2018年12月12日
別冊DELUXE女性自身 1967年11月号
これは今年中に紹介しないといけないなあ〜と思っていた、「別冊デラックス 女性自身 1967年11月号」です。
なぜ今年中かというと、今年はもちろん「暗くなるまで待って」の日本初公開50周年でもあるんですけど、オードリーがメル・ファーラーと離婚してからもちょうど50年経っているから。
そしてこの雑誌はオードリーに関してはそれだけのものなので…。
もちろんオードリーとメル・ファーラーの離婚が成立したのは1968年なのですが、離婚を前提に別居したのは1967年の8月だったそうです。
このニュースは当時の映画関係者やファンをビックリさせたそうで、“あのオードリーが!?” といろんな雑誌で書かれていました。
というのも、オードリーは同世代の結婚・離婚を繰り返していたエリザベス・テイラーとは違い、貞淑で一生添い遂げると思われていたみたいなんです。
過去には「マイ・フェア・レディ」の頃にも不仲説は流れたようなんですが、その時はオードリー・メル両名が否定していました。
なので世間的にはオードリーとメル・ファーラーはおしどり夫婦だと思われていたので、突然の別居報道には世間が “オードリー、お前もか?” と思ったようです。
当時メル・ファーラーには何人かの女性との不貞の噂がありましたし、今の考え方だったらダンナが浮気したら即離婚も当然!という考え方ですよね。でもまだ1967年当時の日本では “芸能人の夫が浮気してもジッと耐える妻” というのが当たり前だと思われてた時代だったんですね。
見方を変えるとエリザベス・テイラーも奔放というのとは違って、好きになってしまうと浮気ではなく、必ず結婚という形を取らないといけないという、逆に昔気質の考え方だったといわれています。
オードリーは結婚に対してはお互いのどちらかが死ぬまでずっと続くもの、と思っていたようです。オードリーに関してはとうとう針が振り切れてしまったんですよね。
結婚・離婚を繰り返すリズも、とうとう離婚したオードリーも、どちらも実は50年代の真面目な考え方だったみたいですね。
で1966年、オードリーが「いつも2人で」撮影中に苦悩していたらしいのは、オードリーの激ヤセ具合とやつれ具合を見れば明らか。
ところが一転してなぜかベストな状態に復活していた「暗くなるまで待って」。
オードリーは顔にその当時の状態がすぐ現れると思っているのですが、「暗くなるまで待って」撮影中にインタビューに訪れた小森和子さん(小森のオバちゃま)にはオードリー自身が意味深な発言をしています。
「愛し必要とするなら、あらゆる雑音を断固拒否する。しかし“決断”ということも大切。努力してもムダと見極めたら、未練という感情に負けず“決断”すること。」
…これ、既にメル・ファーラーのことを見限っていますよね。
「いつも2人で」の撮影時は例外的に撮影現場に息子ショーンを連れて行ったりもしたオードリー。ショーンに頼らないと乗り切れないほど苦悩してたみたいですね。
でも「暗くなるまで待って」の時にはもう吹っ切れてる。
ずっとずっとメル・ファーラーとの結婚を守ろうと戦ってきたけれども、とうとう離婚という“決断”してしまった。
でもその“決断”の原因が本当は何か?というのが今に至るまで不明のままです。不明のままであるというのもオードリーらしい。決して外に漏らさないんですよね。
その原因は?ということで切り込んでいるのがこの「別冊DELUXE女性自身」です。
この号はほとんど皇室関係と芸能関係で占められています。
でも記事での1番のウリはオードリーの離婚のこと。なので表紙にも「いつも2人で」のオードリーが!右上にも大きく書かれていますね。
でもこの表紙、オードリー載せるなら表紙用の外国人のタレントさん要らなくない?無理くり2人載せようとしてるから、変な表紙になってます。
あと、このオードリーの写真映画雑誌にも乗ってましたけど、決してオードリーが美しく撮れてる写真じゃないです。なんでこれ?
巻頭カラーのグラビアは皇室関連。現在の皇太子殿下(来年には天皇陛下!)もまだお子様だし、秋篠宮殿下はまだ赤ちゃん!
