2024年05月30日

「パリで一緒に」公開60周年記念! 1964年初公開時B1横型ポスター

 さて、今日は日本で「パリで一緒に」が公開されてちょうど60年になります!
 なので今回は初公開当時の「パリで一緒に」B1ポスターを紹介します。

 B2ポスターもB1ポスターも、普通は縦型で作られるのに、このポスターは横型ですよね?
 次の公開の「マイ・フェア・レディ」もB1サイズは横型でしたけど、なんででしょうね。

 まあ当時は今みたいに映画館に額があって、そこに入れている、って感じじゃなくて、柱とかにベタベタ貼ってたので、こういう横型でも大丈夫だったのかな?と思います。

 デザインは何と言ってもオードリー推しですよね。
 アメリカでも日本でも、ビリング(序列)はウィリアム・ホールデンの方が上。

 でも5点ある画像でもほとんどがオードリー単独。ホールデンは左隅の方に1点オードリーと一緒のがあるだけ(元の写真は一緒じゃないけど)。
 60年代前半の、人気が頂点だったオードリーと、落ち目になったホールデンの扱いの差がまざまざと出ていますね。


「パリで一緒に」公開60周年記念! 1964年初公開時B1横型ポスター

 左側にあるバック付きの写真は本当のカラー写真ですけど、ほかの写真は着色カラーですね。
 右上のオードリーの衣装なんて、本当はグリーンなのにブルーにされていますね。

 さて、「パリで一緒に」は1964年公開ですけど、実際の撮影は1962年。
 2年とまでは言いませんが、アメリカでも撮影終了後、公開までに1年半かかっています。

 前作「噂の二人」が61年7月くらいから撮影が始まったのに、61年12月にはもうアメリカで公開していたのとはえらい違い。

 なにせ「パリで一緒に」は63年秋に日本で公開予定で、63年5月にリバイバルする「ローマの休日」と組んだ特集号まで出たというのにアメリカで公開が遅れ、結局日本でも約1年公開が遅れました。

 映画雑誌では62年のから紹介され始めているのに、ファンからしたら、なんでこんなに公開が遅れてるの?って感じだったでしょうね。

 なので「パリで一緒に」について書かれた文章で、オードリー35才って書いてるのがありますが、騙されちゃダメですよ。33才ですからね。

 だいたいアメリカでは64年の4月に公開されているので、公開時でもオードリーまだ35才になってませんからね。
 オードリー35才って書くのは、オードリーについてよく知らないか、きちんと「パリで一緒に」を調べずに書いたいいかげんな文章ですからね。信用しないでください。

 さて、撮影も公開も遅れに遅れた「パリで一緒に」、日本でもアメリカでも公開はこの次に撮って大ヒットした「シャレード」の後になりました。
 そしてその半年後にはさらに超大作「マイ・フェア・レディ」が控えていて、その間に挟まれた「パリで一緒に」。

 なんかいつも「パリで一緒に」を思う時、ベートーヴェンの聳え立つ交響曲第3番「英雄」と交響曲第5番「運命」に挟まれた交響曲第4番を思ってしまうのですよねー。

 公開当時でも、埋もれてしまってヒットしなかったのではないか?と思われそうですが、どうしてどうして!

 「パリで一緒に」、目立たないようですが、オードリー的にはチャレンジした役柄の前作の「ティファニーで朝食を」「噂の二人」は、出来はともかく興行的にはどちらもあまり日本では成功しなかったのですが、オードリーらしさが戻ってきた!と当時のオードリーファンに思われた「シャレード」の大ヒットを受けて、「パリで一緒に」も当時の大ヒットの基準である配給収入1億円を突破しています。

 まあ、当時の封切館の館名入り映画パンフレットのレアさをみると、昔から「ティファニーで朝食を」より「パリで一緒に」の方が手に入りやすいのはヒットの差なんでしょうね。

 やはり当時人気絶頂のオードリーは強いですねー。その勢いのまま、「マイ・フェア・レディ」は大大大大ヒットします。

 60年前の今日、「パリで一緒に」封切館、日比谷スカラ座は東宝チェーンマスター館の1つで1339席の大劇場でしたが、きっとオードリーファンが押しかけて満員だったんでしょうねー。

 そういえば「パリで一緒に」は、ビデオやレーザーディスクの時代はオードリー作品でもトップで色彩が綺麗に保存されていましたが、DVDやブルーレイになると変なリマスターのためか、却って色褪せてしまってとっても残念です。

 この「パリで一緒に」のB1ポスター、オードリーの写真集でもよく見かけますが、やっぱり内容的に華やかで明るいので、雰囲気もそうなっていますね。
 「パリで一緒に」好きの僕としてはとっても好きなポスターで、手に入ったときはこのポスター用にB1のポスターフレームを買い足しました。



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この記事へのコメント
名古屋ミリオン座
ティファニー
シャレード
3本立てでした。
パリで一緒に
最高に可愛いかったです。
Posted by 明智常楽 at 2024年05月30日 12:18
わー!明智常楽さん、記事アップからとても早いコメントをありがとうございます!

