2021年07月09日
「スクリーン」1957年2月号表紙 衣装について
今回は「スクリーン」の1957年2月号の表紙の紹介。
なんか確認してみると「パリの恋人」って2019年以来紹介してないんですよね。しかも最後の紹介はオードリー・ヘップバーン映画祭のパンフレットの話で、「パリの恋人」単独じゃないし。
その前は同じく19年の1月に“午前十時の映画祭”のチラシで「パリの恋人」を紹介してるものだし、ちょっと「パリの恋人」としては弱い。
となると実質2018年12月の「映画の友」以降は「パリの恋人」の紹介がないので、今回は「パリの恋人」で探しました。
で、今回選んだのはこの「パリの恋人」の宣伝写真を使った「スクリーン」の表紙。
今回も本体は既に持っておらず、切り抜きしたものだけなので、本文にどういうオードリーのことがあったのか、自分の持っている切り抜きの中でどれがこの号の中身なのかがわかりません。
なので今回はこの表紙だけのお話です。その中でも特にこの衣装のお話。
こういうのは僕のもうひとつのブログ、「おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!」の方に向いているんですけど、それに載せるにはちょっと小粒なので、こちらで書きました。
まず57年2月号というと、1956年12月発売ですね。
なんども書いてきたように、昔は撮影中から画像や情報を出して宣伝していくのが普通でしたよね。
今みたいに、いよいよ公開前になって突然宣伝が開始するのとはやり方が全然違います。
まあ昔は今みたいにネットでなんでも調べられる、という時代ではありませんから、人々に浸透させるには長い期間が必要だったのだろうと思います。
なので、昔の人はこういう「パリの恋人」のオードリーだったら、撮影は前年の1956年に行われていた、というのは雑誌とかで見てご存知だったし、それが常識だったのだろうと思います。
でも今の人たちはそういう事情とかは知らないので、オードリーのタイムラインに立つ事も無く、「パリの恋人」だったら1957年製作ってなってるから、オードリー28才。って書いちゃうんですよね。
だから、ネットで “パリの恋人 オードリー 28才”って調べると、「オードリーはこの時28才」って書いてある人のなんと多いことか!
ほんのちょっと調べると、本国アメリカでの公開は1957年2月ですから、まだオードリーは1957年の誕生日は来てませんよね。なので公開時はまだ27才ということは簡単にわかるんですけどねー。
しかも正確には「パリの恋人」の撮影は56年4月からなので、「パリの恋人」で僕らが見ているオードリーは26才〜27才が正解、ということになります。
さてこの表紙の衣装ですが、グリーンのサテンっぽいですよね。なので「スクリーン」という雑誌名や2月号の2という文字もその色に合わせてデザインが組み立てられています。
でもこれ、ずっと僕は「パリの恋人」のジョーがフロストル教授と初めて会うときの、目の覚めるようなブルーのサテンのガウンだと思っていたんです。
それが昔のまだ発達していない着色のように見えてしまうカラー技術のせいで印刷でもこういうグリーンに変わってしまっているのだと。
実際、雑誌「FLIX」の特別追悼号「オードリー・ヘプバーン 永遠のプリンセス・魅力のすべて」という特集号で、ちゃんとブルーに写った画像も載っていましたし(2枚目の画像)、それで僕の中では解決していたんです。
でもね、ドキュメンタリー「AUDREY」 のトレーラーを紹介した時など、今でもこの衣装がグリーンになっていたりするんで(トレーラーの開始30秒の部分)、今回きっちり調べようと思ってチェックしました。
そこでわかったのは、この「スクリーン」の表紙の衣装は、「パリの恋人」で着た水色のガウンではない!ということ。
もしかしてブルーとグリーンで同じものが2色ある?とも思ったんですよね。
でもこの表紙をよーくみるとわかるんですけど(このブログの写真ではわからないかもしれませんが)、首の部分から肩、腕にかけて前後で縫製されているのがはっきりわかるんです。
対して「パリの恋人」でフロストル教授に会うシーンで着ているブルーのは1枚布のような、貼り合わせのないもの。「オードリー・ヘプバーン 永遠のプリンセス・魅力のすべて」で着ているものも、その貼り合わせがありません。
しかもこちらのグリーンの表紙の画像には襟らしきものもありますしね。
