2023年10月21日
「シャレード」73年リバイバル紹介 “スクリーン”1974年1月号
今回は1973年12月1日からニュー東宝シネマ2からリバイバルされた「シャレード」の紹介の載っている雑誌“スクリーン”の1974年1月号の紹介です。
発売は1973年11月21日。表紙は1971年72年に人気のあったドミニク・サンダ。
まあこの “スクリーン”の発売日や「シャレード」1973年リバイバル公開日50周年記念に合わせて紹介でもよかったんですけど、キッチリその日までに準備できるかどうかわからないので、先にやってしまいますね。
まずこの号での最初のオードリーは目次の次に折り込みポスターになっているオリビア・ハッセーの裏面の近代映画社の出版本の案内ページ。
B4サイズで収納に困る“スクリーン ジャンボ”の「ドロン・ヘプバーン魅力集」の発売案内。ここでは「パリの恋人」のオードリーの画像が使われていますね。
このころはまだまだオードリーが大人気。71年に「エクスラン・ヴァリーエ」で日本のテレビCMに登場したオードリーで72〜74年は “スクリーン”ではまたまたオードリーが女優のNo.1だったころですね。
というか、80年代後半の再ブームを見ると、別にオードリーの人気は70年代後半から落ちたんじゃなくて、実際は映画会社が浅はかにも「ローマの休日」と「マイ・フェア・レディ」ばっかりリバイバルするからその2本が飽きられただけだったんですけどね。
でも映画会社はその2大オードリー作品がヒットしなくなると“オードリーはもうダメ”と勝手に判断したからだと思うんですけどね。
映画会社が自分の失敗をオードリーのせいにした、ということだったと思うんですよね。
次のオードリーはカラーページの“10年前のスクリーンから”というページでの1964年1月号の「シャレード」の初公開時の紹介を載せています。
これは実は過去にもう紹介してるので、そちらでご覧ください。
次のオードリーはこの号から新連載の「スターグラフ診断」という7pにわたる緑のグラビアページ。
これ、本文にも目次にも執筆者の名前が無いので、編集者が書いたのでしょうか?
でも新連載のトップがオードリーというのはありがちですけどやっぱり誇らしいですよね。
ありがちというのも、いつの時代もずっとオードリーがトップを走っているから出る言葉なんですよね。
人気がなかったら、トップで取り上げてなんてもらえません。
文章は、まずオードリーの生い立ちから語られるのですが、最近あまり見かけなくなったことで、かつてオードリーがモデルをしていた、というのがあります。
それと、オードリーは現実の物語をおとぎ話に変えてしまう魅力を持っていて世界中のどんな女優よりもうまい。だから彼女が名演技を披露してもリアリズムに終始するドラマの場合は彼女の魅力が半減してしまう。また「マイ・フェア・レディ」辺りからその魔力を失い始める、と書かれています。
だいたい共感できるのですが、魔力を失ったのではなく、「マイ・フェア・レディ」へのバッシングで「おしゃれ泥棒」からやつれたのが原因だと思うのですよね。
本当にあのバッシングさえ無ければ、オードリーはもっと別の歳の取り方があったのではないかなーと思うのですよね。
やっぱりバッシングのせいでやつれてシワも深くなり、肌がカサカサになっている「おしゃれ泥棒」の画像のオードリーを見ると、「マイ・フェア・レディ」のままで普通に歳を取ったらどんなオードリーだったのだろうと思ってしまうのですよね。
たとえ僕が「おしゃれ泥棒」や「いつも2人で」のオードリーをものすごーく愛しているにしても、痛々しいオードリーより元気なオードリーがいいに決まってます。
なぜオードリーだけが吹替の件で「マイ・フェア・レディ」でバッシングされなきゃならないんでしょうね?
デボラ・カーは「王様と私」で、ナタリー・ウッドは「ウエストサイド物語」で、カトリーヌ・ドヌーヴは「シェルブールの雨傘」で叩かれたでしょうか?
そしてそれらは彼女たちの代表作ではないのでしょうか?