明智常楽さんがご覧になったのは世代的に72年リバイバルでしょうが、それにしても豪華な3本立てですねー!
3本とも見るとなると、6時間もかかりますね!
お昼ご飯食べてから3本見たら、出る頃にはもう晩!
でも好きな人や友人とお昼ご飯食べて、映画見て、オードリーを満喫してから晩御飯だったら、それも素敵です!
僕も70年代に明智常楽さんとその3本立てを見に行ってたら、嬉しくて感想の嵐で明智常楽さんを困らせてたかもしれません笑。
Posted by みつお at 2024年05月30日 12:52
このポスター、当時の映画雑誌の広告でも見たことがあります。
メインにちょっと珍しい画像使うなぁと思ってました。
顔が影になった横顔
そういえば初公開時の日本版ポスターも、王道ではない画像の選択でしたよね、カラースチールの流用で、顔は正面だけど俯き気味のオードリィが実験器具の中にいるという(洞窟のシーン)

「パリで一緒に」は、いまだに1964年表記が気になりますねぇ。
見るたびにどうにかならないかなーって思っています。
たまにキャプションで、"1962, Paris "って出ると、そうそうやるじゃんって
とにかく1963年製作&公開にすべきでしたよね(さすがに62年は無理か)
昔から「緑の館」「尼僧物語」の順番は気にならないけど、
「パリで一緒に」の位置はこだわってしまうのです。

ビリングは初公開時は実際のビリングにならって、日本版でもオードリィ2番目なんですよね
実際の映画のタイトルシーンで、オードリィが完全に2番目なのは、
主演級になってからは「ローマの休日」と「パリで一緒に」だけなんですよね。
(特別出演の「オールウェイズ」は含まず)
ビリングが2番目でも、トップ画面に並んで出るのが4本かな
そのうち、ビリーワイルダー2本は、上下に並ぶので真ん中だとどうしても2番目感はありますが、「麗しのサブリナ」のときって、オードリィがホールデンより上だったんですよね~
ハリウッド映画ではビリングはギャラの順って聞いたことがありますが、
このとき確かホールデンのほうがギャラ高かったんじゃないかな
なのでビリングってどういう基準なのか分からなくなりました。

日本版リバイバル時にはポスターではオードリィがトップになって他より大きい文字
画像は昔っから常にオードリィが主体ですね。
このときは本人的にはNGな右からの顔になってましたが、
もういかにもオードリィって感じの最高でしたよね!今でも大好きです。
Posted by まる at 2024年06月01日 23:02
まるさん、こんにちは!

確かにオードリーの顔もちゃんと見えないし、変わった選択してますよね。
でもシルエットだけで「あ、オードリー!」ってわかるのも凄いことかと。
B2ポスターの方も着色カラーの物を使うことが多かった時代に、カラー写真そのまま拡大して使ってますよね。あまりオードリーが美しいとは言えない画像ですけど、カラー使うんやーって昔から思ってました。

ビリングは本当にわかりませんよね。「麗しのサブリナ」は実際ホールデンの方がオードリーより上でしたし。
なんかビリングに関してはオードリーは全然関与してなかったんじゃないかと思うんですよね。オードリー、細かいこと気にしなさそうだし。
絶対ビリングは(ギャラも)カート・フリングスがあれこれ口出ししてた感じがします。
それに「タワーリング・インフェルノ」のマックイーンとニューマンはギャラの問題ではなく、格の問題として揉めてたように思いますしね。案外男の方が気にするのかもしれません。
ホールデンは「麗しのサブリナ」当時は一番勢いがあった頃でしたけど、なんかそういうのは気にしなさそうなおおらかさがありますよね。しかも相手はオードリーだし。ボギーは絶対1番を譲らなさそうですけど。

