2016年07月14日
オードリーのレシピ本!「オードリー at Home」その2
ロンドンでのオードリー展の図録である写真集「永遠のオードリーファッション」が7/25に発売されます!
さて前回に引き続いて「オードリー at Home」についてその2です。
今回はこの本の “伝記” の部分について。
オードリーの公式な伝記はショーンの本だけで完結かと思っていましたが、こうしてルカの目から見たオードリーも見させてくれてとても嬉しいです。
そして思うのは、ルカの父はあくまでもアンドレア・ドッティ氏で、メル・ファーラーは何の接点も無い人だということ。全く出てきません。
この辺はショーンの本では父メル・ファーラーが出てくるのとは全く違うなあ〜と思います。
オードリーが離婚後メル・ファーラーとは会わないようにしていたとのことなので、おそらくルカとメルはオードリーのお葬式以外では会ったことも無いのではないかと…。
そして印象に残ったのは、ドッティ側のお祖母さん(オードリーの姑)の後の旦那で、ルカとは血がつながらないけれども仲の良かったお祖父さんが入院していたとき、お見舞いに行ったルカはその荒れ果てた病院と酷い待遇(お祖父さんと同室の人は亡くなっているのに誰にも気付かれなかった)を見て怒りを覚え、オードリーにその名前を1度だけ使うように頼んだということ。
ちょっと話が逸れますが、日本で大震災が起こった時−それは阪神大震災でも東北大震災でも熊本地震でもそうなのですが−日本人は無秩序にならず、行列を作って配給を受けるのが当たり前なので、暴動や我れ先に物資を奪い合ったりが起こる海外からは驚嘆されていました。
オードリーも日本人と同じで、自分の名声を特別待遇に利用するというのは潔しとせず、常に列には並ぶ、規則・法律・慣例は守る、としていたようです。
ですがさすがにこの時ばかりはお願いしたそうで、それ以来お祖父さんの痛みは和らぎ、もっと良い場所へ移されたそうです。
でもこれもルカには直接明かさず、ずっと後になってオードリー最後のパートナーであるロバート・ウォルダーズから聞いたそうです。
日本といえば、短いですが(6ページ分)オードリーの初来日(83年)のことも書かれていました。
その時は家族総出で来日したので、ルカも一緒に日本を回っていたのですが、オードリーもルカも日本に恋してしまい、家族でいつまでも語り継がれる旅になったと書いてあり、日本人としてはとても嬉しく思いました。
でも今のように世界で日本食がブーム!ということもないので、当時は欧米人には抵抗があったであろう寿司や刺身にはオードリーは決して手をつけなかったと書かれていました。
今だったらきっとオードリーも美味しいお寿司やお刺身を喜んで食べてくれただろうな〜と思います。
ただ当時ルカは13才と幼く記憶がちょっとあやふやなのか、なんでもかんでも写真の場所が金閣寺になっていたらしく、訳者さんの手で修正が入っています。確かに明らかにオードリーのバックは京都御所や宇治の平等院鳳凰堂なのに “金閣寺!” とは日本人としては訳せませんよね。
それにジバンシィと写っているショーの写真も1983年4月9日になってますけど、ジバンシィのショーは日本では4月13・14(以上東京)・16・17(以上大阪)日だったので、リハーサルで写したのでなければ、全然合わないんですけれども…。
そうそう、写真では「緑の館」撮影中(1958年)以来25年ぶり2度目の着物を羽織るオードリーが見れます。
もともとオードリーは日本のことを大好きで、そのために世界中で日本に向けてだけテレビCMに出演しています。しかも2度も!(「エクスラン・ヴァリーエ」と「銀座リザ」)
実際に日本に来て、オードリーは日本をますます愛してくれて、その後機会のあった87年と90年にも来日をしています。
「緑の館」と言えば、映画で共演するために一時期一緒に暮らして懐いていた鹿のイップ(ピピン)を手放す際のイップの様子とオードリーの心理が今までわからなかったので気になっていたんですが、それもこの本で明らかになりました。
オードリーは野生の動物を飼い馴らしてしまった自分をやっぱり許せなかったのですね…。
あと、おぼこくて幼くておとなしい…と思っていたルカにも反抗期があったということが意外でした。
