2020年04月25日

オードリー・ヘプバーン 1959年に来日予定の記事

オードリー・ヘプバーン 1959年に来日予定の記事 オードリー・ヘプバーンは1983年にジバンシィの30周年のショーでやっと初来日しましたが、実はそれまでも来日の予定は何回かありました。
 今回はそんな記事を紹介。

 見出しは “五月初旬に来日予定のオードリイ”となっています。
 短い記事なのに、重要な事柄が4つも載っています。

 1つめは “オードリイ・ヘプバアンは落馬事故の負傷が癒って「許されざる者」の撮影を再開した”ということ。

 「許されざる者」は今年公開60周年ですが、撮影は1959年1月〜4月。オードリーは1月に落馬して脊椎骨折をしてしばらく撮影から離れています。やっと戻ってきたのは3月。これは3月の記事だということがわかりますね。

 2つめは“次回作品としてアルフレッド・ヒッチコックの「判事に保釈なし」に出演することになっている”ということ。

 「判事に保釈なし」はオードリーが断った作品の中でも「家族の肖像」と並んで有名なもの。オードリーの伝記の全てに書かれています。
 でもヒッチコックが原作にないレイプシーンを入れてしまったことで、オードリー側(オードリー本人か、エージェントかは不明)が契約まで済ませていた出演をキャンセルしてしまいました。

 ヒッチコックはめっちゃ怒ったらしいですね。怒り過ぎて映画の製作自体を取りやめてしまいます。

 後年、オードリーの最後のパートナーのロバート・ウォルダーズにもインタビューして書き上げたバリー・パリスの伝記では、オードリーはヒッチコック映画がそんなに好きではなかったと書かれています。ちょっとシニカル過ぎるんだそうです。

 確かに女性の扱いがひどいという批評はよく見かけますね。「鳥」とか。そして現実ではヒッチコックが相手にされない、ブロンド美女を映画の中で陵辱するのが好き、という変わった嗜好の持ち主である、ということも。

 もしオードリーが「判事に保釈なし」に出演していたら、オードリーの髪もブロンドに染めさせるつもりだったとか書かれていますね。

 「判事に保釈なし」の脚本は凄い出来栄えだったとチャールズ・ハイアムの伝記で書かれています。でもやはり後年、ロバート・ウォルダーズがオードリーに「判事に保釈なし」のことを尋ねたら、そんな話があったことさえ覚えてなかった、とバリー・パリスの伝記に書かれていました。

 撮影した映画でも、プレミアの後では見返さないオードリーですから、ましてや撮影すらしなかった作品なんて…ですよね。

 でも、オードリーにインタビューしただのと偽って “オードリー公認の伝記”というデマで売ったダイアナ・メイチックの自称:伝記のトンデモ本では「脚本を忘れられないわ!」と言ったことになっています。

 また調べもしないでメイチックをベースに書かれた本があります。「幻に終わった傑作映画たち」という本です。最低ですね。
 内容はここで無料で読めます。

 3つめが “ヘプバアンと夫君のメル・ファラァ監督は「緑の館」公開の挨拶を兼ねて五月初旬初来日する模様”という部分。

 オードリーは1983年まで結局来日しませんでしたが、ここで実は「緑の館」宣伝のために来日予定があったということがわかります。
 オードリー作品は次々大ヒットを飛ばしていた日本ですから、「緑の館」もオードリーが来日すれば大ヒット間違いなし!だとメル・ファーラーも思ったんでしょうね。

 また実際にオードリーが来日していたらヒットしていたかもしれませんが、オードリーは「許されざる者」撮影終了後の5月に流産、そしてまた妊娠となったので、全ての予定をキャンセル。当然日本行きも無くなりました。

 そして4つめが “二人の来日は日本ロケ予定映画「神々の嫡子」ロケ下検分を兼ねている”ということ。

 「神々の嫡子」って映画を撮ろうとしていたんですね。これは「緑の館」が成功したら、メル・ファーラーがまたオードリー主演で撮ろうと考えていた作品なのか、それともオードリーは関係ないのか…。