付録には皇室の方々の声のレコード(ソノシート?)まであったようですが、それは僕が中古で買った時にはついていませんでした。
モノクログラビアの最初には1964年1月13日号(ということは発売は1963年12月中)に載ったという「マイ・フェア・レディ」撮影時にオードリーに会った江利チエミ。
江利チエミは日本初演の「マイ・フェア・レディ」で初代イライザを演じています。映画の公開より前だったので、映画の「マイ・フェア・レディ」の衣装の影響を受けていない唯一の公演。ジュリー・アンドリュースの「マイ・フェア・レディ」の衣装を模しています。
この写真の別ショットが何かの写真集か特集号にも掲載されていましたね。
本文記事のトップももちろん“独占掲載 ヘップバーン離婚劇の真相” というもの。海外の記者が書いたもののようです。
内容は、まず8月に一家揃って南スペインマルベラ海岸の別荘に来たが、突然予定を繰り上げオードリーとショーンはスイスに帰り、メルはパリへ「うたかたの恋」の準備に行った後、双方から離婚前提の別居発表があったということ。
そのスペインの別荘の隣の人にインタビューすると、メルが居ない時にスペインの別荘に見知らぬアメリカ人が来たらしい。
記者がまとめると、その男は勝手に応接間に上がりこんだ。
オードリーは驚き恐怖した。メルが来て事情がわかったが、実はショーンのボディガードに雇った男だった。
オードリーにはショーンを誘拐するなどという脅迫の手紙や電話がよくあるらしく、オードリーはもともとナーバスになっている、そんな時になんの相談もなく決めて上がり込ませるなんて!とオードリーは怒り心頭だったらしい。
それが最後の一押しになってそれまで積もり積もった問題が一気に吹き出して話し合いになった。
オードリーに「暗くなるまで待って」の撮影中にインタビューした時には、“ショーンと別れて暮らすくらいなら、映画に出るのはやめたいわ。この作品を撮った後は、スイスの近くで作る映画のほかはお断りしたいわ。”と語っていたそうなのですが、それが終わった時にメルから与えられたのは次回作の脚本だった。
…ということですが、このボディガードの問題も本当のところどうなんでしょうねー。関係者が言うならともかく、別荘地の隣人ですからねー。
別荘ということは隣家とも離れているでしょうし、あくまでも推測の域は出ないのでは?
まあボディガードに雇うくらいだからきっと屈強な男だったんでしょうね。それが勝手に上がり込んでいるとかは実際恐怖でしょうね。本当の話だったら、ですが。
メル・ファーラーの次回作(「うたかたの恋」)の話もよく離婚の決め手になったと言われていますよね。
でもこれが全く反対の理由で挙げられることがあります。
1つはオードリーとメルの共同作業で作って行くためにオードリーが主演することになっていたのに、メル・ファーラーはその役を噂のあったカトリーヌ・ドヌーブに与えてしまった。
もう1つはオードリーはもう休みたかったのに、まだメルはオードリーに主演させようとしていた。
真逆ですが、もしそれが原因の一つであるならば、当時のオードリーの発言からでは後者の方が有力だと思われます。
ただ、この記者はまだオードリーとメルが離婚の発表などしてない時期に、メルがカトリーヌ・ドヌーブが出演することになった!と大喜びしていたのを聞いていたらしいこと。
このメル・ファーラーの次回作「うたかたの恋」ですが、全く同じ内容でオードリーが1957年にテレビ映画で主演しているのが「マイヤーリング」。
そちらではルドルフがメル、マリーがオードリーです。
それを見たらわかりますが、若い女性は1人しか必要じゃありません。
カトリーヌ・ドヌーブがとっくに決まってたのなら、オードリーが主演すること自体有り得ないので、この記者の記事に矛盾が発生します。
まさかオードリーをルドルフ役オマー・シャリフの母親役のエリザベートに??あるいはルドルフの美人じゃない妻の役に??無い無い!
