2021年02月08日

「暗くなるまで待って」1971年リバイバル時「スクリーン」紹介グラビア

「暗くなるまで待って」1971年リバイバル時「スクリーン」紹介グラビア

 前回が71年リバイバルの「おしゃれ泥棒」のグラビア紹介だったので、今回は同じく1971年にリバイバルされた「暗くなるまで待って」のグラビア紹介。

 こちらもこの当時1誌しかなかった洋画雑誌“スクリーン”からの切り抜き。

 シネアルバムによると、「暗くなるまで待って」の71年リバイバルは11月だったようですね。松竹系列での上映は本家の松竹が資料を開示してくれてないので、上映期間などはっきりはわからないんですけどね。

 それで本当はもっと後に紹介しても良かったんですが、今年の11月には公開60周年の「ティファニーで朝食を」が控えているので、お先にしちゃいます。

 ああ、そうそう、前回書き忘れてましたけど(というか真剣に忘れてた)今年は「ニューヨークの恋人たち」がアメリカ公開40周年と「ロビンとマリアン」公開45周年、「おしゃれ泥棒」公開55周年でもありますよね。

 「ニューヨークの恋人たち」は本当に手持ち資料とかが無いんですよねー。日本ではビデオで発売されただけだし。2年前のスター・チャンネルのオードリー生誕90周年特集でも結局放映されなかったし。1980年くらいの“スクリーン”とかには撮影スナップとか載ってるのかなー?“ロードショー”の方には何も期待してないけど。

 さらに86年と91年のリバイバルも入れると、相当な数の作品が今年35周年やら30周年記念になりますね。だいたいの作品が“○○周年記念!”って言えそう笑。

 さてさて、「暗くなるまで待って」のリバイバルは1968年の日本初公開からわずか3年でリバイバルでしたね。あまりにも早い!と思うのは僕だけでしょうか?

 映画の観客層っていうのは7年で入れ替わると言われていて、7年置いた後でリバイバルならともかく、いくら初公開時に大ヒットだったからとはいえ3年だとあまりにも早くて興行成績が気になります。

 実は「暗くなるまで待って」は80年代後半からのオードリー大ブーム時のリバイバル時もそんな感じでかわいそうな運命をたどっています。
 87年に本家のワーナーからリバイバルされたあと、早くも4年後の91年には日本ヘラルドからリバイバルされています。映画パンフレットもその都度作られたんですよー(復刻版でしたけど、違うのが復刻されました)。

 配給会社は変われども、観る側からしたらそんなのわかりませんから、前のリバイバルの上映の権利が切れてないうちから次のリバイバルが始まって、“これ、こないだ見たからもういいや〜”ってことになりますよね。

 なので、68年と71年、87年と91年がそれぞれあまりに近くて、実際は4回も公開しているのに、一般的には2回しか来てないような、そんな印象を持たれてるんとちゃうかなーと思っています。

 でもこの71年リバイバルが68年初公開と大きく違うのは、本家ワーナー・ブラザースのお家事情。

 ポスターの時やプレスシートの時の記事で書きましたけど、67年製作時はワーナーはセブン・アーツという会社と合併してワーナー・ブラザース・セブン・アーツという会社になってたんですよね。なので「暗くなるまで待って」も日本のポスターやプレスシートやパンフレットは全てそのロゴになっています。

 ところが、そのあと69年には早くもキニーカンパニーってとこに買収されたみたいで、71年リバイバル時には会社名もロゴも変わってたんですよね。

 なのでプレスシートもポスターもパンフレットもたった3年なのに、しかも同じ絵柄なのに、全部作り直しになってました。

 パンフレットは68年、71年87年と同じワーナー配給だったのに、会社名がその都度違うので、87年リバイバル時は復刻版なのに裏表紙のロゴがデーンと載っていたところは画像で隠されて、いまの会社名が下部に別に印字されていました。
 そんなのどうでもいい日本ヘラルドからの91年リバイバルの復刻版は裏表紙はそのままワーナー・ブラザース・セブン・アーツのものでしたけどね。

 でもいまだに疑問に思っているのは、じゃあ本編の最初に出てくるシーンのロゴはどうしたの?ってこと。

 いま観れるDVDなんかではワーナー・ブラザースのものですけど、製作した1967年当時はロゴが別物だったはず!
 そしたら71年リバイバル時からはワーナー・ブラザース・セブン・アーツのロゴが見えないよう、そのロゴに被せてワーナー・ブラザースのロゴを焼き込んだんでしょうかね。

