2022年09月13日

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 今回は今は亡き集英社の雑誌「ロードショー」の1973年9月号の紹介。

 表紙はカトリーヌ・ドヌーブ、なんですけどこの写真は良くない。考えされ尽くしたライティングではなく、フラッシュ一発みたいな撮り方。
 花の影がドヌーブの顔にかかってるし、ドヌーブの顔がテカってますやん!

 この当時、綺麗な表紙に定評のある「ロードショー」ですけど、この表紙はまるで「スクリーン」みたいというか、なんかオシャレじゃないです。素人さんが撮ったような画像を採用してますね。
 どしたん?「ロードショー」。

 さて、この「ロードショー」の最初のオードリーは、カラーグラビア。
 当時引退中で新作のないオードリーですから、出てくる画像は昔のか、パパラッチが撮った近況のかのどっちか。

 この号では1967年4月10日の第39回アカデミー賞でプレゼンターを務めたときのオードリーの画像ですね。
 実際にプレゼンターをする時には、このサテンのシルバーブルーのコートは脱いでいます。下はイエローグリーンのワンショルダーのドレスでした。

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 1967年の4月というと、オードリーは「暗くなるまで待って」の撮影中じゃないかなーと思います。普段はヨーロッパにいるオードリーですけど、撮影所にいるならハリウッドに居ますから、出席しやすかったんでしょうね。

 そしてオードリーが発表したのは最も栄えある、最優秀作品賞!
 封筒を開いた時、自分の「尼僧物語」で監督だったフレッド・ジンネマンが製作者だった「わが命尽きるとも」(監督もジンネマン)だったのを見たオードリーは、天を仰いですっごく感慨深げでしたね。

 オードリーに呼ばれて壇上に上がって来たフレッド・ジンネマンは、監督賞も獲っていたので、作品賞の時は“サンキュー、ベリーマッチ”だけで済ませて、オードリーと共に下がっていきましたね、

 この時の映像は僕が持っているのは発表の時のだけ(しかも映像が汚い)だったのですが、今やYouTubeで綺麗なものが見れます。こちら

 オードリーとジンネマン監督は「戦争と平和」「尼僧物語」「ハワイ」で組む予定がありましたが、「戦争と平和」ではディノ・デ・ラウレンティスに先を越され、「ハワイ」はオードリーが「マイ・フェア・レディ」に出ることで降りてしまいました。
 なので、結局組めたのは「尼僧物語」1本だけだったんですよね。

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 さて、この写真は残念ながらオードリーの嫌いな右からの写真。なので、オードリーの鼻がちょっと魔女っぽく写ってます。
 キャプションでは「今や神話のなかの女優になりつつある。あるいはヘップバーンにとってはこのまま映画界を引退したほうがよいのではなかろうか。不滅の女優として生き続けるためには…。」とちょっと失礼なのが書いてあります。

 これって永遠の妖精でいるためには、若い頃のイメージだけを大事にして、老いた姿は見せないほうがいいよ。といういかにも昔的な価値観で書かれていますね。

 現実ではオードリーは「ロビンとマリアン」で復帰しますし、晩年はユニセフの活動に身を投じたことで逆に全世界で伝説となりましたよね。

 まあでも今でも若いオードリーだけがグッズになったり、ネットに50年代後半以降は老けたと書いてる連中が湧いているところをみると、今の自称オードリーファンも昭和時代のおっさんも、中身はおんなじということですかね。

 むしろ70年代はこうして60年代のレアなカラー写真を載せてくれるし、ファンもそれを許容していたということは今よりマシだったんかなーと思います。

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 その次のオードリーは、1年に1回の人気投票とは別に、「ロードショー」が毎月やってた人気投票。この号ではオードリーは966票のナタリー・ドロンに次いで929票で第2位。第3位のオリビア・ハッセーが717票ですから、ナタリーとオードリーが頭一つ抜けてますね。画像は「パリで一緒に」のものが使われています。

 ナタリー・ドロンはこの時期「スクリーン」でも人気がありましたが、批評家さんとかが首を傾げてましたね。これという作品もないのに(「個人教授」くらい?)人気があると。

 まあ「ロードショー」の人気投票は、後からみると、なんでこんな人が??ってなことが多かったです。その点は「スクリーン」の方がちゃんと時代を映してたかなーという気がします。
 まあでも90年代とかは映画よりもアイドル的人気だった人が上位に入ってましたよね。