ジュリー・アンドリュース自身がスクリーン・テスト(オーディションではない)を断ったのですから、ジュリーファンにオードリーが叩かれるいわれはありません。
オードリーは内向的な人ですから、そんな心ないバッシングで本当にショックで傷ついたと思います。
いまだにオードリーが演じたことをあれこれ言う人がいますが、オードリーが亡くなってもまだ叩くか!と思います。
今オードリーがそれを聞いたらどう思うかと考えると、胸が痛みます。
あと、この引退していた時期に、復活して欲しいけど若い頃のイメージだけを残したい、という論調はここでもあります。
それはオードリーもそう思っているはずだ、と書かれているのですが、実際のオードリーはもっと強い人でしたね。
オードリーは歳を取るのが当たり前だし、シワは私の生きた証です、私は今の私を見て欲しいのです、と言ってましたね。
画像は、この時代、モノクロ写真の輪郭がボヤッとするので、よく線を追加で書かれたりしてることがあって、それがまたよく失敗してるもんで、子供心にも “こんな線、書かんかったらいいのに…”って思うことがしばしば。
ここでも特集の2ページ目、右側のページの左下の「おしゃれ泥棒」の画像の鼻に線が入ってて、それがやっぱり失敗して変になってる!
別に鼻の陰影が消えてたっていいやん!って思うんですけどね。
3ページ目は「ローマの休日」の本当のテストでベッドから起き上がるシーンの画像が載っていますね。
これ、どうやら動画としては残ってなさげなんですけど、こうして “スクリーン”関連の本では何点か画像が残されていますよね。
同じページにはコーラスガール時代のオードリーの画像がありますけど、これ確か「ハイ・ボタン・シューズ」の物だったかと思うんですけど、ここでは「ソース・ピカント」のものになっていますね。本当はどっちなんでしょう?
次の見開きの4ページ目ではオランダに出来た“オードリー・ヘプバーン通り”の看板を見上げるオードリーがいますけど、この通り、グーグルマップで調べたら、今もありました。
でもグーグルマップでは“アウトレー・ヘプブルンラーン”と紹介されていました。ストリートビューで見ると、周りは想像とは違って自然の中にある寂しい小径って感じのところでした。それに一部は大規模な工事中になってて道が無くなっているみたいなところもあったりして…。
オードリーが見上げている標識も見当たりませんでした。
4ページ目からは出演作品の場面集になるのですが、2枚画像を使われているのは「ローマの休日」「戦争と平和」「ティファニーで朝食を」「マイ・フェア・レディ」。
この当時、いかに「戦争と平和」がオードリー作品でも重要だったかが良くわかりますね。
次のオードリーは青い紙のページで、「スクリーン海外ニュース」と言うコーナー。
トップで “オードリーをヴィスコンティが演出?”と書かれていますね。
もちろんこれは「家族の肖像」のこと(この時の仮題は「ある家族の肖像」)。
オードリー・ヘプバーンとの交渉もかなり進んでいる、と書かれていますが、どうなったのかは皆さんもご存知の通り。
オードリーは若い男を囲うような「不道徳な役はやりたくない」と言って断りますけど、なぜそんなオードリー向きではない役をオードリーに依頼するかなーと思います。
でも70年代の映画って今考えるとそういう不道徳的なものやリアリティーを追求したような映画が幅を利かせていましたよね。
オードリーがかつて出ていたようないわゆるラブコメや夢のある映画みたいなのはほぼ絶滅状態だった時代なんですよね。
この号のグラビアには、「スターが演じた先生たち」というコーナーがあって、もちろんオードリーとシャーリー・マクレーンの「噂の二人」を探したのですが、載っていませんでした。残念!