 確かにワーナー・ブラザース・セブン・アーツのロゴだと、下の映像は見えるようにしていたでしょうし、人形の腹にナイフを突き立てて裂いている様子がよく見えたんでしょうが、今のロゴだと見えにくくてなんだかわからないようになってますもんね。

 まるで人間の腹を裂いているようなショッキングな映像に思わせる演出だったのかなと思いますが、この、下も透けてないし大きく出しゃばっている今のワーナーのロゴだとショック感ゼロですもんね。

 この辺は初公開時に観た方にお話を伺えればいいなーと思います。タイトルバックをよく載せてた“映画の友”誌は公開前の68年3月号(1月発売)で廃刊になってますし、当時の写真が残ってないんじゃないかと…。
 68年の初公開時を覚えてる方は教えてくださいねー!

 基本的に映画の公開後に映像を改変するなどということは無いのですが、「昼下りの情事」みたいにアメリカ版とヨーロッパ版が存在するものや、「モンテカルロへ行こう」と「モンテカルロ・ベイビー」のように別言語のバージョンが存在するものなどでは違いがあって、「暗くなるまで待って」の場合は会社名やそのロゴが変わってしまっているので、おおもとのワーナー配給だった場合、そのままには出来ないのかなーという事情があると思うので、ここはぜひ知りたいですね!

 さて、このグラビアも本体を残してないので何月号の掲載かがわからないのですが、11月公開だったのだとすると、1971年11月号(9月発売)か12月号(10月発売)だったのだろうと予想がつきます。
 ※お姐(上屋梨影子)さんに1972年1月号(11月発売)だと教えていただきました。ありがとうございます!

 さすがにわずか3年での公開だったからか、“スクリーン”も違う画像で構成していますね。
 初公開時のグラビアと見比べると、同じ写真はアラン・アーキンとサマンサ・ジョーンズの空港での写真のみ。

 こういう配慮は嬉しいですね!3年だと読者もまだ入れ替わってない人が多いでしょうし、前回見たオードリーファンも、今回も見て嬉しいようになっています。
 こういうとこ、今の“SCREEN”の編集者に見習ってほしいなー。同じ写真ばっかり載せるんじゃなくてね。まあ今はオードリーに詳しい人も皆無なんでしょうけど。

 文章では最初に、“引退を噂されて3年、いまだにトップ・スターとしての人気を保ち続けているオードリー・ヘプバーン”と書かれているのがそっかそっかーと思ってしまいます。

 僕なんかは「ロビンとマリアン」以降にファンになってますし、「暗くなるまで待って」以降の引退の時期が8年もあったというのは実感としてないんですけど、当時のファンたちは本当にオードリーの復活を切に望んでたんだろうなーと思います。

 まあ、と言っても「エクスラン・ヴァリーエ」もあったことだし、リバイバルは次々来るし、75年〜84年のオードリー暗黒時代を考えると全然恵まれてるなー、羨ましいなーと思います。



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この記事へのコメント
このリバイバル公開の紹介記事が掲載されているのはスクリーン誌1972年1月号です。表紙はナタリー・ドロン。
ええと、これは持っているのですが、古本屋で買ったものに、友達とみんなで全ページにいたずら書きをしたので、画像はちょっとお見せできないのです。
(映画好きの友達と一緒に、すでにページが破れたりしていた、ぼろい古本で遊んだのです)

71年のリバイバルでは新橋の映画館で見ました。お城のような形状の映画館で、今はもうありません。土曜日の昼間に見たと思うのですが、客の入りはどのくらいだったか、ちょっと覚えていません。クライマックスシーンでは悲鳴が上がりました。

パンフレットも持っていますが、『おしゃれ泥棒』のパンフレットに比べると、さほど凝っていない印象です。『おしゃれ泥棒』のリバイバルは、キャパ1000人でスクリーンも今より大きかった頃のスカラ座ですから(たしかそのはずですが、記憶違いの可能性も……)、リバイバル上映の中では規模が桁違いに大きかったですね。

