2023年08月25日
「戦争と平和」リバイバル50周年 「ロードショー」1973年10月号
本日より「ローマの休日」4Kレストア版が全国の映画館でリバイバル公開されています!
映画パンフレットもあるので、ぜひ皆さん劇場で買ってみてくださいねー。
はい、今日は「戦争と平和」が1973年8月25日にリバイバルされてからちょうど50年になります。10月26日まで9週も続映したことなんかはこないだの「スクリーン」の1973年10月号で書きましたんで、今回はそのライバル誌、「ロードショー」の1973年10月号(8月21日発売)を紹介。
オードリーが亡くなった時は、表紙以外はマットコート紙になっていた「ロードショー」ですけど、この時はまだグラビアでツルツルのコート紙をたっぷり使ってます。
なので発行から50年経ってる今見てもまだカラーは綺麗。
なんで今、劣化・変色していくマットコート紙がメインで使われているのか、全然わかりません。表面が凸凹した上質紙は論外。
「SCREEN」やオードリーの写真集なんかでもマットコート紙ですもんね。
きっと今発売される本の方が、30年前の本より早く劣化していくと思います。
僕がオードリーの写真集を出すなら、絶対の絶対にコート紙を使いますとも!
さて、表紙はキャサリン・ロス。70年代にとても人気のあった女優さんですね。垂れ目がめっちゃキュートでした。
でも結局代表作って60年代の「卒業」と「明日に向かって撃て!」だったような…。
今回の紹介は「戦争と平和」のリバイバル紹介がメイン…のはずなんですが、実は違うんです!
もっとスゴいオードリーのページがあるんです!
この時期の「ロードショー」は最初に分厚めのコート紙でカラーグラビアが始まって、途中からちょっと薄めのコート紙に変わります。
オードリーはその薄めに変わった最初に、7ページを使って特集されてます。
まずはジバンシィの「ランテルディ」が発売された時の宣伝写真の別ショット。
ジバンシィの宣伝で使われるくらいですから、もちろん衣装もジバンシィなんでしょう。
香水「ランテルディ」は、香りが製作されたのは1957年ですけど、一般に市販されたのは「マイ・フェア・レディ」の頃。
それまではオードリー以外には“禁止(ランテルディ)”された香りだったわけですね。
この写真も62年か63年に撮られたものでしたっけ。62年というと「パリで一緒に」「シャレード」を撮影して、63年は「マイ・フェア・レディ」を撮影してましたね。この写真も「マイ・フェア・レディ」の雰囲気が漂います。
その次も「マイ・フェア・レディ」の頃、その次は「ティファニーで朝食を」の宣伝写真、めくって2ページは「シャレード」「マイ・フェア・レディ」の頃の写真、そして「ティファニーで朝食を」の頃の宣伝写真×2と続きます。
いやー、こんなのやってくれちゃったら、絶対買うでしょーっ!
この時期の「ロードショー」って本当にスゴイ!カラーの印刷も綺麗だしね。
もしこの時期に中学生くらいで映画雑誌を買ってたとしたら、「スクリーン」と「ロードショー」、どっちを買うか毎月悩んでいたと思います。
どっちも捨てがたい!でも中学生くらいのお小遣いでは両方買うのは難しいですしね。
でもオードリーの画像の2枚目と4枚目のは裏焼きですね(赤いノースリーブで手を組んでいるのと、白い帽子のスーツを着ている画像)。
鼻が逆向きになってるし、赤いスーツのはレディースなのに、前ボタンが逆になってるでしょ?
赤いノースリーブの画像は、「カタログ オードリー・ヘプバーン」で正向きで収録されています。
「ティファニーで朝食を」のアップのは、本当にオードリーが嫌いな右側から撮らせています。「ティファニーで朝食を」と「パリで一緒に」の時期だけ、右側からを撮影を許可している画像があるんですよね。なんででしょうね。
でもやっぱりお鼻がこちら側からだと綺麗さが減っちゃいますね。
文章では、“50年代後半から60年代をへて現在まで、最も人気の高いスター女優として生き残っていることは、本当に途方もないこと”だと書かれているのですが、73年当時でこれですから、そこからさらに50年経って、やっぱり最も人気の高い女優なんですからスゴイですよね!