次は淀川長治さんのページで、「日曜洋画劇場」の解説撮りで73年9月9日に「昼下りの情事」用のを撮ったこと、28日に放映されたこと、視聴率が16.6%だったことが書かれていて、画像も載っています。
その次が「シャレード」のリバイバル作品紹介ページのグラビアになります。
レイアウトデザインは同じ1973年にリバイバルされた「戦争と平和」の時と雲泥の差。「戦争と平和」が1960年代チックな古さだったのに、こちらは今でも大丈夫なお洒落度の高いデザインになってます。好感度高し。
左のメインのオードリーの画像も別テイクのはよく見ますが、このショットは珍しくて画像選びも良いです。
「シャレード」の公開としては1973年はもう3回目になります。「シャレード」は大ヒットだったので、1963年の初公開から5年ごとに公開されてたんですよね。
後ろのページではストーリー紹介もされています。
「麗しのサブリナ」や「ティファニーで朝食を」などは比べものにならないほど大ヒットだったんですよね。
フジテレビのゴールデン洋画劇場でも1972年に初放映されましたけど、再放送のリクエストでも第5位に入るほど人気がありました。
それに1973年のリバイバルは日本の宣伝のメインビジュアルが最高!
ポスター・プレスシート・パンフレット・チラシで同じデザインが使われましたけど、「シャレード」での全世界での最高峰ビジュアルとなっています!これを超える「シャレード」デザインは世界には存在しません!
でもさすがに5年ごとのリバイバルではちょっとやり過ぎだったんでしょうかね、73年のニュー東宝シネマ2でのリバイバルはたった3週間で次の作品に取って代わられてしまいます。
もうちょっとヒットしていれば1974年のお正月映画になっているところだったんですけどね。
やはり “観客層は7年で入れ替わる”と言われるように、7年は間を置いたほうが良かったんでしょうね。
この後は1987年になるまでリバイバルされませんでした。
80年代前半までは「戦争と平和」と並び3回の公開で「マイ・フェア・レディ」「ローマの休日」に次ぐ第3位の公開回数でしたけど、90年代前半までの大ブーム時までは4回となって「戦争と平和」の5回に1回負けて「ティファニーで朝食を」「パリの恋人」と並んで第4位になります。
その後は「午前十時の映画祭」で2度上映されましたので、日本公開は6回となり、「ローマの休日」(13回)、「マイ・フェア・レディ」(10回)、「ティファニーで朝食を」(7回)に次いで、「パリの恋人」「麗しのサブリナ」と並ぶ同率第4位となっています。
さてこの公開作品紹介では「燃えよドラゴン」も紹介されてて、裏表紙の裏にも広告が出てるのですが、最初に公開された劇場を見ると東京は丸の内松竹だったりするので、松竹としては2番手扱い。“スクリーン”の紹介でも7番目。最初はそこまで期待されてなかったのがわかります。
ところがフタを開けたら押すな押すなの大ヒット!73年のオイルショックで物価が急激に上がったのもありますが、それまでワーナー映画として最高の配給収入をあげていた「マイ・フェア・レディ」の7億9千万円を軽く超えて、74年度で16億4200万円を稼ぎました。
74年には同じワーナー映画で「エクソシスト」も出て(劇場も丸の内ピカデリー、丸の内松竹の同じ松竹系)、こちらはさらに上をいく27億3200万円を稼いでいますから、この年はワーナーの年だったわけですね。
グラビアのページではクリエイト鷹さんの広告でオードリーがいっぱい見れます。
当時の物価を考えると安くはないのでしょうが、今の値段で考えると、全部のパネル買います!って感じですね。
映画音楽のレコードでもオードリーがジャケットで使われています。
後ろのページでは映画パンフレットが売られています。72年にリバイバルされた「パリで一緒に」のが150円、73年にリバイバル公開されたばっかりの「戦争と平和」が200円だそうです。
ちなみに今の人はわからないでしょうが、〒85とかって書いてるのは送料が85円ってことですからね。
そういえば、絵柄が載ってないのですが、東和のスターカレンダーと、日本ヘラルドのカレンダーでオードリーが使われていたようです。
どんな画像を使っていたのでしょうね。
テレビの洋画劇場のページでは、10月の洋画劇場の視聴率が出ています。「シャラコ」以外は全部15%超えで、今のテレビ番組でなら喉から手が出るほど欲しい視聴率ですね。