『おしゃれ泥棒』はあまりに好きで、2回も見にいきました。
Posted by お姐(上屋梨影子) at 2021年02月11日 23:11
お姐(上屋梨影子) さん、またまたおいでいただきありがとうございます!
記事のほう、直させていただきました。

ナタリー・ドロンの表紙ってあれですかね?あの帽子を被ってるやつ?
なんとなく記憶にあるのはその表紙なのですが。
古本に友達と落書きとは、今思うと面白い思い出ですよね。オードリーではなくて良かったです。

ナタリー・ドロンが表紙というのも時代ですよね。なんかこれという名作代表作もなかったのに、特に「ロードショー」では大人気でしたよね。
「ロードショー」の方は不可解な人が1位になってたりして、よくわからない雑誌でした。

71年の「暗くなるまで待って」リバイバル、新橋のどこだったんでしょうか?
一応残ってる資料だと、71年リバイバルの代表劇場は東劇で、これだと1500席以上の規模で、巨大劇場の部類だと思うのですが…。

https://audreyhepburn.ko-co.jp/e565091.html

↑こちらの記事で東劇のことは載せていますので、そこからリンクで東劇のかつての姿を見ていただくと、わかるかと思います。
これもお城っぽい外観なのですが…。間違っていたらすみません。

なんか僕は地方者なので、東京の映画館のチェーン・マスタークラスの劇場がどの辺かというのが地理的なものを把握できていないのです。
基本、銀座・有楽町の辺りが最も格の高い劇場があった、というのは知識で知っているんですが、どの辺までを指すのかがよくわかっていません。
新橋と有楽町も銀座も近いし…みたいなのが僕の感覚です。

クライマックスシーンはいつも劇場で見る度にワクワクします。
“来るぞ、来るぞ〜!”っていう寸前までと、そのシーンでの観客の“きゃーーっ!!”“わーーっ!!”っていう叫び声の時と、2度ゾクゾクします笑。
なので僕の中では「おしゃれ泥棒」と「暗くなるまで待って」がいつまでもオードリーの同率2位で、ひとつに決められないんですよー。

でも、お姐(上屋梨影子)さんも「おしゃれ泥棒」推しで嬉しくなりました!批評家には“ユルい”と言われている「おしゃれ泥棒」ですが、いまだにオードリーの中では致命度も人気も高い映画ですよね。

「暗くなるまで待って」の71年パンフレットは、68年の初公開時のパンフレットの簡略版でした。
完全に新たなものではなかったのが残念でした…。画像がちょこっと入れ替わってたのと、ページ数を減らされてただけの違いでしたねー。
87年リバイバル時は71年リバイバルの復刻版、91年リバイバル時は68年初公開版の復刻版と、結局同じものの使い回しばっかりでした。
公開のタイミングもですけど、パンフレットも不運でしたね。
Posted by みつおみつお at 2021年02月12日 20:38
72年1月号のスクリーンは、全編いたずら書きしたので、『暗くなるまで待って』の写真にも台詞を書き込んでます。オードリーがアラン・アーキンに「早く背中をかいて!」とか言ってる。当時、スクリーンの読者ページにそういうコーナーがあったんですよ。

ナタリー・ドロンが黒い帽子をかぶっている表紙です。人気投票の結果は謎ですが、ナタリーも好きですよ。

『暗くなるまで待って』は東劇でもリバイバル上映されていたんですね! 当時の東劇は今と違ってキャパもスクリーンも大きい大劇場です。なぜ、そちらに行かないで、新橋にあった中くらいの劇場に行ったのかな……。雰囲気のある劇場ではあったのですが。

『おしゃれ泥棒』のパンフレットは、役者紹介ページのシャルル・ボワイエの写真が差し替えになったのか、写真の上に写真が貼られているんです。何か使ってはいけない写真だったのか。ためしに剥がしてみたら、ボワイエの別のショットでした(たぶん。それとも人違い写真だったのか……)。
Posted by お姐(上屋梨影子) at 2021年02月12日 21:14
きゃー!「暗くなるまで待って」にも落書きしたんですね!笑

ナタリー・ドロンのは覚えていたものでした!
ちょっとその当時の「スクリーン」のダサい表紙ですよね。
まあその当時はどの雑誌もそういうものだったと思いますので、あんまり目立たなかったとは思いますが、70年代後半でも子供心ながら「ロードショー」とのセンスの差をヒシヒシと感じてました。