当時最大級のギャラだった100万ドルスターのオードリーを脇役で使うなどはこの時期は全く考えられない状況でしたよね。
なので結局この記事を読んでも何一つ真相は解明されないままに終わるのでした。
「いつも2人で」の神戸の上映劇場を調べていて、この雑誌の広告も見つけましたので載せておきますね。左上にこの表紙のオードリーが載ってますね。
ちなみに神戸の劇場を調べていたのは、作家村上春樹氏が私の1本として挙げた「いつも2人で」を神戸の新聞会館大劇場で見た、と書いてあったから。
「いつも2人で」は松竹系の公開だったので、東宝系の劇場である新聞会館大劇場は無いだろうと思って、当時の新聞をひっくり返して調べて来ました。
そしてわかったのは、やはり神戸では松竹系のトップの劇場、国際松竹で封切られていたことがわかりました。
でもこの村上春樹さんの記憶違いもわかるわかる!この2つの劇場は神戸の中心地、三宮のメインストリート、フラワーロードの東側にあるんですよね。
よく考えれば場所も違うんですが、僕もその2つの劇場はごっちゃになってたりしてたんで。
新聞会館大劇場は新聞会館の中にあって、国際松竹は国際会館の中にあったんですよね。ほら、似てるでしょ?
ちなみに阪神大震災までは三宮地区では東宝系の一押しの作品は阪急会館で、2番手が新聞会館大劇場で。松竹系は1番手が国際松竹で、2番手が朝日会館(東宝系も上映)で封切られてました。と言ってもそれらの4つの劇場は遜色はなく、今は日本に存在しない、全部1000人クラスの巨大劇場でした。
ちなみに新開地(戦前までは神戸の歓楽街の中心だった)にも78年まで1000人越えの聚楽館(松竹系)という映画館も有りました。
でもオードリーが離婚を前提に別居を発表した67年には「いつも2人で」が日本で公開中。そのパンフレットには “世界で一番好きなのは息子ショーンと夫のメル。当然ネ!” などと呑気なことが書いてあったので、それを買って読んだ人は苦笑していたでしょうね。
なぜ今年中かというと、今年はもちろん「暗くなるまで待って」の日本初公開50周年でもあるんですけど、オードリーがメル・ファーラーと離婚してからもちょうど50年経っているから。
そしてこの雑誌はオードリーに関してはそれだけのものなので…。
もちろんオードリーとメル・ファーラーの離婚が成立したのは1968年なのですが、離婚を前提に別居したのは1967年の8月だったそうです。
このニュースは当時の映画関係者やファンをビックリさせたそうで、“あのオードリーが!?” といろんな雑誌で書かれていました。
というのも、オードリーは同世代の結婚・離婚を繰り返していたエリザベス・テイラーとは違い、貞淑で一生添い遂げると思われていたみたいなんです。
過去には「マイ・フェア・レディ」の頃にも不仲説は流れたようなんですが、その時はオードリー・メル両名が否定していました。
なので世間的にはオードリーとメル・ファーラーはおしどり夫婦だと思われていたので、突然の別居報道には世間が “オードリー、お前もか?” と思ったようです。
当時メル・ファーラーには何人かの女性との不貞の噂がありましたし、今の考え方だったらダンナが浮気したら即離婚も当然!という考え方ですよね。でもまだ1967年当時の日本では “芸能人の夫が浮気してもジッと耐える妻” というのが当たり前だと思われてた時代だったんですね。
見方を変えるとエリザベス・テイラーも奔放というのとは違って、好きになってしまうと浮気ではなく、必ず結婚という形を取らないといけないという、逆に昔気質の考え方だったといわれています。
オードリーは結婚に対してはお互いのどちらかが死ぬまでずっと続くもの、と思っていたようです。オードリーに関してはとうとう針が振り切れてしまったんですよね。
結婚・離婚を繰り返すリズも、とうとう離婚したオードリーも、どちらも実は50年代の真面目な考え方だったみたいですね。
で1966年、オードリーが「いつも2人で」撮影中に苦悩していたらしいのは、オードリーの激ヤセ具合とやつれ具合を見れば明らか。
ところが一転してなぜかベストな状態に復活していた「暗くなるまで待って」。