同じテレビのページのグラビアでは初放映のヴィヴィアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」が紹介されています。
フジテレビの夜11:20からの放映ですけど、再放映ならまだしも、なぜこんな遅い時間から初放映するんでしょうね。
当時はビデオなんてまだ普及してない時代ですし、見たかったらその時間にテレビ前にいないといけなかったので、大変だったことと思います。
右上のヴィヴィアンが冷徹そうでクレオパトラにピッタリ!美しいな〜と思いました。
ヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」「哀愁」「欲望という名の電車」以外の作品の写真って、なかなか掲載されることがなくてすっごく貴重なので、当時はすっごい嬉しかったものです。
読者のページでは、「昼下りの情事」の放映があったので、数人の人が「昼下りの情事」の感激した感想を述べてくれています。嬉しいですね。
発売は1973年11月21日。表紙は1971年72年に人気のあったドミニク・サンダ。
まあこの “スクリーン”の発売日や「シャレード」1973年リバイバル公開日50周年記念に合わせて紹介でもよかったんですけど、キッチリその日までに準備できるかどうかわからないので、先にやってしまいますね。
まずこの号での最初のオードリーは目次の次に折り込みポスターになっているオリビア・ハッセーの裏面の近代映画社の出版本の案内ページ。
B4サイズで収納に困る“スクリーン ジャンボ”の「ドロン・ヘプバーン魅力集」の発売案内。ここでは「パリの恋人」のオードリーの画像が使われていますね。
このころはまだまだオードリーが大人気。71年に「エクスラン・ヴァリーエ」で日本のテレビCMに登場したオードリーで72〜74年は “スクリーン”ではまたまたオードリーが女優のNo.1だったころですね。
というか、80年代後半の再ブームを見ると、別にオードリーの人気は70年代後半から落ちたんじゃなくて、実際は映画会社が浅はかにも「ローマの休日」と「マイ・フェア・レディ」ばっかりリバイバルするからその2本が飽きられただけだったんですけどね。
でも映画会社はその2大オードリー作品がヒットしなくなると“オードリーはもうダメ”と勝手に判断したからだと思うんですけどね。
映画会社が自分の失敗をオードリーのせいにした、ということだったと思うんですよね。
次のオードリーはカラーページの“10年前のスクリーンから”というページでの1964年1月号の「シャレード」の初公開時の紹介を載せています。
これは実は過去にもう紹介してるので、そちらでご覧ください。
次のオードリーはこの号から新連載の「スターグラフ診断」という7pにわたる緑のグラビアページ。
これ、本文にも目次にも執筆者の名前が無いので、編集者が書いたのでしょうか?
でも新連載のトップがオードリーというのはありがちですけどやっぱり誇らしいですよね。
ありがちというのも、いつの時代もずっとオードリーがトップを走っているから出る言葉なんですよね。
人気がなかったら、トップで取り上げてなんてもらえません。
文章は、まずオードリーの生い立ちから語られるのですが、最近あまり見かけなくなったことで、かつてオードリーがモデルをしていた、というのがあります。
それと、オードリーは現実の物語をおとぎ話に変えてしまう魅力を持っていて世界中のどんな女優よりもうまい。だから彼女が名演技を披露してもリアリズムに終始するドラマの場合は彼女の魅力が半減してしまう。また「マイ・フェア・レディ」辺りからその魔力を失い始める、と書かれています。
だいたい共感できるのですが、魔力を失ったのではなく、「マイ・フェア・レディ」へのバッシングで「おしゃれ泥棒」からやつれたのが原因だと思うのですよね。
本当にあのバッシングさえ無ければ、オードリーはもっと別の歳の取り方があったのではないかなーと思うのですよね。
やっぱりバッシングのせいでやつれてシワも深くなり、肌がカサカサになっている「おしゃれ泥棒」の画像のオードリーを見ると、「マイ・フェア・レディ」のままで普通に歳を取ったらどんなオードリーだったのだろうと思ってしまうのですよね。
たとえ僕が「おしゃれ泥棒」や「いつも2人で」のオードリーをものすごーく愛しているにしても、痛々しいオードリーより元気なオードリーがいいに決まってます。
なぜオードリーだけが吹替の件で「マイ・フェア・レディ」でバッシングされなきゃならないんでしょうね?
