2018年06月21日
映画の友1957年5月号 オードリーの兄のインタビュー付
まずは京都〜大阪圏で読んでいただいている皆様、お見舞いを申し上げます。
こちらの神戸でも大変揺れました。スマホの警報よりも先に地震が来て、阪神大震災を思い出してゾッとしました。
さてすみません、だいぶ開いてしまいました。
2018年の5月ということで、初公開からちょうど50年の「暗くなるまで待って」を何か紹介するか、それとも今回のものを紹介するかで迷っているうちに6月になってしまいました…(-_-;)
なお、この間に「おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!」の方に“95.オードリーと煙草と…スモーカーズ・フェイス??” という記事をアップしています。
オードリーはいつからタバコを吸い始めたのか?という疑問と共に、ネットで言われている“オードリーがスモーカーズ・フェイス” という、データのいい加減な記事に反駁しています。
もしよろしければそちらもご覧ください。
それと、フジテレビの「コンフィデンスマンJP」5/28放送分で、ドラマの最初に長澤まさみさんがオードリー・ヘプバーンの言葉ということで
“美しい唇であるためには、美しい言葉を使いなさい。
美しい瞳であるためには、他人の美点を見つめなさい。”
と言っていたのですが…。
はいこれ、ここに来てる方ならご存知のように、オードリー・ヘプバーンの言葉ではありません。
これはオードリーが好きだったサム・レヴェンソンの「時を越えた美しさの秘密(Time Tested Beauty Tips)」という詩の一部です。
オードリーは子供達に読み聞かせていただけなのに、いつの間にオードリーの言葉だとすり替わってしまったんでしょうね!
いまだにネットではオードリーの言葉だと信じてる人が山のようにいますが…ネットを鵜呑みにするなんて!フジテレビもしっかりして欲しいです!
せっかくそれまで「コンフィデンスマンJP」は楽しく見ていたのですが、これでかなりガッカリしました。
さてそんなガッカリフジテレビは置いておいて、今日は1957年5月号(発売は3月)の「映画の友」を紹介しましょう!
こちらはかなりオードリーに関して重要な記事が載っています。
まず、この当時はカラーページが少なく、日本の印刷技術もまだまだ未熟でした。
そのため、本当のカラー原稿なのに、今の目で見ると着色カラー?と思えてしまうような物が多いです。
ここでもカラーグラビアは本来のカラーですが、映画の宣伝のカラーページは着色。なのにその差があんまりわかりません。
今の日本の印刷技術は世界最高だと言われていますが、この当時は本当にまだまだですね。
でもこの程度のカラーでも当時のアメリカからすると美しかったようで、日本のカラー技術に感動したお偉いさんの一言で、アメリカの宣伝部は優先的に日本の雑誌「映画の友」や「スクリーン」に良いカラー写真を送ってくれていたそうです。
この号でのオードリーはカラーは無く、モノクログラビアで登場。前年(1956年)の春〜夏に撮影された「パリの恋人」の画像が掲載されています。
まずはポーズを取るオードリーのアップ。隣はアニタ・エクバーグ。「戦争と平和」でヘンリー・フォンダ演じるピエールをたらし込む悪い役でオードリーと共演しているグラマー女優。
ここが観音開きになっていて、開くと「パリの恋人」の宣伝写真がいっぱい載っています。
オードリーが写っているのは上段だけですが、そこについているキャプションを右から紹介。
フレッド・アステアとオードリーが会話してる風になっています。

“これぞホンモノ八頭身”
“それで全身が撮れますの”
“見れば見るほど妙な顔”
“あら、いまなんと仰言って(おっしゃって)”
“これは、凄く芸術的!”
“ところで、わたし何時まで手をあげてるの”
“あッ、そのポーズ!”
“あなたキャメラ持ってること忘れないで”
言い回しがかなり大時代的ですね。
次にオードリー関連のページが出てくるのが、オードリーの異父兄の長兄のA・R・クアレス氏のインタビュー。
これがこの号の白眉となっています!