しかも今やそれが日本だけじゃなく、80年代後半にやっとオードリーの凄さを再認識した世界にまで広がって行ってるんですから、完全に唯一無二の大スターになっちゃいましたね。
この号にはサイレント映画時代のスター、バスター・キートンの、「キートンの蒸気船」(1928)、「キートンの鍛冶屋」(1922)のリバイバル紹介も載ってて、それもすっごい古いなーと思うのですが、1973年当時の1922年ですから、まだ50年くらい。
それが今年は70年前の「ローマの休日」をリバイバルなんですから、ホント凄い!
他にはこれもよく言われたことですが、オードリーは街の妖精であるとも書かれています。“「緑の館」のオンディーヌがつまらなかったのは物語の妖精そのものにしたから”と書かれています。
ちょっと役名がこんがらがって間違ってますけど、まあ言いたいことはわかります。
でも僕が思うのは、「緑の館」の失敗って本当に森の妖精にしたからなんでしょうかね?監督の夫メル・ファーラーのせいでは…?
「緑の館」のリーマは “森の妖精のような少女”であって、実際は本当の妖精ではない。
ところが舞台「オンディーヌ」では本当に本物の水の妖精を演じて、その年の舞台で最高の賞のトニー賞を獲ってますよね。
もちろんオードリーのオンディーヌは残されていないので見たことないですけど、妖精役が悪いわけではないのでは?と思うのですよね。
舞台独特の演技と違って、リアルさを求められる映画での妖精という役で、CGや特撮の発達していない50年代で観客に納得させられるのか、という問題はあるのですが(当時舞台で大ヒットだった「オンディーヌ」の映画化に、映画会社が揃って尻込みしたのはまさにこの点だっただろうと思います)、監督が他の巨匠の誰かであったならば、もっと違う結果になったのでは?と思うのですよね。
他にもオードリーが流行らせたもののことが書いてあります。「ローマの休日」から“ヘプバーン・カット”、「麗しのサブリナ」から“サブリナ・シューズ”と“トレアドル・パンツ”、「昼下りの情事」から真ん中分けのボブ・スタイル、「ティファニーで朝食を」では部分的に染めた髪とヘアスタイル、など。
“トレアドル・パンツ”のことは“サブリナ・パンツ”と書かれていませんね。「昼下りの情事」の髪型もページボーイと言われていました。
「ティファニーで朝食を」のような部分染めは今はポイントカラーと言うそうですね。
それと、今では「ローマの休日」が“ヘプバーン・カット”と言われてますけど、「ローマの休日」の公開は日本では1954年4月ですから、もうその時期に出回っているオードリーの写真はというと、「麗しのサブリナ」も撮影は終了してるし、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の間に撮ったポートレート写真も出回ってるわけですね。
だから当時のオードリーの髪型を真似たい女性が切り抜きを持って行くときには、「ローマの休日」、「麗しのサブリナ」、ポートレート写真が混在してたんだろうと思うんです。
なので、当時の“ヘプバーン・カット”が流行ったのは「ローマの休日」からだということは否定はしませんが、髪型は実は世の中に混在していた、と思います。
実際、「ローマの休日」のパンフレットでも表紙の写真はポートレート写真のものがあって、「ローマの休日」の髪型とは違いますしね。
なので、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の間に撮られたポートレート写真は、パラマウントの公式のものでも「ローマの休日」と言われたり、「麗しのサブリナ」になってたりと定まっていません。
それと、オードリーにはラテン的なものが一番縁遠いように思われるのにパリを舞台にした話が多いのは、パリに住んでいる人のパリではなく、映画が作り出した途方もなく美しいパリ、パリ的すぎるパリにピッタリと合っているからでしょうと書かれています。
確かに、他の本で見たんですけど、当時のフランスの女優さんと並ぶとオードリーってフランスの感じがないんですよね。