「暗くなるまで待って」、もしかしたら東劇ではもう終わってたのかもですね。当時はどんどん映画館が下りていく方式でしたから、二番館だったのかもしれません。
そういう昔の劇場のお話なんかも好きなんですよー。1館1作品1日中というのも風情がありますよね!
2階席とかあるとワクワクします。

71年の「おしゃれ泥棒」パンフレット、5種類あるんですよー。詳しくは

https://audreyhepburn.ko-co.jp/e4329.html

↑こちらに書いてますけど、
最初にシャルル・ボワイエの画像の部分に印刷してあったのはグラモン館長役の方の写真です。

最初のスカラ座版はお詫びの神が挟んであって、さすが!東宝直営のチェーンマスターの劇場!と思いますよね。
2番目のスカラ座版はシールが貼ってあるものです。お姐(上屋梨影子)さんはこちらのを買ったというわけですね。

地方版・一般館版のはお詫びの紙もなくグラモン館長になっているもの、シャルル・ボワイエの写真で剃り直しているもの、の2種類があります。

それとどこかが勝手に刷った内部が墨一色で印刷されているニセモノ版は(聞いたところでは結構大きな企業が作ったらしく、闇を感じるそうです)ボワイエの写真になっていました。

なんか色々事情がありそうで面白いですよね。
Posted by みつおみつお at 2021年02月12日 22:58
横から失礼致します。当方も「暗くなるまで待って」は東劇で観たのですが、「新橋の映画館」は恐らく銀座全線座と思われます。場所は銀座八丁目で新橋との境ですし、お城のような外観でした…お化け屋敷と呼ぶ人もいましたが。‘70年代はダンスホールとして営業した時期を挟んで銀座東急となり、'78年に閉館し今は銀座国際ホテルが建っています。

「おしゃれ泥棒」のパンフ、確かにシャルル・ボワイエの写真が貼替えでしたね。単純ミスか深い事情か。でも戦前の二枚目ボワイエの写真を取り違えたのですから、時の流れの残酷さかも。

月曜朝イチで入院したのですが、手術室入り直前にまさかの発熱でドタキャン。PCRは陰性でしたが手術は先延べで週明けかと。情けない日々を過ごしております…。
Posted by Edipo Re at 2021年02月13日 00:38
ボワイエの写真の件、そして銀座全線座の件、ありがとうございます!
気になっていたことがわかって、すっきりしました♪

皆さん、お体ご慈愛くださいませ。私も今はちょっとやっかいな病を得てしまい、検査と治療で病院通いをしております。具合は悪くないので、検査と治療で体と財布を痛めつけられて理不尽な気が(早期発見だからありがたく思わねば……)。
Posted by お姐(上屋梨影子) at 2021年02月13日 01:34
御二方のお話を伺ってると、当時の映画館を想像してホワ〜っとしてしまいますね!当時の銀座はいっぱい大劇場があって、巡って歩くだけでも楽しめそうですよね!

銀座全線座の画像も見てきました!戦前からの建物みたいで、でも戦争前にこのような洋館風の建物って大丈夫だったんかな?と余計な心配をしてしまいます。
当時は決して大規模な映画館ではなかったでしょうが、500人〜650人入れる規模というのは今なら日本最大級ですよね。

でも「おしゃれ泥棒」の一般版のパンフは、お詫びも何もなくグラモン館長を“ボワイエです!”って表記してたなんて、東宝も力技がすごいですね!笑
スカラ座と扱いが違いすぎる!

でも御二方のご病気も気になりますね。入院とか早期発見とか、おどろおどろしい言葉が書いてありますが…。
本当に若い頃には想像もできなかったガタが身体にきますよね。
自分も含めてですけど、お身体を大事になさってください。
そしてまた楽しいコメント、読ませてくださいねーっ!!
Posted by みつおみつお at 2021年02月13日 16:56
試写会で婦人靴が当たりました。
ステージに呼ばれて、妹がはにかんでいました。
私が19で妹が15。昨日の事のようです。
Posted by 明智常楽 at 2021年02月13日 17:37
えっ!リバイバル時の試写会で婦人靴が当たるような抽選があったのですか!それは凄いですね!
日本がみんなで高度成長している時期だから出来たお話なのかなーと思いますね。
Posted by みつおみつお at 2021年02月14日 17:05
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