これ、実は「おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!」の方と並行して書かないといけないなーと思ってたんです。
(そのため煩雑になるだろうと今回の記事を書くのも億劫になっていました)
当時オードリーの上のお兄さんが日本に住んでいましたが、ネットで調べるとわからないとか、弟のイアン(オードリーには異父兄が2人居ます)だとかという記事が出てくるので、ここではっきりさせておこうと思いました。
まず、ここでハッキリと判るように、日本に住んでいたのは長兄のアーノルド・ロバート・アレクサンデル・クアレス氏です。
ここでは自分でA・R・A・クアレスと名乗っています。
正確には Jonkheer Arnoud Robert Alexander Quarles van Ufford。オードリーの伝記ではアレクサンデルとして出てきます。
次兄はイアン(Jonkheer Ian Edgar Bruce Quarles van Ufford)なので、日本にいたのは完全に長兄だとわかります。
さてここで判るのはこのA・R・A・クアレス氏が当時横浜に住んでいたこと、日本の昭和シェル石油で販売部長をしていたこと、このA・R・A・クアレス氏がNHKの「私の秘密」という番組に出演したこと、です。
他にはオードリーの映画ですが、「ローマの休日」はジャカルタで見た、「麗しのサブリナ」は日本に来てから野毛山の下の映画館で見た(横浜國際劇場のこと)、「戦争と平和」は東京で見逃したので、明日の日曜日に横浜の劇場で観る(インタビューの日付がわからないので、何時かは不明。劇場は横浜ピカデリー劇場のこと)と語っています。
また、1954年の12月に日本に来ており、9ヶ月間日本語を習った、と語っています。実はインタビューも日本語で行われています。
この時点でオードリーと会ったのは1954年のローマが最後、ただオードリーとはよく手紙のやり取りをしているということも語っています。
また、この当時のオードリーにとっての最新作、アメリカのテレビドラマ「うたかたの恋」に出演したことも語られています。
この「うたかたの恋(マイヤーリング)」は2014年に日本でも劇場で公開されましたよね。
今となってはこうしてインタビューしていてくれたおかげで、大変貴重な資料となっています。
この長兄のアレクサンデル氏は1979年6月18日に58歳で若くして亡くなっています。もう40年近く前ですね…。
ちなみに次兄のイアン氏は2010年に85歳か86歳で亡くなっているようです。

次のオードリー関連の記事は第11回「映画の友」の読者人気投票の結果です。
えっと雑誌「スクリーン」でもそうですが、1957年に投票・発表されているのが1956年度になるので、作品は1956年公開作品から選ばれます。
ここをごっちゃにしてる人もいますし、「スクリーン」でも今でも1972年発表(発売)のベストテンを1972年とか1971年とかって書いたりと書き手によって混乱している時があるので、僕の方は発表年で書いて統一しています。
これは1957年3月号(1月発売)で投票用紙が付いていて募集がかけられ、2ヶ月後の5月号で発表、となっています。
まずは作品。7位に「戦争と平和」が入っています。あれ、意外と低い?と思います?
でもこれ、実はすごい事なんです!!
というのも「戦争と平和」の初公開は1956年12月22日の東京のセントラル劇場で。
ということは、この「映画の友」の募集までたった1ヶ月しかない!
しかも東京だけ先行でロードショーをしたので、他の日本全国の都市ではまだ上映されていないんです!
