2018年02月21日
ベスト・オブ・キネマ旬報 下巻 1967-1993
写真展 “オードリー・ヘプバーン 〜今よみがえる、永遠の妖精〜” に横浜そごうの予定が加わりました!
・大丸京都店 <ファッション編120点のみ>(終了)
・大丸心斎橋店 <映画編120点のみ>(終了)
・松坂屋名古屋店 <240点の中から抜粋>(終了)
・日本橋三越本店 <240点が一挙に展示>(終了)
・大丸札幌店 <約150点>
期間:2018年3月7日(水)~ 3月19日(月)
場所:7階ホール
・大丸神戸店<約150点>
期間:2018年3月21日(水)~ 4月3日(火)
場所:9階大丸ミュージアム
・そごう横浜店<約150点?>←NEW!
期間:2018年3月23日(金)~ 4月2日(月)
公式サイトはこちら
前回上巻を紹介した“ベスト・オブ・キネマ旬報” の今度は下巻 1967-1993。
上巻が16年のことだったのに対して、こちらは26年間の記事の抜粋。
ずいぶん収録している期間の幅が違いますよね。
確かに日本でも1958年に映画人口のピークを迎え、1961年に映画館数のピークを迎え、その後はテレビの台頭によって坂道を転がるように数年で映画人口も映画館の数も半分以下に減ってしまった時代では映画の占める大きさというものが必然的に変わってしまいますよね。
オードリーも67年初頭の「暗くなるまで待って」撮影から〜75年夏の「ロビンとマリアン」撮影まで半引退状態だったこともあり、下巻ではあまり出番がありません。
最初に登場するのは67年10月上旬号。
“女優結婚論” というテーマで、“オードリー、お前もか” という小見出しでかなりの文字数を費やしてオードリーの離婚のことが書かれています。
オードリー側にはもちろんメル・ファーラーとの離婚には色々と事情があったのでしょうが、ファンからすると離婚とは縁の無さそうなオードリーが離婚してしまった!というのはかなりなショックだったらしく、当時は女性週刊誌などでも取り上げられています。
この段階では「暗くなるまで待って」はまだ日本未公開。最新公開作は「いつも2人で」ということになります。
文章の十返千鶴子さんによると、
オードリーは全く世帯臭さがない。
「いつも2人で」も“お嬢さん奥さん” としか印象付けられない。むしろ娘時代の方が生き生きしている。
13年もの長い結婚生活が芸の上でのプラスになってない
根が聡明なオードリーだから、離婚をきっかけに大きなジャンプを見せることだろう。
となっています。
が、オードリーの一生を考えたときに、結局スクリーンのオードリーには世帯臭じみたものは一切出なかったし、離婚を機に女優としてジャンプするのではなく、妻として母として家庭に入ることを選んでいます。
ここで著者が語り、著者の頭の中で作り上げたオードリーへの願望はオードリー自身の望む方向とは全く違うということですね。
オードリーは “貞淑なプライベートを持つ大女優” ではなく、“良き妻であり母である一般の主婦” を目指していたわけです。
“離婚をするなんてオードリーもスキャンダラスな女優なんだ!” とファンが考えるより、もっとずっとフツーで真面目だったわけですよね。
そしてオードリーは晩年にユニセフという、これこそが今まで女優をして来たご褒美だったんだ!という活動に自分を投じるわけですよね。
なのでオードリーは普通を目指しながら、もっとずっとファンが考えるよりも高みに昇っていた(しかも自分では無意識に)ということだったんですよね。
次は1972年3月下旬号に芳賀書店のシネアルバム「オードリー・ヘプバーン きらめく真珠のように夢みる白鳥のように」が映画の本の新刊として紹介されています。