ところが他のアメリカの女優さんと並ぶと思いっきりヨーロッパ、それもパリ的な感じ。
アメリカ人の見たパリジェンヌ、人間の街の妖精、にハマるオードリーって、なんか作り物っぽい役が似合うのか?と思いますけど、作り物じゃなくて血を通わせ、夢や憧れにしてしまうのがオードリー・マジック。
それにオードリーの役は当時の他の女優さんよりよっぽど自分を持って主張する重要な女性の役ばかりですよね。
同時期に活躍した、金髪で色気のある女性はちょっとおバカって役のマリリン・モンローや、作家 橋本治氏によると「美人は何もしなくてもいい。そこにいてくれるだけで。」を実践してたような役のグレース・ケリーを考えると、それらの当時の男性が考えるステレオタイプのお飾り女性の役に比較すると、オードリーの役の自分から動く女性ってのがいかに当時貴重であったかがわかります。
マリリン・モンローはそんな役ばかりやらされるのがイヤで演劇学校に行って演技を勉強しますし、グレース・ケリーは与えられたお飾りの役を拒否すると会社から給料停止の処分を受けたりしてます。
そんな中オードリーは自分の選んだ役だけを演じてこれた、というのは恵まれてたんですよねー。
だって、当時の脚本家ってほぼ男性ですよ。オードリー作品で女性が脚本を書いたのは「緑の館」くらい。でもそれも原作は男性ですしね。
そんな男に都合のいい女の役がほとんどの時代の中で、男性に媚びることなく対等に付き合う女性を演じられた、というのはオードリーにとって非常に幸運なことだったと思います。
でも、“それってむしろ女尊男卑やん”というような主義主張だけのウザイ女性というわけでもなく、綺麗なカラーで柔らかい素材のドレスも着て、女性としての特権も最大限に楽しんでいる、という女性なんですよね。
今年また「午前十時の映画祭」で上映された「マイ・フェア・レディ」も、見た人の中に“最後、ヒギンズの所に戻って行くのが理解できなかった”って意見もよく見かけましたが、それも映画の中で選び取っているのはイライザの方ですしね。
ヒギンズは結局イライザに選んでもらうまで何もできなかった、ということですし。
なので今の女性が見ても、“何、この役!”って不満に思われない普遍的な役を多く演じてたから、今までずっと愛されてきたってこともあるんじゃないでしょうか。
とまあ、また例によって脱線しましたけど、次のオードリーが「戦争と平和」のグラビア紹介。
当時はレイアウトも同じ月の「スクリーン」より「ロードショー」の方がやっぱりオシャレ。
ここでは「戦争と平和」は9月公開ってなってますが、8月25日から前倒しで公開されたということは、その前に丸の内ピカデリーで公開していた1973年版の「トム・ソーヤーの冒険」っていう70mmのミュージカル映画がコケたんでしょうね。
「ウエスト・サイド物語」「マイ・フェア・レディ」「サウンド・オブ・ミュージック」と70mm大作のミュージカルが特大ヒットしたせいで、柳の下のドジョウ狙いで当時は続々と高予算をかけて70mm大作のミュージカルが製作されました。
が、その後はことごとくコケていってますので、「トム・ソーヤーの冒険」ももう時期的には最後に近い、本当に虚しい一打だったのでしょうね。日本版Wikipediaには単独の映画の項目も無いですし、かろうじて原作の「トム・ソーヤーの冒険」のところに1行記述があるだけです。
そんな中でオードリーの「戦争と平和」は安定して稼げる映画だったのだと思います。
映画のストーリーは後ろの上質紙のページに乗っています。
次のオードリーは、「ロードショー」では年1の人気投票とは別に、毎月やっていた方の人気投票の結果のページ。
今月号のオードリーは先月の2位から上がって1位になっています。2位は先月1位だったナタリー・ドロン。
今月号には映画監督のシリーズで、テレンス・ヤング監督のことも書かれているのですが、それまでは007シリーズや「暗くなるまで待って」などで良作・ヒット作を撮っていたヤング監督で、「暗くなるまで待って」のこともちょこっと書かれています。
で、ここで語られているこれまでの失敗作というのがオードリーの元夫のメル・ファーラーも関わった「うたかたの恋」だそうです。