 そこまではわかりませんが、この前後は本当に日本を舞台にした映画が多いですね。「蝶々夫人」「サヨナラ」「八月十五日の茶屋」「青い目の蝶々さん」など。

 それらは今見ると滑稽なシーンとかもあって、人によっては差別だの何だのと異常に騒ぐ人もいるでしょうが、当時の日本の雑誌とかを見ても、決してアメリカも日本も日本を差別的に扱おうとは考えていないことがわかります。まあアメリカ人の考えたカリフォルニア・ロールみたいなものだと考える心の余裕があれば、腹も立たないです。

 さてこれは2018年に東京のJR東日本で講演した際にも持って行った切り抜きです。切り抜いた後本体は捨ててしまったので、雑誌名、何年何月号かハッキリはわかりません。

 でも記事の内容から、大体どれくらいの号かはわかります。「緑の館」公開に合わせて来日、となると1959年5月の日本公開以前、ここに載っているオードリーの写真は「許されざる者」撮影中のスナップ写真でオードリーは回復したということなので1959年3月〜4月。

 となると、“オードリイ・ヘプバアン”という表記からも「スクリーン」の1959年5月号(3月発売)か6月号(4月発売)じゃないかと思われます。
 「映画の友」の当時のオードリーの表記は“オードリイ・ヘップバーン”ですからね。

 この時は実現しなかったオードリーの来日、「おしゃれ泥棒」だったかの時にもう一度オードリーを呼ぼうという試みがあったようですが、そちらも当代随一の大スターのオードリーを呼ぶとなると、費用がかかり過ぎるということでボツになったそうです。

 50年代、60年代に一応来日の計画があったということですが、日本でのオードリー人気は衰えず、71年には「エクスラン・ヴァリーエ」、82年には「銀座リザ」と日本だけのためにCMに出演してくれて、日本へのお礼を兼ねてくれていましたよね。
 「エクスラン・ヴァリーエ」の撮影時にも “日本にもいつか行きたい” と言ってくれていたようです。



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この記事へのコメント
実はTVですが、初めて観たオードリーの主演作が「許されざる者」でした。多分小六か中一の'68~9年だったと思うのですが。以前お話しした兄の購読していた「スクリーン」で勿論オードリーの存在は知っていましたが、バート・ランカスターは既に「空中ぶらんこ」「終身犯」などTVで観ていたのでそれで視聴したのかも。「おしゃれ泥棒」のリヴァイヴァルでのファン事始めまではまだしばらく時間があったわけで。

ところがまた脱線ですが'59年には秋にカラヤンがウィーン・フィルを率いて世界ツアーの途中で来日しているのですね。前年結婚したエリエッテ夫人とのハネムーンを兼ねてということで。

ディオールの専属モデルだった芳紀二十歳のパリジェンヌとオケと共にチャーター機で羽田に降り立ち、夫人のパスポートに不備があったとかで一同空港に留め置かれ、連絡を受けた駐日オーストリア大使が外務省に
「カラヤン夫人のことなど知らんがウィーン・フィルはわが国の最重要文化使節団だ。すぐ入国させろ!」
と怒鳴りこんだとやら。

その後もザルツブルク・イースター音楽祭などでは、場内の照明が落ちてから夫人がスポットを浴びて着席し、その後にようやくカラヤンがオケピットに姿を見せるという具合だったとか。つまりは似た者同士の夫婦だったのでしょうね?
Posted by Edipo Re at 2020年05月01日 10:34
こんにちは!
Edipo Reさんがお元気で安心しました。

「許されざる者」、68だか69年だかに最初の放映があったんですね。
それが池田昌子さんの最初の吹替だったんでしょうね。
そして71年リバイバルがオードリーファンのきっかけだったと。
なにせ70年代前半までのオードリーのリバイバルをリアルで観れた方は本当に羨ましいです。大きな劇場で、きっと迫力も凄かったんでしょうね!