 男優では第3位にエルヴィス・プレスリーが入っているのが意外!えっ、プレスリーの全盛期は50年代後半〜60年代はじめでは??という感じです。
 少なくとも、70年代後半にオードリーファンになった僕の感覚では“過去の人”って感じでした。

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 さて、この号の(僕にとっての)メインは、綴じ込みになっている “ワーナー映画の50年”ってところ。1973年でワーナー映画が出来てからちょうど50年だったんですね。さらにそこからほぼ50年経った今もワーナー・ブラザースとして残っているのが素晴らしいですよね。

 さて、そこではワーナー映画の歴史などが語られてるんですが、映画評論家の座談会で、品田雄吉さんが“ワーナーで戦後一番ヒットした作品はなんですか?”と問うと、佐藤正二さんという人が “やっぱり「エデンの東」じゃないですか?それに「マイ・フェア・レディ」。この2本でしょうね。”と答えています。が、実際には「マイ・フェア・レディ」がダントツですね。

 その後のページでは “戦後ワーナー映画ヒット作品のすべて”というページがあり、そこで日本でのヒット映画のベスト20が載っているのですが、73年当時でも「マイ・フェア・レディ」が7億2500万円で、2位のバルジ大作戦の5億1900万円を大きく引き離して1位になっています!
 そして「暗くなるまで待って」は2億6300万円で11位だそうです。

 …と、「マイ・フェア・レディ」ってすごいよねーってのが、僕が今回この「ロードショー」を取り上げようと思ったきっかけだったのですが、2位以下をじっくり見てあれれ???

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 3位「ブリット」、4位「グレート・レース」、5位「エデンの東」、6位「シャイアン」、7位「ジャイアンツ」まではまあ納得なんですが、8位「地獄へ突込め」で、え?っと思い、9位「攻撃目標零」であれ?、こうなるともう12位「肉弾戦車隊」、13位「総攻撃」、15位「深紅の盗賊」(本当は「真紅の盗賊」)、17位「グリーン・ベレー」と来たら、もう確信に変わりました!これは絶対正しくない!と。

 だって「地獄へ突込め」「攻撃目標零」「肉弾戦車隊」「総攻撃」「真紅の盗賊」って誰が知ってます??
 実際公開年の配給収入を調べても、ヒット作のベスト10にも入ってないんですよ!当時は1億を超えると大ヒットだった時代に、初公開時1億も行けてない作品が2億超えなんてありえないでしょーっ!!

 「真紅の盗賊」なんて1953年の公開ですよ!それで2億超えてたら、「ローマの休日」に匹敵する超特大ヒットじゃないですか!それでベスト10入らないとか有り得ない!
 「地獄へ突込め」「攻撃目標零」も大ヒットの「暗くなるまで待って」超えなんてないない!

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 リバイバルの分が入ってるかも?でも初公開時にヒットしてない作品はリバイバルなんてしませんし。
 万が一リバイバルがあっても、当時だとそこで2億超えだと、リバイバルでその年のヒット作ベスト10に入るわい!
 当時で2億越えだと、「風と共に去りぬ」のリバイバルに匹敵するくらいの特大ヒット。これまたありえません。

 それに73年だと「マイ・フェア・レディ」と「暗くなるまで待って」もそれぞれ69年と71年にリバイバル済み。どうみてもオードリー作品にはリバイバル分が計上されてませんしね。

 「マイ・フェア・レディ」なんて、初公開時のキネマ旬報の配給収入の数字より減ってるって…。

 というわけで、「マイ・フェア・レディ」がワーナー映画のトップというのは揺るがないでしょうが、他のデータは多分に眉唾物。全く信じられません。
 本当なら「暗くなるまで待って」も5〜7位くらいのはずです。

 「地獄へ突込め」「攻撃目標零」「肉弾戦車隊」「総攻撃」という聞いたことのない戦争物ばっかり上げ底が入ってる所に、ランキング資料を作った人間の意図が見えますね。

 さて、ここまでワーナー映画のトップを守ってきた「マイ・フェア・レディ」ですが、1973年というと世界で “石油ショック”が始まる年ですね。
 10月に始まった石油ショックは瞬く間に日本でも広がり、トイレットペーパーの買い占めなんかが起こりました。日本の高度成長期はここで終了したそうです。