じゃあこのグリーンサテンの衣装は他の写真では見当たらないかな?と思って、まず頭に浮かんだ衣装があって、その記憶をたどって、今度は「FLIX」の「オードリー・ヘプバーン特集号 マイ・フェア・レディ30周年記念版」の中のピンナップ写真を見てみましたが(3枚目の写真)、これはハズレ。フード部分と肩の部分が別生地になっていました。
「パリの恋人」本編でのオペラ座のグリーンのサテンの衣装か?とも思いましたが、そちらもこの表紙とは形が違いました。フードもありませんしね。
まあとにかくこの表紙のグリーンのサテンと「パリの恋人」本編のブルーのサテンは別物だというのはわかりましたが、今度はおかしいなと思ったのがドキュメンタリー「AUDREY」 のトレーラー。
ここで使われている画像と、「FLIX」の特別追悼号「オードリー・ヘプバーン 永遠のプリンセス・魅力のすべて」に載っていた画像は全く同じもの。
なのに「FLIX」はブルーで、ドキュメンタリーはまるでこの表紙のようなグリーン。
でも「FLIX」の特別追悼号が出た1993年にはまだPhotoshopなどもまだそんなに発達しておらず、加工とかは普通ではない時代。
それと比較して、ドキュメンタリー「AUDREY」は現代ですから、加工がむしろ当たり前の時代。
原版のポジフィルムで見ればはっきり色がわかるのでしょうが、単なる古い印刷物やそれを元にしたデジタル画像の場合、経年劣化で色が退色&黄変している可能性があります。
青いものに劣化の変色の黄色が乗った場合、当然混ざると緑っぽくなります。
なのであんまり事情を知らない加工担当の人がこういうグリーンぽくなってしまった画像を見て、これはグリーンだな、と思ってさらにグリーン寄りに加工したのだと思います。
実際、「FLIX」の写真ではバックに色や影がありますが、ドキュメンタリー「AUDREY」では真っ白になってますもんね。明らかに人の手が入ってます。
印刷技術が格段に進歩して、昔の写真もポジさえあればまるで昨日撮影したかのように綺麗になるのはいいんですが、オリジナルに忠実ではない余計な加工技術は僕は嫌いです。
「ローマの休日」の街着のスカートでも“午後の紅茶”の宣伝以来、着色のせいでブルーだと思ってる人の方が一般的には多いですしね。本当はベージュだったんですけど…。
まあ違いがわかって自分的にはよかったですけど、現代のいい加減な加工のことではモヤモヤしてしまったのでした。
なんか確認してみると「パリの恋人」って2019年以来紹介してないんですよね。しかも最後の紹介はオードリー・ヘップバーン映画祭のパンフレットの話で、「パリの恋人」単独じゃないし。
その前は同じく19年の1月に“午前十時の映画祭”のチラシで「パリの恋人」を紹介してるものだし、ちょっと「パリの恋人」としては弱い。
となると実質2018年12月の「映画の友」以降は「パリの恋人」の紹介がないので、今回は「パリの恋人」で探しました。
で、今回選んだのはこの「パリの恋人」の宣伝写真を使った「スクリーン」の表紙。
今回も本体は既に持っておらず、切り抜きしたものだけなので、本文にどういうオードリーのことがあったのか、自分の持っている切り抜きの中でどれがこの号の中身なのかがわかりません。
なので今回はこの表紙だけのお話です。その中でも特にこの衣装のお話。
こういうのは僕のもうひとつのブログ、「おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!」の方に向いているんですけど、それに載せるにはちょっと小粒なので、こちらで書きました。
まず57年2月号というと、1956年12月発売ですね。
なんども書いてきたように、昔は撮影中から画像や情報を出して宣伝していくのが普通でしたよね。
今みたいに、いよいよ公開前になって突然宣伝が開始するのとはやり方が全然違います。
まあ昔は今みたいにネットでなんでも調べられる、という時代ではありませんから、人々に浸透させるには長い期間が必要だったのだろうと思います。
なので、昔の人はこういう「パリの恋人」のオードリーだったら、撮影は前年の1956年に行われていた、というのは雑誌とかで見てご存知だったし、それが常識だったのだろうと思います。
でも今の人たちはそういう事情とかは知らないので、オードリーのタイムラインに立つ事も無く、「パリの恋人」だったら1957年製作ってなってるから、オードリー28才。って書いちゃうんですよね。
だから、ネットで “パリの恋人 オードリー 28才”って調べると、「オードリーはこの時28才」って書いてある人のなんと多いことか!