でもこれ以降のヤング監督は、完成したばかりだという「アマゾネス」から内容的にもひどい作品が多く、ヒットからも遠ざかってしまいましたね。
上質紙のページでは芳賀書店のシネアルバムの宣伝が乗っていますね。ここでオードリーの小さい写真も。
73年だから、まだ発行している巻数は16巻のクリント・イーストウッドまで。9月にヴィヴィアン・リーが刊行予定です。
この号での最後のオードリーは、昭和29年(1954年)の日本での洋画界を語る河上英一さんという方の “懐かしの名画ライブラリー 妖精オードリーを生んだ「ローマの休日」”という文章。
最初に昭和29年に何があったかということで、いいことは全く書かれずに、惨事や大事件が語られています。これだけ読むと、1954年が怖くなりますね。
映画界では入場税が地方税から国税になって、入場料が値下げしたそうです。また、前年(53年)年末に公開された「聖衣」から始まったシネマスコープですが、54年年末には上映できる映画館が全国で30館になったそう。
1954年に公開された洋画は136本だったそうです。
「ローマの休日」に関しては、ウィリアム・ワイラー監督にしては小品だが、ロマンティックな雰囲気の中で人生の哀歓別離が甘く描かれた優れた映画であったとが述べられています。
また「ローマの休日」がケタ違いのヒットを飛ばしたこと、後続作品の都合で38日間しか興行できなかったが、1日平均8568人観客を動員して、断然他の追随を許さなかったことが書かれています(年間第1位ヒット)。
「ローマの休日」は1日6回上映ですから、1回の上映で平均1428人来たことになりますね。上映した日比谷映劇の座席数は1370席ですから、ほぼいつ見に行っても立ち見ありの状態。席は争奪戦です。
気になる後続作品ってなんやろ?って思って調べると、フレッド・ジンネマン監督の「山河遥かなり」でした。
でもこの時期の公開らしい15日で上映を終えています。
もしかしてそれ以降の作品が押してたのかな?とさらに調べると、「陽気なドン・カミロ」14日間、「忘れじの面影」10日間、「スミス都へ行く」13日間とどれも短期間で終了しています。
さらにその次の「恐怖の報酬」(年間第8位)が27日間で好調だったくらいですかね。
ずっとお客が減らなかった「ローマの休日」の上映を止めてまで上映しないといけなかったのかな?と疑問に思いますね。
今はすっかり忘れ去られていて、そんなにヒットしたように思えない作品なのに、各作品1ヶ月くらいずっと上映してる有楽座に後続作品なんて振っちゃえばいいのに!と思います。
同じ東宝系の劇場なのに、融通は利かなかったんでしょうかね?
まあ当時は各劇場に劇場支配人がいたので、劇場のプライドもあり、そんな簡単に交換とかできなかったのかもしれません。
本当にこの当時は今と上映の方法が違いますね。まあそれが面白いんですけど。
結局この1954年に日比谷映画劇場で公開された作品で上映期間が1ヶ月を超えたのは、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」(年間第4位)35日間だけでした。
他に有名どころでは「素晴らしき哉人生!」9日間、「第十七捕虜収容所」10日間、「モガンボ」(年間第9位)18日間、「巨象の道」18日間などがあるんですが、名作と言われていてもたったそれだけの日数で次の作品に!?とびっくりします。
ホント、当時は行ける時に行って見とかないと、すぐに次の作品になってしまいますよね。
オードリーは以上ですが、「ロードショー」の読者ページの質の低さは相変わらず。
ここでも、先月のある読者が書いていた自分の好きなスターを上げて、他のスターをけなす、という文章に怒った、下げられたスターのファンがまた反撃するといういつもながらの醜い争い。
正直読む気がしませんし、こんな低レベルのハガキを載せる「ロードショー」のこのページ担当の編集者の考えも疑問です。
編集者が争いの元になるハガキを最初に載せなきゃいいだけなのにね。大会社集英社の編集者としての矜持はないのでしょうか?
