采の日々」はオードリーが出なかった後期のオファーの中では本当に残念な2大傑作。
これらに出ていれば、後期のオードリー映画ももっと高く評価されていたと思います。
今では「暗くなるまで待って」の後はユニセフの話になることが多いですもんね。
そして箱(劇場)自体は「オールウェイズ」よりも小さな日劇プラザですが、「愛と哀しみの果て」は3月8日〜7月4日まで4か月のロングランになっています。
この当時はまだシネコン的な運営ではなく、一日中同じ作品を上映していたので、4か月は相当なヒットだったとわかります。
「愛と哀しみの果て」はアカデミー作品賞などの賞を30個も取っていますし、他にもノミネートが27個あります(日本アカデミー賞も)。
その中にはアカデミー主演女優賞やゴールデングローブ賞の主演女優賞のノミネートも含まれています。
本当にオードリーが主演していれば…と思います。残念ですね。
TOHOシネマズ日比谷と入れ替わりに閉館となったのですが、チェーンマスターもそちらに移行したのでしょうね。
日劇はスロープが緩かったみたいなので、もしかしたら前の人の頭で見えにくかったかも…と思います。