デボラ・カーは「王様と私」で、ナタリー・ウッドは「ウエストサイド物語」で、カトリーヌ・ドヌーヴは「シェルブールの雨傘」で叩かれたでしょうか?
そしてそれらは彼女たちの代表作ではないのでしょうか?
ジュリー・アンドリュース自身がスクリーン・テスト(オーディションではない)を断ったのですから、ジュリーファンにオードリーが叩かれるいわれはありません。
オードリーは内向的な人ですから、そんな心ないバッシングで本当にショックで傷ついたと思います。
いまだにオードリーが演じたことをあれこれ言う人がいますが、オードリーが亡くなってもまだ叩くか!と思います。
今オードリーがそれを聞いたらどう思うかと考えると、胸が痛みます。
あと、この引退していた時期に、復活して欲しいけど若い頃のイメージだけを残したい、という論調はここでもあります。
それはオードリーもそう思っているはずだ、と書かれているのですが、実際のオードリーはもっと強い人でしたね。
オードリーは歳を取るのが当たり前だし、シワは私の生きた証です、私は今の私を見て欲しいのです、と言ってましたね。
画像は、この時代、モノクロ写真の輪郭がボヤッとするので、よく線を追加で書かれたりしてることがあって、それがまたよく失敗してるもんで、子供心にも “こんな線、書かんかったらいいのに…”って思うことがしばしば。
ここでも特集の2ページ目、右側のページの左下の「おしゃれ泥棒」の画像の鼻に線が入ってて、それがやっぱり失敗して変になってる!
別に鼻の陰影が消えてたっていいやん!って思うんですけどね。
3ページ目は「ローマの休日」の本当のテストでベッドから起き上がるシーンの画像が載っていますね。
これ、どうやら動画としては残ってなさげなんですけど、こうして “スクリーン”関連の本では何点か画像が残されていますよね。
同じページにはコーラスガール時代のオードリーの画像がありますけど、これ確か「ハイ・ボタン・シューズ」の物だったかと思うんですけど、ここでは「ソース・ピカント」のものになっていますね。本当はどっちなんでしょう?
次の見開きの4ページ目ではオランダに出来た“オードリー・ヘプバーン通り”の看板を見上げるオードリーがいますけど、この通り、グーグルマップで調べたら、今もありました。
でもグーグルマップでは“アウトレー・ヘプブルンラーン”と紹介されていました。ストリートビューで見ると、周りは想像とは違って自然の中にある寂しい小径って感じのところでした。それに一部は大規模な工事中になってて道が無くなっているみたいなところもあったりして…。
オードリーが見上げている標識も見当たりませんでした。
4ページ目からは出演作品の場面集になるのですが、2枚画像を使われているのは「ローマの休日」「戦争と平和」「ティファニーで朝食を」「マイ・フェア・レディ」。
この当時、いかに「戦争と平和」がオードリー作品でも重要だったかが良くわかりますね。
次のオードリーは青い紙のページで、「スクリーン海外ニュース」と言うコーナー。
トップで “オードリーをヴィスコンティが演出?”と書かれていますね。
もちろんこれは「家族の肖像」のこと(この時の仮題は「ある家族の肖像」)。
オードリー・ヘプバーンとの交渉もかなり進んでいる、と書かれていますが、どうなったのかは皆さんもご存知の通り。
オードリーは若い男を囲うような「不道徳な役はやりたくない」と言って断りますけど、なぜそんなオードリー向きではない役をオードリーに依頼するかなーと思います。
でも70年代の映画って今考えるとそういう不道徳的なものやリアリティーを追求したような映画が幅を利かせていましたよね。
オードリーがかつて出ていたようないわゆるラブコメや夢のある映画みたいなのはほぼ絶滅状態だった時代なんですよね。
この号のグラビアには、「スターが演じた先生たち」というコーナーがあって、もちろんオードリーとシャーリー・マクレーンの「噂の二人」を探したのですが、載っていませんでした。残念!
