2024年08月16日
「Esquire エスクァイア日本版 別冊」1991年12月号
今回は「Esquire エスクァイア日本版 別冊」1991年12月号No.10 “Cinema Odyssey2 1930-1992”の紹介。
発売は91年の11月ごろでしょうか?
「Esquire」は今はオードリーともゆかりの深い雑誌「HARPER'S BAZAAR」や「婦人画報」や、オードリーのネット記事にやたら間違いが多い(しかも訂正しない)「ELLE」を出版しているハースト婦人画報社が出版していますが、この当時は株式会社ユー・ピー・ユーってところが発行してたようです。
この当時はまだまだオードリーが再ブームの大ブーム真っ只中の頃。
本屋で、映画の特集本ってことで絶対オードリーがあるだろうと、パラパラっと見てやっぱりあったので買ったもの。
中でも「マイ・フェア・レディ」の撮影合間にヒギンズ邸の階段のセットに座ってリハーサルを待っているオードリーの画像が珍しくて買ったのを覚えています。
というか、この画像だけの1ページだけだったようなイメージをずっと持っていましたが、今回見直してみて、海外のライターさんがオードリーのインタビューをした時のことが載っていて、ページ数も4ページあった(うち1ページは文字だけ)のでびっくりしていました。
画像ももう1枚あるしね。
これらの画像、91年当時はとても珍しかったのですが、93年にカメラマンのボブ・ウィロビーのオードリー写真集が発売されて以降、続々とボブ・ウィロビーの似たようなオードリー写真集が(新しい写真は小出しで)出てきたので、今となっては全然珍しい画像ではなくなってしまいました。
むしろ今回読み返してみて、文章の方に魅力を感じました。
ライターはロバート・W・マークスという方でその訳文となっています。
オードリーとのインタビューは「昼下りの情事」の撮影中のセット。ということは1956年秋ということになりますね。
ちなみにボブ・ウィロビーの写真はインタビュー中のものではありません。
「マイ・フェア・レディ」撮影中は1963年ですし、もう1枚は1953年のものです。
マークスが「昼下りの情事」のセットに行った時、オードリーとゲイリー・クーパーのコメディ・シーンの撮影がうまくいってなくて、ビリー・ワイルダー監督がブレイクをとった休憩の間にインタビューをしたそうです。
オードリーとのインタビューはオードリーのドレッシングルームで行われたそうですが、2人は初めて会ったそうで、オードリーにはぎこちなさと心の厚い壁があったそうです。
そこで、このインタビュアーは当時オードリーに最も聞いてはいけない戦争の時の話をさせてしまったようです。
オードリーが語ったのは、
戦争時ドイツ軍がアルンヘムを1時間以内に退避するように命じると、母と共に祖父の家に移ったこと、祖父は市民に家を解放したため、母が37人分の食事を用意したこと。
暮らしは真空状態だったこと。ニュースも本もスープもない。当時のシーツや下着がどんなだったか。
でもそれも絶え間ない恐怖に比べたらなんでもなかったこと。
ある日家に帰る途中でドイツ軍の手入れに出くわしたこと。ドイツ軍は道路にバリケードを築き、トラックに人々を詰め込み始め、人でいっぱいになるとどこかへ消え去ってしまった。
その時オードリーは怖くて声も出ず、群衆の端まで逃げて、角の暗がりに入ると歩き出し、それから後ろを振り返らず家まで走って帰ったこと。連れ去られた人たちのその後の消息を聞くことは無かったこと。
などでした。
その後撮影の再開を告げる呼び声がかかり、インタビュアーは家に帰ったそうですが、あとで聞いたところ、オードリーはその後演技にならなかったことが書かれています。
オードリーにとっては戦争時は本当に生きるか死ぬかの恐怖の辛い日々だったことでしょうし、そんなことをまだ戦後わずか10年の時に思い出さされて、それでコメディ演技をしろと言う方が無理ですよね。
文章ではオードリーは間もなく「尼僧物語」の撮影が始まる、と書かれているので、元の文章は1957年年末か58年初頭に書かれたものだったのでしょうね。