ほんのちょっと調べると、本国アメリカでの公開は1957年2月ですから、まだオードリーは1957年の誕生日は来てませんよね。なので公開時はまだ27才ということは簡単にわかるんですけどねー。
しかも正確には「パリの恋人」の撮影は56年4月からなので、「パリの恋人」で僕らが見ているオードリーは26才〜27才が正解、ということになります。
さてこの表紙の衣装ですが、グリーンのサテンっぽいですよね。なので「スクリーン」という雑誌名や2月号の2という文字もその色に合わせてデザインが組み立てられています。
でもこれ、ずっと僕は「パリの恋人」のジョーがフロストル教授と初めて会うときの、目の覚めるようなブルーのサテンのガウンだと思っていたんです。
それが昔のまだ発達していない着色のように見えてしまうカラー技術のせいで印刷でもこういうグリーンに変わってしまっているのだと。
実際、雑誌「FLIX」の特別追悼号「オードリー・ヘプバーン 永遠のプリンセス・魅力のすべて」という特集号で、ちゃんとブルーに写った画像も載っていましたし(2枚目の画像)、それで僕の中では解決していたんです。
でもね、ドキュメンタリー「AUDREY」 のトレーラーを紹介した時など、今でもこの衣装がグリーンになっていたりするんで(トレーラーの開始30秒の部分)、今回きっちり調べようと思ってチェックしました。
そこでわかったのは、この「スクリーン」の表紙の衣装は、「パリの恋人」で着た水色のガウンではない!ということ。
もしかしてブルーとグリーンで同じものが2色ある?とも思ったんですよね。
でもこの表紙をよーくみるとわかるんですけど(このブログの写真ではわからないかもしれませんが)、首の部分から肩、腕にかけて前後で縫製されているのがはっきりわかるんです。
対して「パリの恋人」でフロストル教授に会うシーンで着ているブルーのは1枚布のような、貼り合わせのないもの。「オードリー・ヘプバーン 永遠のプリンセス・魅力のすべて」で着ているものも、その貼り合わせがありません。
しかもこちらのグリーンの表紙の画像には襟らしきものもありますしね。
じゃあこのグリーンサテンの衣装は他の写真では見当たらないかな?と思って、まず頭に浮かんだ衣装があって、その記憶をたどって、今度は「FLIX」の「オードリー・ヘプバーン特集号 マイ・フェア・レディ30周年記念版」の中のピンナップ写真を見てみましたが(3枚目の写真)、これはハズレ。フード部分と肩の部分が別生地になっていました。
「パリの恋人」本編でのオペラ座のグリーンのサテンの衣装か?とも思いましたが、そちらもこの表紙とは形が違いました。フードもありませんしね。
まあとにかくこの表紙のグリーンのサテンと「パリの恋人」本編のブルーのサテンは別物だというのはわかりましたが、今度はおかしいなと思ったのがドキュメンタリー「AUDREY」 のトレーラー。
ここで使われている画像と、「FLIX」の特別追悼号「オードリー・ヘプバーン 永遠のプリンセス・魅力のすべて」に載っていた画像は全く同じもの。
なのに「FLIX」はブルーで、ドキュメンタリーはまるでこの表紙のようなグリーン。
でも「FLIX」の特別追悼号が出た1993年にはまだPhotoshopなどもまだそんなに発達しておらず、加工とかは普通ではない時代。
それと比較して、ドキュメンタリー「AUDREY」は現代ですから、加工がむしろ当たり前の時代。
原版のポジフィルムで見ればはっきり色がわかるのでしょうが、単なる古い印刷物やそれを元にしたデジタル画像の場合、経年劣化で色が退色&黄変している可能性があります。