こんなのが楽しいの?という、明らかに今なら絶対掲載不可の文章が平気で載っています。
この点では圧倒的に「スクリーン」の方が常識と節度があったんだと思います。
奥付のあるページで今月号は劇場巡りの2回目として日比谷にあった有楽座が紹介されています。
座席数は1531席、入場最高記録は1962年12月18日、「モダン・タイムス」で17137人(深夜興行含む)だったそうです。
有楽座はオードリー作品では「緑の館」「マイ・フェア・レディ」でお世話になってますね。60年代前半には70mm上映ができる数少ない劇場だったので「マイ・フェア・レディ」はわかるとして、なぜ「緑の館」が?と昔は思っていました。
でも「緑の館」は今1番主流のパナビジョンではおそらく1番最初に公開された作品(撮影は「ベン・ハー」が最初に始まったと思うけど、撮影終了も公開も「緑の館」の方が先。)。
アスペクト比はシネマスコープとほぼ同じですから、大画面の有楽座が必要だったのでしょうね。
映画パンフレットもあるので、ぜひ皆さん劇場で買ってみてくださいねー。
はい、今日は「戦争と平和」が1973年8月25日にリバイバルされてからちょうど50年になります。10月26日まで9週も続映したことなんかはこないだの「スクリーン」の1973年10月号で書きましたんで、今回はそのライバル誌、「ロードショー」の1973年10月号(8月21日発売)を紹介。
オードリーが亡くなった時は、表紙以外はマットコート紙になっていた「ロードショー」ですけど、この時はまだグラビアでツルツルのコート紙をたっぷり使ってます。
なので発行から50年経ってる今見てもまだカラーは綺麗。
なんで今、劣化・変色していくマットコート紙がメインで使われているのか、全然わかりません。表面が凸凹した上質紙は論外。
「SCREEN」やオードリーの写真集なんかでもマットコート紙ですもんね。
きっと今発売される本の方が、30年前の本より早く劣化していくと思います。
僕がオードリーの写真集を出すなら、絶対の絶対にコート紙を使いますとも!
さて、表紙はキャサリン・ロス。70年代にとても人気のあった女優さんですね。垂れ目がめっちゃキュートでした。
でも結局代表作って60年代の「卒業」と「明日に向かって撃て!」だったような…。
今回の紹介は「戦争と平和」のリバイバル紹介がメイン…のはずなんですが、実は違うんです!
もっとスゴいオードリーのページがあるんです!
この時期の「ロードショー」は最初に分厚めのコート紙でカラーグラビアが始まって、途中からちょっと薄めのコート紙に変わります。
オードリーはその薄めに変わった最初に、7ページを使って特集されてます。
まずはジバンシィの「ランテルディ」が発売された時の宣伝写真の別ショット。
ジバンシィの宣伝で使われるくらいですから、もちろん衣装もジバンシィなんでしょう。
香水「ランテルディ」は、香りが製作されたのは1957年ですけど、一般に市販されたのは「マイ・フェア・レディ」の頃。
それまではオードリー以外には“禁止(ランテルディ)”された香りだったわけですね。
この写真も62年か63年に撮られたものでしたっけ。62年というと「パリで一緒に」「シャレード」を撮影して、63年は「マイ・フェア・レディ」を撮影してましたね。この写真も「マイ・フェア・レディ」の雰囲気が漂います。
その次も「マイ・フェア・レディ」の頃、その次は「ティファニーで朝食を」の宣伝写真、めくって2ページは「シャレード」「マイ・フェア・レディ」の頃の写真、そして「ティファニーで朝食を」の頃の宣伝写真×2と続きます。
いやー、こんなのやってくれちゃったら、絶対買うでしょーっ!
この時期の「ロードショー」って本当にスゴイ!カラーの印刷も綺麗だしね。
もしこの時期に中学生くらいで映画雑誌を買ってたとしたら、「スクリーン」と「ロードショー」、どっちを買うか毎月悩んでいたと思います。
どっちも捨てがたい!でも中学生くらいのお小遣いでは両方買うのは難しいですしね。
でもオードリーの画像の2枚目と4枚目のは裏焼きですね(赤いノースリーブで手を組んでいるのと、白い帽子のスーツを着ている画像)。
鼻が逆向きになってるし、赤いスーツのはレディースなのに、前ボタンが逆になってるでしょ?
赤いノースリーブの画像は、「カタログ オードリー・ヘプバーン」で正向きで収録されています。
「ティファニーで朝食を」のアップのは、本当にオードリーが嫌いな右側から撮らせています。「ティファニーで朝食を」と「パリで一緒に」の時期だけ、右側からを撮影を許可している画像があるんですよね。なんででしょうね。
でもやっぱりお鼻がこちら側からだと綺麗さが減っちゃいますね。
文章では、“50年代後半から60年代をへて現在まで、最も人気の高いスター女優として生き残っていることは、本当に途方もないこと”だと書かれているのですが、73年当時でこれですから、そこからさらに50年経って、やっぱり最も人気の高い女優なんですからスゴイですよね!