ファンになった初期にとてもお世話になったシネアルバムの最初の刊行がここで行われていたんだなぁ〜と感慨ひとしおでした。
その次は1976年6月上旬号。
「ロビンとマリアン」…のことではなく、来日した映画音楽家ニーノ・ロータへのインタビューです。
ここでインタビューアーが「戦争と平和」で作曲した縁でオードリー・ヘプバーンのことを振ったところ、
友人のひとりだ。「戦争と平和」のセットで初めて紹介されたとき、輝くばかりに美しかった。
感じがよく、スターぶらず、繊細で真面目で規則正しい女性だ。
「戦争と平和」では歌を歌うので、曲を練習するのに作曲者の私自身から教わりたいと言ってきた。
映画がアメリカで成功したとき、オードリーは私の音楽がとても素晴らしかったと電報を打ってきた。女優からこんな電報をもらったのはオードリーが最初で最後だ。
ということを語っています。
そして次はだいぶ飛んで1993年3月上旬号。
そう、オードリーが亡くなったことへの追悼記事です。
次の3月下旬号ではオードリーの大特集になるのですが、この下巻で載っているのは上旬号の淀川長治さんの記事のみ。
淀川長治さん…正直、オードリーのファンには受けが良くないです。
確かに映画評論家としては一般には一番有名な方なのですが、映画の評論よりもスターの解説がヒドイです。
ご自分の想像で作り上げたスターを、さもそれが実像かのように語ってしまうのがどうにもいけません。
ここでもオードリーが不幸だったと断言。“女優というよりも美しい人、その美しい人を映画が無理に女優にした。この女優生涯の苦しみを背負ってオードリーは死んだ。” と妄想炸裂!の文章で締めくくっています。
オードリー、不幸じゃないです、きっと!
確かに幼い頃から夢見て一生続くと思っていた結婚は2度も破局を迎えたし、スターになってからはパパラッチに追われる毎日だったでしょう。63年という生涯もかなり短いと考えてもいいでしょう。
でもとても欲しかった子供は2人も息子に恵まれたし、最後にはロバート・ウォルターズというパートナーにも出会えた。
ドリス・ブリンナーやコニー・ウォルドやビリー&オードリー・ワイルダー夫妻といった親友もいたし、ジバンシィのようなオードリーと持ちつ持たれつの関係の兄弟のような心の友もいた。
晩年は戦争後に自分の受けた恩をユニセフで返すことも出来たし、スイスのラ・ペジブルでは花や草木の手入れをするのが幸福だった。
最期にはジバンシィの手配でアメリカからラ・ペジブルに帰ってこれて、大好きな家族たちに看取られて逝くことができた。
これのいったいどこが不幸だと言うのでしょうね?
女優としての“オードリー・ヘプバーン” など、オードリー自身にとって占める割合は微々たるものだったと思いますよ。
オードリー自身が言ってたように、オードリーは今と前を見て生きていきたい!という人ですし、自分の映画なんてプレミアが終わった後は晩年になるまで全く見なかったほど。
そして淀川長治氏の悪いところは作品の評価にも…。
淀川長治さん、一度書いたことを平気で翻すのがお得意で、読んでる僕らがウンザリしてしまいます。
それでも「パリで一緒に」のパンフレットで褒めて書いているのを、ここでは“最低”などと二枚舌なのはその作品のパンフレットではけなすことも出来ないかもしれないのでまあ仕方ないと100歩譲りましょう。
が、映画雑誌同士で過去にオードリーのベストの1本に挙げていた「昼下りの情事」をここでは “悪魔っ子アリアーヌはとてもオードリーの柄じゃない” と記述。
「尼僧物語」がある限り、オードリーの(女優)生命は長く強く健全だと信じる。と以前書いていたのに、こちらでは 修道院の苦しみはオードリーからは響いてはこなかった、となってます。
公開当時の「映画の友」誌でベタ褒めだった「いつも2人で」もこちらでは反応うすっ!
