2023年11月14日

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 今年、早くやらなきゃ!と思っていましたが、ずっと放置していたのが2つあります。

 どちらも撮影・処理しないといけない画像が多いもので、ズルズルと先延ばしに…。
 とそんなことをしてたら、もう年末に差し掛かってきたので、えいやっ!と2つまとめて画像処理を終わらせましたので、連続して紹介していこうと思います。

 今回は1967年5月号の「映画の友」です。表紙は「いつも2人で」のオードリー。
 うーん、やつれてます。目の下のシワや肌のカサカサ具合が目につきます。

 「マイ・フェア・レディ」のバッシングで一気に年を取ったオードリー。
 さらに「いつも2人で」の撮影前には流産もあり、メル・ファーラーとの破局がヒタヒタと迫ってきて心労が一番激しかった頃。

 「いつも2人で」の頃のオードリーも僕は大好きですけど、ポートレートでの痛々しさは、この作品が最大ですね。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 70年代はじめ、日本でも目の周りにバッチリアイラインと付けまつ毛を着けるメイクが流行ったんですが、その際によく表紙やレコードジャケットに使われたのも「おしゃれ泥棒」の画像がメインで、「いつも2人で」はなかなか使われなかったのは、その辺に理由があるものと思われます。

 この号の頃には、オードリーのイラストというとシワを描くことが普通になっていましたね。

 サイズは60年代前半のB5から大きくなっていて、A4の縦の短い版。パンフレットでは中型版と言われるサイズ。
 「おしゃれ泥棒」の映画パンフレットなんかがこのサイズです。

 さて、なぜこの号を今年中に紹介したいかというと、今年6月29日にアラン・アーキンが亡くなりました。もちろん「暗くなるまで待って」でオードリーを追い詰める悪役ハリー・ロートを演じていますね。

 その知らせをニュースで見た時は、またひとり、オードリーと共演した主演クラスの人が亡くなってしまった…と思いましたね。
 「暗くなるまで待って」でオードリーを囲んだ主演クラス3人の男優は全員いなくなってしまいました。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 これでオードリーと共演した残っている主演クラスの人は、「おしゃれ泥棒2」のロバート・ワグナー、「オールウェイズ」のリチャード・ドレイファス、ホリー・ハンター、そして「噂の二人」のシャーリー・マクレーンくらいでしょうか。

 アラン・アーキンは、「暗くなるまで待って」1作の競演でしたので、「暗くなるまで待って」関連から探しました。
 それでこの1967年5月号の「映画の友」にしました。

 発売は1967年3月。「暗くなるまで待って」は1月に撮影が始まったばかりです。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 でもこの号にはもう一つ大きなイベントがあります。それは年に1回の読者人気投票の結果発表!

 前年、「サウンド・オブ・ミュージック」と「メリー・ポピンズ」の代表作両方が日本で初公開されて、オードリーの連続1位記録を途絶えさせたジュリー・アンドリュースでしたが、66年はオードリー「おしゃれ泥棒」に対してジュリー・アンドリュース「引き裂かれたカーテン」のバチバチの戦い。

 たぶんこの年も、オードリー・ファン、ジュリー・ファンとどちらもがドキドキしながらこの号を開いたと思います。

 この号の掲載の仕方が気を持たせるようになってるんですよ。
 最初のカラーグラビアが、男優1位のアラン・ドロン。めくってすぐが、ジュリー・アンドリュース。
 これで一見ジュリーが勝った!?と思いきや、順位は第2位。ジュリー・ファンはここでガッカリですね。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 この号では17位のスターとかまでカラーで載せていて順位もバラバラになっていて、オードリーのグラビアはなかなか出てこないんです。オードリー・ファンはそれで一体何位なのかやきもきして、気を持たせてやっと出てきたのはカラーグラビアの最後のページ。

 そこではもちろん第1位のマークが!これでやっと安心できたわけですよね。
 ここでのオードリーは「おしゃれ泥棒」時の宣伝写真。

 ちょっと印刷が濃いのと、毛穴が目立ちます。でも僕は「おしゃれ泥棒」のオードリーは大好き。
 きっと今なら目の下のたるみやシワは消されて、毛穴も加工されてツルッツルのお肌になるんだろうなーと思います。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 モノクログラビアでも20位までのスターのピンナップがあって、その後に「スター・カード」なるイラストがあります。
 でもファンならイラストじゃなくて写真で欲しいですよねー。

 オードリーは「おしゃれ泥棒」のを参考にしていますね。参考にした元の写真もどれだかわかります。
 
 で、このカードの全部のスターが分かるのは60年代に青春だった方達ですね。半分わかるのが70年代に青春だった方という感じでしょうか。
 80年代以降の人だと、オードリーくらいしかわからなくなるかも…。ショーン・コネリーもこの絵では若すぎますもんね。