しかも今やそれが日本だけじゃなく、80年代後半にやっとオードリーの凄さを再認識した世界にまで広がって行ってるんですから、完全に唯一無二の大スターになっちゃいましたね。
この号にはサイレント映画時代のスター、バスター・キートンの、「キートンの蒸気船」(1928)、「キートンの鍛冶屋」(1922)のリバイバル紹介も載ってて、それもすっごい古いなーと思うのですが、1973年当時の1922年ですから、まだ50年くらい。
それが今年は70年前の「ローマの休日」をリバイバルなんですから、ホント凄い!
他にはこれもよく言われたことですが、オードリーは街の妖精であるとも書かれています。“「緑の館」のオンディーヌがつまらなかったのは物語の妖精そのものにしたから”と書かれています。
ちょっと役名がこんがらがって間違ってますけど、まあ言いたいことはわかります。
でも僕が思うのは、「緑の館」の失敗って本当に森の妖精にしたからなんでしょうかね?監督の夫メル・ファーラーのせいでは…?
「緑の館」のリーマは “森の妖精のような少女”であって、実際は本当の妖精ではない。
ところが舞台「オンディーヌ」では本当に本物の水の妖精を演じて、その年の舞台で最高の賞のトニー賞を獲ってますよね。
もちろんオードリーのオンディーヌは残されていないので見たことないですけど、妖精役が悪いわけではないのでは?と思うのですよね。
舞台独特の演技と違って、リアルさを求められる映画での妖精という役で、CGや特撮の発達していない50年代で観客に納得させられるのか、という問題はあるのですが(当時舞台で大ヒットだった「オンディーヌ」の映画化に、映画会社が揃って尻込みしたのはまさにこの点だっただろうと思います)、監督が他の巨匠の誰かであったならば、もっと違う結果になったのでは?と思うのですよね。
他にもオードリーが流行らせたもののことが書いてあります。「ローマの休日」から“ヘプバーン・カット”、「麗しのサブリナ」から“サブリナ・シューズ”と“トレアドル・パンツ”、「昼下りの情事」から真ん中分けのボブ・スタイル、「ティファニーで朝食を」では部分的に染めた髪とヘアスタイル、など。
“トレアドル・パンツ”のことは“サブリナ・パンツ”と書かれていませんね。「昼下りの情事」の髪型もページボーイと言われていました。
「ティファニーで朝食を」のような部分染めは今はポイントカラーと言うそうですね。
それと、今では「ローマの休日」が“ヘプバーン・カット”と言われてますけど、「ローマの休日」の公開は日本では1954年4月ですから、もうその時期に出回っているオードリーの写真はというと、「麗しのサブリナ」も撮影は終了してるし、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の間に撮ったポートレート写真も出回ってるわけですね。
だから当時のオードリーの髪型を真似たい女性が切り抜きを持って行くときには、「ローマの休日」、「麗しのサブリナ」、ポートレート写真が混在してたんだろうと思うんです。
なので、当時の“ヘプバーン・カット”が流行ったのは「ローマの休日」からだということは否定はしませんが、髪型は実は世の中に混在していた、と思います。
実際、「ローマの休日」のパンフレットでも表紙の写真はポートレート写真のものがあって、「ローマの休日」の髪型とは違いますしね。
なので、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の間に撮られたポートレート写真は、パラマウントの公式のものでも「ローマの休日」と言われたり、「麗しのサブリナ」になってたりと定まっていません。
それと、オードリーにはラテン的なものが一番縁遠いように思われるのにパリを舞台にした話が多いのは、パリに住んでいる人のパリではなく、映画が作り出した途方もなく美しいパリ、パリ的すぎるパリにピッタリと合っているからでしょうと書かれています。
確かに、他の本で見たんですけど、当時のフランスの女優さんと並ぶとオードリーってフランスの感じがないんですよね。
ところが他のアメリカの女優さんと並ぶと思いっきりヨーロッパ、それもパリ的な感じ。
アメリカ人の見たパリジェンヌ、人間の街の妖精、にハマるオードリーって、なんか作り物っぽい役が似合うのか?と思いますけど、作り物じゃなくて血を通わせ、夢や憧れにしてしまうのがオードリー・マジック。