おそらく淀川長治さんは仕事柄次々と新しい作品を見るので、1度見た作品は2度と見ないということが多かったでしょうから、これらの変節については自分の記憶にあるそれらの作品の印象が薄れてしまって、お得意の妄想で脳内補完していったからだと思われます。
次号のオードリー特集では吉村英夫氏にオードリーのことを書かせているし、自分とは合わないけれども見方は間違っていないのだろうと思っていた「キネマ旬報」に対する信頼が一気に失墜したのがこの時だったのを覚えています。
全体の印象として映画産業が活気付いていた上巻の時代と比べ、下巻の映画界全体(特に邦画)が低迷している感が凄いです。オードリーの資料的にも上巻の方が役立ちます。これはセットで入手しましたが、上巻だけでも充分かと思われます。
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・大丸札幌店 <約150点>
期間:2018年3月7日(水)~ 3月19日(月)
場所:7階ホール
・大丸神戸店<約150点>
期間:2018年3月21日(水)~ 4月3日(火)
場所:9階大丸ミュージアム
・そごう横浜店<約150点?>←NEW!
期間:2018年3月23日(金)~ 4月2日(月)
公式サイトはこちら

上巻が16年のことだったのに対して、こちらは26年間の記事の抜粋。
ずいぶん収録している期間の幅が違いますよね。
確かに日本でも1958年に映画人口のピークを迎え、1961年に映画館数のピークを迎え、その後はテレビの台頭によって坂道を転がるように数年で映画人口も映画館の数も半分以下に減ってしまった時代では映画の占める大きさというものが必然的に変わってしまいますよね。
オードリーも67年初頭の「暗くなるまで待って」撮影から〜75年夏の「ロビンとマリアン」撮影まで半引退状態だったこともあり、下巻ではあまり出番がありません。
最初に登場するのは67年10月上旬号。
“女優結婚論” というテーマで、“オードリー、お前もか” という小見出しでかなりの文字数を費やしてオードリーの離婚のことが書かれています。
オードリー側にはもちろんメル・ファーラーとの離婚には色々と事情があったのでしょうが、ファンからすると離婚とは縁の無さそうなオードリーが離婚してしまった!というのはかなりなショックだったらしく、当時は女性週刊誌などでも取り上げられています。
この段階では「暗くなるまで待って」はまだ日本未公開。最新公開作は「いつも2人で」ということになります。

オードリーは全く世帯臭さがない。
「いつも2人で」も“お嬢さん奥さん” としか印象付けられない。むしろ娘時代の方が生き生きしている。
13年もの長い結婚生活が芸の上でのプラスになってない
根が聡明なオードリーだから、離婚をきっかけに大きなジャンプを見せることだろう。
となっています。
が、オードリーの一生を考えたときに、結局スクリーンのオードリーには世帯臭じみたものは一切出なかったし、離婚を機に女優としてジャンプするのではなく、妻として母として家庭に入ることを選んでいます。
ここで著者が語り、著者の頭の中で作り上げたオードリーへの願望はオードリー自身の望む方向とは全く違うということですね。
オードリーは “貞淑なプライベートを持つ大女優” ではなく、“良き妻であり母である一般の主婦” を目指していたわけです。
“離婚をするなんてオードリーもスキャンダラスな女優なんだ!” とファンが考えるより、もっとずっとフツーで真面目だったわけですよね。
そしてオードリーは晩年にユニセフという、これこそが今まで女優をして来たご褒美だったんだ!という活動に自分を投じるわけですよね。
なのでオードリーは普通を目指しながら、もっとずっとファンが考えるよりも高みに昇っていた(しかも自分では無意識に)ということだったんですよね。
次は1972年3月下旬号に芳賀書店のシネアルバム「オードリー・ヘプバーン きらめく真珠のように夢みる白鳥のように」が映画の本の新刊として紹介されています。
ファンになった初期にとてもお世話になったシネアルバムの最初の刊行がここで行われていたんだなぁ〜と感慨ひとしおでした。
その次は1976年6月上旬号。
「ロビンとマリアン」…のことではなく、来日した映画音楽家ニーノ・ロータへのインタビューです。
ここでインタビューアーが「戦争と平和」で作曲した縁でオードリー・ヘプバーンのことを振ったところ、
友人のひとりだ。「戦争と平和」のセットで初めて紹介されたとき、輝くばかりに美しかった。
感じがよく、スターぶらず、繊細で真面目で規則正しい女性だ。
「戦争と平和」では歌を歌うので、曲を練習するのに作曲者の私自身から教わりたいと言ってきた。
映画がアメリカで成功したとき、オードリーは私の音楽がとても素晴らしかったと電報を打ってきた。女優からこんな電報をもらったのはオードリーが最初で最後だ。
ということを語っています。

そう、オードリーが亡くなったことへの追悼記事です。
次の3月下旬号ではオードリーの大特集になるのですが、この下巻で載っているのは上旬号の淀川長治さんの記事のみ。
淀川長治さん…正直、オードリーのファンには受けが良くないです。
確かに映画評論家としては一般には一番有名な方なのですが、映画の評論よりもスターの解説がヒドイです。
ご自分の想像で作り上げたスターを、さもそれが実像かのように語ってしまうのがどうにもいけません。
ここでもオードリーが不幸だったと断言。“女優というよりも美しい人、その美しい人を映画が無理に女優にした。この女優生涯の苦しみを背負ってオードリーは死んだ。” と妄想炸裂!の文章で締めくくっています。
オードリー、不幸じゃないです、きっと!