他の京都などの主な政令指定都市や札幌では1957年に入って2月の公開。他の静岡などの地方都市だと3月以降。
ということはここでの投票には間に合わず、「戦争と平和」に入れてくれたのは東京の人間だけ、ということになります。
それでも7位に入っているんだから、なかなかやるな!ということになりますよね。
もし地方都市でももっと先に公開されていれば、もっと上位に入ったのでは?と思われますね。
女優のオードリーの順位は第6位。1960年代前半の全盛期には3000票ほどで、他のトップの男優や2位の女優の倍の得票数になって他を寄せ付けないオードリーですが、ここではまだ427票しかありません。
そういえば「戦争と平和」は170票ですし、僕が見ると少ないなぁ…と感じますが、80年代90年代に膨大な数の投票数になった映画雑誌ですけど、今は逆にこれくらい。
今の「スクリーン」なんかも部数が減った!と嘆くのではなく、原点に戻ってこれくらい充実した誌面づくりをして欲しいです。
あと、主な男女優ですが、
男優はこの年は「ピクニック」があった、「麗しのサブリナ」でオードリーと共演したウィリアム・ホールデンが第1位。前年に亡くなってしまったばかりのジェームス・ディーンが3位。
「昼下りの情事」が待機中のゲーリー・クーパーが5位、「戦争と平和」のヘンリー・フォンダが6位。「麗しのサブリナ」で共演したハンフリー・ボガードが「必死の逃亡者」が出て10位になっています。
女優はエリザベス・テイラーがこの年は1位。「ピクニック」「黄金の腕」「愛情物語」と代表作が一気に公開されたキム・ノヴァクが2位で、僕の大好きなヴィヴィアン・リーが7位。
前年まで2連覇していたグレース・ケリーはモナコ王妃になると一気に落ちて18位、マリリン・モンローは17位で当時日本では人気がなかった、という証明になっています。
今回20位までに入った人の過去11年間の記録も乗っていますが、オードリーは「ローマの休日」「麗しのサブリナ」の有った1955年は5位ですけれども、前年1956年は15位まで落っこちていることがわかります。
作品の無かったヴィヴィアン・リーやイングリッド・バーグマンが安定してベスト10に入っているのを見ると、オードリーはまだまだ海の物とも山の物ともつかない状態だったのがわかります。
この時のイメージは「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の一発屋(二発屋)さんだったと思います。
それが大作「戦争と平和」で盛り返し、この57年に公開予定の「昼下りの情事」と「パリの恋人」で完全復活&安定するのはその後の人気投票を見ればわかります。
他にも興味深い調査がされていて、1ヶ月に何回映画を見ますか?という問いには、1位は4回以下、2位は4回、3位は5回、以下、10回以上、7回、6回、8回、9回と続きます。
4回以下が1番とはいえ、3回とか1回とか0回とかが設定されていないのが時代ですね。今のアンケートだと、0回とかの項目がありますもんね。
確かに1956年はまだ白黒テレビが家庭に普及していない頃。映画が娯楽の王様でした。
映画人口のピークである1958年に向かってまだ増加を続ける途中ですよね。
また、購買層では19歳が一番多く、ついで20歳、以下17歳、18歳と続き、その辺りが「映画の友」を買う人たちだったようです。
今の「スクリーン」とかよりはちょっと年齢層が高め。
最後のオードリー関連の記事は、ロングランの8週で上映を終わった「戦争と平和」と「ジャイアンツ」に関する興行のこと。
えっ?たった8週??2ヶ月もたないの?と言ってはいけません。この時代は今と全然ロードショーの形態が違うのです。
通常のロードショーは1〜2週間。超特大ヒットの「ローマの休日」で5週間と3日、57年の大ヒットで客足が落ちなかった「昼下りの情事」で7週で切り上げてますから、「戦争と平和」はここで書いているように異例の長期興行だったわけです。
しかも今のようなシネコンではないので、座席数1500以上の、今は日本に存在しない超巨大映画館で1日中同じ映画を1本だけ上映しているんですよ。
よっぽど動員数が多くなければ8週も連続で上映できなかったんですよ。
こういう形態が崩れて、ヒットしている作品はもっとロングランが行われるようになったのが1959年の「ベン・ハー」辺りから(映画の数が少なくて延々上映せざるを得なかったシネラマ作品は除く)。469日の興行だったそうです。
その後「ウエストサイド物語」の511日や、「アラビアのロレンス」「サウンド・オブ・ミュージック」などが続々と長期興行をしていますが、オードリーの「マイ・フェア・レディ」も有楽座で294日という記録を残して、当時の全洋画の第4位の配給収入を叩き出しています。もちろんオードリー作品では最大のヒット!