あまりにもあまりなので、オードリーがルカを叩く!と言って追いかけ回したこともあるとか(ルカは浴室に逃げた)。
さらには、ルカのジャケットと住み込みの女性料理長の息子のバイクが突然なくなったので、売り払ってマリファナを吸っているのではないかとオードリーと料理長が心配したことがあったと書かれていました(実際にはごろつきに脅されて取られただけだった)。
それとこれはルカの本なので、ドッティと暮らしていたローマのことも出てくるのですが、オードリーとローマは必ずしもうまくいっていたわけではないことも書かれていました。
確かにお堅いオードリーと陽気なローマは実は僕の中でもあまり結びつかないのですよね。「ローマの休日」だけしか知らないとそれはわからないでしょうが、オードリーにはその性格からもむしろパリやスイスの方がずっとずっと向いている、と思います。
この本に書かれていることで、ローマは表面的にだけ人を迎え入れるそうで、よそ者には厳しく、あまりにも真面目で普通で平凡な主婦のオードリーは摩擦が避けられなかった、ということです。
今までの伝記でもオードリーはじっと家で庭いじりなどをしてるのが好きだけれど、ローマ人はパーティーが大好き!みたいに書かれていましたし、やはり本質が違うのかなーと思います。
それとオードリーの親友のコニー・ウォルドやドリス・ブリンナーのことはもちろん、ジュリー・アンドリュースも何度か出てきます。
オードリーとジュリーは仲が良くて、オードリーのスイスにあるグシュタードの別荘で年末を過ごす時にはジュリー・アンドリュース(とその旦那のブレーク・エドワーズ監督)とよく行き来していたとか。
ジュリーはルカにもとても親切だったそうですが、2人の “フェア・レディ” と普通の時間を過ごせたなんて、一般人からすると夢のようなお話ですよね。
そういえばオードリーってスイスにはラ・ペジブル以外に、グシュタードにも別荘を持っていたんですね。
今度スイスへ行く事があったら、その別荘にも行ってみないと!と思いました。
さてルカの本で胸が痛むのはオードリーとアンドレアの離婚のこと、そしてオードリーの死について書かれている箇所です。
ルカは8才くらいの時(ということは1978年)に父アンドレア・ドッティから “ママと私が別れるようなことがあったらどう思う?” と言われて泣き出しています。
この段階で夫婦としての二人はかなりダメになっていたのでしょう。
ルカも父がオードリーとの結婚期間中におびただしい数の不貞を働いたと認めています。
78年〜79年の冬に撮影の「華麗なる相続人」の共演者ベン・ギャザラとオードリーの恋愛もその後に起こっています。
そして離婚を完全に決意したのが1980年の夏。モスクワ・オリンピックを見ている最中に告げられたルカは、その後五輪マークにトラウマを抱えるようになったとか…。正式には1982年に離婚しています。
でもその後オードリーが会おうともしなかったというメル・ファーラーとは違い、アンドレア・ドッティとはお互いに気にかけていたようです。
精神科医でもあったドッティが、離婚後10年して癌のオードリーのカルテを見た時気を失ってしまったとか…。もはや助からないことが医者であるドッティにはわかってしまったんですね。
ルカはショーンに休息を取るように言われて映画館で過ごしていた時に、母オードリーの最期を知らせる電話を受けたと書いています。
きっとオードリーがルカを守るために配慮してくれたのだと良い方に捉えようと書いていますが、母の最期に立ち会えなかったというのは、僕はとても悲しく残念に感じてしまいました。
実際にはオードリーの死の部分は序章に書いてあって、決して読後が悲しくなるような構成にはなっていません。
他にも序章にはルカにとっての母は映画用の白黒写真ではなく、家族のカラー写真の中にあることが書いてあります。
伝記本というにはオードリーが感じていたことが書いてあるわけではなく、なんだかオードリーは脇役のようにも感じますが、これはあくまで息子ルカから見た母の思い出。
確かにここで読めるオードリーは、決して最近イメージが固定化されそうなモノクロ画像の古いスターではなく、ルカの眼に映る、生きて動く本当のオードリーであることは間違いないです。
オススメ度:★★★★★(オードリーファンならぜひ読んでおきたい1冊!)
