2020年03月28日

I'll アイル・オードリー・シアター テレフォンカードと阪神大震災 後編

Ill アイル・オードリー・シアター テレフォンカードと阪神大震災 後編 今回は前回の続きから、僕の阪神淡路大震災の体験とI'll アイル・オードリー・シアターのテレカのお話。
 こちらのテレカは上部に穴がポツポツと開いていて、使用済みなのがわかりますか?

 今回も僕の体験談が幅をきかせていますので、地震の体験談なんかいらない!という方は、ピンク色の部分は飛ばして読んでください。


 さて実家には坂を登らないといけないのですが、45分以上も全速力で自転車を漕いで来てかなり疲れてきて、また普段その自転車はあまり使っていなかったので(アシスト機能無し)お尻も痛くなってきてたのですが、それよりも早く家に着かなきゃ!という思いでいっぱいでした。
 もし実家が潰れていたら、助けてあげられるのは自分しかいない!と思っていたので。

 その坂を登って、曲がり角を曲がると実家が見えるのですが、曲がる前には実家が潰れていませんように、実家が潰れていませんように、と本当に心で一生懸命祈りました。

 なので、最後の角を曲がったとき、実家が立っていたのを見たときは本当に安心しました。でも近づくと壁が一部剥がれ落ちていたので、自転車を停めると走って家族を呼びながら家に走り込みました。

 するとまず母が出てきて、そして妹や父も出てきて家族全員無傷で無事だったので、本当に脱力してめっちゃ泣きました。嬉し泣きでした。

 ホッとしたのも束の間、実家の隣はお医者さんでしたが、そこにぐったりした子供を連れた両親が車でやってきました。テレビ(当時は重いブラウン管)が子供の身体に落ちてきたとお母さんが半狂乱になりながら説明していました。
 隣のお医者さんは奥さんにすぐに酸素ボンベを持ってくるように叫んで、必死で胸を押して心臓マッサージをしていましたが、やがて時計を見てダメだと告げました。そのお母さんは泣き崩れていました。

 それを見て、今度は神戸の西の方にいる叔母の家族が心配になってきました。叔母の家は実家よりも古くて危なっかしかったからです。
 実家のみんなには叔母の家に行ってくると告げて、今度は自転車に乗って西へ向かいました。

 自分の賃貸マンションのだいぶ近くに行くと、その方向に大きな黒煙が見えました。もしかして自分の部屋が火事!?とも思いましたが、近くなってくるとそれはもっと西だとわかり、自分のマンションは戻らずにそのまま叔母の家を目指しました。

 すると今度は自分のマンションより西はやたら火事が多いことに気づきました。朝はそんなことなかったのに、あちこちが火事になっています。
 あとで多くの家が崩壊して下敷きになった人がいて家族が助けようとしているのに、火の手が迫ってきて「もういいから逃げろ!」と言われて泣く泣くそのままにしてその場を去らなければならない人がいたと知りました。身内がそんなことになったら本当に耐えられません。

 途中、学校もあり、多くの人が避難していました。でもそのすぐ裏手も燃えていたので、大丈夫なんやろか…と思って通り過ぎました。

 叔母の家に今度は実家から1時間以上もかけて到着しましたが、家は無事でしたが、鍵がかかっており、大声で呼んでも誰も出てきませんでした。
 何度も何度も叫んでいると、隣の家の方が出てきて、「学校に家族で避難されてましたよ」と教えてくださって、ホッとしました。
 お礼を言って、今度は残してきた友人も心配ですし、火事が自分のマンションの方に燃え広がってないかも心配でした。

 戻ってみると、火事は大丈夫でしたが、友人が隣の家の状況を教えてくれました。お父さんはダメだったと教えてくれました。
 部屋に戻って二人で倒れた棚を戻し、ある程度リビングを歩けるようにしました。

 その時に気づいたのですが、自分が床に寝ていた頭のところにあった鉄製の大きなオフィス用のデスクが布団の上に倒れていました。もし前日の地震がなければすぐに起きていなかっただろうし、もし石油ストーブを付けてなくて気にせずそのまま横になっていたら頭を押し潰されて今頃死んでたな…とゾッとしました。間一髪助かったんだとわかりました。