次は淀川長治さんのページで、「日曜洋画劇場」の解説撮りで73年9月9日に「昼下りの情事」用のを撮ったこと、28日に放映されたこと、視聴率が16.6%だったことが書かれていて、画像も載っています。
その次が「シャレード」のリバイバル作品紹介ページのグラビアになります。
レイアウトデザインは同じ1973年にリバイバルされた「戦争と平和」の時と雲泥の差。「戦争と平和」が1960年代チックな古さだったのに、こちらは今でも大丈夫なお洒落度の高いデザインになってます。好感度高し。
左のメインのオードリーの画像も別テイクのはよく見ますが、このショットは珍しくて画像選びも良いです。
「シャレード」の公開としては1973年はもう3回目になります。「シャレード」は大ヒットだったので、1963年の初公開から5年ごとに公開されてたんですよね。
後ろのページではストーリー紹介もされています。
「麗しのサブリナ」や「ティファニーで朝食を」などは比べものにならないほど大ヒットだったんですよね。
フジテレビのゴールデン洋画劇場でも1972年に初放映されましたけど、再放送のリクエストでも第5位に入るほど人気がありました。
それに1973年のリバイバルは日本の宣伝のメインビジュアルが最高!
ポスター・プレスシート・パンフレット・チラシで同じデザインが使われましたけど、「シャレード」での全世界での最高峰ビジュアルとなっています!これを超える「シャレード」デザインは世界には存在しません!
でもさすがに5年ごとのリバイバルではちょっとやり過ぎだったんでしょうかね、73年のニュー東宝シネマ2でのリバイバルはたった3週間で次の作品に取って代わられてしまいます。
もうちょっとヒットしていれば1974年のお正月映画になっているところだったんですけどね。
やはり “観客層は7年で入れ替わる”と言われるように、7年は間を置いたほうが良かったんでしょうね。
この後は1987年になるまでリバイバルされませんでした。
80年代前半までは「戦争と平和」と並び3回の公開で「マイ・フェア・レディ」「ローマの休日」に次ぐ第3位の公開回数でしたけど、90年代前半までの大ブーム時までは4回となって「戦争と平和」の5回に1回負けて「ティファニーで朝食を」「パリの恋人」と並んで第4位になります。
その後は「午前十時の映画祭」で2度上映されましたので、日本公開は6回となり、「ローマの休日」(13回)、「マイ・フェア・レディ」(10回)、「ティファニーで朝食を」(7回)に次いで、「パリの恋人」「麗しのサブリナ」と並ぶ同率第4位となっています。
さてこの公開作品紹介では「燃えよドラゴン」も紹介されてて、裏表紙の裏にも広告が出てるのですが、最初に公開された劇場を見ると東京は丸の内松竹だったりするので、松竹としては2番手扱い。“スクリーン”の紹介でも7番目。最初はそこまで期待されてなかったのがわかります。
ところがフタを開けたら押すな押すなの大ヒット!73年のオイルショックで物価が急激に上がったのもありますが、それまでワーナー映画として最高の配給収入をあげていた「マイ・フェア・レディ」の7億9千万円を軽く超えて、74年度で16億4200万円を稼ぎました。
74年には同じワーナー映画で「エクソシスト」も出て(劇場も丸の内ピカデリー、丸の内松竹の同じ松竹系)、こちらはさらに上をいく27億3200万円を稼いでいますから、この年はワーナーの年だったわけですね。
グラビアのページではクリエイト鷹さんの広告でオードリーがいっぱい見れます。
当時の物価を考えると安くはないのでしょうが、今の値段で考えると、全部のパネル買います!って感じですね。
映画音楽のレコードでもオードリーがジャケットで使われています。
後ろのページでは映画パンフレットが売られています。72年にリバイバルされた「パリで一緒に」のが150円、73年にリバイバル公開されたばっかりの「戦争と平和」が200円だそうです。
ちなみに今の人はわからないでしょうが、〒85とかって書いてるのは送料が85円ってことですからね。
そういえば、絵柄が載ってないのですが、東和のスターカレンダーと、日本ヘラルドのカレンダーでオードリーが使われていたようです。
どんな画像を使っていたのでしょうね。
テレビの洋画劇場のページでは、10月の洋画劇場の視聴率が出ています。「シャラコ」以外は全部15%超えで、今のテレビ番組でなら喉から手が出るほど欲しい視聴率ですね。
同じテレビのページのグラビアでは初放映のヴィヴィアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」が紹介されています。
フジテレビの夜11:20からの放映ですけど、再放映ならまだしも、なぜこんな遅い時間から初放映するんでしょうね。
当時はビデオなんてまだ普及してない時代ですし、見たかったらその時間にテレビ前にいないといけなかったので、大変だったことと思います。
右上のヴィヴィアンが冷徹そうでクレオパトラにピッタリ!美しいな〜と思いました。
ヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」「哀愁」「欲望という名の電車」以外の作品の写真って、なかなか掲載されることがなくてすっごく貴重なので、当時はすっごい嬉しかったものです。
読者のページでは、「昼下りの情事」の放映があったので、数人の人が「昼下りの情事」の感激した感想を述べてくれています。嬉しいですね。
この記事へのコメント
マイ・フェア・レディのバッシングってそんなにひどかったんですか!