さて前回に引き続いて「オードリー at Home」についてその2です。
今回はこの本の “伝記” の部分について。
オードリーの公式な伝記はショーンの本だけで完結かと思っていましたが、こうしてルカの目から見たオードリーも見させてくれてとても嬉しいです。
そして思うのは、ルカの父はあくまでもアンドレア・ドッティ氏で、メル・ファーラーは何の接点も無い人だということ。全く出てきません。
この辺はショーンの本では父メル・ファーラーが出てくるのとは全く違うなあ〜と思います。
オードリーが離婚後メル・ファーラーとは会わないようにしていたとのことなので、おそらくルカとメルはオードリーのお葬式以外では会ったことも無いのではないかと…。
そして印象に残ったのは、ドッティ側のお祖母さん(オードリーの姑)の後の旦那で、ルカとは血がつながらないけれども仲の良かったお祖父さんが入院していたとき、お見舞いに行ったルカはその荒れ果てた病院と酷い待遇(お祖父さんと同室の人は亡くなっているのに誰にも気付かれなかった)を見て怒りを覚え、オードリーにその名前を1度だけ使うように頼んだということ。
ちょっと話が逸れますが、日本で大震災が起こった時−それは阪神大震災でも東北大震災でも熊本地震でもそうなのですが−日本人は無秩序にならず、行列を作って配給を受けるのが当たり前なので、暴動や我れ先に物資を奪い合ったりが起こる海外からは驚嘆されていました。
オードリーも日本人と同じで、自分の名声を特別待遇に利用するというのは潔しとせず、常に列には並ぶ、規則・法律・慣例は守る、としていたようです。
ですがさすがにこの時ばかりはお願いしたそうで、それ以来お祖父さんの痛みは和らぎ、もっと良い場所へ移されたそうです。
でもこれもルカには直接明かさず、ずっと後になってオードリー最後のパートナーであるロバート・ウォルダーズから聞いたそうです。
日本といえば、短いですが(6ページ分)オードリーの初来日(83年)のことも書かれていました。
その時は家族総出で来日したので、ルカも一緒に日本を回っていたのですが、オードリーもルカも日本に恋してしまい、家族でいつまでも語り継がれる旅になったと書いてあり、日本人としてはとても嬉しく思いました。
でも今のように世界で日本食がブーム!ということもないので、当時は欧米人には抵抗があったであろう寿司や刺身にはオードリーは決して手をつけなかったと書かれていました。
今だったらきっとオードリーも美味しいお寿司やお刺身を喜んで食べてくれただろうな〜と思います。
ただ当時ルカは13才と幼く記憶がちょっとあやふやなのか、なんでもかんでも写真の場所が金閣寺になっていたらしく、訳者さんの手で修正が入っています。確かに明らかにオードリーのバックは京都御所や宇治の平等院鳳凰堂なのに “金閣寺!” とは日本人としては訳せませんよね。
それにジバンシィと写っているショーの写真も1983年4月9日になってますけど、ジバンシィのショーは日本では4月13・14(以上東京)・16・17(以上大阪)日だったので、リハーサルで写したのでなければ、全然合わないんですけれども…。
そうそう、写真では「緑の館」撮影中(1958年)以来25年ぶり2度目の着物を羽織るオードリーが見れます。
もともとオードリーは日本のことを大好きで、そのために世界中で日本に向けてだけテレビCMに出演しています。しかも2度も!(「エクスラン・ヴァリーエ」と「銀座リザ」)
実際に日本に来て、オードリーは日本をますます愛してくれて、その後機会のあった87年と90年にも来日をしています。
「緑の館」と言えば、映画で共演するために一時期一緒に暮らして懐いていた鹿のイップ(ピピン)を手放す際のイップの様子とオードリーの心理が今までわからなかったので気になっていたんですが、それもこの本で明らかになりました。
オードリーは野生の動物を飼い馴らしてしまった自分をやっぱり許せなかったのですね…。
あと、おぼこくて幼くておとなしい…と思っていたルカにも反抗期があったということが意外でした。
あまりにもあまりなので、オードリーがルカを叩く!と言って追いかけ回したこともあるとか(ルカは浴室に逃げた)。
さらには、ルカのジャケットと住み込みの女性料理長の息子のバイクが突然なくなったので、売り払ってマリファナを吸っているのではないかとオードリーと料理長が心配したことがあったと書かれていました(実際にはごろつきに脅されて取られただけだった)。
それとこれはルカの本なので、ドッティと暮らしていたローマのことも出てくるのですが、オードリーとローマは必ずしもうまくいっていたわけではないことも書かれていました。
確かにお堅いオードリーと陽気なローマは実は僕の中でもあまり結びつかないのですよね。「ローマの休日」だけしか知らないとそれはわからないでしょうが、オードリーにはその性格からもむしろパリやスイスの方がずっとずっと向いている、と思います。
