2007年08月10日
最悪の1冊再び! 吉村英夫:著「麗しのオードリー」
これが僕のこの本に捧げる言葉です。
これは講談社から1993年年末か、94年年始に発売された、僕の大っ嫌いな吉村英夫氏のオードリーに関する著作、第2弾です。
前作、「ローマの休日 ワイラーとヘプバーン」でも見られた、この人特有の狭量な視点や独りよがりの決め付けが、昔ながらのファンを不快に、新しいファンを歪めてしまう可能性大の本に仕上がっています。
著者はあとがきで、“スターの実像に迫る”、また“陳腐な独断であっては困る”と書いているのに、ここで描かれているオードリーは、ものの見事に吉村英夫氏だけの考えでの“虚像”であり、“陳腐な独断”に陥っている!
さらにたちが悪いことに、著者は自分で作り上げた「オードリー」にえらく満足しているらしいこと。
このような見方しか出来ない人に、正直オードリーのことは書いて欲しくない!というのが僕の考えです。
また、僕の知っているオードリーファンは、かなりこの著者を嫌っていることもわかっています。
この著者は、“自分が共感できない=出来が悪い” と “志が高い=いい作品” というのをモットーにしているようで、その観点からすべての作品に対して次々と“決め付け”が行われています。
そして、例によって「ローマの休日」至上主義。「ローマの休日」は非常にいい出来であることは認めるものの、ここまで勝手に引っ張られてはうんざりを通り越して怒りすらおぼえるほど。
オードリー自身も“「ローマの休日」のアンを損なわない”ということで役を選んできたとおっしゃる。
…あのねー単に夢を与える役を選んだだけであって、過去の作品をほとんど振り返らない(見もしない)オードリーが、そこまで「アン王女」という呪縛に捉われていたとは到底考えられないのですけど。
これもなんの根拠も無い、この著者の想像の産物の1つです。
さらに “変身物語”ばかりの役を選んできたと鬼の首を取ったように騒いでいますが、過去に幾人もの評論家が書いてきたこと。
しかもこれもオードリーからすればきっとたまたまなんだと思いますよ~。無理矢理“変身物語”の範疇に入れてるのもあるし。こんな考え方、オードリーが聞いたら本人がびっくり!だと思いますよ~。
次の「麗しのサブリナ」ですが、確かに、サブリナの行動には男ならあまり共感はできないと思います。実際初公開時に「麗しのサブリナ」を評価したのは淀川長治と三島由紀夫だけ、と言われることもありますし。
でもそれと映画としての出来は別問題。双葉十三郎氏の評価でも「麗しのサブリナ」は80点です。
ところが、この本の中で「麗しのサブリナ」は何度も“失敗”と言われてしまう。
しかも、その後にはオードリー自身も“「麗しのサブリナ」で父と娘を描いた部分が一番うまくいったことを記憶していた”と勝手な創作をしゃあしゃあとお書きになる。
現実のオードリーが思ったりしてないことでも勝手に創作して、さもそれが本当のことのように書く才能は、あの淀川長治さんもびっくり!故意に読者を騙したダイアナ・メイチックの世界に入ってます。
このような勝手な創作と決め付けが次々と行われていくので、「尼僧物語」や「噂の二人」には高い評価を与えても、最もオードリーの個性をうまく使った「パリの恋人」「シャレード」「いつも2人で」のスタンリー・ドーネン監督の作品は一般よりも低い評価しか与えられていないし。
「許されざる者」は“この程度の人種観”、「おしゃれ泥棒」は“何を描きたいのか理解に苦しむ”、「いつも2人で」は“明日にでも破局が訪れそう”…あーもう全然ダメだね、こりゃ。
こういう見方しか出来ない人なので、オードリーの個性が一番輝いた「ティファニーで朝食を」は“退屈、中身のないのを隠せない”とのたまうし、でも一般には代表作なので、“代表作という人がいるのも理解できる”と逃げる。そしてこの作品までもを無理に成長物語と位置づけようとしているし。
これでは「ティファニーで朝食を」の魅力に気づかないのも当たり前。
この著者は、なんでもかんでも「ローマの休日」をものさしとして観るので、「ローマの休日」から大きく離れたことでオードリーの個性が逆にきらめいた「ティファニーで朝食を」なんかは、著者には理解不能な作品なんでしょうね。
ユニセフでの活動や、「オールウェイズ」出演も、この著者にかかると“スターとしての栄光の甘さを知り尽くしている”、“美談として世界中にPRされる、存在がアピールされる”とすっかり目立ちたがりの私利私欲にまみれた俗物オードリーになってしまう。
何も僕もオードリーを神聖化しようとも思ってないけれど、これではあんまり。他にも人間オードリーを見せようとして、非常にひどいコメントが綴られます。
著者の低俗な考えのレベルまでオードリーが引き降ろされてしまってる。
しかも、この本では日本でのオードリーの人気の変遷には全く無頓着。「ローマの休日」だけでオードリーがここまで人気を保ったかのように、そして「暗くなるまで待って」でオードリーの人気は落ち着いて、死後に再評価されたかのように書いてあって、これじゃあ日本でのオードリーの人気は探れないよね、って感じ。
どうもこの著者がオードリーに興味を持ったのは、「ローマの休日 ワイラーとヘプバーン」を書いた後のことのようで、あまり昔の資料を調べてないらしいことが、次の著作「誰も書かなかったオードリー」でも露呈します。
他にも山のようにこの本にはダメダメなところはあるけれど、まあキリがないので。
なんでこんなきちんと調べもしてない人がオードリーのことを書けるの?っていうのが正直な感想。題名とはうらはらに、著者によって捻じ曲げられた、全然麗しくない卑俗なオードリーがここにいます。
膨大な資料を基に書かれたオードリーの数々の伝記でさえ嘘や間違いがあるのに、ましてやこの著者の書いてることを決して鵜呑みにしないように!オードリーファンなら心してくださいです。
ネットで、この本の一部をそのままパクッた某大学の学生の論文というものも見つけてしまいまして…。著者の勝手な創作や思い込みでも、本になってしまうといかにまだオードリーに詳しくない人間に悪影響を与えるか、という見本を見せてもらったようでした。
読んで怒りを覚えたいならどうぞ、っていうシロモノ。絶版になって、あーよかった!まさに悪書!
オススメ度:なし。マイナス1000点!