舞台で当たり役だったジュリー・アンドリュースに演じてほしかった人が多かったんでしょうか
あの当時は吹き替えは珍しくなかったですし、それでバッシングされていたのならなんかこじつけのような気もしますね。
アカデミー主演女優賞にノミネートされなかったのもそういった事も関係があるのでしょうか。
バッシングってアメリカだけ、日本でも?
随分前にエマ・トンプソンがオードリーの歌や演技も下手みたいな事言っていましたが、突然何を言い出すのかと思いましたよ
そういえば「マイ・フェア・レディ」のリメイクの話しってどうなったんですか。
舞台で当たり役だったジュリー・アンドリュースに演じてほしかった人が多かったんでしょうか
あの当時は吹き替えは珍しくなかったですし、それでバッシングされていたのならなんかこじつけのような気もしますね。
アカデミー主演女優賞にノミネートされなかったのもそういった事も関係があるのでしょうか。
バッシングってアメリカだけ、日本でも?
随分前にエマ・トンプソンがオードリーの歌や演技も下手みたいな事言っていましたが、突然何を言い出すのかと思いましたよ
そういえば「マイ・フェア・レディ」のリメイクの話しってどうなったんですか。
Posted by りりあ at 2023年10月29日 21:33
りりあさん、こんばんは!
そうなんです。契約では吹替のことは口外禁止だったそうなのですが、マーニ・ニクソンの夫で映画音楽作曲家のアーネスト・ゴールドが途中でバラしてしまい、オードリーがイライザをやることを快く思ってなかったジュリー・アンドリュースの友人やファンがここぞとばかり叩きまくったそうです。
毒舌で有名なヘッダ・ホッパーという女性の批評家は(「風と共に去りぬ」の時には他の批評家より先に自分にだけ試写を見せろ、見せなかったら悪い批評を書く!と脅したそうです)、「オードリーは歌ってないから半分しか演技してない」と言ったそうですし、アカデミー賞も明らかに吹替のバッシングのせいでノミネートから漏れたそうです。
なので、その年のアカデミー賞は揉めに揉めて、オードリー派の人は「ノミネートされてなくてもオードリーに投票しよう!」という大きな運動まで起きたそうで、その時のアカデミー賞の会長は、ノミネート以外の人に投票しても無効とわざわざアナウンスしたそうですよ。
オードリーはノミネートされてないのに、前年アカデミー主演女優賞を獲ったパトリシア・ニール(「ティファニーで朝食を」の2E役)が病気のために代役のプレゼンターを頼まれたので、そのバッシングの最中で針のむしろ状態でもアカデミー授賞式に参加。役目を終えて段から降りた時には、以前からオードリーの1番のファンだと言っていたエリザベス・テイラーの当時の夫のエディ・フィッシャーに涙で潤んだ目で、「今でも私のファンでいてくださる?」と聞いたそうです。オードリー、何も悪くないのに、そのエピソードは本当に可哀想で可哀想で…。
しかもそんな緊張状態だったため、パトリシア・ニールの代役であることを言い忘れてしまっており、さらにマスコミに叩かれたそうです。
当時のバッシングはアメリカだけで、90年代までは日本では全然でしたが、94年のリマスターでオードリーが吹替だったということが日本でも大っぴらになると、2000年ごろのネットで「ジュリーが演じるべき」という論調が出てくるようになりました。特に偏った意見のジュリーファンとかは酷かったですね。