59年のカラヤンというと、つい「画家マチス」を思い出します。
カラヤンに1度きりの録音というものがあるので、欲しい!と思ったりしたんですが、59年録音?の「画家マチス」はさすがに録音が古すぎて躊躇してしまい、未だに聴いたことがありません。
クラシックを聴き始めたのは79年からなので、いくらなんでも50年代は古いと思ってしまいました。50年代録音だとモノラルというものも多いですしね。

それと、ウィーン・フィルのエピソードは面白いですね。
確かにカラヤン夫人は知りませんが、ウィーン・フィルを足止めするとは何事だ!と怒るのもわかります笑。

しかし目立ちたがりの夫婦ですね。まあカラヤンはいいのですが、夫人まで、なんで?と思いますね。なんとなく今ならベッカム夫人みたいな感じなんでしょうか。昭恵夫人はまた違う目立ち方ですよね。
Posted by みつおみつお at 2020年05月02日 16:02
みつお様、ご心配頂き有り難うございます。都心部もまるでゴーストタウンのような静けさで、喧騒嫌いの当方などは清々しく思ってさえいます。実はオードリーファンになった同じ頃に写真を齧っており、休日の早朝などにカメラ担いで無人の銀座の風景を撮ったりしていたのです。学園祭で好評だったりもしたのですが、今なら早起きの必要も無いかも?

断捨離後も幸い蔵書、映像及び音楽ソフトは潤沢にありますので、巣籠もり生活はまるで苦になりません。おまけに料理好きの家呑み派ですので、近くのスーパーに週二ほどの買い出しで充分で。とはいえ平穏な日々が戻ることを願う気持ちは誰しも同じですが。

カラヤン夫妻の続きですが、やはり「楽壇の帝王」と30歳下のトップモデルの組み合わせとなると、否応なしに耳目を集めたのでしょうね。確かにベッカム夫妻と良い勝負かも。'60年代後半に、カラヤンのアニータ前夫人がバーンスタインの演奏会に現れ、取り巻きに
「あの方こそ指揮者というものですわ」
と当てこすり?を言っていたとか。またエリエッテ未亡人の回想によれば、カラヤンの没後しばらくしてカルロス・クライバーが墓参に訪れたと。ところがクライバーは意外にも未亡人の顔を知らなかったらしく、墓地の入口で偶然出会った未亡人に場所を訊き、丁重に礼を述べて去ったとやら。何やら不可思議なエピソードです。

まあおよそ指揮者ほどモテる職業もないようで。たった一人で100人ほどのオケを意のままに操るのですから、女性の一人や二人は赤子の手を捻るが如しなのでしょう。離婚率の高さもかなりで、船乗り同様「港港に女あり」も確かかも?

ご入院の延期など、さぞ落ち着かない日々をお過ごしかと。くれぐれもご自愛くださいませ…。
Posted by Edipo Re at 2020年05月03日 03:08
つい一時間ほど前、NHK総合「桂文枝の演芸図鑑」を観ていましたら、対談ゲストの浜美枝さんがロンドンでオードリーと遭遇した思い出を語っておられました。「007は二度死ぬ」出演のための英会話の特訓で訪れたロンドンのドーチェスターホテルで、ロビーの空気が一変したのでエントランスの回転ドアの方を見やるとまさにオードリーが入って来たところで、文字通りのオーラを感じたと。恐らく'66年でしょうか…。
Posted by Edipo Re at 2020年05月03日 06:51
確かに何かのテレビ番組であるカメラマンが早朝なら無人の銀座が撮れるが、渋谷のスクランブル交差点は早朝でも人が必ず居るという事でしたが、今なら早朝にスクランブル交差点でも無人で撮れそうですね。