Posted by みつお at 15:00│Comments(13)
│批評・評論など
この記事へのコメント
入間洋です、今晩は!吉村英夫という著者は全く知りませんが、随分ひどそうなので逆に読んでみたくなりました。それはまあ良いとして、ブログサイトの名称にもある「いつも2人で」の監督でもあるスタンリー・ドーネンについてですが、彼は初期の「雨に唄えば」(1951)あたりを除くとどうも一般に軽く見られる傾向があるようですね。「シャレード」や「アラベスク」はミステリースリラー仕立てですが、これらをたとえばミステリースリラーの神様ヒチコックの作品と比べてみるとその相違が明瞭になります。要するに、ドーネンの場合には、更にコメディ要素が付け加わっているので、焦点があまりにも分散しすぎて見る人によっては極めて中途半端に見えるということかもしれません。
勿論ヒチコックの作品にもコメディ要素が加味されているものが多いのは事実ですが、彼はその点に関しては要領を得ていて、ミステリースリラーのシャープさが失われるケースとそうでないケースをうまくより分け、後者である場合にのみコメディタッチを加えています。それは作品別にも言えますし、一作品の中のみに関しても言えます。後者の例を挙げれば「鳥」(1963)では、太鼓腹の彼がチラリと登場する冒頭のペットショップシーンにのみコメディ要素が加えられていますが、それ以後コメディ色は全くなくなります。それに対してドーネンは、意識的にミステリースリラーの持つシャープさをコメディ要素で緩和して混ぜ合わせ、わざわざカドを取っているような印象があり、それが彼の1つの特色でもあり、また私めが彼の作品を好む理由でもあります。見る人によってはそのような彼の特色が生ぬるく感じられるのかもしれませんね。
それはミステリースリラー以外のジャンルでも等しく言えることで、一例として私めが大好きな作品である「芝生は緑」(1960)を挙げてみましょう。この作品は、好きな人と嫌いな人が結構明瞭に分かれる作品であり、嫌いな人がこの作品を見るとどうやらつまらない会話が延々と続くように見えるのではないかと思われます。私めはこの作品の大ファンなのでいやいやそんなことはないと言いたいところですが、嫌いな人のそのような印象にも一理あることは認めざるをえないところです。というのは、この映画にはシャープさが欠如していると指摘されれば、その事実自体を否定することはできないからです。
それは、「芝生は緑」と同様2組のカップルが登場する作品でありこれまた私めが三度のメシよりも好きな「真面目が肝心」(1951)とそれとを比べてみると明確になります。実は「真面目は肝心」は映画としては日本未公開ですが、オスカー・ワイルドの戯曲が原作であり、そのシャープ且つスピーディ且つきらめくようなウイットに富んだ会話回しはこれぞワイルドの映画化と思わせるようなシャープさがあります。それに比べると「芝生は緑」の会話廻しはウイットに富んではいても必ずしもシャープとは言えず婉曲的であるような印象が強くあります。そのような展開がモタモタするような印象をオーディエンスに与えるとしても、それは必ずしもオーディエンスの側に辛抱が足りないからだとは一概に言い切れないところがあります。このようにして、ドーネンの殊に60年代以降の作品には、見る人によって評価が分かれるというか必要以上に軽く扱われるケースがしばしばあるように思われます。
それから、「おしゃれ泥棒」ですが、実はこの作品、最近まで個人的にはあまり評価していませんでした。そういうわけなので以前は、吉村氏と同じように「何を描きたいのか理解に苦しむ」と思っていたようなフシがありました。しかし、オリジナルのワイドスクリーン比率を維持し、画像もリストアされたDVDバージョンを見てから大きく評価が変わりました。そのゴージャスさに始めて気がついたのですね。この作品は、映画館で見たというのでない限り、DVDが発売される以前は正しく評価され得ないような作品であったのではないかと今では考えていて、その意味ではDVDが出回る以前の1990年代に書かれた吉村氏の文章には情状酌量の余地があるようにも思われます(但し彼が劇場で見てそれを明瞭に覚えていたというのであれば別ですが)。
最後に映画とは関係ありませんが、昨今大学では学生がWikipedia等から勝手に記事をコピーしてレポートや論文に加えるケースが多くなって困っているそうですね。まあしかしこれは必ずしも学生のみを責めるわけにもいかないのではないかと思っていて、創造的であるとはどういうことかということを教えきれない学校教育そのものも反省する必要があるのではないかと思っています。・・・とこれはちょっと余談でした。
勿論ヒチコックの作品にもコメディ要素が加味されているものが多いのは事実ですが、彼はその点に関しては要領を得ていて、ミステリースリラーのシャープさが失われるケースとそうでないケースをうまくより分け、後者である場合にのみコメディタッチを加えています。それは作品別にも言えますし、一作品の中のみに関しても言えます。後者の例を挙げれば「鳥」(1963)では、太鼓腹の彼がチラリと登場する冒頭のペットショップシーンにのみコメディ要素が加えられていますが、それ以後コメディ色は全くなくなります。それに対してドーネンは、意識的にミステリースリラーの持つシャープさをコメディ要素で緩和して混ぜ合わせ、わざわざカドを取っているような印象があり、それが彼の1つの特色でもあり、また私めが彼の作品を好む理由でもあります。見る人によってはそのような彼の特色が生ぬるく感じられるのかもしれませんね。
それはミステリースリラー以外のジャンルでも等しく言えることで、一例として私めが大好きな作品である「芝生は緑」(1960)を挙げてみましょう。この作品は、好きな人と嫌いな人が結構明瞭に分かれる作品であり、嫌いな人がこの作品を見るとどうやらつまらない会話が延々と続くように見えるのではないかと思われます。私めはこの作品の大ファンなのでいやいやそんなことはないと言いたいところですが、嫌いな人のそのような印象にも一理あることは認めざるをえないところです。というのは、この映画にはシャープさが欠如していると指摘されれば、その事実自体を否定することはできないからです。