青いものに劣化の変色の黄色が乗った場合、当然混ざると緑っぽくなります。
なのであんまり事情を知らない加工担当の人がこういうグリーンぽくなってしまった画像を見て、これはグリーンだな、と思ってさらにグリーン寄りに加工したのだと思います。
実際、「FLIX」の写真ではバックに色や影がありますが、ドキュメンタリー「AUDREY」では真っ白になってますもんね。明らかに人の手が入ってます。
印刷技術が格段に進歩して、昔の写真もポジさえあればまるで昨日撮影したかのように綺麗になるのはいいんですが、オリジナルに忠実ではない余計な加工技術は僕は嫌いです。
「ローマの休日」の街着のスカートでも“午後の紅茶”の宣伝以来、着色のせいでブルーだと思ってる人の方が一般的には多いですしね。本当はベージュだったんですけど…。
まあ違いがわかって自分的にはよかったですけど、現代のいい加減な加工のことではモヤモヤしてしまったのでした。
この記事へのコメント
おはようございます。数日前ですが、京都出身のスポーツライターT.M.氏がご自身のブログで最近「パリの恋人」を観て、アステアに引けを取らないオードリーのダンスに驚いたなどと書いておられ、微苦笑を禁じ得ませんでした。まあ専門外の事柄ですから(今、確認したら削除されたようで)。
そのT.M.氏が以前、同じく京都出身の指揮者S.Y.氏から聞いた話として、S氏が手兵の海外オケと「ばらの騎士」ワルツを録音した際に、共にプレイバックを聴いていたディレクターから
「アゴーギクがもう一つ上手く行ってませんが、あとはこちらで処理しますから」
と云われて素直に感心したとのエピソードを紹介していたのですね。それを読んで、いやちょっと待った!演奏の現場で実現出来なかったことを機械的な操作で取り繕って赦されるのか?と叫びたくなったのですが。
カラヤンが初来日でN響を振った時、放送用に収録した何か短い序曲を通さずに帰ろうとし、スタッフが押し留めると
「どんな場所も繋げなくてどうするんだ?」
と怪訝な顔だったと。まあこれは編集ですし、残響の付加などは当時から当たり前だったでしょうが、演奏自体をいじってしまう昨今のやり方はいささかやり過ぎではないかと。それこそ「オリジナルに忠実でない余計な加工技術」で。
で、ハコネーゼのCMですが、冒瀆などとは思いませんがやっぱり少々「余計」かなあとモヤモヤしてしまうのです。失礼しました…。
そのT.M.氏が以前、同じく京都出身の指揮者S.Y.氏から聞いた話として、S氏が手兵の海外オケと「ばらの騎士」ワルツを録音した際に、共にプレイバックを聴いていたディレクターから
「アゴーギクがもう一つ上手く行ってませんが、あとはこちらで処理しますから」
と云われて素直に感心したとのエピソードを紹介していたのですね。それを読んで、いやちょっと待った!演奏の現場で実現出来なかったことを機械的な操作で取り繕って赦されるのか?と叫びたくなったのですが。
カラヤンが初来日でN響を振った時、放送用に収録した何か短い序曲を通さずに帰ろうとし、スタッフが押し留めると
「どんな場所も繋げなくてどうするんだ?」
と怪訝な顔だったと。まあこれは編集ですし、残響の付加などは当時から当たり前だったでしょうが、演奏自体をいじってしまう昨今のやり方はいささかやり過ぎではないかと。それこそ「オリジナルに忠実でない余計な加工技術」で。
で、ハコネーゼのCMですが、冒瀆などとは思いませんがやっぱり少々「余計」かなあとモヤモヤしてしまうのです。失礼しました…。
Posted by Edipo Re at 2021年07月10日 09:38
Edipo Reさん、こんばんは!
