2018年10月27日

「パリの恋人」初紹介!“映画の友”1956年7月号

 “おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!” の方に、“98.オードリーに関するデマ その9:オードリーは太っていた?” の記事をアップしています。
 これはオードリーのドキュメンタリーなどで、オードリーがニューヨークに渡ってきたときに太っていた、ということについての検証です。

 さらに、31日には “99.オードリーは細いなりに、太ったり痩せたりしていた” という記事をアップします。

 さらにさらにまもなく“おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!” では100個目の文章になるのと、今年の年末年始に “午前十時の映画祭9” でリバイバルされる「パリの恋人」に合わせて、知り合いの方に昔お借りしていた “みつおとオードリーのお話” というサイトで2004年に公開して以降、そのサイト終了と共に(文章がヒドイので)今までお蔵入りにしていた「パリの恋人」関連の45.46.47の文章を11月〜12月にかけて14年ぶりにアップします。

 それらの45・46の文章は、一部、のちの “72.「パリの恋人」の謎” で転用してしまっている、ということもあって、お蔵入りにしていました。
 それに47のお話は本当に赤面しちゃうくらい酷い!僕の友人のカリンさんのカリン劇場のようにしようと思ったのですが、カリンさんのようにはウィットが全く出なくって…。なんせヒドイです!できればスルーしてください。(;><;)

 でもこれを発表することによって、本当に“おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!” で99個の記事を発表したことになるので、100個に向けてと「パリの恋人」リバイバルのタイミングでアップすることにしました。

「パリの恋人」初紹介!“映画の友”1956年7月号 さて今日はそんな年末年始にリバイバルされる「パリの恋人」に合わせて、雑誌 “映画の友” 誌で「パリの恋人」が初めて紹介された1956年7月号を紹介!

 この号は表紙も「パリの恋人」のオードリーになってます。
 今見ると着色カラーのようですが、れっきとした本当のカラー。この当時はまだ印刷技術がこんな感じだったんですね。

 「パリの恋人」はアメリカでは1957年2月、日本では1957年9月に初公開されています。日本ではさらに1966年、1986年、2013年に正式リバイバルされており、今年で5回目の公開になります(他にも1997年にも大々的に再映)。

 1957年公開ということで、オードリー28才なんて書いてる文章がありますが、米国では2月のオードリーの誕生日前の公開なので、少なくとも27才であることはおわかりいただけるかと思います。

 そして実際には「パリの恋人」は1956年4月に撮影開始されていますので、撮影時のオードリーの年齢は26〜27才ということになります。

 でも56年4月に撮影開始したばかりなのに、56年の7月号(5月21日発行)でもう撮影の様子が載るなんて、すごい早い速報ですよね。
 まだ邦題も決まっておらず、「ファニイ・フェイス」として紹介。

 でもこの「パリの恋人」の邦題は「ファニー・フェイス」のままで良かったんじゃないかなー。「パリの恋人」ってあまりにもインパクトなさすぎです。
 実際、“ファニー・フェイス” は1957年の流行語にもなったようですしね。

 後年この題名のせいで「パリで一緒に」と混同されるし、「パリの恋人」にとっても「パリで一緒に」にとっても残念なことになってます。
 しかもこれがまたどちらもパラマウント作品なんですから、当時のパラマウント日本支社のセンスのなさが…。

 そういえばジュリー・アンドリュースの音楽映画で、原題「ダーリング・リリー」が邦題「暁の出撃」になってるのも一体誰得??と公開当時叩かれてましたが、それもパラマウント。東京でのロードショーの成績が散々だったので、地方では「愛しのリリー(小さく『暁の出撃』と添えられた)」とされたところもあったみたいですね(まあ「愛しのリリー」もかなりアレですが…)。

「パリの恋人」初紹介!“映画の友”1956年7月号 「パリの恋人」は「おしゃれ泥棒」とは逆で、邦題の大失敗作(オードリーの邦題では最大の失敗作)だと思ってます。
 作品は傑作なので、なおのこともったいない!です。まあもう慣れましたけど…。

 この号ではハリウッドで撮影が開始された、とあります。なんとなくパリのブローニュ撮影所で撮られたのかと思っていたので、ちょっとビックリ!
 しかも撮っているシーンはというと、パリでオードリー演じるジョーが滞在しているアパートのシーンですしね。

 じゃあ撮影はハリウッドとニューヨークロケとパリロケ?それは大変!とも思いましたが、よく考えたらニューヨークのロケシーンは別にニューヨークで撮らなくても良さそうな場面なので、これもロサンゼルスのどこかで撮ったのかも…。

 撮影が開始されたばかりなので、詳細な内容は入ってないとしながらも、大雑把なストーリーが書いてあるのですが…

 “アステアがオードリーを発見してモデルに使いたいと熱心にそのあとをつけまわす。そしてオードリーを追ってパリまで行き、とうとう宿望を果たすがついに恋愛にまで発展してしまう。”

 …ってそれってストーカーじゃんかよーっっっ!