それは、「芝生は緑」と同様2組のカップルが登場する作品でありこれまた私めが三度のメシよりも好きな「真面目が肝心」(1951)とそれとを比べてみると明確になります。実は「真面目は肝心」は映画としては日本未公開ですが、オスカー・ワイルドの戯曲が原作であり、そのシャープ且つスピーディ且つきらめくようなウイットに富んだ会話回しはこれぞワイルドの映画化と思わせるようなシャープさがあります。それに比べると「芝生は緑」の会話廻しはウイットに富んではいても必ずしもシャープとは言えず婉曲的であるような印象が強くあります。そのような展開がモタモタするような印象をオーディエンスに与えるとしても、それは必ずしもオーディエンスの側に辛抱が足りないからだとは一概に言い切れないところがあります。このようにして、ドーネンの殊に60年代以降の作品には、見る人によって評価が分かれるというか必要以上に軽く扱われるケースがしばしばあるように思われます。
それから、「おしゃれ泥棒」ですが、実はこの作品、最近まで個人的にはあまり評価していませんでした。そういうわけなので以前は、吉村氏と同じように「何を描きたいのか理解に苦しむ」と思っていたようなフシがありました。しかし、オリジナルのワイドスクリーン比率を維持し、画像もリストアされたDVDバージョンを見てから大きく評価が変わりました。そのゴージャスさに始めて気がついたのですね。この作品は、映画館で見たというのでない限り、DVDが発売される以前は正しく評価され得ないような作品であったのではないかと今では考えていて、その意味ではDVDが出回る以前の1990年代に書かれた吉村氏の文章には情状酌量の余地があるようにも思われます(但し彼が劇場で見てそれを明瞭に覚えていたというのであれば別ですが)。
最後に映画とは関係ありませんが、昨今大学では学生がWikipedia等から勝手に記事をコピーしてレポートや論文に加えるケースが多くなって困っているそうですね。まあしかしこれは必ずしも学生のみを責めるわけにもいかないのではないかと思っていて、創造的であるとはどういうことかということを教えきれない学校教育そのものも反省する必要があるのではないかと思っています。・・・とこれはちょっと余談でした。
Posted by at 2007年08月15日 00:00
すすすすんましぇん。前のコメント、名前等のヘッダ情報を入れ忘れていました。
Posted by 入間洋 at 2007年08月15日 00:08
入間洋さん、こんばんは!
名前なしでも大丈夫でしたよ~、最初に“入間洋です”って書いてくださってましたから。(^^
それと、内容に関してはそうなんです!この著者のオードリー本は、かなりオードリーに関して詳しい人なら明らかなトンデモ本なんですが、軽いファンは“ほー、そうなのかー”と信じてしまいそうでコワイです。
ま、今回の僕の文章が逆に“そんなヒドイ本、読んでみたい!”と思わせてしまうかもしれませんね(笑)。
それと、スタンリー・ドーネン監督ですが、60年代以降は軽く見られてるんですか?なんか70年代からはビックリするような酷い作品も作るらしいことは知っているんですが…。
ドーネン監督といえば、その軽い感じ、ソフィスティケイトされた作風が彼独特の持ち味なのかなーと思ってるんです。
オードリー作品を撮った他のどの監督よりも、細やかで洗練されてる感じがオードリーに一番ピッタリ来たというか…。
ヒッチコックとオードリーが撮るはずだった「判事に保釈なし」ですが、もし完成していたら随分ドーネン作品とは肌触りの違うものが出来上がっていたんだろうなーって思います。きっともっと重いんでしょうねー。
「芝生は緑」、名前は聞いたことがあるのですが不勉強でまだ見たことはありません。「真面目が肝心」は全く知りませんでした。(^^;;;
でも、それだけに入間洋さんのお話が興味深かったです。60年代に入って、ドーネン監督はちょっとユルくなったんでしょうかね?それでも「シャレード」に関してはドーネン監督の最高かそれに準じるかなりの高評価を得ていると思ってるんですが。
「おしゃれ泥棒」に関しては僕も最高得点という評価でもないですし、評論家の評価もそうなってます。ただ娯楽作品は娯楽作品としての見方というものがあると思うんですよね。そこに無理して“監督のメッセージ”とか、“文学的何物か”を見つけ出そうとしても不毛かと。それが見出せなかったから出来が悪い、ってな論評は明らかにズレてる!って思うんですが、「シャレード」にしろ「おしゃれ泥棒」にしろ、この著者はそういう見方しか出来ないようなので、“どういう見方をしても勝手やけど、それをオードリー映画の絶対的な評価として断定するのはおかしいやろ!”って思っちゃうんですよね。
それと、「おしゃれ泥棒」のワイドスクリーンに関しては、僕も既に「誰も書かなかったオードリー」というこの著者の別の本の記事で書いてたんで、入間さんもそのことに言及して下さってたのでビックリ!です。
僕も映画に関して批評する時、本来のサイズで見ないといけないんじゃないか、と思ってるんですよね。左右がちょん切られたビデオしかないのならともかく。
「いつも2人で」なんかでも、それまで4:3のLDで見ていたのが劇場で本来の比率で観れたとき、その失われている情報量にびっくりした(&感激した)ものでした。
「おしゃれ泥棒」自体は、1991年にリバイバルがあったので、2000年頃まで劇場で上映されてたんですが、この著者もその気になれば映画館で見れたはずなんです。でもこの本でも次の本でも、書く前に見てたのはビデオのよう。
84年以降、オードリー作品はいっぱい劇場でリバイバルしたのですが、著者が劇場で観た、ってのはほとんどないんじゃないかと思ってます。その上での評価だと。
この著者のオードリーに対する興味って、おそらく「ローマの休日 ワイラーとヘプバーン」という本を書いた副次的な産物だと思ってるんですよね。決してそれまでにも大好きで観てました!ってものを文章からも全然感じません。
それに、学生のレポート、コピーで最近問題になっているんですか~。学生の立場だとわからないことはないんですよね(笑)。教授の側も、どこまでそれが咀嚼されたものかを見極めるのって難しそうですね。
とにかく、僕の大好きな長文でいっぱい書いてくださって、本当にありがとうございます!読み応えがあって、とても嬉しかったです!またぜひ大好物の長文でお願いします!楽しみにしてますね!(^-^
名前なしでも大丈夫でしたよ~、最初に“入間洋です”って書いてくださってましたから。(^^
それと、内容に関してはそうなんです!この著者のオードリー本は、かなりオードリーに関して詳しい人なら明らかなトンデモ本なんですが、軽いファンは“ほー、そうなのかー”と信じてしまいそうでコワイです。
ま、今回の僕の文章が逆に“そんなヒドイ本、読んでみたい!”と思わせてしまうかもしれませんね(笑)。
それと、スタンリー・ドーネン監督ですが、60年代以降は軽く見られてるんですか?なんか70年代からはビックリするような酷い作品も作るらしいことは知っているんですが…。