この本に書かれていることで、ローマは表面的にだけ人を迎え入れるそうで、よそ者には厳しく、あまりにも真面目で普通で平凡な主婦のオードリーは摩擦が避けられなかった、ということです。
今までの伝記でもオードリーはじっと家で庭いじりなどをしてるのが好きだけれど、ローマ人はパーティーが大好き!みたいに書かれていましたし、やはり本質が違うのかなーと思います。
それとオードリーの親友のコニー・ウォルドやドリス・ブリンナーのことはもちろん、ジュリー・アンドリュースも何度か出てきます。
オードリーとジュリーは仲が良くて、オードリーのスイスにあるグシュタードの別荘で年末を過ごす時にはジュリー・アンドリュース(とその旦那のブレーク・エドワーズ監督)とよく行き来していたとか。
ジュリーはルカにもとても親切だったそうですが、2人の “フェア・レディ” と普通の時間を過ごせたなんて、一般人からすると夢のようなお話ですよね。
そういえばオードリーってスイスにはラ・ペジブル以外に、グシュタードにも別荘を持っていたんですね。
今度スイスへ行く事があったら、その別荘にも行ってみないと!と思いました。
さてルカの本で胸が痛むのはオードリーとアンドレアの離婚のこと、そしてオードリーの死について書かれている箇所です。
ルカは8才くらいの時(ということは1978年)に父アンドレア・ドッティから “ママと私が別れるようなことがあったらどう思う?” と言われて泣き出しています。
この段階で夫婦としての二人はかなりダメになっていたのでしょう。
ルカも父がオードリーとの結婚期間中におびただしい数の不貞を働いたと認めています。
78年〜79年の冬に撮影の「華麗なる相続人」の共演者ベン・ギャザラとオードリーの恋愛もその後に起こっています。
そして離婚を完全に決意したのが1980年の夏。モスクワ・オリンピックを見ている最中に告げられたルカは、その後五輪マークにトラウマを抱えるようになったとか…。正式には1982年に離婚しています。
でもその後オードリーが会おうともしなかったというメル・ファーラーとは違い、アンドレア・ドッティとはお互いに気にかけていたようです。
精神科医でもあったドッティが、離婚後10年して癌のオードリーのカルテを見た時気を失ってしまったとか…。もはや助からないことが医者であるドッティにはわかってしまったんですね。
ルカはショーンに休息を取るように言われて映画館で過ごしていた時に、母オードリーの最期を知らせる電話を受けたと書いています。
きっとオードリーがルカを守るために配慮してくれたのだと良い方に捉えようと書いていますが、母の最期に立ち会えなかったというのは、僕はとても悲しく残念に感じてしまいました。
実際にはオードリーの死の部分は序章に書いてあって、決して読後が悲しくなるような構成にはなっていません。
他にも序章にはルカにとっての母は映画用の白黒写真ではなく、家族のカラー写真の中にあることが書いてあります。
伝記本というにはオードリーが感じていたことが書いてあるわけではなく、なんだかオードリーは脇役のようにも感じますが、これはあくまで息子ルカから見た母の思い出。
確かにここで読めるオードリーは、決して最近イメージが固定化されそうなモノクロ画像の古いスターではなく、ルカの眼に映る、生きて動く本当のオードリーであることは間違いないです。
オススメ度:★★★★★(オードリーファンならぜひ読んでおきたい1冊!)
この記事へのコメント
こんにちは!
オードリーって90年にも来日してたんですね!知らなかった!
83年に初来日した時の様子は、テレビでもさんざん紹介されましたし、87年
の二度目の来日の時に、「クラッシック音楽と朗読の夕べ」みたいな催し(たしかチャリティショーだったと思います)に出演した時の事も写真誌や新聞で読んで知ってましたが、90年にも来日してたなんて!
90年といえば、亡くなる3年前でしょう。来日の目的は何だったんでしょう。お忍びの旅行?それともユニセフの用事?
「『愛と哀しみの果て』のヒロインの役は、本当はメリル・ストリーブではなくオードリーが演る筈だった」とこのブログで知った時もビックリでしたが、それ以来の驚きでしたね。
みつおさん、あなたは一体、映画雑誌にも載らなかった(少なくとも、『スクリーン』には載っていなかったと断言できます。私あの雑誌、定期購読してましたから)これらのレアな情報を、一体どこで入手なさったんですか?さしつかえなかったら、教えてください。
オードリーって90年にも来日してたんですね!知らなかった!
83年に初来日した時の様子は、テレビでもさんざん紹介されましたし、87年
の二度目の来日の時に、「クラッシック音楽と朗読の夕べ」みたいな催し(たしかチャリティショーだったと思います)に出演した時の事も写真誌や新聞で読んで知ってましたが、90年にも来日してたなんて!
90年といえば、亡くなる3年前でしょう。来日の目的は何だったんでしょう。お忍びの旅行?それともユニセフの用事?