 帰りたいという友人を大阪に帰すため、駅に行ってみましたが、もちろんJRは動いてませんでした。駅員さんも状況が掴めてないようでしたが、その時レールはグニャグニャに曲がり一部は垂れ下がり、電車はあちこちで脱線、六甲道駅は崩落と、絶対に来れないのでした。

 駅前のタクシー乗り場は長蛇の列になっていましたが、僕はずっと自転車を漕いで途中の状況を見てきたので、どれだけ待ってもタクシーは来ないということがわかっていました。

 それで友人にはとにかく車があったらヒッチハイクで乗れるとこまで連れてってもらうこと、乗り継いで乗り継いで帰ることと伝えました。
 あとで聞きましたが、友人は結局三宮まで徒歩で行き、その日はあるホテルのロビーで1泊させてもらい、次の日に父親に車で迎えにきてもらったそうです。

 僕は自分のマンションに戻りましたが、火事の黒煙がますます大きくなっています。
 火事の場所を見に行ってみましたが、僕の住んでいたのは1丁目。2丁目から西が燃えていました。風向きが東から西へ吹いていたので、1丁目の方向にはこなかったのです。

 燃えている2丁目の手前の公園でなすすべも無く、多くの人が火事を見つめていました。消防車はいませんでした。

 僕は自分の部屋に戻りましたが、だんだん夕暮れになって行きましたが、ライフラインが全て断たれているので、このまま真っ暗な中を寝るのかなーと思っていましたが、その前に実家に連絡をしようと思いました。

 もちろん当時は携帯は普及しておらず、連絡は固定電話のみ。ところがそれも自分の家のは電気が来てないと電話できないタイプのもの。
 そのため、外に出て公衆電話で電話することに。


 その時に部屋中ぐちゃぐちゃでわからなかった中で見つけられたのがこのカーネーションバージョンの「昼下りの情事」テレカでした。
 本来こういうテレカは使わずに記念品として大事に取っておくもの。

 でも僕の場合はどうせ売るつもりもないし、もし使うならこのタイミングだろう!と思いました。オードリーが僕と家族を繋いでくれたんですね。
 結局実家の方はその日のうちに電気と水道が復活したので(水道はその後また止まる)、実家の方に行くことになりました。と言っても実家も床が抜けてたりするところもあったので、近所の母の知り合いの家に家族揃ってしばらく泊めて頂くことになりましたが。

 その後、電話はこの「昼下りの情事」のテレフォン・カードを使って行なっていました。現金はなるべく使いたくなかったので。
 というのも、電気がダメになっているし銀行が機能していないので、現金を下ろせないのに、支払いは現金のみだったからです。

 日本でキャッシュレスがなかなか普及しないのってここですよね。地震大国なので、いざという時キャッシュレスでは何もできなくなります。電気が断たれた時、やっぱり現金が必要なんですよね。 

 地震の数ヶ月後、しばらく神戸から避難していた津屋さんとも会えましたし、96年には本来95年にする予定だったロイヤルホテルでのオードリーの集いもありました。津屋さんには「オードリーのテレカ、大事に取ってある?」と聞かれた時に、「地震の時に使っちゃいました。」と答えて、「なんで使うのー!」と言われちゃいましたが、「地震の時に使わないでいつ使うんですかー!」と答えて、津屋さんも納得されてました(多分)。

 というわけで、このテレカは使用済みになってしまったんです。でも全く後悔していません。
 今回は長々と自分の体験談で申し訳ありませんでした。


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この記事へのコメント
みつお様。四半世紀前に大変な体験をされていたのですね。産まれて以来東京都心部以外で暮らしたことの無い当方などは、地方で大きな災害が起こるたび心を痛めこそすれ実感に乏しいのですが、今更ながら被災された皆様の労苦に気の鬱ぐ思いです。

ところで'11.3.11の東日本大震災の二日前にも、三陸沖震源でM7.3の前震とされる地震がありました。東京でもかなりの揺れで、その故に本震の際はまさか同じ震源とは思わず、しばらくはてっきり東海地震かと思っていました。

実は当時、今から五年前に他界した母のシングル介護の真っ最中だったのですが17階だったのでかなりの揺れで、とりあえず介護ベッドの上の物言わぬ母に覆い被さり落下物に備えました。