ドーネン監督といえば、その軽い感じ、ソフィスティケイトされた作風が彼独特の持ち味なのかなーと思ってるんです。
オードリー作品を撮った他のどの監督よりも、細やかで洗練されてる感じがオードリーに一番ピッタリ来たというか…。
ヒッチコックとオードリーが撮るはずだった「判事に保釈なし」ですが、もし完成していたら随分ドーネン作品とは肌触りの違うものが出来上がっていたんだろうなーって思います。きっともっと重いんでしょうねー。
「芝生は緑」、名前は聞いたことがあるのですが不勉強でまだ見たことはありません。「真面目が肝心」は全く知りませんでした。(^^;;;
でも、それだけに入間洋さんのお話が興味深かったです。60年代に入って、ドーネン監督はちょっとユルくなったんでしょうかね?それでも「シャレード」に関してはドーネン監督の最高かそれに準じるかなりの高評価を得ていると思ってるんですが。
「おしゃれ泥棒」に関しては僕も最高得点という評価でもないですし、評論家の評価もそうなってます。ただ娯楽作品は娯楽作品としての見方というものがあると思うんですよね。そこに無理して“監督のメッセージ”とか、“文学的何物か”を見つけ出そうとしても不毛かと。それが見出せなかったから出来が悪い、ってな論評は明らかにズレてる!って思うんですが、「シャレード」にしろ「おしゃれ泥棒」にしろ、この著者はそういう見方しか出来ないようなので、“どういう見方をしても勝手やけど、それをオードリー映画の絶対的な評価として断定するのはおかしいやろ!”って思っちゃうんですよね。
それと、「おしゃれ泥棒」のワイドスクリーンに関しては、僕も既に「誰も書かなかったオードリー」というこの著者の別の本の記事で書いてたんで、入間さんもそのことに言及して下さってたのでビックリ!です。
僕も映画に関して批評する時、本来のサイズで見ないといけないんじゃないか、と思ってるんですよね。左右がちょん切られたビデオしかないのならともかく。
「いつも2人で」なんかでも、それまで4:3のLDで見ていたのが劇場で本来の比率で観れたとき、その失われている情報量にびっくりした(&感激した)ものでした。
「おしゃれ泥棒」自体は、1991年にリバイバルがあったので、2000年頃まで劇場で上映されてたんですが、この著者もその気になれば映画館で見れたはずなんです。でもこの本でも次の本でも、書く前に見てたのはビデオのよう。
84年以降、オードリー作品はいっぱい劇場でリバイバルしたのですが、著者が劇場で観た、ってのはほとんどないんじゃないかと思ってます。その上での評価だと。
この著者のオードリーに対する興味って、おそらく「ローマの休日 ワイラーとヘプバーン」という本を書いた副次的な産物だと思ってるんですよね。決してそれまでにも大好きで観てました!ってものを文章からも全然感じません。
それに、学生のレポート、コピーで最近問題になっているんですか~。学生の立場だとわからないことはないんですよね(笑)。教授の側も、どこまでそれが咀嚼されたものかを見極めるのって難しそうですね。
とにかく、僕の大好きな長文でいっぱい書いてくださって、本当にありがとうございます!読み応えがあって、とても嬉しかったです!またぜひ大好物の長文でお願いします!楽しみにしてますね!(^-^
Posted by みつお at 2007年08月16日 02:12
そうですね、ドーネンは軽いところが一つの特徴だと言えるでしょう。その点で、ヒチコックなどに比較されてネガティブに扱われることもあり軽く見られていると書いたわけです。まあ「シャレード」や「アラベスク」はヒチコックが取り上げても良さそうな題材を扱っているということもありますし。「シャレード」は大好きな作品ですが、ただこの作品、どちらかと言えばロマコメのような展開になっているところがあり、ヒチコックであれば間違いなくかなり違った展開になっていたであろうなと想像しています。しかし勿論ドーネンはヒチコックではないので、「シャレード」は彼ならではの面白さが満開になっている作品であることは誰も否定できないでしょうね。
ドーネンの70年以後の作品は、「ブルックリン物語」(1978)と「スペース・サタン」(1980)及び「Blame It on Rio」(1984)を見ましたが、真ん中の作品はあまり彼らしくないおどろおどろした宇宙ものの作品であったように覚えています。ちょっとホームページのレビューにも書きましたが「エイリアン」(1979)以後、宇宙もの映画には、おどろおどろしいホラー要素が付け加わることが多くなったので彼もその影響を受けたのではないでしょうか。そういえば、チャーリーズ・エンジェルのファラ・フォーセット・メジャーズ(この頃はもしかすると元旦那の姓であったメジャーズははずしていたかもしれません)が出演していましたね。
「真面目は肝心」は、実は原作であるオスカー・ワイルドによる戯曲の邦題なので、映画として「真面目は肝心」として日本で公開されたわけではありません。いずれにせよ、この作品「The Importance of Being Earnest」は、「ラベンダー・ヒル・モブ」以上に国内版を出してほしい作品であり、個人的にはオールタイムベスト3に入れたい作品です。
「映画に関して批評する時、本来のサイズで見ないといけないんじゃないか」というのはまさにその通りであり、実はこのことは現代の映画よりも更に1950年代や1960年代の作品について当て嵌まります。何故かというと、ワイドスクリーンが登場した理由の1つは、その頃台頭しつつあったテレビに対抗する為であったからであり、従ってテレビでは表現できないような画像を提供するのがその大きな目標の1つだったからであり、従ってこの頃のワイドスクリーン作品は、ワイドスクリーン効果がフルに活かせるような構図が重視されていたからです。極端な例を挙げると、たとえば2.35:1や2.55:1の横長の画面の両端に二人の登場人物を配置するするようなことが平然と行われており、これを標準画面に切り詰めると、そのシーンに関してはどちらか一人をカットしなければならなくなります。
1950年代のワイドスクリーン作品を見ていて気がつくことはアップが極めて少ないことと、短いカットカットの連続によって対話シーンを編集することが極めて稀だということです。現在では、映画とテレビの棲み分けが明瞭になり、テレビが脅威であるとは映画関係者も思っていない為か、ワイドスクリーン作品でもわざわざテレビと違う編集方針を採らなければならないと強迫的に思っていないこともあってか、短いカットカットの連続で編集することの方が逆に多くなっているように思われ、またワイドスクリーンでしか表現できないような構図にこだわっているわけでもないように思われます。従って1950年代や60年代の作品の方が、オリジナルの比率で見る必要性が増大するわけですね。