かなり脱線しましたが、東京のロードショーでは配給収入では「戦争と平和」、動員数では「ジャイアンツ」が勝ったと書かれています。
結局「戦争と平和」は1956年度の洋画の配給収入の第4位に入っています。
なお、近々「おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!」の方に来日していたオードリーのお兄さんの件で記事をアップしますので、たまに覗いてみてください。
こちらの神戸でも大変揺れました。スマホの警報よりも先に地震が来て、阪神大震災を思い出してゾッとしました。
さてすみません、だいぶ開いてしまいました。
2018年の5月ということで、初公開からちょうど50年の「暗くなるまで待って」を何か紹介するか、それとも今回のものを紹介するかで迷っているうちに6月になってしまいました…(-_-;)
なお、この間に「おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!」の方に“95.オードリーと煙草と…スモーカーズ・フェイス??” という記事をアップしています。
オードリーはいつからタバコを吸い始めたのか?という疑問と共に、ネットで言われている“オードリーがスモーカーズ・フェイス” という、データのいい加減な記事に反駁しています。
もしよろしければそちらもご覧ください。
それと、フジテレビの「コンフィデンスマンJP」5/28放送分で、ドラマの最初に長澤まさみさんがオードリー・ヘプバーンの言葉ということで
“美しい唇であるためには、美しい言葉を使いなさい。
美しい瞳であるためには、他人の美点を見つめなさい。”
と言っていたのですが…。
はいこれ、ここに来てる方ならご存知のように、オードリー・ヘプバーンの言葉ではありません。
これはオードリーが好きだったサム・レヴェンソンの「時を越えた美しさの秘密(Time Tested Beauty Tips)」という詩の一部です。
オードリーは子供達に読み聞かせていただけなのに、いつの間にオードリーの言葉だとすり替わってしまったんでしょうね!
いまだにネットではオードリーの言葉だと信じてる人が山のようにいますが…ネットを鵜呑みにするなんて!フジテレビもしっかりして欲しいです!
せっかくそれまで「コンフィデンスマンJP」は楽しく見ていたのですが、これでかなりガッカリしました。

こちらはかなりオードリーに関して重要な記事が載っています。
まず、この当時はカラーページが少なく、日本の印刷技術もまだまだ未熟でした。
そのため、本当のカラー原稿なのに、今の目で見ると着色カラー?と思えてしまうような物が多いです。
ここでもカラーグラビアは本来のカラーですが、映画の宣伝のカラーページは着色。なのにその差があんまりわかりません。
今の日本の印刷技術は世界最高だと言われていますが、この当時は本当にまだまだですね。
でもこの程度のカラーでも当時のアメリカからすると美しかったようで、日本のカラー技術に感動したお偉いさんの一言で、アメリカの宣伝部は優先的に日本の雑誌「映画の友」や「スクリーン」に良いカラー写真を送ってくれていたそうです。

まずはポーズを取るオードリーのアップ。隣はアニタ・エクバーグ。「戦争と平和」でヘンリー・フォンダ演じるピエールをたらし込む悪い役でオードリーと共演しているグラマー女優。
ここが観音開きになっていて、開くと「パリの恋人」の宣伝写真がいっぱい載っています。
オードリーが写っているのは上段だけですが、そこについているキャプションを右から紹介。
フレッド・アステアとオードリーが会話してる風になっています。

“これぞホンモノ八頭身”
“それで全身が撮れますの”
“見れば見るほど妙な顔”
“あら、いまなんと仰言って(おっしゃって)”
“これは、凄く芸術的!”
“ところで、わたし何時まで手をあげてるの”
“あッ、そのポーズ!”
“あなたキャメラ持ってること忘れないで”
言い回しがかなり大時代的ですね。
次にオードリー関連のページが出てくるのが、オードリーの異父兄の長兄のA・R・クアレス氏のインタビュー。
これがこの号の白眉となっています!