 左上の撮影中のスナップですが、ビスタビジョンのテクニカラーのカメラのデカイこと!
 まあテクニカラーというのは赤・青・緑用の3本のフィルムを同時に回して撮影していたわけですから、これくらいデカくもなりますよね。

 これを見ると、「ローマの休日」がカラーで撮りたかったけれども、ウィリアム・ワイラー監督が断念した、という理由もわかります。
 このデカイ機材を野次馬がいっぱいのローマロケでは使えないよね〜と思ってしまいました。

「パリの恋人」初紹介!“映画の友”1956年7月号 他にはこの号でのオードリーはあとは「アリアーヌ(後の昼下りの情事)」が8月に撮影開始、という記事のみ。
 でもここではシネマスコープで撮影されるって書いてあります。実際には35mmで撮影されてますけどね。

 でもこの号で1番ページが割かれているのはなんといってもグレース・ケリー。
 4月18日・19日にモナコで行われたレーニエ大公との結婚式の様子、それと6月に公開される「白鳥」の紹介と広告、さらにはモノクログラビア2ページとで全15pもグレース・ケリーのページになっています。

 ちなみに「白鳥」はグレース・ケリーの役が皇太子と結婚するという、まるで本当のレーニエ公との結婚を真似たかのような内容。
 でももちろんそんなことはなくて、単なる偶然。

 それと、オードリーとグレースは同時期に活躍したかのように今となっては思われてしまいますが、実は活躍時期は微妙に被ってません。

 オードリーがバーンと「ローマの休日」でアメリカに出てきた1953年はグレース・ケリーは「モガンボ」でまだ脇役。
 1954年5月にやっとグレースが「ダイヤルMを廻せ!」で注目されて、8月に「裏窓」で人気スターに躍り出た頃オードリーは9月に「麗しのサブリナ」が出て、重なってるとすれば唯一ここくらい。

「パリの恋人」初紹介!“映画の友”1956年7月号 日本では全く被ってなくて、54年4月に「ローマの休日」、9月に「麗しのサブリナ」で一大ブーム。
 ところがそのあとメル・ファーラーとの結婚で2年以上新作無し。

 その間にグレースは54年10月に日本で「ダイヤルMを廻せ!」が出て、「裏窓」「喝采」「泥棒成金」など次々と公開されるのが1955年。
 そして56年6月に「白鳥」、10月に「上流社会」が公開されたあとは引退。
 そしてそのあと12月にオードリーの「戦争と平和」がやってきます。

 人気投票でもそれは現れていて、54年度公開作品が対象になる1955年の人気投票では(1月21日発売の3月号で投票、3月21日発売の5月号で発表)、「スクリーン」では1位オードリー、2位グレース。「映画の友」では1位グレース、5位オードリー。と拮抗しています。

 ところが翌年の56年の人気投票では両誌とも1位はグレースで、オードリーは「スクリーン」16位「映画の友」15位。
 逆に57年はオードリーが両誌で6位と上げてきてるのに、グレースは「スクリーン」で11位以下、「映画の友」でも18位となっています。
 さらに翌年からはオードリーの独走体制に入ります。

「パリの恋人」初紹介!“映画の友”1956年7月号 当時の映画雑誌でもオードリーがお休みの間にグレース・ケリーが出てきて、グレースが引退するとオードリーは「パリの恋人」「昼下りの情事」でまた話題の中心に!ということが書かれています。

 まあ二人とも気品の高さでは最高級。どちらも清純派で(本当のグレースは違うという説も…)、違いがあるのはグレースにはクールな色気があって、オードリーには無いというところ。

 清廉な50年代のファンには二人ともが憧れの対象だったのでしょう。

 他には当時2本の日本ロケ作品が撮影されており、日仏合作の「忘れえぬ慕情」とマーロン・ブランドが日本人風メイク(目と眉の間を広くする)で沖縄人サキニを演じた「八月十五夜の茶屋」が大きく取り上げられています。

 「八月十五夜の茶屋」は今では白人のブランドが日本人を演じたとして一部の人からホワイトウォッシュの作品として言われたりしますけど…。
 今頃になって60年以上も前の作品をあれこれ言うのってどうなんでしょうね。