最後に学生のレポートについてですが、勿論コピーすること自体が問題であるというよりは、引用したことを明記せずに自分で書いたようなフリをすることが大きな問題なのですね。そもそも学術論文の多くは引用がベースになっている場合も多いわけで引用すること自体はむしろ当然の権利であると言えます。しかし、その事実を明記せずに勝手に自分のレポートに取り込むことはこれは剽窃にあたるということです。まあ映画の場合、オマージュだと言っていれば通るようなところがありますが、さすがに学校のレポートで人の書いたものを勝手に利用してそれをその人に対するオマージュと言ってヘラヘラしているわけにはいかないでしょう。まあ、剽窃(完全にコピーすればこれは剽窃などという生やさしいものではないかもしれませんね)を見ぬかなければならなくなった大学の教授達も無能ではいられなくなったというわけで、その意味ではプラスの効果があるかも・・・などというと殴られそうですね。
ドーネンの70年以後の作品は、「ブルックリン物語」(1978)と「スペース・サタン」(1980)及び「Blame It on Rio」(1984)を見ましたが、真ん中の作品はあまり彼らしくないおどろおどろした宇宙ものの作品であったように覚えています。ちょっとホームページのレビューにも書きましたが「エイリアン」(1979)以後、宇宙もの映画には、おどろおどろしいホラー要素が付け加わることが多くなったので彼もその影響を受けたのではないでしょうか。そういえば、チャーリーズ・エンジェルのファラ・フォーセット・メジャーズ(この頃はもしかすると元旦那の姓であったメジャーズははずしていたかもしれません)が出演していましたね。
「真面目は肝心」は、実は原作であるオスカー・ワイルドによる戯曲の邦題なので、映画として「真面目は肝心」として日本で公開されたわけではありません。いずれにせよ、この作品「The Importance of Being Earnest」は、「ラベンダー・ヒル・モブ」以上に国内版を出してほしい作品であり、個人的にはオールタイムベスト3に入れたい作品です。
「映画に関して批評する時、本来のサイズで見ないといけないんじゃないか」というのはまさにその通りであり、実はこのことは現代の映画よりも更に1950年代や1960年代の作品について当て嵌まります。何故かというと、ワイドスクリーンが登場した理由の1つは、その頃台頭しつつあったテレビに対抗する為であったからであり、従ってテレビでは表現できないような画像を提供するのがその大きな目標の1つだったからであり、従ってこの頃のワイドスクリーン作品は、ワイドスクリーン効果がフルに活かせるような構図が重視されていたからです。極端な例を挙げると、たとえば2.35:1や2.55:1の横長の画面の両端に二人の登場人物を配置するするようなことが平然と行われており、これを標準画面に切り詰めると、そのシーンに関してはどちらか一人をカットしなければならなくなります。
1950年代のワイドスクリーン作品を見ていて気がつくことはアップが極めて少ないことと、短いカットカットの連続によって対話シーンを編集することが極めて稀だということです。現在では、映画とテレビの棲み分けが明瞭になり、テレビが脅威であるとは映画関係者も思っていない為か、ワイドスクリーン作品でもわざわざテレビと違う編集方針を採らなければならないと強迫的に思っていないこともあってか、短いカットカットの連続で編集することの方が逆に多くなっているように思われ、またワイドスクリーンでしか表現できないような構図にこだわっているわけでもないように思われます。従って1950年代や60年代の作品の方が、オリジナルの比率で見る必要性が増大するわけですね。
最後に学生のレポートについてですが、勿論コピーすること自体が問題であるというよりは、引用したことを明記せずに自分で書いたようなフリをすることが大きな問題なのですね。そもそも学術論文の多くは引用がベースになっている場合も多いわけで引用すること自体はむしろ当然の権利であると言えます。しかし、その事実を明記せずに勝手に自分のレポートに取り込むことはこれは剽窃にあたるということです。まあ映画の場合、オマージュだと言っていれば通るようなところがありますが、さすがに学校のレポートで人の書いたものを勝手に利用してそれをその人に対するオマージュと言ってヘラヘラしているわけにはいかないでしょう。まあ、剽窃(完全にコピーすればこれは剽窃などという生やさしいものではないかもしれませんね)を見ぬかなければならなくなった大学の教授達も無能ではいられなくなったというわけで、その意味ではプラスの効果があるかも・・・などというと殴られそうですね。
Posted by 入間洋 at 2007年08月16日 18:34
入間さん、「The Importance of Being Earnest」は、小生の観たい作品のひとつです。
下記、DVD紹介頁を挙げておきます。(もうご存知かもしれませんが)
http://www.dvdbeaver.com/film/DVDCompare/importanceearnest.htm
ドーネン監督論(氏への愛情も感じられて嬉しい)とワイドスクリーン論について
的確に文章で論じてくださって嬉しく思います。
「芝生は緑」って確かに少しユルイかもしれませんが、
見方を変えると、節度をわきまえたgood-tastingな作品とも観れますし、
全体的に彼の作品はそういう味わいなんですよね。
カラー配分や衣装やセット、タイトルなどのデザインなんかに凝って、
そういうオプション的なものにゆとりが感じられるけど、
核心となるものにはあまり突っ込まない場合が多い。
でも「いつも2人で」はそういう中では異色の野心作ではないかと思います。
過小評価されてきた監督なだけに、
’98年にアカデミーで名誉賞を受けたときは、ホント涙が出そうなくらい嬉しかったです。
タップダンスが素晴らしかったし、スピーチには笑いました。
ねえ、みつおさん、
「いつも2人で」をシネスコサイズで初めて見直したとき、驚きましたよね。
ていうか、ヴィデオ他のトリミングがいかにいいかげんなのか実感しました。
画面の端にオードリィ映ってるんじゃんって発見がたくさんありましたな。
しかも「おしゃれ泥棒」が実は最高評価でないことを知って、ちょっと安心。
僕もこれはそれほどではないんで。
でもオードリィを知ったインパクトの強い作品のひとつだし、
以前も書いたことだけど、現在観ることのできるソフトは実にゴージャス!