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 物価も急激に上がり、映画の入場料も変わってしまったと思うのですが、それまでは配給収入が3億だと特大ヒットで、10億超えは全洋画で3本くらいしかなかったのに、翌1974年には「エクソシスト」という文字通りお化け作品がワーナー映画に出て、配給収入が27億超えという今までの最高の倍以上という桁外れのものになります。同じ74年の2位にもワーナーの「燃えよドラゴン」の16億超えが入り、「マイ・フェア・レディ」は3位に後退します。

 物価上昇が止まらない1975年には「タワーリング・インフェルノ」が出て、36億超えというさらに上をいくワーナー映画が出たので、やがて「マイ・フェア・レディ」も徐々に下がっていくんですけどね。

 そして「マイ・フェア・レディ」はその後71年には元々の契約で全権利が歌の権利を持つCBS(CBS/FOX)に移ったりしましたし、DVD時代には古巣のワーナーに戻ったと思ったら、ブルーレイで今度はパラマウントに移ったりと、今やワーナー映画と呼んでいいものかどうかもわからなくなってきましたけどね。

 この石油ショックまでは多少の不景気はあれど、日本はずっと成長を続けてて、映画音楽のレコードなんかでもレコードは1枚だけなのに、分厚い見開きジャケットに何ページにもわたる豪華解説なんかが付いてたりしてたんですけど、石油ショックでピタリとなくなりました。

 この号でも、表3(裏表紙の裏)で集英社がビクター系のRCAやフィリップスなんかと組んだ映画音楽全集のレコードを出しているんですけど、32ページ(うちフルカラー8ページ)もの解説のついた、レコードよりも上下のさらに大きいジャケットで出してます。そこにオードリーのジャケットのもあります。
 日本の将来に夢があった時代ですね。

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 あとこの号で目につくのはアラン・ドロンのページがめっちゃ多いなーっていうのと、カトリーヌ・ドヌーブがそれに次いで多いなーってこと。
 「ロードショー」ってちょっと偏りすぎ?と思います。やがて「ロードショー」は平然とアラン・ドロンに偏った特集号の「ロードショー増刊JOY」ってのを作っていくんですけどね。

 他にもオードリーの「戦争と平和」や、「太陽がいっぱい」「ゴッド・ファーザー」「ロミオとジュリエット」などを作曲したニーノ・ロータが日本のキング・レコードの申し入れで自作の演奏をすることになった「ニーノ・ロータ・プレイズ・ニーノ・ロータ」が発売されることや、RCAからわざわざ日本に来日してマーロン・ブランドの映画音楽をオリジナルの楽譜を探し出してきて日本で録音することなどが載っており、当時の日本って勢いがあったんやなーと思います。

 最後の奥付のページでロードショーの劇場巡りってコーナーがあって、今回が初?なのか1と書いてあって、日比谷映画劇場が載っています。
 オードリーでは「ローマの休日」「麗しのサブリナ」「尼僧物語」がロードショーされた劇場ですね。

 定員は1370人、開場は昭和9年(1934年)2月1日、1日の入場者数の最高記録は1965年「007/ゴールドフィンガー」の13364人だそうです。
 「ローマの休日」の動員数もすごかったみたいですけど、007が超えたんでしょうね。

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 でも「007/ゴールドフィンガー」って上映時間が2時間弱ですから、休憩を入れて2時間として、1日6回上映だとすると、1回の上映で2000人超えの人数が入ったことになりますよね。定員が1370人ですから、後ろに立ったままで見る立ち見や、客席の間の通路にまで座って見ている人も物凄い人数がいたことになりますね!レイトショーの7回上映だったとしてもやっぱり2000人弱で、状況は大して変わりません。

 昔は座席指定も(ごく一部の席を除いて)無かったし、入れ替え制でも無かったので、ヒット作品は本当に席の取り合いだったんだろうなーと思います。
 僕も昔の映画館は入れ替え制じゃなかったので、30分前には到着して早めに上映中の劇場に入り、虎視眈々と席を狙っていたものです。

 80年代後半からのオードリー映画の怒涛のリバイバルでは、上映が終わるまで館内だけど上映中の劇場の外で待たされて、列を作って並んでいましたね。そして入場OKになったらわーって入って席を取ってました。