ここでも書かれていますが、昨今(1958年前後)はオードリーの精神の消耗を考えて映画スタジオのオードリーへの防御は固く、インタビューを容易には認めないし、オードリーにインタビューできるのはもはや特権となっており万人の権利ではない、と書かれています。
ユニセフに関わりを持つまでオードリーはインタビューを制限してましたし、プライベートの質問はご法度になってましたけど、やはり心ない質問でオードリーの傷を抉るような人が大勢いたんでしょうね。
「アンネの日記」に出演をオファーされてアンネの父直々のお願いでも断ったのも、「尼僧物語」で原作の戦争シーンはことごとく無しになったのも、やはり戦争のことを思い出すのが耐えられなかったのでしょう。
オードリーのページは以上ですが、ほかにはマリリン・モンローの強烈な遅刻癖とわがままがあっても大手のスタジオがマリリンを見捨てないように必死で使い続けたジョン・ヒューストン監督の「荒馬と女」の撮影エピソードを綴った「モンローを待ちながら」、イングリッド・バーグマンがロベルト・ロッセリーニとの不倫・結婚でイタリアに行ったのを快く思わないハリウッドの話や、たった3本の主演作を遺して自動車事故で亡くなったジェームス・ディーンのことなどが載っています。
ほかには表紙になっているブリジット・バルドーや、「昼下りの情事」でオードリーと共演したゲイリー・クーパー、ヒッチコック、ウディ・アレンなどのことがあり、中には「噂の二人」撮影中のウィリアム・ワイラー監督の写真も載っていました。
巻末には本文の文章内で語られた作品のビデオリストがあり、オードリーでは「ローマの休日」「昼下りの情事」「暗くなるまで待って」「ニューヨークの恋人たち」、そしてワイラーの画像で「噂の二人」のビデオが掲載されています。
1991年はまだDVDも無かった頃で、ビデオテープがメインだったんですよね。それともう少し高画質なLD。
それでも映画館で上映やテレビで放映してくれるまでは見れなかったのと比べると、いつでも自分の見たい時に見られるビデオってのは凄いことだったんですよねー。
発売は91年の11月ごろでしょうか?
「Esquire」は今はオードリーともゆかりの深い雑誌「HARPER'S BAZAAR」や「婦人画報」や、オードリーのネット記事にやたら間違いが多い(しかも訂正しない)「ELLE」を出版しているハースト婦人画報社が出版していますが、この当時は株式会社ユー・ピー・ユーってところが発行してたようです。
この当時はまだまだオードリーが再ブームの大ブーム真っ只中の頃。
本屋で、映画の特集本ってことで絶対オードリーがあるだろうと、パラパラっと見てやっぱりあったので買ったもの。
中でも「マイ・フェア・レディ」の撮影合間にヒギンズ邸の階段のセットに座ってリハーサルを待っているオードリーの画像が珍しくて買ったのを覚えています。
というか、この画像だけの1ページだけだったようなイメージをずっと持っていましたが、今回見直してみて、海外のライターさんがオードリーのインタビューをした時のことが載っていて、ページ数も4ページあった(うち1ページは文字だけ)のでびっくりしていました。
画像ももう1枚あるしね。
これらの画像、91年当時はとても珍しかったのですが、93年にカメラマンのボブ・ウィロビーのオードリー写真集が発売されて以降、続々とボブ・ウィロビーの似たようなオードリー写真集が(新しい写真は小出しで)出てきたので、今となっては全然珍しい画像ではなくなってしまいました。
むしろ今回読み返してみて、文章の方に魅力を感じました。
ライターはロバート・W・マークスという方でその訳文となっています。
オードリーとのインタビューは「昼下りの情事」の撮影中のセット。ということは1956年秋ということになりますね。
ちなみにボブ・ウィロビーの写真はインタビュー中のものではありません。
「マイ・フェア・レディ」撮影中は1963年ですし、もう1枚は1953年のものです。