映画を語る際は、硬軟両面をわきまえてほしいですよね。
下記、DVD紹介頁を挙げておきます。(もうご存知かもしれませんが)
http://www.dvdbeaver.com/film/DVDCompare/importanceearnest.htm
ドーネン監督論(氏への愛情も感じられて嬉しい)とワイドスクリーン論について
的確に文章で論じてくださって嬉しく思います。
「芝生は緑」って確かに少しユルイかもしれませんが、
見方を変えると、節度をわきまえたgood-tastingな作品とも観れますし、
全体的に彼の作品はそういう味わいなんですよね。
カラー配分や衣装やセット、タイトルなどのデザインなんかに凝って、
そういうオプション的なものにゆとりが感じられるけど、
核心となるものにはあまり突っ込まない場合が多い。
でも「いつも2人で」はそういう中では異色の野心作ではないかと思います。
過小評価されてきた監督なだけに、
’98年にアカデミーで名誉賞を受けたときは、ホント涙が出そうなくらい嬉しかったです。
タップダンスが素晴らしかったし、スピーチには笑いました。
ねえ、みつおさん、
「いつも2人で」をシネスコサイズで初めて見直したとき、驚きましたよね。
ていうか、ヴィデオ他のトリミングがいかにいいかげんなのか実感しました。
画面の端にオードリィ映ってるんじゃんって発見がたくさんありましたな。
しかも「おしゃれ泥棒」が実は最高評価でないことを知って、ちょっと安心。
僕もこれはそれほどではないんで。
でもオードリィを知ったインパクトの強い作品のひとつだし、
以前も書いたことだけど、現在観ることのできるソフトは実にゴージャス!
映画を語る際は、硬軟両面をわきまえてほしいですよね。
Posted by まる at 2007年08月16日 20:15
>入間洋さん
入間さんのお書きになっている、「シャレード」で、“アイデンティティが一貫してケーリー・グラント”という部分が、僕にとっては“そうなんだ!”って目からウロコ状態でした。この本ではケーリー・グラントの変身物語、みたいに位置づけられています。それに対して“なんかおかしい…。”と思いつつそれを表現できる言葉がみつからなかったのですが、ずっと以前に入間さんのHPでそれを発見したときは、“そうそう!これこれ!”って思ったものです。
「スペース・サタン」はあるHPでファラ・フォーセットやカーク・ダグラスのキャリアを終わらせた、となってて、ある意味凄い映画なんだな~と。
「カーニバル・イン・リオ」は双葉さんの評価が載ってましたが、やはり往年のドーネンを知っていると、かなりツライ出来だったんだなーと。
「真面目が肝心」、相当な出来のようですね!僕もチャンスがあれば観てみたいです。
それと、またまたワイドスクリーンをどうしてそのサイズで観ないといけないか。思わずウンウンって頷いてしまうほどのわかりやすい説明をありがとうございます!そりゃそうですよね!昔は小さなテレビで見てましたから左右をカットしないと小さすぎたでしょうけど、ここまで大画面ワイドになると、なにも4:3で見る必要は全くないですもんね。(^-^
入間さんのお書きになっている、「シャレード」で、“アイデンティティが一貫してケーリー・グラント”という部分が、僕にとっては“そうなんだ!”って目からウロコ状態でした。この本ではケーリー・グラントの変身物語、みたいに位置づけられています。それに対して“なんかおかしい…。”と思いつつそれを表現できる言葉がみつからなかったのですが、ずっと以前に入間さんのHPでそれを発見したときは、“そうそう!これこれ!”って思ったものです。
「スペース・サタン」はあるHPでファラ・フォーセットやカーク・ダグラスのキャリアを終わらせた、となってて、ある意味凄い映画なんだな~と。
「カーニバル・イン・リオ」は双葉さんの評価が載ってましたが、やはり往年のドーネンを知っていると、かなりツライ出来だったんだなーと。
「真面目が肝心」、相当な出来のようですね!僕もチャンスがあれば観てみたいです。
それと、またまたワイドスクリーンをどうしてそのサイズで観ないといけないか。思わずウンウンって頷いてしまうほどのわかりやすい説明をありがとうございます!そりゃそうですよね!昔は小さなテレビで見てましたから左右をカットしないと小さすぎたでしょうけど、ここまで大画面ワイドになると、なにも4:3で見る必要は全くないですもんね。(^-^
Posted by みつお at 2007年08月17日 00:02
>まるさん
そうそう!そうですよね!「いつも2人で」は僕は最初はテレビ放送で見ましたし、その後の自主上映でも4:3画面でした。「いつも2人で」のために手に入れた、と言ってもいいレーザーディスクでも、左右はバッサリ。
なので91年にリバイバルされた時、LDではアルバート・フィニーを追いかけてるところでオードリーを見たら、なんてカワイイ表情をしてたんだっ!ってビックリしました。特に坂道を登らないMGを、オードリーがバックで成功させたシーンのあとの表情!これは感動ものでした。
それと「おしゃれ泥棒」はですね、何度も観たくなる度合いとか、思い入れの大きさで言うと「いつも2人で」に次ぐくらいなんですが、でも最初の方ととエンディングのユルさは最高!と言うにはちょっと…って感じです。
でもオードリー初心者には一番いい作品!だとやっぱり思ってますけどね。
オードリーらしさタップリの「おしゃれ泥棒」から入って他の作品に移れば、年をとったオードリーにも抵抗がないだろうし、理想的なオードリー生活が送れそうな気がするんですよね(笑)。どの作品も気に入ってもらえそうで。
そうそう!そうですよね!「いつも2人で」は僕は最初はテレビ放送で見ましたし、その後の自主上映でも4:3画面でした。「いつも2人で」のために手に入れた、と言ってもいいレーザーディスクでも、左右はバッサリ。
なので91年にリバイバルされた時、LDではアルバート・フィニーを追いかけてるところでオードリーを見たら、なんてカワイイ表情をしてたんだっ!ってビックリしました。特に坂道を登らないMGを、オードリーがバックで成功させたシーンのあとの表情!これは感動ものでした。
それと「おしゃれ泥棒」はですね、何度も観たくなる度合いとか、思い入れの大きさで言うと「いつも2人で」に次ぐくらいなんですが、でも最初の方ととエンディングのユルさは最高!と言うにはちょっと…って感じです。
でもオードリー初心者には一番いい作品!だとやっぱり思ってますけどね。
オードリーらしさタップリの「おしゃれ泥棒」から入って他の作品に移れば、年をとったオードリーにも抵抗がないだろうし、理想的なオードリー生活が送れそうな気がするんですよね(笑)。どの作品も気に入ってもらえそうで。