オードリーは顔にその当時の状態がすぐ現れると思っているのですが、「暗くなるまで待って」撮影中にインタビューに訪れた小森和子さん(小森のオバちゃま)にはオードリー自身が意味深な発言をしています。
「愛し必要とするなら、あらゆる雑音を断固拒否する。しかし“決断”ということも大切。努力してもムダと見極めたら、未練という感情に負けず“決断”すること。」
…これ、既にメル・ファーラーのことを見限っていますよね。
「いつも2人で」の撮影時は例外的に撮影現場に息子ショーンを連れて行ったりもしたオードリー。ショーンに頼らないと乗り切れないほど苦悩してたみたいですね。
でも「暗くなるまで待って」の時にはもう吹っ切れてる。
ずっとずっとメル・ファーラーとの結婚を守ろうと戦ってきたけれども、とうとう離婚という“決断”してしまった。
でもその“決断”の原因が本当は何か?というのが今に至るまで不明のままです。不明のままであるというのもオードリーらしい。決して外に漏らさないんですよね。
その原因は?ということで切り込んでいるのがこの「別冊DELUXE女性自身」です。
この号はほとんど皇室関係と芸能関係で占められています。
でも記事での1番のウリはオードリーの離婚のこと。なので表紙にも「いつも2人で」のオードリーが!右上にも大きく書かれていますね。
でもこの表紙、オードリー載せるなら表紙用の外国人のタレントさん要らなくない?無理くり2人載せようとしてるから、変な表紙になってます。
あと、このオードリーの写真映画雑誌にも乗ってましたけど、決してオードリーが美しく撮れてる写真じゃないです。なんでこれ?
巻頭カラーのグラビアは皇室関連。現在の皇太子殿下(来年には天皇陛下!)もまだお子様だし、秋篠宮殿下はまだ赤ちゃん!
付録には皇室の方々の声のレコード(ソノシート?)まであったようですが、それは僕が中古で買った時にはついていませんでした。
モノクログラビアの最初には1964年1月13日号(ということは発売は1963年12月中)に載ったという「マイ・フェア・レディ」撮影時にオードリーに会った江利チエミ。
江利チエミは日本初演の「マイ・フェア・レディ」で初代イライザを演じています。映画の公開より前だったので、映画の「マイ・フェア・レディ」の衣装の影響を受けていない唯一の公演。ジュリー・アンドリュースの「マイ・フェア・レディ」の衣装を模しています。
この写真の別ショットが何かの写真集か特集号にも掲載されていましたね。
本文記事のトップももちろん“独占掲載 ヘップバーン離婚劇の真相” というもの。海外の記者が書いたもののようです。
内容は、まず8月に一家揃って南スペインマルベラ海岸の別荘に来たが、突然予定を繰り上げオードリーとショーンはスイスに帰り、メルはパリへ「うたかたの恋」の準備に行った後、双方から離婚前提の別居発表があったということ。
そのスペインの別荘の隣の人にインタビューすると、メルが居ない時にスペインの別荘に見知らぬアメリカ人が来たらしい。
記者がまとめると、その男は勝手に応接間に上がりこんだ。
オードリーは驚き恐怖した。メルが来て事情がわかったが、実はショーンのボディガードに雇った男だった。
オードリーにはショーンを誘拐するなどという脅迫の手紙や電話がよくあるらしく、オードリーはもともとナーバスになっている、そんな時になんの相談もなく決めて上がり込ませるなんて!とオードリーは怒り心頭だったらしい。
それが最後の一押しになってそれまで積もり積もった問題が一気に吹き出して話し合いになった。
オードリーに「暗くなるまで待って」の撮影中にインタビューした時には、“ショーンと別れて暮らすくらいなら、映画に出るのはやめたいわ。この作品を撮った後は、スイスの近くで作る映画のほかはお断りしたいわ。”と語っていたそうなのですが、それが終わった時にメルから与えられたのは次回作の脚本だった。
…ということですが、このボディガードの問題も本当のところどうなんでしょうねー。関係者が言うならともかく、別荘地の隣人ですからねー。
別荘ということは隣家とも離れているでしょうし、あくまでも推測の域は出ないのでは?