「『愛と哀しみの果て』のヒロインの役は、本当はメリル・ストリーブではなくオードリーが演る筈だった」とこのブログで知った時もビックリでしたが、それ以来の驚きでしたね。
みつおさん、あなたは一体、映画雑誌にも載らなかった(少なくとも、『スクリーン』には載っていなかったと断言できます。私あの雑誌、定期購読してましたから)これらのレアな情報を、一体どこで入手なさったんですか?さしつかえなかったら、教えてください。
Posted by ヴェロニカ・ハメル at 2016年07月16日 11:58
ヴェロニカ・ハメルさん、こんにちは。
90年の来日は、あんまり知られてないのは確かです。
当時のスクリーンなどにも一切載っていませんでした(僕も90年のスクリーンは買って確認しました)。
スクリーンの執筆者陣が90年の来日に触れていないのはおそらく知らなかったのでしょう。
オードリーが90年に来日したのは「オードリーの庭園紀行」の“日本の庭園”の撮影のためです。
僕は、“日本の庭園”はいつ撮ったんだろう?と思いまして、まさか93年の番組のために87年来日時に撮影しているはずは無いと、オードリーが映像で行っているパナソニックの真々庵に直接訊いて当時の記録を調べてもらい、オードリーの来訪年月日を確認しました。
ほぼお忍びで来日して、このことを知っていたのは全ての来日に手配したという加藤タキさんくらいだったのではないでしょうか。
その後、苔寺にも実際に行って、オードリーが90年に来た時の様子も教えてもらいました。
「愛と哀しみの果て」の件は確かどれかの伝記に載っていましたよ。
メイエ=スタブレのだったかな?
女性のプロデューサー(だったかな?)はものすごくオードリーにこだわっていて、主役をオードリーに!とエージェント(カート・フリングス)は“あの方はもう映画に出ません!”と言われ続けていても何度も足を運び、とても良く出来た脚本も持ち込んでいたそうです。
ところがあるときまた行ったら、“オードリーはそんな映画には出ないよ。もっとお金のかかる映画に出るんだ!衣装もジバンシィだ!”と言われて愕然となったそうです。
そのとき決まった映画が「華麗なる相続人」だったそうで…。
「華麗なる相続人」ではなく、「愛と哀しみの果て」だったらどんなに良かったでしょうね。「ロビンとマリアン」に続いて代表作が出来て、“さすが脚本を厳選するオードリー!”と言われたことでしょう。
敏腕エージェントのカート・フリングスも、晩年はお金が優先になっていたのでしょうか…。
レアな情報かどうかはわかりませんが、疑問に思ったら直接問い合わせする、というのが僕のオードリーに対するモットーでしょうか。
それまで90年来日にことはどこにも載っていませんでしたし、実際90年の来日がわかった時は狂喜乱舞しました。
90年の来日は、あんまり知られてないのは確かです。
当時のスクリーンなどにも一切載っていませんでした(僕も90年のスクリーンは買って確認しました)。
スクリーンの執筆者陣が90年の来日に触れていないのはおそらく知らなかったのでしょう。
オードリーが90年に来日したのは「オードリーの庭園紀行」の“日本の庭園”の撮影のためです。
僕は、“日本の庭園”はいつ撮ったんだろう?と思いまして、まさか93年の番組のために87年来日時に撮影しているはずは無いと、オードリーが映像で行っているパナソニックの真々庵に直接訊いて当時の記録を調べてもらい、オードリーの来訪年月日を確認しました。
ほぼお忍びで来日して、このことを知っていたのは全ての来日に手配したという加藤タキさんくらいだったのではないでしょうか。
その後、苔寺にも実際に行って、オードリーが90年に来た時の様子も教えてもらいました。
「愛と哀しみの果て」の件は確かどれかの伝記に載っていましたよ。
メイエ=スタブレのだったかな?