これ、実は「おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!」の方と並行して書かないといけないなーと思ってたんです。
(そのため煩雑になるだろうと今回の記事を書くのも億劫になっていました)
当時オードリーの上のお兄さんが日本に住んでいましたが、ネットで調べるとわからないとか、弟のイアン(オードリーには異父兄が2人居ます)だとかという記事が出てくるので、ここではっきりさせておこうと思いました。

ここでは自分でA・R・A・クアレスと名乗っています。
正確には Jonkheer Arnoud Robert Alexander Quarles van Ufford。オードリーの伝記ではアレクサンデルとして出てきます。
次兄はイアン(Jonkheer Ian Edgar Bruce Quarles van Ufford)なので、日本にいたのは完全に長兄だとわかります。
さてここで判るのはこのA・R・A・クアレス氏が当時横浜に住んでいたこと、日本の昭和シェル石油で販売部長をしていたこと、このA・R・A・クアレス氏がNHKの「私の秘密」という番組に出演したこと、です。
他にはオードリーの映画ですが、「ローマの休日」はジャカルタで見た、「麗しのサブリナ」は日本に来てから野毛山の下の映画館で見た(横浜國際劇場のこと)、「戦争と平和」は東京で見逃したので、明日の日曜日に横浜の劇場で観る(インタビューの日付がわからないので、何時かは不明。劇場は横浜ピカデリー劇場のこと)と語っています。
また、1954年の12月に日本に来ており、9ヶ月間日本語を習った、と語っています。実はインタビューも日本語で行われています。
この時点でオードリーと会ったのは1954年のローマが最後、ただオードリーとはよく手紙のやり取りをしているということも語っています。
また、この当時のオードリーにとっての最新作、アメリカのテレビドラマ「うたかたの恋」に出演したことも語られています。
この「うたかたの恋(マイヤーリング)」は2014年に日本でも劇場で公開されましたよね。
今となってはこうしてインタビューしていてくれたおかげで、大変貴重な資料となっています。
この長兄のアレクサンデル氏は1979年6月18日に58歳で若くして亡くなっています。もう40年近く前ですね…。
ちなみに次兄のイアン氏は2010年に85歳か86歳で亡くなっているようです。

次のオードリー関連の記事は第11回「映画の友」の読者人気投票の結果です。
えっと雑誌「スクリーン」でもそうですが、1957年に投票・発表されているのが1956年度になるので、作品は1956年公開作品から選ばれます。
ここをごっちゃにしてる人もいますし、「スクリーン」でも今でも1972年発表(発売)のベストテンを1972年とか1971年とかって書いたりと書き手によって混乱している時があるので、僕の方は発表年で書いて統一しています。
これは1957年3月号(1月発売)で投票用紙が付いていて募集がかけられ、2ヶ月後の5月号で発表、となっています。
まずは作品。7位に「戦争と平和」が入っています。あれ、意外と低い?と思います?
でもこれ、実はすごい事なんです!!
というのも「戦争と平和」の初公開は1956年12月22日の東京のセントラル劇場で。
ということは、この「映画の友」の募集までたった1ヶ月しかない!
しかも東京だけ先行でロードショーをしたので、他の日本全国の都市ではまだ上映されていないんです!