今はとにかく家にいることが多いのですが、次々と神戸の病院で感染が広がっていて、果たして僕の入院・手術は可能なのか疑わしくなってきました。

そういえば、オードリーではないのですが、廃れゆく3Dを買っておこうと「タイタニック」の3D版ブルーレイをポチッとしました。
これもテレビを買い換えたらもう見れませんよね。今だけの楽しみです。
なんか昔の「タイタニック」DVDはレーザーディスク素材から作ったものだったとか。そりゃレターボックスで画質も悪いですよね。
今の3Dブルーレイは新しいマスターに加えて、シネスコサイズからビスタサイズに変更されていて、撮影されたもののシネスコに合わせてカットされていた上下黒帯の部分が見れるとか。
そういえば同じく35mmで撮影されながらビスタサイズ画角で撮られて上下カットされていたオードリーの「昼下りの情事」「シャレード」「暗くなるまで待って」なども35mmサイズで見てみたいですね。
「緑の館」「おしゃれ泥棒」「いつも2人で」などはパナビジョンなので、元々シネスコサイズだと思いますが。

カルロス・クライバーのお墓の話は興味深いですよね。思わずクライバーの「運命」とべー7を聴いてしまいました。
本当にもっと録音して欲しかった!R・シュトラウスの「英雄の生涯」なんかめっちゃ好きなので、クライバーのを聴いてみたいです。
そういえば、やっぱりクラシック界は指揮者が1番ですよね。ついでソリストたちでしょうが、名前が聞こえてくるのは圧倒的に指揮者ですもんね。

「007は二度死ぬ」撮影時だったら確かに66年ですよね。
ということは「おしゃれ泥棒」かその少し前の時期。オードリーは髪をショートにして、ガラリと雰囲気を変えてきた頃ですね。オーラ、凄そうですよね。その時期のオードリーは「凄艶な美しさを増して」という表現がされていました。
Posted by みつおみつお at 2020年05月03日 22:40
ご存知でしょうが、'93年5月にクライバーはウィーン・フィル定期で「英雄の生涯」を演奏し、ソニークラシカルがライヴ収録したのですが、CD発売直前にドタキャンとなりました。HMV銀座などは店内ディスプレイも設えていたのですが。恐らく商品も問屋まで来てたと思われるので、原盤ともどもソニークラシカルの倉庫に眠っていると思われます?

NHKFMでオンエアもあったのですが、全曲40分弱のいつもながらの快速でした。恐らくエアチェック音源の海賊版CDも出ましたが入手しませんでした。

まあ録音してドタキャンはこれのみみたいですが(「トリスタン」はDGが見切り発売)たまたま昨晩NHK「クラシック音楽館」で、ファビオ・ルイージとN響の「英雄~」を聴き、ソロを弾くゲストコンマスが元ウィーン・フィルのライナー・キュッヒルだったので当方もクライバーのことを思い出していました。一部ではクライバーとキュッヒルが対立したなんて噂もあったのですが、発売OKしたのですから真の理由はクライバーのみぞ知るところなのでしょうね。

以下、クライバーの録音キャンセルの例ですが
オケの用意したパート譜に臍を曲げて行かず('82ベルリン・フィル「新世界」)
リハ途中で「ブルーになった」('82ウィーン・フィルとベートーヴェン4番、「田園」
最初のリハでミケランジェリともめて楽屋に立てこもり('75ベルリン放送響「皇帝」)
スタッフキャスト勢揃いしてるのにトンズラ('76ドレスデン「ヴォツェック」'79スカラ座「ラ・ボエーム」)