 さて、その次のえんじ色1色のグラビアで「暗くなるまで待って」の紹介が始まります。
 この最初の紹介では、「暗くなるまで待て」と邦題が命令口調になってます。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 でもこの最初の画像、この服装で電話をかけるシーンはありませんよね。
 この黒のセーターは最初のジャガード織りのコートの中に着ているものですね。

 次のページでは、明らかに「いつも2人で」より若返ったオードリー。
 この号の表紙で目の下に深く刻まれたシワが、こちらではすっかり無くなっています。

 この「暗くなるまで待って」撮影中に小森のおばちゃまがオードリーにインタビューしに行ってますが、その時に意味深なことをオードリーが喋ってます。
 内容は「カタログ オードリー・ヘプバーン」で読めるのですが、「努力してもムダと見極めたら、未練という感情に負けず決断すること。」と言ってます。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 これって「いつも2人で」の頃、悩みに悩んでた夫メル・ファーラーとの関係を、既にオードリーの心の中では清算している発言ですよね。
 同じインタビューの中で、「ゴシップに悩まされたこともあって、睡眠薬やお酒にご厄介になったこともあったけど、一次的な逃避に過ぎないし、容色は衰えるばかり。」とも言ってます。

 「暗くなるまで待って」撮影開始の頃には、もうメル・ファーラーのことは完全に吹っ切ってるし、お酒に逃げることもやめて「いつも2人で」ではシワが深くなってお肌カサカサだったオードリーが、「暗くなるまで待って」ではツヤツヤでシワも無くなってるんですよね。

 こういうところが、オードリーってその時の心境がめっちゃ顔に出る、と僕が思う所以なんですけど、最近の何でもかんでも修正してしまったオードリーの画像では、そういうオードリーの心の動きは見えなくなっていますよね。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 オードリーって、「尼僧物語」でオードリーにしては太ってるのは、やっぱり1957年に1年間仕事をお休みして(57年作品の「パリの恋人」「昼下りの情事」は56年撮影)、メル・ファーラーとの仲がうまくいってたからだろうし、「パリで一緒に」ではいくつかの伝記で“ウィリアム・ホールデンのアルコール中毒に悩まされて、オードリーもこの映画を嫌っていた”などと書かれていましたが、「パリで一緒に」のオードリーが最高に美しいのは、絶対オードリーは嫌じゃなかったはず!と僕が書いていたら、その後発売された息子ショーンの本で、実際のオードリーは「パリで一緒に」の撮影が楽しかったと言っていた、と明かされてて、やっぱりな!と思ってました。

 それくらいオードリーって顔にその時の心境がわかりやすく出る人。

 ここでのグラビアでは、アラン・アーキンと仲良くちょこんとロケ地のニューヨークのアパート前の階段で座っていますけど、気になるのは「暗くなるまで待って」の撮影中にあったというお茶の時間のスナップ写真。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 プロデューサーであるメル・ファーラーが来て、グロリア役のジュリー・ハーロッドなどと一緒に写ってるんですが、メルのにこやかな顔に比べて、オードリーはニコリともしていない。

 まあそんな瞬間だっただけでしょうけど、この時のオードリーの心の内は…と考えると、ちょっと微笑ましくは見れないです。
 オードリーは、実際「暗くなるまで待って」の撮影が67年4月に終わって、8月はじめから別居開始、8月末には別居を発表、翌年には離婚、となっています。

 なんか全然アラン・アーキン追悼の文章じゃないですけど、オードリーとアラン・アーキンが撮影合間に一緒に写ってるスナップってあんまりないので、この写真は貴重。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 アーキンが大スター・オードリーにかしこまっているように見えるのがかわいいですね。
 でも何かでアラン・アーキンが話題になってた〜と思ったら、亡くなってしまって、やっぱりショックでしたね。合掌。

 次のオードリーは、「スター・ジャーナル」ってグラビアと記事のページでの“あの人この人”っていうコーナー。
 そこでは、「暗くなるまで待って」の撮影開始披露パーティーをワーナーの豪華セットでやったということが書かれています。

 さらに「暗くなるまで待って」でのオードリーのギャラは100万ドルプラス配収の10%だそうです。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 昔は撮影開始時にパーティーがあって、「パリで一緒に」なんかは船上パーティーの画像が残ってますけど、マスコミを呼んで盛大にするのが当たり前だったのですが、スティーヴン・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」辺りから秘密主義みたいになってしまって、今はどの映画も公開直前にならないと情報が解禁されないようです。