他の京都などの主な政令指定都市や札幌では1957年に入って2月の公開。他の静岡などの地方都市だと3月以降。
ということはここでの投票には間に合わず、「戦争と平和」に入れてくれたのは東京の人間だけ、ということになります。
それでも7位に入っているんだから、なかなかやるな!ということになりますよね。
もし地方都市でももっと先に公開されていれば、もっと上位に入ったのでは?と思われますね。

そういえば「戦争と平和」は170票ですし、僕が見ると少ないなぁ…と感じますが、80年代90年代に膨大な数の投票数になった映画雑誌ですけど、今は逆にこれくらい。
今の「スクリーン」なんかも部数が減った!と嘆くのではなく、原点に戻ってこれくらい充実した誌面づくりをして欲しいです。
あと、主な男女優ですが、
男優はこの年は「ピクニック」があった、「麗しのサブリナ」でオードリーと共演したウィリアム・ホールデンが第1位。前年に亡くなってしまったばかりのジェームス・ディーンが3位。
「昼下りの情事」が待機中のゲーリー・クーパーが5位、「戦争と平和」のヘンリー・フォンダが6位。「麗しのサブリナ」で共演したハンフリー・ボガードが「必死の逃亡者」が出て10位になっています。
女優はエリザベス・テイラーがこの年は1位。「ピクニック」「黄金の腕」「愛情物語」と代表作が一気に公開されたキム・ノヴァクが2位で、僕の大好きなヴィヴィアン・リーが7位。
前年まで2連覇していたグレース・ケリーはモナコ王妃になると一気に落ちて18位、マリリン・モンローは17位で当時日本では人気がなかった、という証明になっています。
今回20位までに入った人の過去11年間の記録も乗っていますが、オードリーは「ローマの休日」「麗しのサブリナ」の有った1955年は5位ですけれども、前年1956年は15位まで落っこちていることがわかります。
作品の無かったヴィヴィアン・リーやイングリッド・バーグマンが安定してベスト10に入っているのを見ると、オードリーはまだまだ海の物とも山の物ともつかない状態だったのがわかります。
この時のイメージは「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」の一発屋(二発屋)さんだったと思います。
それが大作「戦争と平和」で盛り返し、この57年に公開予定の「昼下りの情事」と「パリの恋人」で完全復活&安定するのはその後の人気投票を見ればわかります。

4回以下が1番とはいえ、3回とか1回とか0回とかが設定されていないのが時代ですね。今のアンケートだと、0回とかの項目がありますもんね。
確かに1956年はまだ白黒テレビが家庭に普及していない頃。映画が娯楽の王様でした。
映画人口のピークである1958年に向かってまだ増加を続ける途中ですよね。
また、購買層では19歳が一番多く、ついで20歳、以下17歳、18歳と続き、その辺りが「映画の友」を買う人たちだったようです。
今の「スクリーン」とかよりはちょっと年齢層が高め。
最後のオードリー関連の記事は、ロングランの8週で上映を終わった「戦争と平和」と「ジャイアンツ」に関する興行のこと。
えっ?たった8週??2ヶ月もたないの?と言ってはいけません。この時代は今と全然ロードショーの形態が違うのです。
通常のロードショーは1〜2週間。超特大ヒットの「ローマの休日」で5週間と3日、57年の大ヒットで客足が落ちなかった「昼下りの情事」で7週で切り上げてますから、「戦争と平和」はここで書いているように異例の長期興行だったわけです。
しかも今のようなシネコンではないので、座席数1500以上の、今は日本に存在しない超巨大映画館で1日中同じ映画を1本だけ上映しているんですよ。
よっぽど動員数が多くなければ8週も連続で上映できなかったんですよ。
こういう形態が崩れて、ヒットしている作品はもっとロングランが行われるようになったのが1959年の「ベン・ハー」辺りから(映画の数が少なくて延々上映せざるを得なかったシネラマ作品は除く)。469日の興行だったそうです。
その後「ウエストサイド物語」の511日や、「アラビアのロレンス」「サウンド・オブ・ミュージック」などが続々と長期興行をしていますが、オードリーの「マイ・フェア・レディ」も有楽座で294日という記録を残して、当時の全洋画の第4位の配給収入を叩き出しています。もちろんオードリー作品では最大のヒット!
かなり脱線しましたが、東京のロードショーでは配給収入では「戦争と平和」、動員数では「ジャイアンツ」が勝ったと書かれています。
結局「戦争と平和」は1956年度の洋画の配給収入の第4位に入っています。
なお、近々「おしゃれ泥棒、オードリー・ヘップバーン!」の方に来日していたオードリーのお兄さんの件で記事をアップしますので、たまに覗いてみてください。
Posted by みつお at 22:00│Comments(5)
│映画の友
この記事へのコメント
お久しぶりです。どうしてるのかちょっと心配してました。
この号、たしか僕も持っていたような気がします。
日本にいる実兄にインタビュー記事って、とても貴重だし、
古本屋で発見したとき、さすが当時の雑誌だなと変に感心した覚えがあります。
このお兄さん、確か妹のことを“オードリーさん”って呼んでませんでしたっけ?