どのケースも逃げ出す口実を探していたとおぼしくすらあるのですが、こんな厄介なマエストロの実演に何度も接し得たのですから、我ながら幸甚だったと今更ながら思います…。
Posted by Edipo Re at 2020年05月04日 08:10
「英雄の生涯」、NHKFMでオンエアもあったんですかー!
でもライブ録音だったんですね。もちろんカルロス・クライバーではそのライブ録音ですら貴重なんですが、観客のゴホゴホとか入らないスタジオ録音の方が好きなんですけどねー。
でもCDまで作ってキャンセルって、これはクライバーが違約金か何か払ったんでしょうかね。それとも“気に入らなかったらキャンセルしてもOK”みたいな条項があったとかでしょうかね。
遺族の方は発売OKにしてくれないんですかね?してほしいなー。

僕は同じ曲ならスピードの速い方が好きなんで、クライバーとかめっちゃ好みなんですが、それにしても録音の少なさは…。

なんか「新世界」までベルリン・フィルと予定があったとか!実現して欲しかった!最高の新世界になってたでしょうねー。
パート譜ごときで、って思ってしまいますよね。ベルリンフィルなら「新世界」なんてお手の物で暗譜すらしてそうなので、パート譜を変えるだけじゃダメだったのかなー…。
もう最初の顔合わせ前に色々チェックしてもらっておいたほうがいいですよね。

他にも「田園」「皇帝」とか、絶対に聞きたい曲も…めっちゃ勿体無い!!でも「皇帝」はミケランジェリですか。組み合わせとしてはどうなんでしょう?
あんまりピアニストのことは知らないんですけども、演奏スタイルはクライバーと合ってますか?
Edipo Reさんならどのピアニストとクライバーの演奏を聴いてみたいですか?

でもそう考えると、ドヴォルザークのピアコンって貴重すぎますよね。
曲もメジャーじゃなくて、クライバー好みでもなさそうだし、よくキャンセルしなかったですね!
Posted by みつおみつお at 2020年05月05日 06:59
リヒテルは「鉄のカーテン」の向こうの「幻のピアニスト」という触れ込みで西側に現れ、最初の渡米でこそフリッツ・ライナーと大喧嘩なんて話が伝わってきましたが、若き日にパリで共演した岩城宏之氏によれば驚くほど誠実かつ低姿勢で、おまけにかなりのアガリ性だったとか。事実共演した西側の指揮者はカラヤンからムーティまで数多く、クライバーとのドヴォルザークは多分「ヴォツェック」キャンセルの替わりの企画だったかと。まあ何故この曲?って印象は当時も持ちましたが。

ミケランジェリとはハンブルグで「皇帝」が何故か大成功し、それを承けての企画だったのですが案の定の結末で。一説にはミケランジェリがクライバーそっちのけで首席チェリストとやり取りしたとか休憩中にクライバーのスコアの書き込みにケチをつけたので気分を害したとかですが、二人とも名うてのキャンセル魔ですしハナからやる気無かったとおぼしいですね。クライバーはいつも正式な契約書を交わさなかったとの話もあり、常に逃げ道を用意してたのかも。

また'86年の来日時にポリーニのリサイタルを訪れ、小澤征爾夫妻を交えて会食した話は前に書きましたが、その際関係者が
「ポリーニとは共演しないのですか?」
と訊いたらクライバーは
「ただでさえ友達が少ないのに、減らしたくはないよ」と応えたとやら。

少し想い出ですが'80年代前半までラジオ技術社「ステレオ芸術」なる月刊誌があり、カヴァーストーリーで「夢のレコード」なる企画を募集していたのです。確か'80年1月号でしたが、アルゲリッチとクライバー&ウィーン・フィルのブラームス第2ピアノ協奏曲で応募し、採用されました。拙いストーリー仕立てでしたが、知り合いにはウケた記憶が。実際にはアルゼンチン育ちの二人にも拘わらずほとんど面識も無かったらしいのですが、後年アルゲリッチが別府で音楽祭を始めてからとあるジャーナリストが共演の可能性を問うたらお忍びで箱根を訪れていたクライバーのことをアルゲリッチも聞いていたらしく
「彼も温泉好きらしいから、出来ると良いわね」
などといかにも社交辞令的な答えをしてましたが。これまたキャンセル魔同士でしたし。