 僕はそんな秘密主義、バカらしいと思いますけどねー。撮影開始しますよーとかって言ってマスコミにも来てもらった方が、認知度も高まるし宣伝にもなって良さそうに思うんですけどねー。

 でも最近はとにかくパシャパシャスマホで撮ってSNSでアップする人が多いので、カメラの音が撮影の邪魔になったり、わーっとすぐに野次馬が来たりするので出来ないんでしょうね。

 次はオードリーのインタビューが載っています。
 “オードリイ・ヘップバーンが語る 男・人生・愛” という見出し。

 オードリーが男性のことを!?と思いますが、これは勝手に外国人のインタビュアーが好きな男性のタイプを聞いただけというもの。
 オードリー自身は質問を途中で遮って、「ご質問はあまりピンと来ませんわ。というより私にはあまり興味がありません。」と答えています。

 他の質問でも、オードリーはやはり自分ことについて、「私は美人じゃありません。鼻は長く、耳だって大きいでしょ。胸だってペチャンコで、まるでアスパラガスみたい。」と答えています。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 あと、これは「シネアルバム」に書いてあったことの元となったと思われるんですが、男優の中で誰が一番強い印象を与えましたか?という質問で、ゲイリー・クーパーとケイリー・グラントと答えています。クーパーに関しては、「彼がやることはなんであろうと良くなってしまうんです。人柄なんですね。」と答えています。

 家庭生活に関しては、すでに「いつも2人で」の頃から発言していましたが、映画が家庭生活を侵すようなら、直ちに仕事を捨てます、と答えています。
 でも仕事を捨てる日は、1967年のこのインタビューではもう間もなくに迫っていたわけですよね。

 それにこの段階で「あなたが人生で最も心を痛めることは?」という質問に対する答えで、貧しい不幸な子供たち、というのがあって、ユニセフの活動にはまだまだ遠いですけど、すでにその下地はできていたのだな、と思います。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 1970年にはユニセフへの最初の貢献として、「愛の世界」というテレビに出演しますもんね。オードリーは本気でそう思っていたのだなということがわかります。

 めくって次のページには「暗くなるまで待って」のストーリーが書かれています。でもこの段階ではラストがどうなるのかまではワーナーの方で伏せられていたようで、結末までは書かれていません。

 さて、その次は第21回「映画の友」世論調査(読者人気投票)の発表と考察。

 作品と監督に関しては淀川長治さんが書いていて、監督1位のウィリアム・ワイラーで「おしゃれ泥棒」の画像が載っています。
 この写真は映画ではカットされた、ニコルが働くNATOのオフィスのスナップ写真ですね。NATO…今ウクライナの問題に端を発して、ニュースでよく見るようになりましたね。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 さて、監督では1位の「おしゃれ泥棒」、作品では「ドクトル・ジバゴ」「幸福」に次ぐ第3位。上位2作が4779票、4649票に比して「おしゃれ泥棒」は2314票と半分ですが、それでも凄い事。
 ライバル誌「スクリーン」では「おしゃれ泥棒」は第2位に入っていましたから、読者の人気は高かったようですね。

 というのも、まあ当時大人気だったオードリーとピーター・オトゥールの共演ですから、どちらのファンも「おしゃれ泥棒」に投票したのでしょうね。
 結果的にオードリー作品では、「映画の友」では「ローマの休日」(55年5月号第2位)に次ぐ順位、「スクリーン」ではオードリー作品での最高位となりました。

 監督では、オードリー作品とゆかりのあるジョン・ヒューストンが9位、リチャード・レスターが11位、テレンス・ヤングが15位、スタンリー・ドーネン が20位、ブレーク・エドワーズが27位、ビリー・ワイルダーが29位に入っています。

 その次は「あなたが選んだスター」ということで、川喜田和子さん、矢島翠さん、山根祥敬さん、そして「映画の友」編集長の土田英一さんが対談しています。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 まずは女優からなので、当然オードリーについて。昨年はジュリー・アンドリュースに負けて第2位ですが、今年は1位を奪還。

 山根さんがオードリーは昔ながらのスター・システムの良さをよく知っていて、その上でいい仕事をしている、自分が読者だった頃からスター街道を歩いているから、人気が長く続いている、と語っています。

 矢島さんも「おしゃれ泥棒」はピッタリの役柄で魅力があったこと、男性にもファンが多いと語っています。

 川喜田さんは「おしゃれ泥棒」のオードリーは年齢に関係なく綺麗だった、女優で人気が続いているのは偉い、ショーン・コネリーが日本に来た時、日本の女性はオードリーの真似だねと言っていたというエピソードも語っています。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 土田さんは編集長の立場から、オードリーの1位がゲイリー・クーパーの1位とタイ記録であることを述べています。