ちなみにその頃はwikiはじめ、オードリーの曲は全部吹き替えられたと書かれているものばかりで、オードリーの声もあるのに結局オードリーとマーニ・ニクソンの声すら聴き分けられないで、それでよくジュリーでとか言えるな!と思ってました。
「マイ・フェア・レディ」のリメイクの話は2010年の情報を最後に、頓挫したみたいですよ。まあ脚本のエマ・トンプソンがオードリーの悪口を言ってましたし、イライザは性奴隷として父に売り飛ばされたという原作にもない変な独自解釈で作るみたいでしたから、そんな性格の悪い人が書いた脚本から作られる「マイ・フェア・レディ」なんてろくなものにはならないと思ってましたから、頓挫も当然ですよね。
そうなんです。契約では吹替のことは口外禁止だったそうなのですが、マーニ・ニクソンの夫で映画音楽作曲家のアーネスト・ゴールドが途中でバラしてしまい、オードリーがイライザをやることを快く思ってなかったジュリー・アンドリュースの友人やファンがここぞとばかり叩きまくったそうです。
毒舌で有名なヘッダ・ホッパーという女性の批評家は(「風と共に去りぬ」の時には他の批評家より先に自分にだけ試写を見せろ、見せなかったら悪い批評を書く!と脅したそうです)、「オードリーは歌ってないから半分しか演技してない」と言ったそうですし、アカデミー賞も明らかに吹替のバッシングのせいでノミネートから漏れたそうです。
なので、その年のアカデミー賞は揉めに揉めて、オードリー派の人は「ノミネートされてなくてもオードリーに投票しよう!」という大きな運動まで起きたそうで、その時のアカデミー賞の会長は、ノミネート以外の人に投票しても無効とわざわざアナウンスしたそうですよ。
オードリーはノミネートされてないのに、前年アカデミー主演女優賞を獲ったパトリシア・ニール(「ティファニーで朝食を」の2E役)が病気のために代役のプレゼンターを頼まれたので、そのバッシングの最中で針のむしろ状態でもアカデミー授賞式に参加。役目を終えて段から降りた時には、以前からオードリーの1番のファンだと言っていたエリザベス・テイラーの当時の夫のエディ・フィッシャーに涙で潤んだ目で、「今でも私のファンでいてくださる?」と聞いたそうです。オードリー、何も悪くないのに、そのエピソードは本当に可哀想で可哀想で…。
しかもそんな緊張状態だったため、パトリシア・ニールの代役であることを言い忘れてしまっており、さらにマスコミに叩かれたそうです。
当時のバッシングはアメリカだけで、90年代までは日本では全然でしたが、94年のリマスターでオードリーが吹替だったということが日本でも大っぴらになると、2000年ごろのネットで「ジュリーが演じるべき」という論調が出てくるようになりました。特に偏った意見のジュリーファンとかは酷かったですね。
ちなみにその頃はwikiはじめ、オードリーの曲は全部吹き替えられたと書かれているものばかりで、オードリーの声もあるのに結局オードリーとマーニ・ニクソンの声すら聴き分けられないで、それでよくジュリーでとか言えるな!と思ってました。
「マイ・フェア・レディ」のリメイクの話は2010年の情報を最後に、頓挫したみたいですよ。まあ脚本のエマ・トンプソンがオードリーの悪口を言ってましたし、イライザは性奴隷として父に売り飛ばされたという原作にもない変な独自解釈で作るみたいでしたから、そんな性格の悪い人が書いた脚本から作られる「マイ・フェア・レディ」なんてろくなものにはならないと思ってましたから、頓挫も当然ですよね。
Posted by みつお at 2023年10月29日 23:34