それでもまだ64年の初公開時はホールデンがウリになるくらいの認知度がありましたけど(と言ってももう人気投票では30位以内にも入れてなかったようですが)、72年リバイバルはホールデンと特別出演のトニー・カーティスが同じ扱いですね。もうホールデンではお客は来ない、ということなんでしょうね。
でもまるさんもおっしゃるように、72年リバイバルのメインイメージの画像は、オードリーの大嫌いな右側からなのに、なぜか異次元の美しさでしたよね。
この時期はコナンくんの写真でもオードリーもなぜか右側から写させている写真が多くて、どういう心境の変化なのかな?と思います。
Posted by みつおみつお at 2024年06月02日 12:55
 みつお様、またまたオードリーから外れますがご容赦下さいませ。

 ’68年公開の大映作品で有吉佐和子原作今井正監督「不信のとき」のビリングをめぐり一悶着あったのですね。

 当時大映のトップスターと自認していた田宮二郎が、ポスターのビリングで同僚の若尾文子がトップなのはまだしも、他社の女優たちより自分が後の四番手であるのに不満を抱き、ワンマンで知られた永田雅一社長への直談判に及んだのです。

 一旦は田宮の言い分を受け入れた社長も、さらなる田宮の強固な要求にヘソを曲げ、大映からの追放と当時未だ機能していた邦画五社協定を笠に着ての田宮の映画界からの事実上の締め出しという暴挙に。

 進退窮まった田宮はTVや舞台に活路を見出すのですが苦闘の数年ののち、大映は経営破綻し五社協定も有名無実化してスクリーンへの復帰も成ったのでした。

 実はその頃、帝国劇場の東宝ミュージカル「スカーレット」(「風と共に去りぬ」のミュージカル化)にアシュレイ役で田宮が出演していたのを観ております。

 その後の田宮はTVで幾つもの当たり役に出会い順風満帆かと思われたのですが、最大のはまり役「白い巨塔」の主人公財前五郎を演じ切った直後、衝撃的な猟銃自殺を遂げたのでした。

 ウィリアム・ホールデンもスターとしての栄光と事業の失敗のあいだで揺れ動き、やや不可解な最期であったようで。また当方が田宮の自殺当日にたまたま近くに居合わせたエピソードもあるのですがあまりにも脱線のし過ぎですので自重いたします、失礼いたしました…。
Posted by Edipo Re at 2024年06月02日 20:40
Edipo Re さん、興味深いお話、ありがとうございます!

そうですか、田宮二郎さんも揉めたのですね。
そして映画界から干してしまうという5社協定、そういう怖いものだったのですね。
一応ポスターをネットで調べて見てきました。
最終的には田宮二郎がトップでしたね。
そして他の女優というのが、岸田今日子さん、加賀まりこさん、岡田茉莉子さんだったので凄いキャスト!と思って見てました。

でも田宮二郎さんが自殺したのが、1978年だったと知って、そんなに昔だったのかー!と思いました。顔もしっかり覚えているのに、まだテレビのブラウン管が20型とかの小さい小さい時代じゃないですかー!

50年代〜60年代の日本の映画スターって、1年に16本とか無謀なくらい映画を撮らないといけなかったみたいで、逆らうことも許されず、ほんとに大変だったんだろうなーと思います。
そりゃまあ一部の映画を除いて、粗製濫造になるのもわかりますね。昔の「映画の友」とかの邦画の採点を見ても、ほとんど低いのばっかりです。
Posted by みつおみつお at 2024年06月03日 18:28
田宮二郎さんのことはとても印象に残っています。まさかここでその話題が出てくるとは思いませんでしたが、映画黄金時代って映画会社の横暴が罷り通った時代でもあったんですよね。
「不信のとき」は名画座で観ていて、誰がどう見ても田宮さん主演作という仕上がりなのに、ポスターのビリングが共演女優の後だなんて、
誰だって”怒!”ってなりますよ。永田さんって本当にNGな方ですが、
当時そのような輩が各会社に必ずいたわけですから、所属俳優さんも大変だったでしょうね。
ただ田宮さんが偉いのは、テレビの世界で実に立派な実績をあげたことです。映画の大スターがテレビで、しかもクイズ番組の司会だなんて考えられないことだったのに、超人気番組&長寿&成功作に仕立て上げたのですからね~
タァー~イム・ショック!!
僕の親たち・周りの大人たちも感心してました。
さらに「白い巨塔」もあるわけですからね。
それだけに、あのあまりに衝撃な最期が、もう残念でなりません。