 次に2位のジュリー・アンドリュースに移るのですが、作品が悪い、イメージを狂わせた、歌って踊れる人が演技だけやるのは勿体無い、「ハワイ」を見てガッカリ、と書かれています。

 後ろのグラビアページに票数も載っているのですが、オードリーは1501票で断トツ。2位のジュリーは975票でオードリーの2/3。男優1位のアラン・ドロンは786票でオードリーの半分です。

 オードリーと共演したスターはアンソニー・パーキンスが第2位、ピーター・オトゥールが4位、ショーン・コネリーが6位、ジョージ・ペパードが9位、バート・ランカスターが12位、ジェームス・コバーンが15位、グレゴリー・ペックが26位、オマー・シャリフが28位となっています。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 ここで、この人気投票には大きな意味があることに今となっては気づきます。というのも「映画の友」は1968年3月号で廃刊となってしまうので、これが「映画の友」最後の人気投票になってしまったのです。

 まさかこの号の時は、来年の1月(3月号発売は1月21日のため)で廃刊になるなど、誰も思ってもみなかったことでしょう。
 最後の締めはオードリーとアラン・ドロンが1位だったわけですね。

 67年、「いつも2人で」公開前に20世紀フォックスが発行した “FOX SCREEN NEWS”のNo.1(創刊号)というのがあるのですが、「いつも2人で」を見た「映画の友」編集長の土田英一氏が「67年度のトップもオードリーだね」と語ったというのが載っています。でも「映画の友」では叶えられなかったということですね。ライバル誌「スクリーン」では1位になっていましたが…。

 その次はオードリーじゃないんですが、「風と共に去りぬ」のリバイバル紹介。67年の公開は70mm版での公開でした。
 「風と共に去りぬ」は表紙裏に宣伝も載っていましたが、そこでも70mmの強調の仕方がハンパないです。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 世界で最も早い70mmでの公開、と謳われてましたが、本当はオーストラリアの方が早かったようです。ここでも破格のグラビア4pも使って紹介されてます(普通は見開き2p)。

 それだけ人気もあって、さらに今回のリバイバルは70mmなので期待も高かったのでしょう。実際この年の「風と共に去りぬ」は、「おしゃれ泥棒」の配給収入第6位を上回る第5位の稼ぎっぷり。

 「風と共に去りぬ 幻のメイキング」を見ると、この時の日本での大ヒットぶりは、写真を10枚横に繋いでもまだ最後尾がわからないくらい行列が長かった、ということ。
 なんせ警察の装甲車はくるわ、スカラ座の劇場支配人は「お帰りください!」とスピーカーで呼びかけるわと、人の多さが尋常ではなかったことが伺えます。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 次のオードリーは、スポット・ライトというコラムで、興行価値や宣伝効果、そして一般大衆への密着を狙いとする「ゴールデン・グロス」賞の第1回の発表があったことが書かれています。選考は封切館の劇場支配人たち、洋画配給会社の宣伝部長ら。選考期間は1965年12月から1966年11月末までに東京地区で公開され、収入が3000万円以上のものから選ばれたそうです。

 そこでは「おしゃれ泥棒」は第5位に選ばれており、女優賞はオードリーであることが書かれています。

 あとは読者投稿欄で残部僅少の「オードリイ・ヘップバーン全集」の宣伝があるのと、「いつも2人で」はいつ公開されますか?という質問で、まだ決まってないこと、「いつも2人で」もまだ題名を検討中で、変更になる可能性があることが書かれています。

 「さすらいの二人」から「いつも2人で」に変更になっても、まだ題名は本決まりじゃなかったのですね。撮影中から「おしゃれ泥棒」になっていた前作と違って、「いつも2人で」は本当に20世紀フォックスがいい題名を見つけられなくて苦しんでいたのが伺えますね。

アラン・アーキン追悼「映画の友」1967年5月号 最後の人気投票 最後のページで、「いつも2人で」のオードリーの写真を頒布しているのが載っています。
 昔は著作権がうるさくなかったので、こうして映画会社からきたポジフィルムから写真を起こして売っていたんですよね。映画会社もそれをなんとも思っていなかった。

 そういえば、「風と共に去りぬ」の初公開時などは、催促してもアメリカ本国のMGMから写真が全然送ってこなくて、MGMの日本支社は洋画スターや映画のブロマイドを売っていた春美栄光堂さん(現存しない)から「風と共に去りぬ」の画像を取り寄せて宣伝で使ったとか。
 結局アメリカから画像が届いたのは公開後だったそう。

 じゃあ春美栄光堂さんなんかはいったいどこから画像(ポジやネガ)を仕入れていたのでしょうね。さらに謎を残す逸話です。



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