2023年03月27日

オードリー・ヘプバーン初来日40周年記念 マリ・クレール1983年4月号インタビュー

オードリー・ヘプバーン初来日40周年記念 マリ・クレール1983年4月号インタビュー 今日はオードリー・ヘプバーンが日本に初来日してちょうど40年になります。

 1983年3月27日、オードリーは日本に到着しました。
 なんのための初来日だったかというと、自分の映画の宣伝などではなく、日本で開かれるジバンシィのメゾン設立30周年記念ファッションショーのため。
 友情に厚いオードリーならではの動機ですよね。

 今回は来日前のオードリーのインタビューが載っている「マリ・クレール・ジャポン」1983年4月号の紹介。
 この本は昔に分解してしまっているので、表紙などは残っていません。

 僕は来日した日は知りませんでしたが、「スクリーン」の“スクリーン特別編集 オードリー・ヘプバーン”第3集によると1983年3月27日だったことがわかります。

 この時のことはまた別のインタビューでオードリーは飛行機の南回りで来たと語っていましたね。ヨーロッパから23時間かかって日本に来たとか。
 そんなに長い間、僕ならとてもじゃないですけど乗れません。

 まあオードリーなら当時お金持ちだった日本のスポンサーが招待して、もちろんエコノミーではなくファーストクラスで来たでしょうけどね。
 この時は確かショーンとルカも一緒に来てましたよね。ロバート・ウォルダーズは何日か後でひとりで来てました。

 ここでのインタビュー記事でも、まずオードリーのガードが固いことが書かれています。

 1年に5回以上インタビューは受けないこと、そのインタビューも決められた5カ国に限ること、それも30分で面会が終わりと決められていることが書かれています。
 なぜ30分かというと、30分以上になると私生活に立ち入った質問になるからだそうです。

 ユニセフの活動を始めてからは、自分のプライベートを切り売りしてでも世界の恵まれない子どもたちを救うために頑張っていたオードリーでしたが、1983年はまだ自分の子育てを最優先にしていたころ。これだけオードリーにインタビューするというのはハードルが高かったのですね。

 さて、この「マリ・クレール」はその難関をどうやってくぐり抜けたのかというと、まずローマとトロシュナの家に手紙を送って、電話する段取りを取り付けたとのこと。

 それでローマに電話をするとおそらく息子(ショーン、ルカ、どっちなのかは不明)が出てそのあと交代してオードリー本人が出たとのこと。
 オードリーはその時キッチンで手が離せない状態だったらしい上に、もともとインタビューは断るつもりだったらしく、恐縮していたとのこと。
 それで一旦電話を切って後で掛け直すことになったと。

 約束の時間に掛け直すと、電話に出たのはオードリー本人だったそうで、インタビューを断ろうと待っていたそう。
 実はその日ロンドンからも今回の日本行きに関しての電話があったそうで、一つ断ったのに、別のは受けたら悪いでしょう?と言ったそうです。

 そこでインタビュアー(在パリの日本人の方)の人は質問リストをやめて、さっき台所にいたのは、料理もなさるのですか?とインタビューらしくない質問からに切り替えたそうです。


オードリー・ヘプバーン初来日40周年記念 マリ・クレール1983年4月号インタビュー

オードリー「ローマにいるとスパゲッティを作りますね。でもこんな風にお話ししているとインタビューになって他の人に悪いでしょう?」

 でもここでインタビュアーが息子のことなどを訊いて食い下がったんですよね。それでインタビューが続いています。(中略)

インタビュアー「今まで日本には1度もいらっしゃらなかったですよね?」

オードリー「ええ、何度もご招待を受けながら、1度も実現できなかったのです。」

インタビュアー「日本をどんな風に想像してらっしゃいますか?日本人のお友達はいますか?」

オードリー「何人か知っています。でもこうしていると、本当にインタビューになってしまいますね。」

インタビュアー「でも日本では何をご覧になりたいですか?」

オードリー「全部です。今回はあらゆるものを見たいという気持ちです。あちこち行きたいですが、東京と大阪でジバンシィのコレクションのために出演します。」

インタビュアー「日本では皆あなたを知っていて、楽しみに待っていますよ。」

オードリー「映画に詳しい人は、でしょう?」

インタビュアー「いいえ、誰でも知っていますよ。」

オードリー「こうしてお話ししていると、本当に例外を作ってしまいますね。イタリアやフランス、そして日本からもいろいろ申し込まれているのですが、どうしてこんなに、といつも思ってしまいます。」

 (中略)その後もジバンシィや息子のことを聞きながら、うまく電話を切られずにインタビューが続きます。

インタビュアー「あなたは今もジバンシィを着ていますか?」

オードリー「(笑い声)いいえ、ジーンズにセーターでお話しています。ジバンシィの服はよそ行きのためです。」

オードリー・ヘプバーン初来日40周年記念 マリ・クレール1983年4月号インタビュー (後略)そのあとは映画に出る予定は無いのかとか、家庭のことを質問しているのですが、そのあとでロバート・ウォルダーズのことをいくつかインタビュアーが質問して、日本にも遅れてくることをオードリーが答えると、オードリーは「それではこれでお別れしなければ。」と答え、プライベートに立ち入ったことでインタビューが終わりと感じたインタビュアーによって終了となっています。
 それでも20分ほどは話していたそう。

 この文章を書いたインタビュアーはオードリーに詳しくは無いのでしょうけど、メル・ファーラーとは1963年離婚、アンドレア・ドッティとは1977年離婚だとか、全然違うことを書いてます。

 それにオードリーと電話してるのに、プライベートのロバート・ウォルダーズのことを訊くのはどうかと思いますよね。結局誰でも知っていることしか訊けてないし、なんか他のことを長く訊いた方が良かったように思いますね。

 オードリーはインタビューを受けるのを嫌がってたのがめっちゃわかりますし、それでも食い下ってオードリーの嫌いなプライベートのを訊くってどうかなーと思いますけど、それでもなんとか答えてくれたオードリーの優しさに感謝です。

 まあそれでも来日前の唯一の貴重なインタビューだし、オードリー自身の口から日本にはまだ行った事がないと聞けて、それまでに日本に来ただのっていう噂(デマ)は一蹴していますね。

 インタビューの中でも、「ジバンシィのショーが第一です。友人のためなのですから。」と語っていて、オードリーとジバンシィの絆を感じますね。

オードリー・ヘプバーン初来日40周年記念 マリ・クレール1983年4月号インタビュー 載っているオードリーの写真は2点。1つめはいつのものかわかりませんが、2つめの写真はキャプションは無いですが、おそらく前年に開かれたニューヨークでのジバンシィ30周年ショーの時のもの。

 日本でのショーでは赤と黒のドレスを着ていましたが、ニューヨークではこのオードリーお気に入りの黒のドレスを着てたんですよね、

 この黒のドレスは、ショーンの1回目の結婚式でも着ていましたし、87年の「おしゃれ泥棒2」でも着ていましたよね。
 「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル」展図録では1982年のジバンシィコレクションだったそうです。

 「timeless audrey」展のポスターではこのドレスがメインのレアな第3のポスターも作られました。

 さて、この時の東京でのジバンシィ・ショーは僕も見にいきました。
 その時のお話は僕のもう一つのブログ、「おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!」の方で。
 62.本物のオードリーを見た!その1
 63.本物のオードリーを見た!その2
 64.本物のオードリーを見た!その3


タグ :来日雑誌

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