Posted by みつお at 2007年08月17日 00:15
まるさん、「The Importance of Being Earnest」は紹介ページにもあるCriterionバージョンのものを持っています。一般にCriterionのプロダクトはあちらの会社にしては割高なのであまり買いませんが、アンソニー・アスキスの50年代初頭の2本の素晴らしい作品すなわち、「The Importance of Being Earnest」(1952)と「The Browning Version」(1951)はCriterionのものを買いました。そう言えば最近、ビリー・ワイルダーの50年以後の作品の内で国内外を通じて唯一入手困難になっていた「地獄の英雄」(1951)がCriterionから発売されたので現在Amazonに注文中です。
「芝生は緑」には冗長な面がないとは言い切れないので、この類の会話中心映画が苦手な人には全くあわないのかもしれません。そういうわけなのでこの作品は一種のリトマス試験紙のようなものでもあるとも考えていて、この作品を見て退屈しなかったという人は多分映画に関する趣味が自分とかなり近いのだろうなと考えることにしています。また、この作品を10回以上見たという人は、恐らく相当趣味が似通っていると考えてよいのかもしれません。
「シャレード」がケーリー・グラント演ずる主人公の変身物語という説は、私めもどこかで読みましたが、吉村氏のこの本は読んだことがないのでどこか別のところで読んだことになります。それが吉村氏の記事であったかどうかも全く覚えていませんが、そうでないとするとそのような見解が一般に拡がっているということになってしまいますね。みつおさんもご指摘の通り、それはどう考えても奇妙であり、どのような意味で変身という用語を使用しているのか首をかしげてしまったわけです。
それから「Blame It on Rio」は、まあ全然駄目という作品ではないと思いますが、50、60年代の作品に比べると「うーーーーん」と言いたくなることは間違いありません。まさかそれがウリだったということはないと思いますが、確か無名の頃のデミ・ムーアがトップレスで出ていたような・・・。
「芝生は緑」には冗長な面がないとは言い切れないので、この類の会話中心映画が苦手な人には全くあわないのかもしれません。そういうわけなのでこの作品は一種のリトマス試験紙のようなものでもあるとも考えていて、この作品を見て退屈しなかったという人は多分映画に関する趣味が自分とかなり近いのだろうなと考えることにしています。また、この作品を10回以上見たという人は、恐らく相当趣味が似通っていると考えてよいのかもしれません。
「シャレード」がケーリー・グラント演ずる主人公の変身物語という説は、私めもどこかで読みましたが、吉村氏のこの本は読んだことがないのでどこか別のところで読んだことになります。それが吉村氏の記事であったかどうかも全く覚えていませんが、そうでないとするとそのような見解が一般に拡がっているということになってしまいますね。みつおさんもご指摘の通り、それはどう考えても奇妙であり、どのような意味で変身という用語を使用しているのか首をかしげてしまったわけです。
それから「Blame It on Rio」は、まあ全然駄目という作品ではないと思いますが、50、60年代の作品に比べると「うーーーーん」と言いたくなることは間違いありません。まさかそれがウリだったということはないと思いますが、確か無名の頃のデミ・ムーアがトップレスで出ていたような・・・。
Posted by 入間洋 at 2007年08月17日 15:09
「シャレード」は、ケーリー・グラントの名前は変わるものの、見た目もキャラも変わるわけでなく、ずっと本質はケーリー・グラントのままですよね。
著者はとにかくオードリー作品は変身物が多いと印象づけたいので、“逆変身物”として「シャレード」を位置づけていました。でも僕は入間洋さんの意見の方が納得です。
入間さん、この入間さんの「シャレード」の見解を、「誰も書かなかったオードリー」の記事で入間さんのHPの紹介と共に、引用させていただいていいですか?
それと「カーニバル・イン・リオ」(ビデオ発売時の邦題だそうです)、デミ・ムーアのトップレスですか!「スペース・サタン」ではファラ・フォーセットのトップレスもあったみたいですし、ソフィスティケイトがウリだったスタンリー・ドーネン監督としてはえらく直截的ですね。観てはいないのですが、もうそれだけでとっても悲しいです。やっぱり時代の流れに押されたんでしょうか…。
著者はとにかくオードリー作品は変身物が多いと印象づけたいので、“逆変身物”として「シャレード」を位置づけていました。でも僕は入間洋さんの意見の方が納得です。
入間さん、この入間さんの「シャレード」の見解を、「誰も書かなかったオードリー」の記事で入間さんのHPの紹介と共に、引用させていただいていいですか?
それと「カーニバル・イン・リオ」(ビデオ発売時の邦題だそうです)、デミ・ムーアのトップレスですか!「スペース・サタン」ではファラ・フォーセットのトップレスもあったみたいですし、ソフィスティケイトがウリだったスタンリー・ドーネン監督としてはえらく直截的ですね。観てはいないのですが、もうそれだけでとっても悲しいです。やっぱり時代の流れに押されたんでしょうか…。
Posted by みつお at 2007年08月18日 11:21
入間洋ですが、HP紹介と引用勿論OKです。
2か月前に25年近く勤めた会社を退社して、現在休養中(すなわちプー太郎状態)で暇を持て余し、ホームページ記事を書く時間もかなり取れるようになっていますが、ホームページのビジター数がもう長いこと落ち込みっ放しになっているので、紹介や引用はこちらとしても大変嬉しいところです。
2か月前に25年近く勤めた会社を退社して、現在休養中(すなわちプー太郎状態)で暇を持て余し、ホームページ記事を書く時間もかなり取れるようになっていますが、ホームページのビジター数がもう長いこと落ち込みっ放しになっているので、紹介や引用はこちらとしても大変嬉しいところです。
Posted by 入間洋 at 2007年08月18日 22:26
入間洋さん、ありがとうございます!
では引用させていただきます。(^-^
ただ、記事は(だいぶ順番待ちで)1ヶ月後くらいにアップになると思います。
そうそう!こんどぜひ「いつも2人で」に関しての
入間さんの記事をお書きになってください!