つまるところ、好きなピアニストはミケランジェリとアルゲリッチの二人なのです。正反対のような両者ですが何故かそれぞれに惹かれるもので。ミケランジェリはフラれもしましたが'92年秋の最後のリサイタル(平日の昼間!)に間に合ったのが想い出です。

'70年代半ばにコヴェントガーデンからミュンヘンのクライバーに急な出演の打診があり、応えていわく
「今、息子に水泳を教えてるんだ。プールのあるホテルを用意してくれたら行くかも」
との返答で急遽手配したらクライバー渋々ロンドンに子連れで現れ、ロイヤルオペラデビューとなったと。息子は溺愛してたらしく、ウィーンでキャンセルした「田園」をミュンヘンで演奏し、それを客席録りしたのも息子のマルコだとか。後年かなり音質の悪い正規CDが独オルフェオから出ましたが。'94年「ばらの騎士」DVDのエンドロールに「演出補=マルコ・クライバー」の名がありましたが、息子が「親父の『英雄の生涯』聴きたいよ」と言ってたら発売されたかもですね。もはや遅かりしでしょうか…。

オードリーと関係ない話題を長々と失礼しました。またよろしくお願いいたします。
Posted by Edipo Re at 2020年05月05日 12:58
いえいえ、Edipo Reさんのクラシックのお話、面白いので、思わずニコニコ(ニヤニヤ?)しながら読んでしまいましたよ。

演奏者の性格はよく知らない人が多いんですけど、リヒテルが低姿勢だったとは知りませんでした!かなりの高圧的な感じで新人クライバーにドヴォルザークのピアコンを振らせたのかと思っていたので…。
でもドヴォのピアコンにとってはこれ以上はない組み合わせで録音されたので、ドヴォルザーク好きな僕としてはめっちゃありがたいことですけれども。

それと、ポリーニとは友達だったんですね。ポリーニとクライバー、これまた物凄い組み合わせですね!友達なら譲り合って…とかはできないもんだったんでしょうかね。王者の風格、実現してほしかった!それこそ「皇帝」とか録音してほしかったです。

アルゲリッチとクライバーという組み合わせも快速の激情コンビ?でゾクゾクしますね!僕的にはこっちの組み合わせの方がワクワクします。こちらはチャイコフスキーのピアコン(できれば全集)がいいなあと思いますが、クライバーはチャイコには興味なかったのかな?

「ステレオ芸術」、あれ?僕がよく見てたのは?と思いましたが、それは「レコード芸術」でした。でもEdipo Reさんの考えた組み合わせが採用されるなんて、凄いですね!
92年のミケランジェリのリサイタルも行けて良かったですね!

僕が唯一行こうとチケットを取ったのはムラヴィンスキーのコンサートでしたけど、体調不良で来日キャンセルになってしまいました。指揮者が他の人に変わりましたけど、ムラヴィンのチャイコ目当てだったので、それはもちろんキャンセルしました。
カラヤンとかは高くて手が出ませんでしたけど、今から考えるといろんな演奏家のを行っておけば良かったですかね。今から考えると凄い演奏家が当たり前にいっぱいいたんですよね!

クライバーの「田園」、ライブのがあったのは知っていましたが、そんなに音が悪かったんですね。流石にそれはなあ…。グラモフォンで「運命」とかとシリーズできちんとスタジオ録音してほしかったです。

そういえばシューベルトも「未完成」のカップリングが3番て凄いですよね。まあ当時はアナログ時代だったので、タイム的に「ザ・グレート」は組めないにしても、普通は5番か、せいぜい4番の「悲劇的」だろうと思うんですが、どっから3番になったんでしょうね。
もちろん3番からしたらスポットライトを当ててもらえて嬉しかったでしょうけどね。しかも天下のクライバーですからね。
Posted by みつおみつお at 2020年05月07日 07:31
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