確かに幼い頃から夢見て一生続くと思っていた結婚は2度も破局を迎えたし、スターになってからはパパラッチに追われる毎日だったでしょう。63年という生涯もかなり短いと考えてもいいでしょう。
でもとても欲しかった子供は2人も息子に恵まれたし、最後にはロバート・ウォルターズというパートナーにも出会えた。
ドリス・ブリンナーやコニー・ウォルドやビリー&オードリー・ワイルダー夫妻といった親友もいたし、ジバンシィのようなオードリーと持ちつ持たれつの関係の兄弟のような心の友もいた。
晩年は戦争後に自分の受けた恩をユニセフで返すことも出来たし、スイスのラ・ペジブルでは花や草木の手入れをするのが幸福だった。
最期にはジバンシィの手配でアメリカからラ・ペジブルに帰ってこれて、大好きな家族たちに看取られて逝くことができた。
これのいったいどこが不幸だと言うのでしょうね?
女優としての“オードリー・ヘプバーン” など、オードリー自身にとって占める割合は微々たるものだったと思いますよ。
オードリー自身が言ってたように、オードリーは今と前を見て生きていきたい!という人ですし、自分の映画なんてプレミアが終わった後は晩年になるまで全く見なかったほど。

淀川長治さん、一度書いたことを平気で翻すのがお得意で、読んでる僕らがウンザリしてしまいます。
それでも「パリで一緒に」のパンフレットで褒めて書いているのを、ここでは“最低”などと二枚舌なのはその作品のパンフレットではけなすことも出来ないかもしれないのでまあ仕方ないと100歩譲りましょう。
が、映画雑誌同士で過去にオードリーのベストの1本に挙げていた「昼下りの情事」をここでは “悪魔っ子アリアーヌはとてもオードリーの柄じゃない” と記述。
「尼僧物語」がある限り、オードリーの(女優)生命は長く強く健全だと信じる。と以前書いていたのに、こちらでは 修道院の苦しみはオードリーからは響いてはこなかった、となってます。
公開当時の「映画の友」誌でベタ褒めだった「いつも2人で」もこちらでは反応うすっ!
おそらく淀川長治さんは仕事柄次々と新しい作品を見るので、1度見た作品は2度と見ないということが多かったでしょうから、これらの変節については自分の記憶にあるそれらの作品の印象が薄れてしまって、お得意の妄想で脳内補完していったからだと思われます。
次号のオードリー特集では吉村英夫氏にオードリーのことを書かせているし、自分とは合わないけれども見方は間違っていないのだろうと思っていた「キネマ旬報」に対する信頼が一気に失墜したのがこの時だったのを覚えています。
全体の印象として映画産業が活気付いていた上巻の時代と比べ、下巻の映画界全体(特に邦画)が低迷している感が凄いです。オードリーの資料的にも上巻の方が役立ちます。これはセットで入手しましたが、上巻だけでも充分かと思われます。
Posted by みつお at 21:00│Comments(0)
│批評・評論など