マークスが「昼下りの情事」のセットに行った時、オードリーとゲイリー・クーパーのコメディ・シーンの撮影がうまくいってなくて、ビリー・ワイルダー監督がブレイクをとった休憩の間にインタビューをしたそうです。
オードリーとのインタビューはオードリーのドレッシングルームで行われたそうですが、2人は初めて会ったそうで、オードリーにはぎこちなさと心の厚い壁があったそうです。
そこで、このインタビュアーは当時オードリーに最も聞いてはいけない戦争の時の話をさせてしまったようです。
オードリーが語ったのは、
戦争時ドイツ軍がアルンヘムを1時間以内に退避するように命じると、母と共に祖父の家に移ったこと、祖父は市民に家を解放したため、母が37人分の食事を用意したこと。
暮らしは真空状態だったこと。ニュースも本もスープもない。当時のシーツや下着がどんなだったか。
でもそれも絶え間ない恐怖に比べたらなんでもなかったこと。
ある日家に帰る途中でドイツ軍の手入れに出くわしたこと。ドイツ軍は道路にバリケードを築き、トラックに人々を詰め込み始め、人でいっぱいになるとどこかへ消え去ってしまった。
その時オードリーは怖くて声も出ず、群衆の端まで逃げて、角の暗がりに入ると歩き出し、それから後ろを振り返らず家まで走って帰ったこと。連れ去られた人たちのその後の消息を聞くことは無かったこと。
などでした。
その後撮影の再開を告げる呼び声がかかり、インタビュアーは家に帰ったそうですが、あとで聞いたところ、オードリーはその後演技にならなかったことが書かれています。
オードリーにとっては戦争時は本当に生きるか死ぬかの恐怖の辛い日々だったことでしょうし、そんなことをまだ戦後わずか10年の時に思い出さされて、それでコメディ演技をしろと言う方が無理ですよね。
文章ではオードリーは間もなく「尼僧物語」の撮影が始まる、と書かれているので、元の文章は1957年年末か58年初頭に書かれたものだったのでしょうね。
ここでも書かれていますが、昨今(1958年前後)はオードリーの精神の消耗を考えて映画スタジオのオードリーへの防御は固く、インタビューを容易には認めないし、オードリーにインタビューできるのはもはや特権となっており万人の権利ではない、と書かれています。
ユニセフに関わりを持つまでオードリーはインタビューを制限してましたし、プライベートの質問はご法度になってましたけど、やはり心ない質問でオードリーの傷を抉るような人が大勢いたんでしょうね。
「アンネの日記」に出演をオファーされてアンネの父直々のお願いでも断ったのも、「尼僧物語」で原作の戦争シーンはことごとく無しになったのも、やはり戦争のことを思い出すのが耐えられなかったのでしょう。
オードリーのページは以上ですが、ほかにはマリリン・モンローの強烈な遅刻癖とわがままがあっても大手のスタジオがマリリンを見捨てないように必死で使い続けたジョン・ヒューストン監督の「荒馬と女」の撮影エピソードを綴った「モンローを待ちながら」、イングリッド・バーグマンがロベルト・ロッセリーニとの不倫・結婚でイタリアに行ったのを快く思わないハリウッドの話や、たった3本の主演作を遺して自動車事故で亡くなったジェームス・ディーンのことなどが載っています。
ほかには表紙になっているブリジット・バルドーや、「昼下りの情事」でオードリーと共演したゲイリー・クーパー、ヒッチコック、ウディ・アレンなどのことがあり、中には「噂の二人」撮影中のウィリアム・ワイラー監督の写真も載っていました。
巻末には本文の文章内で語られた作品のビデオリストがあり、オードリーでは「ローマの休日」「昼下りの情事」「暗くなるまで待って」「ニューヨークの恋人たち」、そしてワイラーの画像で「噂の二人」のビデオが掲載されています。
1991年はまだDVDも無かった頃で、ビデオテープがメインだったんですよね。それともう少し高画質なLD。
それでも映画館で上映やテレビで放映してくれるまでは見れなかったのと比べると、いつでも自分の見たい時に見られるビデオってのは凄いことだったんですよねー。
Posted by みつお at 18:00│Comments(0)
│その他日本の雑誌