女性のプロデューサー(だったかな?)はものすごくオードリーにこだわっていて、主役をオードリーに!とエージェント(カート・フリングス)は“あの方はもう映画に出ません!”と言われ続けていても何度も足を運び、とても良く出来た脚本も持ち込んでいたそうです。
ところがあるときまた行ったら、“オードリーはそんな映画には出ないよ。もっとお金のかかる映画に出るんだ!衣装もジバンシィだ!”と言われて愕然となったそうです。
そのとき決まった映画が「華麗なる相続人」だったそうで…。
「華麗なる相続人」ではなく、「愛と哀しみの果て」だったらどんなに良かったでしょうね。「ロビンとマリアン」に続いて代表作が出来て、“さすが脚本を厳選するオードリー!”と言われたことでしょう。
敏腕エージェントのカート・フリングスも、晩年はお金が優先になっていたのでしょうか…。
レアな情報かどうかはわかりませんが、疑問に思ったら直接問い合わせする、というのが僕のオードリーに対するモットーでしょうか。
それまで90年来日にことはどこにも載っていませんでしたし、実際90年の来日がわかった時は狂喜乱舞しました。
Posted by みつお at 2016年07月16日 13:38
こんにちわ
「愛と哀しみ・・」って、たしか監督はシドニー・ポラックでしたよね。ポラックもオードリーを起用したいと思ってたんですかね。それとも女性プロデューサーがカート・フリングスに出演交渉した時点では、誰が監督するかは決まってなかったんですかねえ。
でもカート・フリングスの感覚では、「華麗なる相続人」は「お金のかかる映画」で、「愛と・・・」は「そんな映画」なんですね。逆だろって、ツッコミを入れたくなってしまいます(笑)。
加藤タキさんの自伝にも、「カート・フリングスは銭ゲバ」みたいな事が書かれていた記憶がありますね(かなり前に読んだのでおぼろげな記憶ですが)。
大体シドニー・シェルドンの原作を映像化した作品て、過去に作られたものの大半が三流テレビ・ムービーかテレビ・シリーズで、映画は「真夜中の向こう側」位でしょう。あれだって、最初はカトリーヌ・ドヌーブ、ロバート・レッドフォード、キャンディス・バーゲン、オマー・シャリフ主演で製作される予定だったのに今名前をあげた人たち全員に出演を断られ、当時まだ無名だったスーザン・サランドン、マリー・フランス・ピジェ、ジョン・ペッグという、お世辞にも大スターとは言えない(サランドンだけは、後にオスカーを受賞して大スターの仲間入りしましたが)面子で映画化された訳ですから。オードリーのような映画史に燦然と輝く大スターがシェルドン原作の映画に出るなんて、私に言わせれば「「ありえない」事なんです。
まあ、オードリーが「華麗なる・・・」のオファーを受けたのは、離婚して息子たちと暮らしていくためにお金が必要だったのと、監督がテレンズ・ヤングだったからなんでしょうね。「暗くなるまで待って」でオードリーにオスカー・ノミネートの栄光をもたらしたヤング監督を信頼しすぎて失敗したというところでしょうね。
長々と失礼しました。
「愛と哀しみ・・」って、たしか監督はシドニー・ポラックでしたよね。ポラックもオードリーを起用したいと思ってたんですかね。それとも女性プロデューサーがカート・フリングスに出演交渉した時点では、誰が監督するかは決まってなかったんですかねえ。
でもカート・フリングスの感覚では、「華麗なる相続人」は「お金のかかる映画」で、「愛と・・・」は「そんな映画」なんですね。逆だろって、ツッコミを入れたくなってしまいます(笑)。
加藤タキさんの自伝にも、「カート・フリングスは銭ゲバ」みたいな事が書かれていた記憶がありますね(かなり前に読んだのでおぼろげな記憶ですが)。
大体シドニー・シェルドンの原作を映像化した作品て、過去に作られたものの大半が三流テレビ・ムービーかテレビ・シリーズで、映画は「真夜中の向こう側」位でしょう。あれだって、最初はカトリーヌ・ドヌーブ、ロバート・レッドフォード、キャンディス・バーゲン、オマー・シャリフ主演で製作される予定だったのに今名前をあげた人たち全員に出演を断られ、当時まだ無名だったスーザン・サランドン、マリー・フランス・ピジェ、ジョン・ペッグという、お世辞にも大スターとは言えない(サランドンだけは、後にオスカーを受賞して大スターの仲間入りしましたが)面子で映画化された訳ですから。オードリーのような映画史に燦然と輝く大スターがシェルドン原作の映画に出るなんて、私に言わせれば「「ありえない」事なんです。
まあ、オードリーが「華麗なる・・・」のオファーを受けたのは、離婚して息子たちと暮らしていくためにお金が必要だったのと、監督がテレンズ・ヤングだったからなんでしょうね。「暗くなるまで待って」でオードリーにオスカー・ノミネートの栄光をもたらしたヤング監督を信頼しすぎて失敗したというところでしょうね。
長々と失礼しました。
Posted by ヴェロニカ・ハメル at 2016年07月18日 07:17
ヴェロニカ・ハメルさん、こんばんは。
前回誤字が多くてすみません。m(_ _;)m
伝記を再度調べてみました。
載っていたのは一番信頼の置けるバリー・パリスの伝記でした。
なのでこれは信じてもいい逸話だと思います。
約2ページ分にわたって逃した魚「愛と哀しみの果て」に関して書かれています。