オードリィから話がそれましたが、みつおさんの書いてらっしゃるように、
案外男のほうがビリングなんかにこだわるのかもしれませんね。
メンツってやっかいなもんがオトコにはつきものですし、
何かで読んだのですが、男性は問題解決の際に、グループ内で人員をピラミッド型に整理したり、何かと序列をつけたがる傾向にあるそうです。
(女性は・・・表向きはかもしれませんが・・・みんな仲良し並列に)

「麗しのサブリナ」のホールデンは、嬉々としてオードリィに譲ったのかもしれません。あるいは男性二人が両サイド固めて彼女が真中にくるようバランスをとったのかもね。
でも「昼下りの情事」はギャラ順かなぁ、少なくともキャリアではないですよね。
Posted by まる at 2024年06月03日 23:05
まるさん、先日のコメント、一部書き足りないことが…
「麗しのサブリナ」のホールデンが上ってのはギャラのことです。オードリー15000ドル、ホールデン12万ドルですから、ビリングは本当にギャラ順でもないですよね。

でも当時主演を張るホールデンが、「麗しのサブリナ」では実質準主役の役柄なのによく出てくれましたね。
まあでもそれの方が観客ははじめボギーとホールデンのどっちを選ぶかわからなくていいですよね。
リメイクの「サブリナ」は、ホールデン役の人があまりにハリソン・フォードより格落ちするので、見る前から結末がわかっちゃいますよね。

「昼下りの情事」とか「パリの恋人」は、やっぱり相手役が紳士として有名なおふたりなので、オードリーに花を持たせたのかなーと思います。やっぱりビリングにも人柄が出るのかと。

でも考えてもみませんでしたが、「昼下りの情事」の当時は既にオードリーの方がクーパーよりギャラが高いということもありえますよね。
「戦争と平和」の段階で、もう誰よりも高いギャラになってたオードリーですから、その段階でクーパーは抜いていたかと。
なんかギャラって、その人が全盛期にもらった最大の金額でずっと行くようなイメージがあります。
史上初に近い時期に100万ドルのギャラになったオードリーですけど、「オールウェイズ」でも100万ドルと言われてますし(150万ドル説もありましたっけ?)、64年の100万ドルと89年の100万ドルは価値が違いますよね。
当時はもう500万ドルくらいの人がゴロゴロいたんじゃないでしょうか?
Posted by みつおみつお at 2024年06月04日 18:20
 またまた脱線気味でスミマセン。四十年以上昔、指揮者のギャラのランキングを某英紙がすっぱ抜いたことが。

 その時点でのトップスリーはベーム、カラヤン、バーンスタインでしたが僅差で続いたのがジュリーニそしてショルティで。ジュリーニはやや意外に感じたのですがヨーロッパでは既に巨匠級だったと。まあハリウッドスター同様に内外の印象差があったのかなぁと。

 またホールデンですが、「サンセット大通り」「第十七捕虜収容所」とビリー・ワイルダー作品に出演し、「第十七〜」ではオスカーにも輝きましたから「麗しのサブリナ」ではワイルダーへの謝意と少々のサービス精神もあったのかと思います。「ピクニック」などまだまだ全盛だっただけに。
Posted by Edipo Re at 2024年06月04日 20:19
指揮者のギャラ!そんなものがすっぱ抜かれてたのですか!

でも1番がベームだと知ったカラヤンは、絶対その後値上げを要求したでしょうね。
1番じゃないと気が済まないカラヤンの性格だし、グラモフォンは高レベルで多録音の自分のおかげで儲けているという自負もあったでしょうしね。
なんかカルロス・クライバーが入ってないのがジュリーニより意外というか…。
クライバーの熱狂的な人気を考えたら、1本録音してくださるならこれこれこのギャラで、とかって言われてそうなんですけどね。まあクライバーはギャラの高低に関心なくて、結局自分の納得した曲しか出さなそうですけどね。

ホールデンは、確かに恩返し的な出演だったかもしれませんね!
ホールデンの全盛期って、57年の「戦場にかける橋」まででしょうか。その後から急激に作品の知名度と質が落ちていますね。「偽の売国奴」のパンフレットを見たことがありますが、それはそれは地味なものでした。
「パリで一緒に」がそれ以降の中では有名なのはオードリーのおかげですもんね。
50年の「サンセット大通り 」から57年の「戦場にかける橋 」までがホールデンの傑作の森ということですね。
Posted by みつおみつお at 2024年06月05日 21:19
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