それにオードリーの役は当時の他の女優さんよりよっぽど自分を持って主張する重要な女性の役ばかりですよね。
同時期に活躍した、金髪で色気のある女性はちょっとおバカって役のマリリン・モンローや、作家 橋本治氏によると「美人は何もしなくてもいい。そこにいてくれるだけで。」を実践してたような役のグレース・ケリーを考えると、それらの当時の男性が考えるステレオタイプのお飾り女性の役に比較すると、オードリーの役の自分から動く女性ってのがいかに当時貴重であったかがわかります。
マリリン・モンローはそんな役ばかりやらされるのがイヤで演劇学校に行って演技を勉強しますし、グレース・ケリーは与えられたお飾りの役を拒否すると会社から給料停止の処分を受けたりしてます。
そんな中オードリーは自分の選んだ役だけを演じてこれた、というのは恵まれてたんですよねー。
だって、当時の脚本家ってほぼ男性ですよ。オードリー作品で女性が脚本を書いたのは「緑の館」くらい。でもそれも原作は男性ですしね。
そんな男に都合のいい女の役がほとんどの時代の中で、男性に媚びることなく対等に付き合う女性を演じられた、というのはオードリーにとって非常に幸運なことだったと思います。
でも、“それってむしろ女尊男卑やん”というような主義主張だけのウザイ女性というわけでもなく、綺麗なカラーで柔らかい素材のドレスも着て、女性としての特権も最大限に楽しんでいる、という女性なんですよね。
今年また「午前十時の映画祭」で上映された「マイ・フェア・レディ」も、見た人の中に“最後、ヒギンズの所に戻って行くのが理解できなかった”って意見もよく見かけましたが、それも映画の中で選び取っているのはイライザの方ですしね。
ヒギンズは結局イライザに選んでもらうまで何もできなかった、ということですし。
なので今の女性が見ても、“何、この役!”って不満に思われない普遍的な役を多く演じてたから、今までずっと愛されてきたってこともあるんじゃないでしょうか。
とまあ、また例によって脱線しましたけど、次のオードリーが「戦争と平和」のグラビア紹介。
当時はレイアウトも同じ月の「スクリーン」より「ロードショー」の方がやっぱりオシャレ。
ここでは「戦争と平和」は9月公開ってなってますが、8月25日から前倒しで公開されたということは、その前に丸の内ピカデリーで公開していた1973年版の「トム・ソーヤーの冒険」っていう70mmのミュージカル映画がコケたんでしょうね。
「ウエスト・サイド物語」「マイ・フェア・レディ」「サウンド・オブ・ミュージック」と70mm大作のミュージカルが特大ヒットしたせいで、柳の下のドジョウ狙いで当時は続々と高予算をかけて70mm大作のミュージカルが製作されました。
が、その後はことごとくコケていってますので、「トム・ソーヤーの冒険」ももう時期的には最後に近い、本当に虚しい一打だったのでしょうね。日本版Wikipediaには単独の映画の項目も無いですし、かろうじて原作の「トム・ソーヤーの冒険」のところに1行記述があるだけです。
そんな中でオードリーの「戦争と平和」は安定して稼げる映画だったのだと思います。
映画のストーリーは後ろの上質紙のページに乗っています。
次のオードリーは、「ロードショー」では年1の人気投票とは別に、毎月やっていた方の人気投票の結果のページ。
今月号のオードリーは先月の2位から上がって1位になっています。2位は先月1位だったナタリー・ドロン。
今月号には映画監督のシリーズで、テレンス・ヤング監督のことも書かれているのですが、それまでは007シリーズや「暗くなるまで待って」などで良作・ヒット作を撮っていたヤング監督で、「暗くなるまで待って」のこともちょこっと書かれています。
で、ここで語られているこれまでの失敗作というのがオードリーの元夫のメル・ファーラーも関わった「うたかたの恋」だそうです。
でもこれ以降のヤング監督は、完成したばかりだという「アマゾネス」から内容的にもひどい作品が多く、ヒットからも遠ざかってしまいましたね。
上質紙のページでは芳賀書店のシネアルバムの宣伝が乗っていますね。ここでオードリーの小さい写真も。
73年だから、まだ発行している巻数は16巻のクリント・イーストウッドまで。9月にヴィヴィアン・リーが刊行予定です。
この号での最後のオードリーは、昭和29年(1954年)の日本での洋画界を語る河上英一さんという方の “懐かしの名画ライブラリー 妖精オードリーを生んだ「ローマの休日」”という文章。