 読者投稿欄はまだジェームス・ディーンファンが圧倒的。今となっては30代までの人はジェームス・ディーンを知らない人の方が圧倒的かもしれませんね。



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この記事へのコメント
「パリの恋人」は、ハリウッドで撮影されていたんですね。
僕もてっきりパリの撮影所だと思っていました。
後年のドーネン作品は製作も自分でやってるのでちょっと違うのかな。
スタンリー・ドーネン・プロダクションって確かロンドンが拠点でしたよね。
ん?ということは・・・
「シャレード」や「いつも2人で」ってロケ以外はロンドン郊外のパインウッド撮影所なのかなぁ??
007と同じですよね。
そういえば二度死ぬ('67)の頃に、浜美枝さんが撮影所でオードリィを見かけたとか何かで書いてあったなぁ・・・・
時期的には「いつも2人で」とかぶりますね。
でも2作品ともスタッフにフランス人が多くて云々とかあったので、
(ドーネンはフランス語が話せないので、オードリィが通訳していた)
ブローニュで撮影して、最終製作のみイギリスでとかいうのかも・・・
それなのにアメリカ映画っていうのが面白いですね(「シャレード」は)

昔っから疑問に感じていたんですが、
「いつも2人で」って日本ではわりとアメリカ映画扱いだったりするのに、
アメリカではイギリス映扱いをよく見かけますよね、あれ何なのでしょうね?
もしくはイギリス・アメリカ映画という表記もあります。
映画の国籍って何をもって決めてるのか・・・
たぶん資本の出どころなんでしょうけど、
製作も兼ねたドーネンプロがイギリス籍というのも一因なんでしょうかね?
じゃぁ「シャレード」や「アラベスク」はなんで完全にアメリカ映画扱いで、
「いつも2人で」はイギリスなんだろうと・・・
67年頃にプロダクションが英国登記がなされたとか?
もっとも「いつも2人で」は映画の内容がヨーロッパっぽいというか、
ハリウッド映画って感じはしませんので違和感はさほどありませんが。
オードリィ作品では、「ロビンとマリアン」もイギリス映画扱いで見かけますね。
まぁこちらはもっと分かる気がします。

パリ恋は、確かに「ファニー・フェイス」のままでいってほしかったですね~
英語の原題をそのままカタカナ表記でつけたダッサイタイトルが多い中、
この映画に関しては現代のようにそのままがよかった・・・つくづく残念。
リバイバル時にも結局変えてもらえませんしね。
公開時、おそらくオードリィにおかしな顔とは何事か!と考えたんでしょう。
洒落の分からない方々だァ~もぉ ┐(´~`;)┌
Posted by まる at 2018年11月08日 23:35
まるさーん、僕もハリウッドとは意外でした!
でもこうして撮影当時の情報がわかると、知らなかったことが見えてきますね。
オードリーの場合、順撮りとは言ってもやっぱりセットとロケの問題で完全に順撮りにはできないですよね。

「いつも2人で」の問題ですが、公開当時の記事で撮影の拠点はブローニュ撮影所だと書いてあったので、多分セットはそちらだと思います。
ロンドンは最初のシーン(英国のエアフェリーの部分)のためにちょっとだけ居たんじゃないでしょうか。

それと、「いつも2人で」が英国映画という扱いですが、これは僕は全く信用していません。せいぜい米=英 映画というところでしょうね。
おそらく資本はアメリカの20世紀フォックスでしょうし、IMDbを見ても公開はアメリカの方がイギリスより先です。
本当にイギリス映画なら、初公開はロンドンからのはずでしょうし。
日本公開より遅い英国プレミアなんて、絶対にイギリス映画じゃないでしょうね。

「ロビンとマリアン」もですか?あれは完全にアメリカ映画だと思ってました。公開もアメリカが英国より2ヶ月も先行してるみたいですよ。

「パリの恋人」の題名は本当に残念ですね。「パリで一緒に」や「いつも2人で」みたいに日本題名に困るような原題でもなかったのに、一番いい名前が原題に有ったのに、みすみす見逃したというか何というか…。

まだ当時のパラマウントの題名を決める部署のトップが戦前の感覚だったのかなーと思います。
かろうじて “巴里” とせずに “パリ” としたところが努力の跡という感じですかね?
わずか6年前の映画はまだ「巴里のアメリカ人」という題名で公開されていますしね。

英語の原題をそのまま…そういうのはダラダラと長くなりすぎたりで、結局印象に残りませんよね。
ディカプリオの「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」とか、カタカナ表記やとなんて長いねん!とか思ってました。
見に行ったはずなのに、今回久々に思い出したくらいで、普段はすっかり忘れ去られています。

流石に「おかしな顔」という題名にはできないでしょうけど、当時はカタカナでそのまま日本題名に、という発想があまりなかったのかもしれませんね。英語に馴染みがないでしょうし。
でも結局流行語になってますけどね。(^_^;)
Posted by みつおみつお at 2018年11月09日 22:46
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