まあボディガードに雇うくらいだからきっと屈強な男だったんでしょうね。それが勝手に上がり込んでいるとかは実際恐怖でしょうね。本当の話だったら、ですが。
メル・ファーラーの次回作(「うたかたの恋」)の話もよく離婚の決め手になったと言われていますよね。
でもこれが全く反対の理由で挙げられることがあります。
1つはオードリーとメルの共同作業で作って行くためにオードリーが主演することになっていたのに、メル・ファーラーはその役を噂のあったカトリーヌ・ドヌーブに与えてしまった。
もう1つはオードリーはもう休みたかったのに、まだメルはオードリーに主演させようとしていた。
真逆ですが、もしそれが原因の一つであるならば、当時のオードリーの発言からでは後者の方が有力だと思われます。
ただ、この記者はまだオードリーとメルが離婚の発表などしてない時期に、メルがカトリーヌ・ドヌーブが出演することになった!と大喜びしていたのを聞いていたらしいこと。
このメル・ファーラーの次回作「うたかたの恋」ですが、全く同じ内容でオードリーが1957年にテレビ映画で主演しているのが「マイヤーリング」。
そちらではルドルフがメル、マリーがオードリーです。
それを見たらわかりますが、若い女性は1人しか必要じゃありません。
カトリーヌ・ドヌーブがとっくに決まってたのなら、オードリーが主演すること自体有り得ないので、この記者の記事に矛盾が発生します。
まさかオードリーをルドルフ役オマー・シャリフの母親役のエリザベートに??あるいはルドルフの美人じゃない妻の役に??無い無い!
当時最大級のギャラだった100万ドルスターのオードリーを脇役で使うなどはこの時期は全く考えられない状況でしたよね。
なので結局この記事を読んでも何一つ真相は解明されないままに終わるのでした。
「いつも2人で」の神戸の上映劇場を調べていて、この雑誌の広告も見つけましたので載せておきますね。左上にこの表紙のオードリーが載ってますね。
ちなみに神戸の劇場を調べていたのは、作家村上春樹氏が私の1本として挙げた「いつも2人で」を神戸の新聞会館大劇場で見た、と書いてあったから。
「いつも2人で」は松竹系の公開だったので、東宝系の劇場である新聞会館大劇場は無いだろうと思って、当時の新聞をひっくり返して調べて来ました。
そしてわかったのは、やはり神戸では松竹系のトップの劇場、国際松竹で封切られていたことがわかりました。
でもこの村上春樹さんの記憶違いもわかるわかる!この2つの劇場は神戸の中心地、三宮のメインストリート、フラワーロードの東側にあるんですよね。
よく考えれば場所も違うんですが、僕もその2つの劇場はごっちゃになってたりしてたんで。
新聞会館大劇場は新聞会館の中にあって、国際松竹は国際会館の中にあったんですよね。ほら、似てるでしょ?
ちなみに阪神大震災までは三宮地区では東宝系の一押しの作品は阪急会館で、2番手が新聞会館大劇場で。松竹系は1番手が国際松竹で、2番手が朝日会館(東宝系も上映)で封切られてました。と言ってもそれらの4つの劇場は遜色はなく、今は日本に存在しない、全部1000人クラスの巨大劇場でした。
ちなみに新開地(戦前までは神戸の歓楽街の中心だった)にも78年まで1000人越えの聚楽館(松竹系)という映画館も有りました。
でもオードリーが離婚を前提に別居を発表した67年には「いつも2人で」が日本で公開中。そのパンフレットには “世界で一番好きなのは息子ショーンと夫のメル。当然ネ!” などと呑気なことが書いてあったので、それを買って読んだ人は苦笑していたでしょうね。
Posted by みつお at 18:00│Comments(6)
│その他日本の雑誌
この記事へのコメント
うたかたの恋
オードリーでリメイクを期待していただけに、がっかりでした。
オードリーでリメイクを期待していただけに、がっかりでした。
Posted by 明智常楽 at 2018年12月16日 14:17
明智常楽さんは「うたかたの恋」製作発表時からご存知でしたか?
やっぱり最初はオードリー主演という謳い文句だったんでしょうか?
そういえばオードリーファンクラブの結成は何年だったのですか?