幸いにもシャンパングラスが1脚割れた以外、さしたる被害もなかったのですが。また'23年の関東大震災時に母は満一歳になったばかりでほとんど記憶になく、今回は既に意思疎通も出来ない状態でしたから、生涯に二度も大きな地震に遭いながら直接的な恐怖を感じなかったのはむしろ幸せだったのかも。

その母も「ローマの休日」を初公開で観て以来のオードリーファンでした。身体が不自由になって以来、車椅子を押して銀座に出かけた際にDVDを大人買いし、その中に母のリクエストで「ティファニー~」「暗くなる~」などがあったのを思い出します。また'72年の「パリで一緒に」リヴァイヴァルは一緒に観ました。

今般のコロナウィルス禍、やはりまだまだ人智の遠く及ばない事態が世界にはあるものと改めて実感します。我々に出来ることは"Dona Nobis Pacem(平和を与えたまえ)"と唱えるのみなのでしょうか。ともあれご自愛くださいませ…。
Posted by Edipo Re at 2020年03月29日 01:59
 阪神淡路大震災は覚えています。横浜でもかなり揺れました…
 TVを点けると驚くような光景でした…
 当時、私はラジオを聴くのが好きで、夜は遠くからも電波が来るので、MBSラジオとか点けていました。
(ネットも何も無い時代に身近に違う文化が入るのが好きだったのだと思います)
 その時に、速いペースで次々と復興していくニュースが凄く印象に残っています。

 あの時は松任谷由実さんのドラマ主題歌「命の花」が発売中止になった時期でしたね。(歌詞内容が、あの時期にはそぐわないということで…)

 横浜は私が子供の頃からずっと「大きな地震が来る」といわれて育てられており、幼稚園の頃から避難訓練をずっとしていたりして、何処かの地域で起こっても、他人事とは思えないですね…
Posted by FUMI at 2020年03月29日 04:08
>Edipo Reさん

東日本大震災の時にも前震があったとは知りませんでした。
大きな地震の前にはあるものなんでしょうかね。

それにしても17階だと相当揺れたでしょうね!
僕は阪神大震災の際に、高層階は電気が止まるとエレベーターが使えず、徒歩で階段という恐ろしい羽目になって生活に必要な水も抱えて上がらないといけなくなる、そして実質生活できなくなるというのを目の当たりにしたので、徒歩で上がれるところまでにしようとそれ以降思っています。

また、お母様のお話をありがとうございます。
5年前にお亡くなりになってるそうで、なんだか読んでいて心が締め付けられるようでした。
それとやはり地震などがあると家族を守らなければ!という行動になりますよね。
お母様もオードリーファンだったとのこと、一緒にお話しできたらさぞ楽しかっただろうなーと思います。
72年リバイバルの「パリで一緒に」もご覧になったとのこと、「銀座で一緒に」でしょうか。お母様と同じ趣味なのが羨ましいですね。

新型コロナ、地震のように一瞬で起こって、そのあとは他の都市からの援助もあり復興に立ち向かえるというものでもなく、長期に渡って影響があって、しかも世界中が同じ状態のため、どこからも援助がもらえないなどという経験は初めてです。
しかも、身内でも接触が出来ないため、海外でも家族の誰にも最期を看取られず、会話もできずで亡くなっている方が多いと聞き、とても悲しく恐ろしいです。
今は年老いた母親が罹らないようにと願うばかりです。
Posted by みつおみつお at 2020年03月30日 06:49
>FUMI さん

当時は神戸ではテレビが見れないので、僕のように出歩いてない人間(実家の家族など)はどのような惨状だったのかわからない人間もいたんですよー。
なので、電車が一部開通したときなど、沿線の凄まじい状況を乗客みんな呆然と見ていました。

被害を受けた所は、みんなその当時よりも建物なども強くなっていると信じています(手抜き工事とか無ければ)。
地震の後などは、“1000年に一度の地震だから、これで神戸はどこよりも安全!”と言ってましたが、東南海地震が起きたら、また経験しないといけないんでしょうねー。
こんな新型コロナの時期と重ならないようにと祈っています。
Posted by みつおみつお at 2020年03月30日 06:57
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