オードリーにこの話を持ち込んだのは、オードリーの友人でもあり、「青と哀しみの果て」の3人のプロヂューサーの内の1人でもある(そして国連のピースメッセンジャーでもある?)アンナ・カタルディだそうです。時期は1977年。
最初にカタルディは数日オードリーに会い、オードリーは「ぜひやりたい!」と乗り気だったそうです。そしてオードリーは監督にフレッド・ジンネマンを推して、カタルディをジンネマンのところに行かせて、ジンネマンとカタルディは何度か映画化について話し合ったそうです。
次にオードリーは「カート・フリングスに会って」と言ったそうですが、これがひどかったらしく、フリングスは「私の依頼人をばかげた冒険映画に出演させようというのかね?忘れてくれ、オードリーはもう映画に出ないよ。」と断ったとか。
翌日もう一度フリングスに電話すると、「オードリーが素晴らしい映画に出るんだ!」と言われたとか。
カタルディは仰天して「彼女はもう映画に出ないといったじんゃないんですか」と抗議したそう。
フリングスは「しかしこれは並の映画じゃないんだよ。キャストも豪華だ。それにジバンシィが衣装をデザインする!」と行ったそうです。
「愛と哀しみの果て」を断って、「華麗なる相続人」を選んだのは、結局エージェントのカート・フリングスのせいも大いにあったわけですね。
おそらく「愛と哀しみの果て」よりも「華麗なる相続人」の方が制作費も多く、フリングスの懐にも多くのお金が入るわけでしょうし。
オードリー自身は乗り気だったこの企画、本当にオードリーの後期の作品群を見ると、とても残念に思いますね。
カート・フリングスはオードリーを「マイ・フェア・レディ」で、エリザベス・テイラーを「クレオパトラ」で100万ドルスターにしたんですから、お金に関してはやり手だったんでしょうが、作品選びは酷いですね。
以前はオードリーにはメル・ファーラーがいたので、作品選びもしっかりしていたのでしょうが、アンドレアではそうもいかず、「華麗なる相続人」「ニューヨークの恋人たち」と凡作を続けてしまったんでしょうね。
「華麗なる相続人」に関して、原作が安っぽいことと、お金が必要であったこと、オードリーを口説いたのがテレンス・ヤング監督だったことはヴェロニカ・ハメルさんの予想通りのことが書いてありました。
オードリーの逃した魚に関してはもう一つ「愛と喝采の日々」が載っていました。オードリーも「愛と喝采の日々」に関しては後々まで悔やんでいたそうです。
前回誤字が多くてすみません。m(_ _;)m
伝記を再度調べてみました。
載っていたのは一番信頼の置けるバリー・パリスの伝記でした。
なのでこれは信じてもいい逸話だと思います。
約2ページ分にわたって逃した魚「愛と哀しみの果て」に関して書かれています。
オードリーにこの話を持ち込んだのは、オードリーの友人でもあり、「青と哀しみの果て」の3人のプロヂューサーの内の1人でもある(そして国連のピースメッセンジャーでもある?)アンナ・カタルディだそうです。時期は1977年。
最初にカタルディは数日オードリーに会い、オードリーは「ぜひやりたい!」と乗り気だったそうです。そしてオードリーは監督にフレッド・ジンネマンを推して、カタルディをジンネマンのところに行かせて、ジンネマンとカタルディは何度か映画化について話し合ったそうです。
次にオードリーは「カート・フリングスに会って」と言ったそうですが、これがひどかったらしく、フリングスは「私の依頼人をばかげた冒険映画に出演させようというのかね?忘れてくれ、オードリーはもう映画に出ないよ。」と断ったとか。
翌日もう一度フリングスに電話すると、「オードリーが素晴らしい映画に出るんだ!」と言われたとか。
カタルディは仰天して「彼女はもう映画に出ないといったじんゃないんですか」と抗議したそう。
フリングスは「しかしこれは並の映画じゃないんだよ。キャストも豪華だ。それにジバンシィが衣装をデザインする!」と行ったそうです。
「愛と哀しみの果て」を断って、「華麗なる相続人」を選んだのは、結局エージェントのカート・フリングスのせいも大いにあったわけですね。
おそらく「愛と哀しみの果て」よりも「華麗なる相続人」の方が制作費も多く、フリングスの懐にも多くのお金が入るわけでしょうし。
オードリー自身は乗り気だったこの企画、本当にオードリーの後期の作品群を見ると、とても残念に思いますね。
カート・フリングスはオードリーを「マイ・フェア・レディ」で、エリザベス・テイラーを「クレオパトラ」で100万ドルスターにしたんですから、お金に関してはやり手だったんでしょうが、作品選びは酷いですね。
以前はオードリーにはメル・ファーラーがいたので、作品選びもしっかりしていたのでしょうが、アンドレアではそうもいかず、「華麗なる相続人」「ニューヨークの恋人たち」と凡作を続けてしまったんでしょうね。
「華麗なる相続人」に関して、原作が安っぽいことと、お金が必要であったこと、オードリーを口説いたのがテレンス・ヤング監督だったことはヴェロニカ・ハメルさんの予想通りのことが書いてありました。
オードリーの逃した魚に関してはもう一つ「愛と喝采の日々」が載っていました。オードリーも「愛と喝采の日々」に関しては後々まで悔やんでいたそうです。
Posted by みつお at 2016年07月19日 22:59
お久しぶりです。
『オードリー at Home』私も購入しました!