でももしオードリーが再度マリーに挑戦してたらどうだったでしょうね。「暗くなるまで待って」の後でも17才の役ができたでしょうかねー。
でも68年版はオマー・シャリフのアラブ系な顔に、色っぽ過ぎるカトリーヌ・ドヌーブの17才設定はかなり無理がある気がします。
まあそれを言うと、戦前のシャルル・ボワイエの版は化粧があまりに1930年代チックだし、意外とオードリーの57年版「マイヤーリング」って合ってたような気がしますね(*^^*)
やっぱり最初はオードリー主演という謳い文句だったんでしょうか?
そういえばオードリーファンクラブの結成は何年だったのですか?
でももしオードリーが再度マリーに挑戦してたらどうだったでしょうね。「暗くなるまで待って」の後でも17才の役ができたでしょうかねー。
でも68年版はオマー・シャリフのアラブ系な顔に、色っぽ過ぎるカトリーヌ・ドヌーブの17才設定はかなり無理がある気がします。
まあそれを言うと、戦前のシャルル・ボワイエの版は化粧があまりに1930年代チックだし、意外とオードリーの57年版「マイヤーリング」って合ってたような気がしますね(*^^*)
Posted by みつお at 2018年12月17日 00:33
以前コメントさせていただいたぽんと申します!
いつも更新を楽しみにしています。
ご存知かもしれないのですが、明日12月20日(木) 午後9時00分からNHKのBSのザ・プロファイラーという番組で「“永遠の妖精”の知られざる苦悩~オードリー・ヘプバーン~」が放送されるようです。
私はBSが見れないので、地上波での再放送を気長に待ちます(;_;)
先日初めてローマに行きました!
ここでローマの休日を撮影したんだなあと感慨深かったです。
次回は写真が撮影された場所など、もっとマニアックな場所をリサーチしてから行ってみたいと思いました。
いつも更新を楽しみにしています。
ご存知かもしれないのですが、明日12月20日(木) 午後9時00分からNHKのBSのザ・プロファイラーという番組で「“永遠の妖精”の知られざる苦悩~オードリー・ヘプバーン~」が放送されるようです。
私はBSが見れないので、地上波での再放送を気長に待ちます(;_;)
先日初めてローマに行きました!
ここでローマの休日を撮影したんだなあと感慨深かったです。
次回は写真が撮影された場所など、もっとマニアックな場所をリサーチしてから行ってみたいと思いました。
Posted by ぽん at 2018年12月19日 13:21
ぽんさん、来ていただいてありがとうございます(*´ω`*)
もちろん知ってましたよ。ありがとうございます。
でも明日からの「パリの恋人」に合わせての記事を書いていたらものすごい時間がかかってしまいました。
元々その記事の序文でテレビのことも書こうと思ってたんですが、全然時間が足りなくて…。
でもぽんさんにも教えていただいたので、なんとかアップ出来るようにと、先に「パリの恋人」の記事を優先してお返事が遅れました。
申し訳ありません。
ぽんさんはローマに行ってらしたのですね!
海外のオードリー探索にはinagaraさんのサイトが役に立ちますよ!
それとローマは絶対行ってみたい場所があります!
それはアンドレア・ドッティと結婚していた70年代前半にオードリーが暮らしていたマンションです。
「ローマの休日」もいいですが、オードリーが本当に生活していた場所の石畳とか歩いてみたいな~と思います。
もちろん知ってましたよ。ありがとうございます。
でも明日からの「パリの恋人」に合わせての記事を書いていたらものすごい時間がかかってしまいました。
元々その記事の序文でテレビのことも書こうと思ってたんですが、全然時間が足りなくて…。
でもぽんさんにも教えていただいたので、なんとかアップ出来るようにと、先に「パリの恋人」の記事を優先してお返事が遅れました。
申し訳ありません。
ぽんさんはローマに行ってらしたのですね!
海外のオードリー探索にはinagaraさんのサイトが役に立ちますよ!
それとローマは絶対行ってみたい場所があります!
それはアンドレア・ドッティと結婚していた70年代前半にオードリーが暮らしていたマンションです。
「ローマの休日」もいいですが、オードリーが本当に生活していた場所の石畳とか歩いてみたいな~と思います。
Posted by みつお at 2018年12月20日 17:55
返信ありがとうございます!