なんか他人行儀だなと印象に残りました。
スモーカーズ・フェイスのこと、ちっとも知りませんでした。
腹立たしいですね。
検索する気にもなれません。
ところで、『暗くなるまで待って』公開から50年にもなるのですね。
僕が初めて観たのがTVで80年頃
その当時から50年前って、30年代
そんな時代の作品なんてその頃ほとんど考えたこともなかったなぁ。
そう考えると、それくらい前のスターでいまでも人気・興味が“現役”なのって凄いことだと改めて思いますね~!(^^)!
この号、たしか僕も持っていたような気がします。
日本にいる実兄にインタビュー記事って、とても貴重だし、
古本屋で発見したとき、さすが当時の雑誌だなと変に感心した覚えがあります。
このお兄さん、確か妹のことを“オードリーさん”って呼んでませんでしたっけ?
なんか他人行儀だなと印象に残りました。
スモーカーズ・フェイスのこと、ちっとも知りませんでした。
腹立たしいですね。
検索する気にもなれません。
ところで、『暗くなるまで待って』公開から50年にもなるのですね。
僕が初めて観たのがTVで80年頃
その当時から50年前って、30年代
そんな時代の作品なんてその頃ほとんど考えたこともなかったなぁ。
そう考えると、それくらい前のスターでいまでも人気・興味が“現役”なのって凄いことだと改めて思いますね~!(^^)!
Posted by まる at 2018年06月24日 02:00
まるさん、こんばんは!
これ!って決まらない時はなかなかかけないものですね。
ご心配おかけして申し訳ありません。(-_-;)
まるさん、“オードリーさん”の件は、そうです!
日本人が聞くと妹に「さん」付けはとても他人行儀で、やっぱり長い間離れていたからかなあ…とも思いますが、
英語的に考えると Miss Audrey をただ単に日本語に訳しただけかも…とも思いますよね。
もっとも英語圏でも妹にミス、とつけるのかどうかは知りませんが…
女優として付けたのかもしれませんね。
スモーカーズ・フェイスの件は、一部削除されているものもあるようですね。
“晩年は見れたもんじゃなかった” と書いたどこかの人を見下すお医者さんだか教授だかのお偉いさんだったかと思いますが、さすがにそれはマズイ!と思ったか、周りに諭されたのかもしれませんね。
検索すると痕跡はあるのですが、オードリーの部分がだいぶ短縮されています。
そういえば、僕の書いた「マイヤーリング」のパンフレットのオードリーの全作品紹介のところで、僕が全然共演者やストーリーを書いてないので憤慨して“パンフレットの意味とは!”って書いてたブログがあったんですけど、僕が自分の意図でわざと書かなかったという記事を出した後は見かけないんですよねー…面白かったのに。
確かにもうオードリーが活躍してた50年代60年代って遠くになりにけりですよね。
僕も自分がオードリーファンになった70年代後半の60年前って映画の初期も初期。伝説の「イントレランス」とか「国民の創生」とかだろうと思うんですけど、全く見ようとか思ったことも無かったです。
今の若い世代にも(ごく一部しか知られていないにしても)興味を持ってもらえるのはすごいことですよね!
でも僕もオードリーファンになった頃を考えると、オードリーの初期作品とかって大昔のイメージでしたし、ポスターとかパンフレットって入手がめっちゃ難しかったんですけど、「尼僧物語」とかその当時だと公開後20年も経ってないんですよね!
今で考えると「タイタニック」とかの感じですから、なんであんなに難しかったんだろう!と思います。
まあ当時はネットもないし、そういう昔のパンフレットやポスターを扱う店が本当は入手も簡単なのに、わざと出さないようにして価値を吊り上げてたんでしょうね。
エイ痛社とかには公開後まだ5年くらいの1973年リバイバル版「シャレード」パンフレットでもボッタクリ価格で売りつけられて、子供心にとても腹立たしかったのを今でも覚えています。「シャレード」のパンフなんて、きっと実は大量にあったはずだと思われます。
これ!って決まらない時はなかなかかけないものですね。
ご心配おかけして申し訳ありません。(-_-;)
まるさん、“オードリーさん”の件は、そうです!