突然ですみませんが、ドリス・ブリンナーさんのインスタグラムを発見しました。お元気そうです。(ご本人で間違いないはず)
https://www.instagram.com/dbrynner/
『オードリー at Home』私も購入しました!
突然ですみませんが、ドリス・ブリンナーさんのインスタグラムを発見しました。お元気そうです。(ご本人で間違いないはず)
https://www.instagram.com/dbrynner/
Posted by take at 2016年08月01日 13:57
takeさん、こんにちは!お久しぶりです!
takeさんとお話したいなーと思ってたんですよ。(^-^
「オードリー at Home」、また感想を聞かせてくださいねーっ。
それとドリス・ブリンナーさんのインスタグラムをありがとうございます!
彼女はオードリーとはかなり深い関わりのある人なのに、ウィキとかが無いので、詳しく調べられないのが残念です。
まだお元気そうで何よりです。
今となっては若い頃からの生きたオードリーを知る数少ない人になってしまいましたね。
今からオードリーの伝記を書く人は、ドリスからは必ず聞いて欲しいと思います。
takeさん、またどうかお気軽にお越し下さい。お待ちしております!
takeさんとお話したいなーと思ってたんですよ。(^-^
「オードリー at Home」、また感想を聞かせてくださいねーっ。
それとドリス・ブリンナーさんのインスタグラムをありがとうございます!
彼女はオードリーとはかなり深い関わりのある人なのに、ウィキとかが無いので、詳しく調べられないのが残念です。
まだお元気そうで何よりです。
今となっては若い頃からの生きたオードリーを知る数少ない人になってしまいましたね。
今からオードリーの伝記を書く人は、ドリスからは必ず聞いて欲しいと思います。
takeさん、またどうかお気軽にお越し下さい。お待ちしております!
Posted by みつお at 2016年08月03日 00:18
本書の「ノンナ・テのカレー」「ドリス・ブリンナーのカレー」のレシピに登場した「甘口カレー」「辛口カレー」の正体らしきものを見つけました。
甘口
http://www.thespicehouse.com/spices/sweet-curry-powder
https://www.penzeys.com/online-catalog/sweet-curry-powder/c-24/p-108/pd-s
辛口
http://www.thespicehouse.com/spices/hot-curry-powder
https://www.penzeys.com/online-catalog/hot-curry-powder/c-24/p-120/pd-s
甘口
http://www.thespicehouse.com/spices/sweet-curry-powder
https://www.penzeys.com/online-catalog/sweet-curry-powder/c-24/p-108/pd-s
辛口
http://www.thespicehouse.com/spices/hot-curry-powder
https://www.penzeys.com/online-catalog/hot-curry-powder/c-24/p-120/pd-s
Posted by take at 2016年08月08日 13:49
おおーっ!
takeさん、またまた新しい情報をありがとうございます!
オードリーはこういうカレーパウダーを使って作っていたんですね。
もちろん日本のカレーではないとは思っていましたので、どんなのかなーと思っていましたが、こういう材料があったんですね。
この本の中で、ルカはあまりカレーを気に入ってないような感じだったので、おそらくスパイスの香りがキツいんだろうなーと思っています。
僕もちょっと苦手かも…。(^_^;;
takeさん、またまた新しい情報をありがとうございます!
オードリーはこういうカレーパウダーを使って作っていたんですね。
もちろん日本のカレーではないとは思っていましたので、どんなのかなーと思っていましたが、こういう材料があったんですね。
この本の中で、ルカはあまりカレーを気に入ってないような感じだったので、おそらくスパイスの香りがキツいんだろうなーと思っています。
僕もちょっと苦手かも…。(^_^;;
Posted by みつお at 2016年08月09日 05:41