「いつも2人で」、一番好きな映画なんですよ!
当然「いつも2人で」に関しての文章を読むのもとても好きなんです!
ぜひご一考をお願いします。m(_ _)m
では引用させていただきます。(^-^
ただ、記事は(だいぶ順番待ちで)1ヶ月後くらいにアップになると思います。
そうそう!こんどぜひ「いつも2人で」に関しての
入間さんの記事をお書きになってください!
「いつも2人で」、一番好きな映画なんですよ!
当然「いつも2人で」に関しての文章を読むのもとても好きなんです!
ぜひご一考をお願いします。m(_ _)m
Posted by みつお at 2007年08月20日 00:38
凄いですね、1か月分もネタがキューにたまっているというのは。しかも毎日記事を書かれているので、リソースの豊富さは半端ではないようですね。私めなど、1週間毎の更新ですら、毎回毎回いかん今回はネタがないと頭を抱えるのが常です。といいつつも、最初にネタ切れ宣言をしてからもう5年以上が経ち、まあなんとかひーひー言いつつも記事を捻り出しているという状況です。
「いつも2人で」に関しては以前にも書きましたが、チョンガーの私めにとって現状では記事を書く視角が見つかっておらず、近いうちに書くのは無理なところです。切り口が見つかるとサクサクサクと書けることも多いのですが、そうでない場合は全く何も書けないのですね。やはりプロと違って、どんな映画に関してもそれなりのコメントを書くという芸当はなかなか難しいものです。しかしいずれにせよ、「いつも2人で」はいわば静かな人気がある映画なので、いずれ視角が見つかり次第書くつもりではいます。
「いつも2人で」について1つ思い出したことがあります。それは、今は音信不通になってしまいましたが、その昔メイル通をしていたパナマの舞台監督と称する人も、しきりにこの作品を誉めていたことです。彼は何でもパナマの国営放送局の映画番組の担当をしていたこともあるそうで、その時にオードリーの作品をかなり取り上げたそうです。
因みに全くの余談ですが、彼はオリバー・ストーンがパナマに撮影しにきた時(但しその作品は途中で撮影中止になったようです)案内したそうですが、ストーンはとんでもない人物であったとえらく怒っていました。それから1990年代の映画の中では個人的に大好きな「潮風とベーコンサンドとヘミングウエイ」(1993)を監督した女流監督のランダ・ヘインズも同様に案内したことがあるそうですが、この作品からも分るように彼女はセンシティブで素晴らしいおばさんだったそうです。
「いつも2人で」に関しては以前にも書きましたが、チョンガーの私めにとって現状では記事を書く視角が見つかっておらず、近いうちに書くのは無理なところです。切り口が見つかるとサクサクサクと書けることも多いのですが、そうでない場合は全く何も書けないのですね。やはりプロと違って、どんな映画に関してもそれなりのコメントを書くという芸当はなかなか難しいものです。しかしいずれにせよ、「いつも2人で」はいわば静かな人気がある映画なので、いずれ視角が見つかり次第書くつもりではいます。
「いつも2人で」について1つ思い出したことがあります。それは、今は音信不通になってしまいましたが、その昔メイル通をしていたパナマの舞台監督と称する人も、しきりにこの作品を誉めていたことです。彼は何でもパナマの国営放送局の映画番組の担当をしていたこともあるそうで、その時にオードリーの作品をかなり取り上げたそうです。
因みに全くの余談ですが、彼はオリバー・ストーンがパナマに撮影しにきた時(但しその作品は途中で撮影中止になったようです)案内したそうですが、ストーンはとんでもない人物であったとえらく怒っていました。それから1990年代の映画の中では個人的に大好きな「潮風とベーコンサンドとヘミングウエイ」(1993)を監督した女流監督のランダ・ヘインズも同様に案内したことがあるそうですが、この作品からも分るように彼女はセンシティブで素晴らしいおばさんだったそうです。
Posted by 入間洋 at 2007年08月20日 02:02
いえ、あの、実は書き終わっているのは、既に12月半ばまであります。(^^;;;
書く時はダーッと書いて、あとはしばらく何にも書かない、ってのが多いんです。
気分が乗らなくて、1ヶ月以上ほったらの時もありましたし。
でも臨時で記事を入れるために順番を入れ替える時は、
どれを下げてどんな順にするかもーう大変!です(笑)。
同じ作品の記事が続かないように、とか同じカテゴリのが続かないように、とか。
「いつも2人で」、そうですか~。でも気長にお待ちしています!
でもパナマの方も「いつも2人で」!
なんか世界的規模なお話で、とてもワクワクしますね!(^-^
昔はオードリーの1番は「いつも2人で」!なんて言ってるのは
他にいないのかと思ってましたが、ネットのおかげで
結構いらっしゃるのを知って嬉し~い発見でした。
それと、オリバー・ストーン監督とランダ・ヘインズ監督のエピソード、面白いですね。
いや、それよりも僕は「潮風とベーコンサンドとヘミングウエイ」という作品を
観てみたくなりました。ほのぼのしてるんでしょうか?
そういえば、50代からのオードリーにはほのぼの路線の映画に
出てもらいたかった…と残念に思っています。
書く時はダーッと書いて、あとはしばらく何にも書かない、ってのが多いんです。
気分が乗らなくて、1ヶ月以上ほったらの時もありましたし。
でも臨時で記事を入れるために順番を入れ替える時は、
どれを下げてどんな順にするかもーう大変!です(笑)。
同じ作品の記事が続かないように、とか同じカテゴリのが続かないように、とか。
「いつも2人で」、そうですか~。でも気長にお待ちしています!
でもパナマの方も「いつも2人で」!
なんか世界的規模なお話で、とてもワクワクしますね!(^-^
昔はオードリーの1番は「いつも2人で」!なんて言ってるのは
他にいないのかと思ってましたが、ネットのおかげで
結構いらっしゃるのを知って嬉し~い発見でした。
それと、オリバー・ストーン監督とランダ・ヘインズ監督のエピソード、面白いですね。
いや、それよりも僕は「潮風とベーコンサンドとヘミングウエイ」という作品を
観てみたくなりました。ほのぼのしてるんでしょうか?
そういえば、50代からのオードリーにはほのぼの路線の映画に
出てもらいたかった…と残念に思っています。
Posted by みつお at 2007年08月20日 02:38