やはりテレビ放送ご存知でしたよね、大変失礼いたしました...!
記事を楽しみにしています!
私もオードリーとドッティの暮らしたアパートに行きたいなと思っていました。
高級住宅街らしいので、まわりはどんな雰囲気なのか、オードリーの暮らした時期はもっと物騒だったのかな、などなど。
色々なブログで場所など調べていたのですが、夫がいたので行きたいと言い出せませんでした(;_;)
一人だったら、アナザーストーリーでインタビューしていた行きつけのお花屋さんや、オードリーインローマの写真集片手にマニアックな撮影地巡りをしたかったです。 ちなみに写真集は発売当初、みつおさんの記事を参考にイタリアアマゾンで購入しました(笑)
ローマは石畳が結構ボロボロでデコボコでした。でもオードリーの写真をみると、フェイマス?の散歩でもヒールのあるパンプスやブーツ姿。運動靴でも疲れたのに、オードリーすごいなあと思いました(笑)
やはりテレビ放送ご存知でしたよね、大変失礼いたしました...!
記事を楽しみにしています!
私もオードリーとドッティの暮らしたアパートに行きたいなと思っていました。
高級住宅街らしいので、まわりはどんな雰囲気なのか、オードリーの暮らした時期はもっと物騒だったのかな、などなど。
色々なブログで場所など調べていたのですが、夫がいたので行きたいと言い出せませんでした(;_;)
一人だったら、アナザーストーリーでインタビューしていた行きつけのお花屋さんや、オードリーインローマの写真集片手にマニアックな撮影地巡りをしたかったです。 ちなみに写真集は発売当初、みつおさんの記事を参考にイタリアアマゾンで購入しました(笑)
ローマは石畳が結構ボロボロでデコボコでした。でもオードリーの写真をみると、フェイマス?の散歩でもヒールのあるパンプスやブーツ姿。運動靴でも疲れたのに、オードリーすごいなあと思いました(笑)
Posted by ぽん at 2018年12月21日 00:51
ぽんさん、またまたありがとうございます!
そしてまたまた新しいSCREENの記事を書くのに時間を取られてしまいました。すみません…(ー_ー;)
ぽんさんもローマのオードリーの住所を調べて行きたいなぁと思ってらしたのですね!( ・∇・)
意外と取り上げられないローマでのオードリーの家なので、余計に行きたさが募りますよね!
「エクスラン・ヴァリーエ」もローマのオードリーのマンションで打ち合わせがなされたみたいです。
「AUDREY A ROMA」は僕の記事を参考にしてくださったんですね!ありがとうございます!
そういうのを伺うと励みになりますね(*´ω`*)
ローマの石畳は歴史がある分、凸凹してそうですよね。
ヒールとか履き慣れてるとあまり苦にならないのでしょうか?
その辺はちょっと僕にはわからないですが…(^_^;)
でもオードリーの時代は、オードリーも含めて女性はスカートが多かったのでしょうが、今のイタリア(というか欧州全般)では女性でもパンツルックが多いのではないですか?
それだとなかなかパンプスとか履かなさそうですね。
そしてまたまた新しいSCREENの記事を書くのに時間を取られてしまいました。すみません…(ー_ー;)
ぽんさんもローマのオードリーの住所を調べて行きたいなぁと思ってらしたのですね!( ・∇・)
意外と取り上げられないローマでのオードリーの家なので、余計に行きたさが募りますよね!
「エクスラン・ヴァリーエ」もローマのオードリーのマンションで打ち合わせがなされたみたいです。
「AUDREY A ROMA」は僕の記事を参考にしてくださったんですね!ありがとうございます!
そういうのを伺うと励みになりますね(*´ω`*)
ローマの石畳は歴史がある分、凸凹してそうですよね。
ヒールとか履き慣れてるとあまり苦にならないのでしょうか?
その辺はちょっと僕にはわからないですが…(^_^;)
でもオードリーの時代は、オードリーも含めて女性はスカートが多かったのでしょうが、今のイタリア(というか欧州全般)では女性でもパンツルックが多いのではないですか?
それだとなかなかパンプスとか履かなさそうですね。
Posted by みつお at 2018年12月22日 07:35