2016年09月11日

「シャレード」1973年ちらし下敷き

「シャレード」1973年ちらし下敷き 今回は「シャレード」のチラシ下敷きの紹介。

 これは僕が中学時代だったかに買ったもの。
 もう買った所も覚えていません。FOXスクリーンフレンドだったか、映通社だったのか、それともクリエイト鷹?

 「シャレード」の1973年リバイバル時のチラシをパウチで挟んで下敷きとして使う物でした。
 同時なのか別々で買ったのか覚えていませんが、他にも「マイ・フェア・レディ」1974年チラシを挟んだもの、「ティファニーで朝食を」のギターを弾くオードリーの宣伝写真を挟んだ物も持っていました。

 僕は実際に学校でこのオードリーの下敷きを使っていたので、どれもかなりボロボロになってしまって、「マイ・フェア・レディ」と「ティファニーで朝食を」は捨てたんじゃないかなー。まあ出て来たらまた紹介するかもですが。

 このパウチ処理って、使ってるうちにだんたんコーナー部分が剥がれてまくれ上がってくるんですよね。
 パウチが何層にもなっているので、剥がすとまた綺麗な状態になるんですが、全体がめくれ上がるともうどうしようもなくって。

 それに「マイ・フェア・レディ」の74年チラシはその後ちゃんとした物が手に入ったし、「ティファニーで朝食を」の画像は平凡な物なので、特に思い入れとかは無かったんですけど、この「シャレード」の73年リバイバルチラシは未だにチラシだけの物は持ってないので、これだけ大事にしまってありました。

 まあ実際にも下敷きとして使ってたのでボロボロになるのは他のと同じで、何回か剥がして今ではペラペラですけどね。

 さてチラシとして見ると、色がめちゃめちゃ悪いのがわかりますか?
 同じ1973年リバイバルのプレスシートポスターパンフレットと比べると発色の違いは一目瞭然。

 1973年当時はチラシの収集という趣味はまだなかったみたいで、チラシの価値が軽んじられていたようです。映画会社も “タダで映画館に置いておくもの” という認識しかないので、マスコミや劇場に配るプレスや販売するパンフと違って、メインの表面もそれらの使い回し。
 当時はアナログ製版なので、1からまたチラシ用のを作るのは面倒くさい&お金がかかるので、ポスターやプレスを写真で撮ってそのまま印刷してたんでしょうね。

 なのでこの時期のチラシは、72年リバイバル「パリで一緒に」・73年リバイバル「戦争と平和」などもプレスの画像の使い回しで、発色がすっごく悪いです。

 数年後にはチラシの大ブームが起こってチラシの重要性が増し、チラシだけのデザインなども出てくるんですけど、この「シャレード」などはギリギリ間に合わなかったみたいですね。

「シャレード」1973年ちらし下敷き でも僕がこの下敷きを買った時にはもうチラシブームの真っ只中だったので、チラシをパウチしてあるこの下敷きよりも、チラシ単独の方が値段が高いというおかしなことが起こっていて、僕はなんでやねん!って思っていました。

 販売していた所も、まさかパウチしてしまった後でチラシブームが来るなんて思いもよらなかったでしょうね。
 わかってたら、絶対にパウチなんかしてないはず!

 オードリーでは73年のこの「シャレード」や「戦争と平和」はそれなりの値段でしたが、74年の「マイ・フェア・レディ」チラシは昔からタダ同然の安さだったので、74年くらいからブームになったんでしょうか?
 70年代後半の「スクリーン」や「ロードショー」にはよく複製チラシが付録で付いていたものです。

 ちなみに「シャレード」は1973年のリバイバルで、もう3回目の日本公開になります。63年の初公開に始まって、68年、73年と5年ごとに公開されてきました。

 69年頃の「スクリーン」では、つい前年にリバイバルしたばかりなのにもうリバイバルの候補に挙がっている、という文章がありました(それがこの73年リバイバルになったんでしょうね)。

 それだけオードリー作品の中でも人気が高く、ファンのリクエストが絶えなかったんですね。
 当時はビデオなどは無く、劇場で観るかテレビで放送されるまで待つしかなかった時代だったんですよねー。

 今でもオードリー作品では「ローマの休日」「マイ・フェア・レディ」に次いで日本での劇場公開回数が多いです。(2016年までで6回)

 裏面はモノクロ1色刷り。
 上部の左側は解説、上部右側にジバンシィのことと、アルプスロケのことが書いてあります。下部半分はストーリーです。

 この「シャレード」が日本で初公開された日(1963年12月20日)はちょうど「マイ・フェア・レディ」撮影終了くらい。
 オードリーが「マイ・フェア・レディ」で1作品あたり100万ドル(当時の3億6000万円)の出演料を取るようになったのは周知の事実でした。

 なので、この映画では消えた25万ドル(9000万円)をめぐって争っていますが、オードリーは1本映画に出るだけでその4倍ものお金を稼げるんですよね。
 もちろん交渉したエージェンに渡さないといけないし、全部が全部オードリーの取り分ではないでしょうが。

 1963年(昭和38年)の日本の大卒初任給が18000円〜19000円の時代ですから、今の感覚なら消えた25万ドルは約9億円、オードリーの出演料は1本につき36億円、事務所など無いオードリーは8割くらいが取り分として29億円、という感覚なのだろうと思います。やっぱり凄いですよね〜。

お気に入り度:★★★(作品もこの73年リバイバルデザインも大好きな「シャレード」だけど、色が悪すぎ!)



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