最初に昭和29年に何があったかということで、いいことは全く書かれずに、惨事や大事件が語られています。これだけ読むと、1954年が怖くなりますね。
映画界では入場税が地方税から国税になって、入場料が値下げしたそうです。また、前年(53年)年末に公開された「聖衣」から始まったシネマスコープですが、54年年末には上映できる映画館が全国で30館になったそう。
1954年に公開された洋画は136本だったそうです。
「ローマの休日」に関しては、ウィリアム・ワイラー監督にしては小品だが、ロマンティックな雰囲気の中で人生の哀歓別離が甘く描かれた優れた映画であったとが述べられています。
また「ローマの休日」がケタ違いのヒットを飛ばしたこと、後続作品の都合で38日間しか興行できなかったが、1日平均8568人観客を動員して、断然他の追随を許さなかったことが書かれています(年間第1位ヒット)。
「ローマの休日」は1日6回上映ですから、1回の上映で平均1428人来たことになりますね。上映した日比谷映劇の座席数は1370席ですから、ほぼいつ見に行っても立ち見ありの状態。席は争奪戦です。
気になる後続作品ってなんやろ?って思って調べると、フレッド・ジンネマン監督の「山河遥かなり」でした。
でもこの時期の公開らしい15日で上映を終えています。
もしかしてそれ以降の作品が押してたのかな?とさらに調べると、「陽気なドン・カミロ」14日間、「忘れじの面影」10日間、「スミス都へ行く」13日間とどれも短期間で終了しています。
さらにその次の「恐怖の報酬」(年間第8位)が27日間で好調だったくらいですかね。
ずっとお客が減らなかった「ローマの休日」の上映を止めてまで上映しないといけなかったのかな?と疑問に思いますね。
今はすっかり忘れ去られていて、そんなにヒットしたように思えない作品なのに、各作品1ヶ月くらいずっと上映してる有楽座に後続作品なんて振っちゃえばいいのに!と思います。
同じ東宝系の劇場なのに、融通は利かなかったんでしょうかね?
まあ当時は各劇場に劇場支配人がいたので、劇場のプライドもあり、そんな簡単に交換とかできなかったのかもしれません。
本当にこの当時は今と上映の方法が違いますね。まあそれが面白いんですけど。
結局この1954年に日比谷映画劇場で公開された作品で上映期間が1ヶ月を超えたのは、「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」(年間第4位)35日間だけでした。
他に有名どころでは「素晴らしき哉人生!」9日間、「第十七捕虜収容所」10日間、「モガンボ」(年間第9位)18日間、「巨象の道」18日間などがあるんですが、名作と言われていてもたったそれだけの日数で次の作品に!?とびっくりします。
ホント、当時は行ける時に行って見とかないと、すぐに次の作品になってしまいますよね。
オードリーは以上ですが、「ロードショー」の読者ページの質の低さは相変わらず。
ここでも、先月のある読者が書いていた自分の好きなスターを上げて、他のスターをけなす、という文章に怒った、下げられたスターのファンがまた反撃するといういつもながらの醜い争い。
正直読む気がしませんし、こんな低レベルのハガキを載せる「ロードショー」のこのページ担当の編集者の考えも疑問です。
編集者が争いの元になるハガキを最初に載せなきゃいいだけなのにね。大会社集英社の編集者としての矜持はないのでしょうか?
こんなのが楽しいの?という、明らかに今なら絶対掲載不可の文章が平気で載っています。
この点では圧倒的に「スクリーン」の方が常識と節度があったんだと思います。
奥付のあるページで今月号は劇場巡りの2回目として日比谷にあった有楽座が紹介されています。
座席数は1531席、入場最高記録は1962年12月18日、「モダン・タイムス」で17137人(深夜興行含む)だったそうです。
有楽座はオードリー作品では「緑の館」「マイ・フェア・レディ」でお世話になってますね。60年代前半には70mm上映ができる数少ない劇場だったので「マイ・フェア・レディ」はわかるとして、なぜ「緑の館」が?と昔は思っていました。
でも「緑の館」は今1番主流のパナビジョンではおそらく1番最初に公開された作品(撮影は「ベン・ハー」が最初に始まったと思うけど、撮影終了も公開も「緑の館」の方が先。)。
アスペクト比はシネマスコープとほぼ同じですから、大画面の有楽座が必要だったのでしょうね。