オードリーの踊りですが、僕も踊りは専門外なので、アステアと比べると劣るとか一緒くらいとかって本でも書いてありますけど、正直全然わからないんです。
アステアに劣ると書かれてると、まあそうだろうなーと思うし、負けてないって書かれてるとふーんって思うだけなんです。
クラシックの話は、「ばらの騎士」はもろPhotoshopの加工と同じで、出来てもない、いじっちゃいかん所までいじってて、それはプロとしてどうなの?って思ってしまいますね。
カラヤンの方は、まあ繋いでるだけならそんなもんかなーと思いますね。特にカラヤンだとさもありなんという感じで。繋いでるだけなら、とにかくその演奏は本物という気もしますし。映画とかでもいろんなテイクのものを繋いでるわけですしね。
通しで聞ける感動ははライブで聴いてください、でも完璧な演奏はレコードで聴いてください、というわけですよね?
僕は昔からスタジオ録音の音の方が好きでした。ゴホゴホとか雑音の入るライブ録音ってあんまり好きじゃないんですよねー。
ハコネーゼ、もう終わってしまいましたんで、二度とテレビで見れないのは残念です。
Edipo Reさんはモヤモヤしてらしたのですね。
僕は「パリで一緒に」の中で「ティファニーで朝食を」や「マイ・フェア・レディ」が出てくる的な感覚で見てしまうんですよねー。
まあ「ローマの休日」を使って、みんなに楽しんでもらおう、喜んでもらおうという考えがわかりますんで。リスペクトがあるということでしょうか。
ただ、オードリーを使った無許可のTシャツとか偽サインとかはそういうリスペクトなんか皆無じゃないですか、単にオードリーを使って儲けてやろう的な考えしかないという。
その辺が僕の中での線引きなんだろうなーと思います。
オードリーの踊りですが、僕も踊りは専門外なので、アステアと比べると劣るとか一緒くらいとかって本でも書いてありますけど、正直全然わからないんです。
アステアに劣ると書かれてると、まあそうだろうなーと思うし、負けてないって書かれてるとふーんって思うだけなんです。
クラシックの話は、「ばらの騎士」はもろPhotoshopの加工と同じで、出来てもない、いじっちゃいかん所までいじってて、それはプロとしてどうなの?って思ってしまいますね。
カラヤンの方は、まあ繋いでるだけならそんなもんかなーと思いますね。特にカラヤンだとさもありなんという感じで。繋いでるだけなら、とにかくその演奏は本物という気もしますし。映画とかでもいろんなテイクのものを繋いでるわけですしね。
通しで聞ける感動ははライブで聴いてください、でも完璧な演奏はレコードで聴いてください、というわけですよね?
僕は昔からスタジオ録音の音の方が好きでした。ゴホゴホとか雑音の入るライブ録音ってあんまり好きじゃないんですよねー。
ハコネーゼ、もう終わってしまいましたんで、二度とテレビで見れないのは残念です。
Edipo Reさんはモヤモヤしてらしたのですね。
僕は「パリで一緒に」の中で「ティファニーで朝食を」や「マイ・フェア・レディ」が出てくる的な感覚で見てしまうんですよねー。
まあ「ローマの休日」を使って、みんなに楽しんでもらおう、喜んでもらおうという考えがわかりますんで。リスペクトがあるということでしょうか。
ただ、オードリーを使った無許可のTシャツとか偽サインとかはそういうリスペクトなんか皆無じゃないですか、単にオードリーを使って儲けてやろう的な考えしかないという。
その辺が僕の中での線引きなんだろうなーと思います。
Posted by みつお at 2021年07月10日 23:44