「ロードショー」1973年9月号 ワーナー映画50年 ちなみに僕が狙ってたのは劇場のど真ん中の席が多かったですかねー。劇場って、やっぱり真ん中の席が1番見易く、音響も良いように設計されているようなので。

 昔の映画館って、前の席と段差があまりなく、座席も見易いように交互にすらなってないこともザラにあったので、そういう時は前の席と離れてる通路のすぐ後ろが良かったですかねー。

 今でも映画館で映画を見るときは、ネットでなるべく真ん中の席を狙います。109シネマズなんかでもエグゼクティブ・シートは真ん中の列に配置されていますもんね。



同じカテゴリー(マイ・フェア・レディ)の記事
 1965年アカデミー賞授賞式 「マイ・フェア・レディ」 (2025-04-05 15:00)
 「マイ・フェア・レディ」1995年リバイバルと「スクリーン」1995年4月号 (2025-03-31 12:00)
 オードリーから「映画の友」へのサイン (2024-12-24 10:00)
 「マイ・フェア・レディ」1969年リバイバル55周年 「スクリーン」1970年1月号 (2024-12-13 12:00)
 日本初公開60周年記念 映画の友「マイ・フェア・レディ」誌上プレビュー (2024-12-05 18:00)
 「マイ・フェア・レディ」日本初公開60周年記念 公開前日新聞広告 (2024-11-30 16:00)

この記事へのコメント
 ここ数日、何年ぶりかで「マイ・フェア・レディ漬け」でした。

 テレ朝版吹き替えは、私がこの作品にドハマリしたきっかけです。大事に大事にベータのテープを保管してきましたが、スターチャンネルで綺麗な映像が見られて感激です。聴き比べ吹替バトルに感謝。

 私は大劇場で「マイ・フェア・レディ」を見たことがない。でも吹き替えじゃないともの足りないし、今や3時間作品を劇場で座っている体力がないかな。家の大画面テレビで鑑賞する方が満足度高いです。(笑い)
 ps:メールでちょっとしたお知らせをしてあります。
Posted by wimpole at 2022年09月14日 20:51
お邪魔します。

この年のプレスリー復活は、ドキュメンタリー『エルビス・オン・ステージ』(1970、71年日本公開)『エルビス・オン・ツアー』(1972)公開の影響によるものではないかと思われます。
Posted by take at 2022年09月14日 21:47
>wimpoleさん

wimpoleさんなら、「パリで一緒に」や「いつも2人で」のように、「マイ・フェア・レディ」のテレ朝版吹替を新しい映像とひっつけることができると思いますが、スター・チャンネルでやってくれたら、手間が省けますよね!

でも大劇場で「マイ・フェア・レディ」をご覧になったことがないとは知りませんでした!それはそれでまた新しい楽しみ方もあるのでしょうが、吹替に慣れていると、きっと違和感もありますよね。
しかも2015年のリバイバルも、2016年の「午前十時の映画祭7」も、共に黒い縁取りの中に「マイ・フェア・レディ」の画面があるという額縁上映だったので、それはそれでガッカリでした。

メールのおみやげ、ありがとうございました!!
Posted by みつおみつお at 2022年09月15日 00:32
>takeさん

おお!プレスリーの復活は、そのようなちゃんとした理由があったのですね!ありがとうございます!
オードリーが72年の人気投票で1位に返り咲くのが「エクスラン・ヴァリーエ」があったから、みたいな感じなんですね。

そういえば今年プレスリーをもとにした映画が来ましたけど、「ボヘミアン・ラプソディ」ほどの反響はなかったですよね。その差はやっぱり活躍していた時代でしょうか。
やっぱりプレスリーだと、元々のファンはもうかなりなご高齢でしょうからね。
Posted by みつおみつお at 2022年09月15日 00:40
劇場のど真ん中の席狙い
私と同じです。
暗くなるまで待って試写会
妹と二人
椅子の裏に当たり券
シャルルジョルダンの靴貰いました。
妹はスカウトされて働くことに。
Posted by 明智常楽 at 2022年09月15日 06:32
「暗くなるまで待って」の試写会!
羨ましいですねー!しかもその上当たりとか!
どれだけ明智常楽さん、持ってるんですか!いいな〜。
試写会の招待状はもう残ってないのですか?
妹さんもスカウトって劇的ですよね。
Posted by みつおみつお at 2022年09月15日 17:28
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。