日本人が聞くと妹に「さん」付けはとても他人行儀で、やっぱり長い間離れていたからかなあ…とも思いますが、
英語的に考えると Miss Audrey をただ単に日本語に訳しただけかも…とも思いますよね。
もっとも英語圏でも妹にミス、とつけるのかどうかは知りませんが…
女優として付けたのかもしれませんね。
スモーカーズ・フェイスの件は、一部削除されているものもあるようですね。
“晩年は見れたもんじゃなかった” と書いたどこかの人を見下すお医者さんだか教授だかのお偉いさんだったかと思いますが、さすがにそれはマズイ!と思ったか、周りに諭されたのかもしれませんね。
検索すると痕跡はあるのですが、オードリーの部分がだいぶ短縮されています。
そういえば、僕の書いた「マイヤーリング」のパンフレットのオードリーの全作品紹介のところで、僕が全然共演者やストーリーを書いてないので憤慨して“パンフレットの意味とは!”って書いてたブログがあったんですけど、僕が自分の意図でわざと書かなかったという記事を出した後は見かけないんですよねー…面白かったのに。
確かにもうオードリーが活躍してた50年代60年代って遠くになりにけりですよね。
僕も自分がオードリーファンになった70年代後半の60年前って映画の初期も初期。伝説の「イントレランス」とか「国民の創生」とかだろうと思うんですけど、全く見ようとか思ったことも無かったです。
今の若い世代にも(ごく一部しか知られていないにしても)興味を持ってもらえるのはすごいことですよね!
でも僕もオードリーファンになった頃を考えると、オードリーの初期作品とかって大昔のイメージでしたし、ポスターとかパンフレットって入手がめっちゃ難しかったんですけど、「尼僧物語」とかその当時だと公開後20年も経ってないんですよね!
今で考えると「タイタニック」とかの感じですから、なんであんなに難しかったんだろう!と思います。
まあ当時はネットもないし、そういう昔のパンフレットやポスターを扱う店が本当は入手も簡単なのに、わざと出さないようにして価値を吊り上げてたんでしょうね。
エイ痛社とかには公開後まだ5年くらいの1973年リバイバル版「シャレード」パンフレットでもボッタクリ価格で売りつけられて、子供心にとても腹立たしかったのを今でも覚えています。「シャレード」のパンフなんて、きっと実は大量にあったはずだと思われます。
Posted by みつお
at 2018年06月25日 02:13

しばらく更新がなくて、ご病気かと心配でした。
神戸の親戚数軒が少し狼狽えていました。
病気もお怪我もなく、何よりです。
神戸の親戚数軒が少し狼狽えていました。
病気もお怪我もなく、何よりです。
Posted by 明智常楽 at 2018年06月25日 09:01
>まるさん
“晩年はシワだらけで見れたもんじゃなかった”
の発言、まだありました。
人の顔のことを、ほんとに最低ないい方ですよね!
“晩年はシワだらけで見れたもんじゃなかった”
の発言、まだありました。
人の顔のことを、ほんとに最低ないい方ですよね!
Posted by みつお
at 2018年06月26日 22:35

>明智常楽さん
すみません、ご心配おかけしましたm(_ _;)m
頭の中で書くことが閃かないと、更新が滞ってしまいがちになります…( ̄▽ ̄;)
明智常楽さんこそ、お身体大丈夫ですか?
ずっとお元気でいてくださいね(*´ー`*)
すみません、ご心配おかけしましたm(_ _;)m
頭の中で書くことが閃かないと、更新が滞ってしまいがちになります…( ̄▽ ̄;)
明智常楽さんこそ、お身体大丈夫ですか?
ずっとお元気でいてくださいね(*´ー`*)
Posted by みつお
at 2018年06月26日 22:39
